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本名を公表・活字にしてしまったことの罪

《創られた賢治から愛すべき賢治に》
“一連の「書簡下書群」”に対する認識と判断
鈴木 ではまとめに入ろうか。まずは「新発見」ということによって「高瀬露あて」となってしまった〔252c〕、そして〔高瀬露あて〕と推定された他の“一連の「書簡下書群」”について簡単に振り返ってみたい。
荒木 それは俺に任せろ。
 え~とだな、昭和52年発行の『校本宮澤賢治全集第十四巻』は「本文補遺」において、
 新発見の「書簡下書」がいくつかあり、その中の4通については「露あて」と思われるものもがあった。
→ とりわけその中の1通は高瀬露宛のものであることが判然としていると判断した。そこでその1通に〔252c〕という番号を付けた。
→ 同時に見つかった他の3通もこれと関連があるので「露あて」のものと推定し、〔252b〕などの番号を付けた。
→ 従前の「不5」も〔252c〕にかなり関連しているのでこれも「露あて」のものであると推定し、〔252a〕の番号を付けた。
→ 併せて従前の「不4」や「不6」なども「露あて」のものだと推定した。
→ 新発見の4通に、従前不明だったものを合わせた計23通の書簡下書は「露あて」のものであると推定した。
→ これらの23通は昭和4年末に書かれたものであると推定した。
と論じている。
鈴木 一方で、私たちがこの“一連の「書簡下書群」”について検討してみたところ、
  ・はたして「新発見」だったのか
  ・はたして「露宛」のものなのか
  ・はたして「昭和4年」のものなのか
  ・これらに対応する書簡がはたして投函されていたのか
というように、これらのどれ一つとっても同書にはその確たる根拠が提示されていない。
 そして自ずから、
  ・“一連の「書簡下書群」”に関してどれだけの裏付けをとり、検証したのか。
  ・極めて賢治らしからぬ文体のものある。
  ・どんな経緯で新発見があったのかが明らかにされていない。
  ・対応する賢治宛の露からの来簡はあるのかないのか。
  ・なぜ露が亡くなった後にたまたま「新発見」があったのか。
  ・「校本年譜」の担当者は『露が亡くなったから出した』と言っている。
等々、いくつかの疑念等も浮かび上がった。
吉田 だから僕らの判断は、
  現時点では、〔252c〕等を含む“一連の「書簡下書群」”が露宛のものであるとは断定できない。
というものである。

判然としていない判然さ故に
鈴木 その理由は既に述べたことでありしかも沢山ありすぎるのであえて列挙はしないが、ポイントは『校本宮澤賢治全集第十四巻』が〔252c〕は高瀬露宛のものであるとしてしまった点だ。
 しかし、この〔252c〕については「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と同巻は判断しているものの、その根拠は明確には提示されておらず、それどころか、私たちが精査した限りにおいては、その宛先は高瀬露以外の女性である可能性の方が大である。
吉田 そもそも出版元は、この“一連の「書簡下書」”は極めて重要な資料となり得る一方で、高瀬露個人の尊厳を傷つける恐れがあるもなのだから、しっかりとした裏付けをとったり検証をしたりせねばならぬ代物だった。
 たとえば、これらの“一連の「書簡下書群」”に対する露からの賢治宛書簡を見つけるなどの検証を行ってはじめて、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と言えるのである。
鈴木 ところが、そんなことはなされずに「内容的に高瀬あてであることが判然としている」とかたってしまった〔252c〕は、現時点ではあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎて信頼性に著しく欠けるので今回の検証における資料としては使えない。
 しかも、この「判然としている」と言う〔252c〕の内容を大前提として“一連の「書簡下書群」”を「昭和4年〔日付不明 高瀬露あて〕下書」であると推定しているのだから、前提があやふやなならば残りも推して知るべしだ。
荒木 でもさこのことに関しては、たとえば俺の記憶によればある作家が、
 けれども露とのつき合いは、それだけでは終わりませんでした。昭和四年には手紙のやりとりがあり、その中には結婚についての記述もあります。
というように実際資料として使っていたり、あるいは、
 「お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます」
 露はクリスチャンでしたが、このときは「法華経を信仰する」と言って、何とか賢治と会おうとしていたようです。
というような使われ方もしていたはずだぞ。
鈴木 それは殆どの人はそうするのじゃないかな。わざわざ、かの出版社の推定記号〔 〕に関する
   凡例の“ 〔 〕”の説明
を気にする人はあまりないのではなかろうか。
 実際見てみると、例えば
   昭和4年の書簡グループの中に、
    252a〔日付不明 高瀬露あて〕下書
とたしかに推定記号を用いて書かれてはあるものの、ほとんどの読者は
    書簡下書 252a は昭和4年に高瀬露に宛てようとした書簡の下書である。
とあて先を断定的に受け止めるだろう。あるいは、
    書簡 252a は昭和4年に高瀬露に宛てたものである。
と「下書」ではなくて「書簡そのもの」、あるいはそれはポストに投函されたものであるとさえ受け止める人だって少なくなかろう。
吉田 まして、ちくま文庫の『宮沢賢治全集 9』においては、その“ 〔 〕”の説明すら見つからないから、なおさらにそう思うだろう。もしかすると「判然としない判然さ」故に悔いを残す人が出てくるかもしれないな。
荒木 たしかに、『校本宮澤賢治全集第十四巻』にそのような記述がなされていれば先のような使い方をするのはもっともだと思う。ということは、俺たちだけが“一連の「書簡下書群」”について先ほどのように認識していることになるのか…。

