goo

100 羅須地人協会について(その5:下ノ畑)

”羅須地人協会について(その4)”の続きである。

 では今回は『賢治自耕の地(下ノ畑)』へ行ってみよう。

 賢治詩碑の広場からの
《1 北上川方向の眺め》(平成20年9月11日撮影)

《2 〃のズームアップ》(平成20年9月11日撮影)

中央やや左寄りの白い標柱のあるところが『下ノ畑』である。
 なお、ここからは
《3 「経埋ムベキ」山(左より胡四王、旧天山)、観音山)》(平成20年4月20日撮影)

も望むことが出来る。

 では、下ノ畑へ行こう。その行き方は例えば
《4 『農民芸術概論網要より』の木標》(平成20年12月11日撮影)

の脇の小径を下りて行けばよい。
 そこでは、春なら
《5 ムラサキケマン》(平成20年4月20日撮影)

《6 珍しいことに蘂を見せている〃》(平成20年4月20日撮影)

が、秋なら
《7 ヒヨドリジョウゴの果実》(平成20年11月23日撮影)

に出会える。
 そして、秋ならその小径は
《8 柵沿いの落ち葉の小径》(平成20年11月23日撮影)

となり、南東方向には
《9 ススキの穂の波》(平成20年11月23日撮影)

を見ることが出来る。
 残念ながらこのときはそこから見る
《10 早池峰山は雲の中》(平成20年11月23日撮影)

である。
 この柵沿いの小径を歩いて行けば、春は賢治の大好きな
《11 コブシ》(平成20年4月20日撮影)

《12 〃 》(平成20年4月20日撮影)

が咲くし、スジグロシロチョウは
《18 ヒメオドリコソウ》(平成20年4月20日撮影)

の蜜を吸っていることだろう。
 この柵沿いの小径が、やや広めの砂利道と交わったところからはその砂利道を下りて道沿いに行く。
《14 賢治詩碑の方向》(平成20年12月11日撮影)

を振り返れば上のように見えるだろう。この写真の柵の所がいま歩いてきたところである。
 そこから500mほどのところに
《15 『賢治自耕の地(下ノ畑)』の標識》(平成20年12月11日撮影)

が見える。
 ほどなく
《16 『賢治自耕の地(下ノ畑)』》(平成20年9月11日撮影)

到着。今夏まではこの標識は立っていなかった、昨年の大水で倒れてしまったからである。他所から訪れた人は分かりにくかったであろう。
《17 畑の概観》(平成20年12月11日撮影)

《18 畑から見た賢治詩碑の林》(平成20年12月11日撮影)

 この畑のすぐ隣は
《19 北上川》(平成20年9月11日撮影)

である。
 またここからは「経埋ムベキ山」
《20 左から胡四王山、早池峰山、旧天王山、観音山》(平成20年9月11日撮影)

の並びを見ることが出来る。

 以前、”旧天山”のとき一度投稿していることだが、賢治の詩〔何かをおれに云ってゐる〕
   何かをおれに云ってゐる
(ちょっときみ
 あの山は何と云ふかね)
   あの山なんて指さしたって
   おれから見れば角度がちがふ
(あのいたゞきに松の茂ったあれですか)
(さうだ)
(あいつはキーデンノーと云ひます)
   うまくいったぞキーデンノー
   何とことばの微妙さよ
   キーデンノーと答へれば
   こっちは琿河か遼河の岸で
   白菜をつくる百姓だ
(キーデンノー?)
(地圖には名前はありません
 社のある・・・)
(ははあこいつだ
 うしろに川があるんぢゃね)
(あります)
(なるほどははああすこへ落ちてくるんだな)
   あすこへ落ちて來るともさ
   あすこで川が一つになって
   向ふの水はつめたく清く
   こっちの水はにごってぬるく
   こゝらへんでもまだまじらない
(峠のあるのはどの邊だらう)
(ちゃうどあなたの正面です)
(それで・・・)
   手袋をはめた指で
   景色を指すのは上品だ
(あの藍いろの小松の山の右肩です)
(車は通るんぢゃね)
(通りませんな、はだかの馬もやっとです)
   傾斜を見たらわかるぢゃないか
(も一つ南に峠があるね)
(それは向ふの渡し場の
 ま上の山の右肩です)
   山の上は一列ひかる雲
   そこの安山集塊岩から
   モーターボートの音が
   とんとん反射してくる
(伏牛はソウシとよむんかね)
(さうです)
(いやありがたう
 きみはいま何をやっとるのかね)
(白菜を播くところです)
(はあ今かね)
(今です)
(いやありがたう)
   ごくおとなしいとうさんだ
   盛岡の宅にはお孃さんだのあるのだらう

   中隊長の聲にはどうも感傷的なところがある
   ゆふべねむらないのかもしれない
   川がうしろでぎらぎらひかる

    <『宮澤賢治全集 四』(筑摩書房)より>
がある。
 詩の内容からおそらく賢治がこの自耕地で農作業をしていたときのことを詠んだものであろうことが推測できる。
 そして、この詩の出だしの”何かをおれに云ってゐる”等という表現から、人にものを訊ねる際のマナーを弁えない中隊長の横柄な態度を賢治は苦々しく思っていることが窺える。
 そこで賢治はこの横柄な中隊長をからかってやろうと企てて、”久田野(きゅうでんの)”のことを茶化して『キーデンノー』と言ったのではなかろうか。『キーデンノー』とは、やや怒気を含んだ突き放した言い方で”訊いてんのか?”という意味のこのあたりの方言だからである。
 それがゆえに、賢治は『うまくいったぞキーデンノー  何とことばの微妙さよ 』と詠っているのではなかろうか。
 つまり、訊かれたことに対してはそれらしく答えているし、賢治の気持ちは込めることが出来たし、さらには中隊長自身には賢治の思惑を悟られることもないはずだ。『キーデンノー』という賢治の心境をピッタシ表した表現をとっさに思いつき、賢治は心の内で”してやったり”とほくそ笑んだのではなかろうか。さぞかし賢治自身は溜飲が下がったことであろう。

 続きの
 ”羅須地人協会について(その6:賢治先生の家)”のTOPへ移る。
 前の
 ”羅須地人協会について(その4:宮澤家別宅)”のTOPに戻る。
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次”へ移動する。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 99 羅須地人協... 101 羅須地人... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。