宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

Ⅴ 庚申塔への想い

2009年03月25日 | Weblog
 花巻の鍋倉に次のような
《1 春日神社》(平成21年2月25日撮影)

がある。ここの境内には、
《2 石塔群》(平成21年2月25日撮影)

があり、その中には幾つかの庚申塔が建てられている。因みに、賢治の詩
          『秋』
                     一九二六、九、二三、
   江釣子森の脚から半里
   荒さんで甘い乱積雲の風の底
   稔った稲や赤い萓穂の波のなか
   そこに鍋倉上組合の
   けらを装った年よりたちが
   けさあつまって待ってゐる
   
   恐れた歳のとりいれ近く
   わたりの鳥はつぎつぎ渡り
   野ばらの藪のガラスの実から
   風が刻んだりんだうの花
     ……里道は白く一すじわたる……
   やがて幾重の林のはてに
   赤い鳥居や昴の塚や
   おのおのの田の熟した稲に
   異る百の因子を数へ
   われわれは今日一日をめぐる
   
   青じろいそばの花から
   蜂が終りの蜜を運べば
   まるめろの香とめぐるい風に
   江釣子森の脚から半里
   雨つぶ落ちる萓野の岸で
   上鍋倉の年よりたちが
   けさ集って待ってゐる

    <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
に出てくる赤い鳥居はこの春日神社のものと言われているようだ(ただし現在は赤い鳥居はここには見当たらない、平成15年の地震で倒れてしまったのだという)。たしかに、この神社は江釣子森山の麓から約2㎞(半里)の処にある。
 一方、賢治は「庚申」を「昴」に重ねていることがしばしばあるから、「昴の塚」は「庚申塚」ということになるだろう。したがって、顕わに表現はしていないがこの詩には実質的に鍋倉の「庚申塚」が登場していることになる。

 さて、この詩を詠んだ日は1926年9月23日と云うことだから、旧暦であれば大正15年8月17日である。賢治はこの年の春に花巻農学校を退職して下根子に羅須地人協会を設置、花巻近郊の農家への肥料設計・稲作指導のために東奔西走していたであろう頃である。それらの農家の稲の刈り入れを約一月後に控えたこの日、指導助言してきた上鍋倉の農家の年寄りたちと一緒に稲の稔り具合を見て廻ろうとしていたのだろう。
 ところで、この詩の中には”恐れた歳”と「庚申塚」(「昴の塚」)がある。したがって、もしかすると1926年は『七庚申』あるいは『五庚申』かなと思って確認してみる。残念ながら予想は違っていて、1926年は普通の『六庚申』」でしかなかった。ではなぜ”恐れた歳”としたのだろうか。そこで『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)で調べてみると、この年の5~7月は少雨のために旱魃、特に紫波郡で著しかったと記されていた。
 考えてみれば、前年教え子に『来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になります』と手紙で宣言し、実際明くる3月に花農を退職した年がこの年1926年だ。新しい農村というユートピアの建設を夢見て始めた下根子での独居自炊生活、近くの北上川の川岸の荒れ地を開墾しながら、足繁く近隣の農村へ農業指導に出掛けて肥料相談に乗っていた年だ。ところが、賢治が折角理想に燃えて身を粉にしているにもかかわらず、皮肉にもこの年は旱魃であったのだった、人力の及ばぬ。だから、恐れた歳と詠むしかなかったのだろう。
 ここで意外に思ったのが、”赤い鳥居や昴の塚や/おのおのの田の熟した稲に/異る百の因子を数ヘ”の部分である。”熟した稲”と”百の因子(施肥の仕方や稲作技術のこと等だろう)”の相関関係だけを見て廻るのではなく、”熟した稲”及び”赤い鳥居や昴の塚”にもその相関を見て廻ろうとしていることである。”稲の作柄”を肥料・稲作技術という科学的・技術的なものだけでなく、現代人ならば全く無関係であると誰でもが思うであろう”赤い鳥居や昴の塚”というメンタルなもにもその相関を見て廻ろうとしていると読めるからである。

 なお、有り難いことに平成21年2月5日、この春日神社のすぐ近くに住んでいる大正11年生まれの古老から次のようなことを教わることができた。
 (ア) その古老は中鍋倉の庚申講のメンバーである。
 (イ) 今でも中鍋倉の講中は庚申日に寄り合いを持っている。
 (ウ) 『五庚申』は滅多に廻ってこずその年は凶作といい伝えられている。
 (エ) 『七庚申』は豊作であると言い伝えられている。 
 (オ) 昭和6年、鍋倉地区は大凶作であった。
 (カ) 昭和6年は不作だったので、クズの根・ドングリの実・トチの実なども食べた。
 (キ) 昭和6年頃は繭を飼っている農家も多かった。
 (ク) 昭和6年には近くに庚申塔を建てた。
 (ケ) その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講中がある。

