岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

法華経の一念三千

2017-11-17 14:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 さて、今度は
 「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう/ しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
についてである。理崎氏はこれを
 これは法華経の一念三千そのもの、宇宙と個々の生命を指している。各々が自身の内の仏の生命を発揮して、各地の各分野にちらばって輝いていく。そうすると、大宇宙全体も明るく輝くというのである。しかも、それは全体に埋没するわけではない、個々がその個性を発揮するのである。
            〈141p〉
と説いていた。かつての私は、
農民芸術の綜合
……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)
の字面をここまで追っていても、素晴らしいと直観し、ただうっとりするだけだった。それが、この解説を知ってそうか法華経の「法華経の一念三千」から見事に解釈できるのだ、ということを知った。ただし、私は理解がそれほど深まったわけではないのだが。
 ところが、そのような私にとってはもっと分かりやすく理崎氏は次のような例え話で教えてくれる。
 法華経薬草喩品に三草二木の譬えがある。大中小の薬草にも大小の樹木にも雨は降り注ぐ。雨は一様に降るが、それによって成長する草木はそれぞれ違っている。雨を仏の慈悲に例え、草木を衆生に例えている。つまり、仏の慈悲の元にそれぞれ個性を発揮して各別に生きているというのである。個々がそれぞれ独立して、尚且つ全体と調和している、桜梅桃李なのである。
            〈141p〉
このように譬えてもらえば、私のような法華経のことなどが殆ど解っていない者でもこちらのことであればよく解る。したがって、前掲の
 各々が自身の内の仏の生命を発揮して、各地の各分野にちらばって輝いていく。そうすると、大宇宙全体も明るく輝くというのである。しかも、それは全体に埋没するわけではない、個々がその個性を発揮するのである。
とはそういうことだったのだということになるから、今までよりは理解が深まったし、ある程度その通りだと納得もできた。
 ただしだからといって、このような類の高等な話を羅須地人協会で若者たちに講義しても、それが
    辛い農民の生活を、芸術によって楽しいものに
直結することはかなり難しいのではなかろか、というところが正直なところだ。 

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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