宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

111 シャーマン山は岩手山?

2009年03月04日 | Weblog
 今回は、賢治にとっての岩手山のシャーマン性を先ず探ってみたい。前回述べたように、栗駒山は”シャーマン山”としての条件に欠けるし、早池峰山は”シャーマン山の右肩が”という表現に違和感があるから、早池峰山および栗駒山以外から”シャーマン山”の候補を探してみたいからである。

 賢治は岩手山登山において荒天のために這々の体で下山したり、幾度か岩手山麓で道に迷ったりしているから、特異な心理状態になったことがあろうと推測して書籍を漁ってみたが記述されているものには出会えなかった。
 ただ、『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)の年譜の中に次のような記述があった。1914(大正3)年の4月、発疹チフスの疑いで岩手病院に入院中のことだが
 ある夜、岩手山の山神に腹を刺された夢を見、以後奇態に熱が下がる。
とあった。このとき賢治は18歳、おそらく賢治は早い時期から岩手山にシャーマン性を感じていたであろうことがこのことから窺える。

 次に、『測候所』の下書稿『凶歳』ので出しが
   早池峰と栗駒山と北上川(以下約七字不明)
であったことを思いだそう。末尾に”(以下約七字不明)”とあるのだが、私はこの部分に岩手山に関わることが書かれていたのではなかろうか推測してみた。すると、岩手山も”シャーマン山”の候補の一つになりうると思う。
 もしそうならば、この詩に関わる地理的な要因は4つ早池峰山、栗駒山、岩手山そして北上川があるということになる。この詩が何処で詠まれたか私にはその場所の特定は難しいが、『測候所』および『凶歳』の日付は1924,4,6(日)となっているから、詠まれた年は花巻農学校の教師になって3年目のことであり、花巻で詠んだと云うことは十分にあり得ると思う。

 そこで、これらの4つを全て視野に入れることが出来る場所を花巻の中で探してみるとなかなかそれは難しかったが、例えば朝日大橋付近ならそれが可能であることを知った。

 朝日大橋たもと北上川東側土手から東を見れば
《1 栗駒山》(平成21年3月1日撮影)

が望める。やはり栗駒山はあえかである。ちなみに、川の向こう岸に見える杉林が羅須地人協会跡である。その林の左側奥をズームアップすると
《2 あえかなる栗駒山》(平成21年3月1日撮影)

 東北方向には
《3 早池峰山》(平成21年3月1日撮影)

 北方向には
《4 岩手山》(平成21年3月1日撮影)


 あとは、この場所から4月頃に再度岩手山等をじっくり眺めて『測候所』
    シャーマン山の右肩が
    にはかに雪で被はれました
    うしろの方の高原も
    おかしな雲がいっぱいで
    なんだか非常に荒れて居ります
      ……凶作がたうたう来たな……
    杉の木がみんな茶いろにかはってしまひ
    わたりの鳥はもう幾むれも落ちました
      ……炭酸表をもってこい……
    いま雷が第六圏で鳴って居ります
    公園はいま
    町民たちでいっぱいです

    <『校本 宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
を味わいながら、岩手山が”シャーマン山”であることもあり得るのではなかろうかという私の疑問にチャレンジしてみたい。

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