と云うことなどであった。
 では上のことを踏まえて、前回挙げた課題であった
(1) 五庚申搭の建立日は納めの庚申日である割合が高い(5/7)。
(2) 庚申塔は庚申日に建てられることが多く(59%)、
  それも殆どが七庚申塔である(85%)。
(3) 庚申塔は納め庚申日に建てられる割合が高い(28%)。

に関して以下に考察をしてみたい。
 まず、(1)について
 『五庚申』の納め庚申日(五庚申日)はほぼ11月初旬であり、この時期はもう稲刈りは終わっている。したがって、その年の作柄はもう確定しており、この時期に『五庚申塔』を建てても凶作回避祈願の役目は果たさないと思う。したがって、”五庚申塔の建立は凶作回避祈願のため”ばかりとは言えないことがこのことからも判る。
 次は(2)について
 そもそも庚申講はいつ開かれたのだろうか。前述の中鍋倉の古老から教わった
 (イ) 今でも中鍋倉の講中は庚申日に寄り合いを持っている。
ということから、おそらくそれは庚申日の日だったのだろうことが容易に推測される。そして、庚申塔を建てるとすればそれはその庚申講が開かれた日のうちのいつかであることが多かったのだろう。しかも、殆どは『七庚申』の場合に新たに庚申塔を建てたのであろうということが考えられる。

 ところで、『庚申信仰』に関して佐々木勝氏は
 日本では平安時代の貴族社会において守庚申が行われてきた。そして、僧侶の手によって『庚申縁起』がつくられるようになる室町時代ごろから、しだいに仏教的な色彩を帯び、庚申供養塔などが造立されるようになった。一方、民間にも広まり、村落社会の講組織などと結び付いて、仲間とともに徹夜で庚申の祭事を営む習俗である庚申講や庚申待といった形で定着していくのである。ただ、庚申様といっても信仰対象が特定されていたわけではないので、その時々の仏教や神道の影響を受けたのであるが、青面金剛や猿田彦大神を本尊とする場合が多い。庚申と猿との関係や道祖神との習合もそうした過程で結び付いたようである。いずれにしても、庚申信仰の中心は夜籠りするということであったらしく、この夜できた子供は泥棒になるとか、「話は庚申の夜」というような眠ることに対する禁忌がいまだに伝えられている。
     <[執筆者:佐々木勝](Yahoo!百科事典)より>
と解説している。
 この庚申信仰が花巻の地に伝わり、広がっていった頃はそれほど「七庚申」には拘りがなかったと思う。明治以前に建てられている花巻の庚申塔の刻字に”七庚申”というものは一つ見つからなかったからである(末尾の<表6>参照)。ところが、明治以降に建てられた庚申塔は”七庚申”と刻字されたものが殆どだということが判った。ということは、花巻に伝わった『庚申信仰』は次第に『七庚申信仰』に特化していったとも言える。「『七庚申』は豊作」と言い慣わされる「『七庚申』の庚申さん」に作神様(お田の神様)としての大きな役割を託すようになっていったのであろう。

 最後に、(3)について
 中鍋倉の古老から教わったことの中に
 (ケ) その年の納めの庚申日に『七庚申塔』に色を塗る講がある。
と云うことがあった。このことから、納め庚申日の庚申講は盛大に行われ、作神様としての「庚申さん」に感謝の気持ちを込めて庚申塔に朱い塗料などを塗ったりし、化粧直しをして供養したのであろうと推測される。実際、見て廻った庚申塔の中には刻字や塔全体に塗料が塗られている次のようなものが結構ある。
《3 地蔵堂の庚申待供養塔》(平成21年1月29日撮影)

文字の部分に朱い塗料が塗られていた形跡がある。
《4 花巻養護学校前の庚申塔》(平成21年1月29日撮影)

中央の庚申塔全体に色が塗られてあった形跡があるし、特に文字は朱で彩られていたようだ。
《5 膝立公民館の七庚申塔》(平成21年2月10日撮影)

中央の七庚申塔には全体に白っぽいものが塗られてある。
《6 椚ノ目熊野神社の庚申塔》(平成21年2月15日撮影)