検証に耐えている<仮説:高瀬露は聖女だった>
鈴木 いやそうでもないから安心してくれ。そりゃあ極めて少数だとは思うが、あの『「猫の事務所」調査書』の管理人の tsumekusa 氏も「「手紙下書き」に対する疑問」という投稿において、
   …高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
と疑問を投げかけているし、前にも一度引用したように『宮沢賢治の手紙』の中でその著者米田利昭氏も、
 ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。
              <『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)223pより>
という疑問を呈しているから、私たちの判断だけが孤立しているわけではない。
吉田 というよりは、この件については「ひょっと」しなくてもそうだ、僕に言わせりゃな。安心しろ荒木、そのうち少数派が多数派になるかもしれんから。
荒木 じゃじゃじゃ、吉田も言うな。それでは意を強くして改めて、
 〔252c〕を含む“一連の「書簡下書群」”にはあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎて信頼性に著しく欠けるので今回の検証作業における資料としては使えない。
 これらの“一連の「書簡下書群」”が賢治の伝記研究上において資料たり得るのは、これらに対応する露からの賢治宛来簡などによって検証等が為された上でのことである。
 以上が“一連の「書簡下書群」”に対しての俺たちの判断であるということでいいべ。
鈴木 では最後に“一連の「書簡下書群」”による<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証の件だが…
荒木 もはや結論は明らかで、
 <仮説:高瀬露は聖女だった>は「昭和4年の〔高瀬露あて〕書簡下書群」による検証に耐えるている。
だ。
 端的に言えば、これら23通の“〔高瀬露あて〕書簡下書”のうちで、最も重要な内容を有する〔252a〕〔252b〕〔252c〕については皆、それぞれに対応する本物の書簡が仮に投函されたとしても、それは露宛のものであるとは断定できない皆あやふやなものばかりだからだ。
 つまり、“一連の「書簡下書群」”は<仮説:高瀬露は聖女だった>を検証する資料としての必要条件を現時点では欠いているので、検証以前の段階にあるからです。
鈴木 検証すべき期間としていままでに残されいた期間、すなわち昭和3年8月~昭和7年3月のうちで、昭和4年で問題となるのはこの“一連の「書簡下書群」”のみだ。
 したがって、これで昭和4年においても<仮説:高瀬露は聖女だった>は現時点では成り立つとしていい。ただし、“一連の「書簡下書群」”に対応する露からの賢治宛来簡がもし見つかったならば、その際には改めて検証作業が必要とはなろうが。
荒木 というわけで、残す「昭和5年~昭和7年3月の間」を除いては、とりあえず<仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてもよい、ということになった。
 いやあ、良がった。ここまでたどり着けるとは思いもしていなかったからとても嬉しいな、露は聖女だったと相変わらず言えるなんて。

