《創られた賢治から愛される賢治に》
名須川溢男の論文そんな折、たまたま名須川溢男の論文「賢治と労農党」を知った。そしてその中に
○小館長右衛門が語る――「私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
<鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~より>八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
と記されていた。
そこで私は直感した。ここに
後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され
とあるが、この「陸軍大演習」とは、あの昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡【243】の中に出てくる
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります
の中のまさしく「演習」に当たるのではなかろうか、と。時期的にも全く符合するぞ、と。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
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「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
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