梵字の部分が赤色で塗られている。
《7 小瀬川熊野神社の七庚申塔》(平成21年2月25日撮影)

七庚申が黒色で、その他の文字が赤色で鮮やかに塗られている。

 一般には『七庚申の年は豊作』と言い慣わされているが、庚申日に建てられた七庚申塔の建立日は納め庚申日が極めて多いことは、七庚申塔を建てるのはその年の豊作御礼のためと云う説の裏付けとなろう。作神様としての「庚申さん」、わけても「豊作の神である『七庚申』の庚申さん」に対する一年間の感謝を表したという考え方も妥当だろう。
 しかし、注意深く見てみる必要もありそうだ。”庚申塔の建立日”の<表4>から農業災害のあった「七庚申」の年を抜き出すと明治22年、〃44年、昭和22年となる。つまり、『七庚申の年は豊作』と言い慣わされているのだが実際にはこれらの年は農業災害のあった年である。そこで、これらの年に建てられた七庚申塔のリスト、末尾にある<表7>を見て欲しい。これらの庚申塔の殆どは建立期日が納め庚申日か12月中である。農業災害のあった『七庚申』にもかかわらず殆どが一年の最後の月12月に建てられているのである。ということは、これらの年の七庚申塔建立理由は豊作御礼のためではなくて、作神様としての「『七庚申』の庚申さん」への労りと供養のためでもあったと捉えるのが自然であろう。

 まして、同様”庚申塔の建立日”の”<表5 庚申塔建立日は何庚申日か(1870~1960年)>の[(b)五庚申塔]”で示したように、「五庚申塔」でさえも納め庚申日に建てられている割合(5/7)が高い。一年の最後の月に五庚申塔を建てたのでは凶作回避の祈願としては手遅れである。したがって、五庚申塔が建てられる理由は冷害回避祈願のためだけというよりは、「『五庚申』の庚申さん」を労って供養し、せめて来年は豊作にして貰えますようにと祈願して建立した、と考えるのが妥当ではなかろうか。
 そして、私は心の中であることに対して『そういうことだったんだ』と膝を叩いたのだが、その理由については後ほど述べたい。

 結局、宮沢賢治が生きていた頃の花巻一帯の庚申塔建立の主な理由は
  「七庚申塔」は豊作御礼と供養のため
  「五庚申塔」は冷害回避祈願と云うよりは供養のため
と言えるのではなかろか。
*********************************************************************
     <表6 1869年以前建立の花巻の庚申塔>
《01 奉供養庚申(宝暦9(1759)年6月1?日)》(成田一里塚付近)
《02 庚申塔(安永4(1775)年9月25?日)》(上諏訪諏訪神社)
《03 庚申塔(安永9(1777)年8月14日)》(戸塚蒼前神社)
《04 庚申塔(天明2(1782)年9月16日)》(糠塚稲荷神社)
《05 庚申(天明6(1786)年)》(鳥谷崎神社平成21年2月6日撮影)
《06 庚申供養(寛政7(1795)年3月9日)》(椚ノ目熊野神社)
《07 庚申併刻塔(寛政8(1796)年9月18日)》(石鳥谷北滝田)
《08 庚申塔(寛政9(1797)年7月12日)》(太田新淵追分)
《09 庚申塔(寛政9(1797)年8月14日)》(石鳥谷北寺)
《10 庚申(寛政9(1797)年8月24日)》(堰袋金毘羅山)
《11 庚申供養塔(寛政9(1797)年8月24日)》(小瀬川熊野神社)
《12 庚申供養塔(寛政9(1797)年12月25日)》(鍋倉春日神社)
《13 庚申供養塔(寛政9(1797)年10月25日)》(似内稲荷神社)
《14 庚申塔(寛政12(1800)年3月21日)》(石鳥谷北寺)
《15 庚申塔(寛政12(1800)年8月10日)》(狼沢稲荷)
《16 庚申供養?併刻塔(寛政12(1800)年)》(矢沢添市)
《17 庚申塔(寛政(1789~1800)年間》(清水観音)
《18 庚申供養塔(享和3(1803)年10月吉日)》(下小路金毘羅さん)
《19 庚申併刻塔(文化2(1805)年8月27日)》(糠塚稲荷神社)
《20 庚申塔(文化3(1806)年9月16日)》(太田山口)
《21 庚申塔(文化8(1811)年)》(湯口中村)
《22 庚申塔(安政5年10月15日、左は文化8年6月14日)》(湯口中村)
《23 庚申塔(文化11(1814)年4月5日)》(花巻養護学校前)
《24 庚申搭(文化14(1817)年7月18日)》(椚ノ目熊野神社)
《25 庚申(文化14(1817)年11月12日)》(一本杉バス停路傍)
《26 庚申(文化14(1817)年11月12日)》(一本杉バス停傍)
《27 庚申供養併刻(文政2(1819年3月28日)》(我生八坂神社)
《28 庚申併刻塔(文政4(1821)年4月8日)》(槻ノ木千手観音堂)
《29 庚申塔(文政5(1822)年7月24日)》(鼬幣稲荷神社)
《30 庚申(文政5(1822)年8月19日)》(鍋倉春日神社)
《31 猿田彦大神(文政5(1822)年2月15日)》(石鳥谷貴船神社)
《32 庚申併刻塔(文政6(1823)年6月18日)》(石鳥谷北滝田)
《33 庚申併刻塔(文政12(1829)年3月26日)》(三嶽神社)
《34 庚申(文政12(1829)年5月27日)》(二枚橋稲荷神社)
《35 庚申(天保3(1832)年7月11日)》(湯口洗沢)
《36 庚申(天保3(1832)年7月16日)》(鍋倉春日神社)
《37 庚申(天保6(1835)年5月?2日)》(成田一里塚付近)
《38 庚申塔(天保14(1843)年9月吉日)》(花巻城址観音寺観音堂)
《39 庚申塔(弘化2(1845)年7月)》(鍋倉春日神社)
《35 庚申(弘化3(1846)年8月7日)》(石鳥谷八幡宮)
《40 庚申(弘化4(1847)年6月13日)》(胡四王山岩谷不動)
《41 庚申塔(嘉永元(1848)年8月19日)》(下似内路傍)
《42 庚申(嘉永3(1850)年)》(鼬幣稲荷神社)
《43 庚申(嘉永6(1853)年7月17日)》(我生八坂神社)
《44 庚申(嘉永7(1854)年7月)》(鍋倉春日神社)
《45 庚申塔(嘉永7(1854)11年10月25日)》(十二丁目薬師神社)
《46 庚申塔(安政4(1857)年8月13日)》(上円膝公民館前)
《47 庚申待(安政4(1857) 年秋)》(地蔵堂)
《48 庚申塔(安政5(1858)年10月15日、左は文化8年6月14日)》(湯口中村)
《49 庚申塔(安政7(1860)年2月25日)》(大迫亀ヶ岡路傍)
《50 庚申(安政7(1860)年2月26日)》(石鳥谷八幡宮)
《51 庚申(万延元(1860)年7月28日)》(石鳥谷貴船神社)
《52 庚申(文久3(1863)年7月16日)》(愛宕沢坂庚申塚)
《53 庚申(慶応7(1866)年10月29日)》(石鳥谷八幡宮)
*********************************************************************
    <表7 農業災害のあった『七庚申』の建立庚申塔>
   <(1) 風水害のために不作だった明治22年>
《04 庚申(明治22年3月25日)3/15二庚申日》(戸塚蒼前神社)
《05庚申塔(明治22年12月19日=納め庚申日)》(三嶽神社)
《06 七庚申(明治22年12月19日=〃)》(狼沢稲荷)
《07 七庚申(明治22年12月19日=〃)》(石鳥谷貴船神社)
《08 七庚申(明治22年12月19日=〃)》(石鳥谷八幡宮)
《09 七庚申(明治22年閏12月19日=〃)》(石鳥谷八幡宮)
《10 七庚申(明治22年閏12月19日=〃)》(小瀬川熊野神社)
《11 庚申塔(明治22年旧12月19日=〃)》(椚ノ目熊野神社)
《12 七庚申(明治22年閏12月19日=〃)》(糠塚稲荷神社)
《13 庚申(明治22年12?月)》(戸塚蒼前神社)
   <(2) 旱魃に見舞われている明治44年>
《41 七庚申(明治44年旧12月27日=納め庚申日)》(糠塚稲荷神社)
《42 庚申(明治44年旧12月30?日)》(石鳥谷八幡宮)
   <(3) 冷害だった昭和22年>
《67 七庚申塔(昭和22年9月吉日)》(地蔵堂)
《68 七庚申(昭和22年12月24日)12/26七庚申日》(糠塚稲荷神社)

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