不可欠な“一連の「書簡下書群」”そのものの検証
荒木 それにしても不思議なんだが、あくまでも俺から見ればだよ、どうして『校本宮澤賢治全集第十四巻』はあまりにも安易と思われるような仕方で「新発見」の「書簡下書」公表をしてしまったのだろうか。
吉田 そもそも、とりわけ「新発見」の〔252c〕はそのままでは露宛かどうかも判らないような、それも所詮手紙のいわゆる反故だ。それを資料として載せるのであれば同巻はいつも以上にその反故を精査して検証等をせねばならなかった。そうそう、それこそ例の千葉恭の「マンドリン」の場合と全く同じような姿勢で臨むべきだった。
荒木 うん? それってどんな意味だっけ?
吉田 ほら前に鈴木がぼやいた、『拡がりゆく賢治宇宙』の中に、例の下根子桜で結成された楽団メンバーの中に、
    時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
とあったのに、千葉恭だけは他の人の証言がないからという理由で「賢治年譜」に載せられていないという、例のやつのことだよ。
荒木 あっ、俺が『自家撞着』と言ったやつな。
鈴木 でも、このことに関しては、
 一人の証言だけとか、一つの資料だけとかに基づいて賢治の伝記研究をしてならない。
という「宮沢賢治年譜」の姿勢は立派だと思うし、それは当然だと思う。
吉田 とはいえ、鈴木は自分が絡むから控えめに言っているだけのことで、心の中では
 ならばなぜ、『校本宮澤賢治全集第十四巻』はそのような厳しい姿勢でこの“一連の「書簡下書群」”に対しても臨まなかったのか。
と実は怒っているはずだ。
荒木 おっ、そうなのか。
鈴木 いえいえとんでもないことでございます。
吉田 いや、僕自身も深刻に受け止めている、恣意的な使い分けはするなと。この「新発見」の場合にはもっともっと厳然と対処すべきだったと。
 ところがそれも為さずに、あたかも露が帰天するのをただ手ぐすね引いて待ったいたかの如きタイミングで、同巻は急遽「補遺」に「新発見」と銘打って載せた。だからこんな中途半端なことになってしまったのだと揶揄されかねないことを僕は危惧している。
荒木 たしかに。冷静に考えてみれば仮に“一連の「書簡下書群」”が正真正銘賢治が露宛に書いたものであるとするならば、その中に記されている賢治のいくつかの言動は残念ながらとても褒められたものではなく、よりダメージを受るのは女性の方ではなく、遙かに男性の方であるという見方も当然あり得るからな。
鈴木 すると、百歩譲って、もし仮に“一連の「書簡下書群」”は賢治が本当に書いていてそれが露宛のものだった際の反故だったとしても、露一人だけが悪者にされることは全くアンフェアなことであり、まさしく父政次郎の厳しい叱責どおりで、気の毒なことではあるがその殆どの責めを負わねばならなくなるのは賢治の方である、ということになってしまうんだ。
吉田 まあそうなると一方で、この昭和4年の露は<聖女>でなかった期間があり得るということになるかもしれないが。とはいえ同時に、<悪女>でなかったということもまた当然言える。“一連の「書簡下書群」”にあった内容で露一人を悪女にするわけにはいかないのだから。
鈴木 まあそれもこれも、“一連の「書簡下書群」”を賢治が本当に書いてそれが露宛のものだったという仮定の話であり、現時点では検証作業とは無縁のことだ。
 とまれ、“一連の「書簡下書群」”について出版元は厳しい検証作業を、今後必ずやる義務と責任があるということではなかろうか。
荒木 これほどまでに「伝説」が流布してしまった以上、最低限それは必要不可欠なことだべな。とりわけ、まずは〔252c〕そのものの検証をすることが。

実は高瀬露が帰天するのを待っていた
荒木 それでは残すところは「昭和5年~昭和7年3月の間」の検証作業か。ではさしあたって次は昭和5年だな。
鈴木 ところが荒木、次の昭和5年が難題なんだよな。
荒木 えっ、そうなのか。ところでどうした吉田、さっきから何か言いたそうだな?
吉田 実はそうなんだ、言おうか言うまいか迷っているんだ。
荒木 ならばはっきり言えよ。お前らしくもない。
吉田 そうだな、そろそろ次へ移るということなのでやはりここで白状するか。
荒木 何?、「白状」。それはまた大袈裟な…
吉田 さっき鈴木はいくつかの疑念、中でも
   ・なぜ露が亡くなった後にたまたま「新発見」があったのか。
   ・「校本年譜」の担当者は『露が亡くなったから出した』と言っている。

などを呈していたよな。これって、実はその真相をある人が明らかにしてるんだ。
荒木 それは誰だよ。
吉田 その人に迷惑がかかるとまずいかなと思っていままで二人には黙っていたのだが…。
 え~と、鈴木その『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』を見せてくれ。その中にほら、
 おそらく昭和四年末のものとして組み入れられている高瀬露あて252a、252b、252cの三通および252aの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。高瀬露は、昭和二年夏頃、羅須地人協会を頻繁に訪れ、賢治は誤解をおそれて「先生はあの人の来ないようにするためにずいぶん苦労された」(高橋慶吾談)という態度をとりつづけた。公表されたこれらの書簡は、賢治の苦渋と誠実さをつよく印象づけるのみならず、相手の女性のイメージをも、これまでの風評伝説の類から救い出しているように思われる。高瀬はのち幸福な結婚をした。
              <『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415pより>
とあるだろ。
荒木 じゃじゃじゃ、『救い出している』だって。そんな見方など出来るわけねぇべ、実態はその真逆だぞ。
鈴木 まずかった、そこにそんなことが書いてあるなんて気付いていなかった。それにしても、愕然とするな。おそれていたことだが、やはりそれを筑摩は待っていたのか。
荒木 真相は、露が帰天するのを手ぐすね引いて実は待っていたということになる。ということは、始めっから〔252c〕などを隠し持っていたってわけだ。狡い、「新発見」というのは見せかけの方便だったのか。
吉田 そうくると思っていた。だから言わない方がいいのかなと思っていたのだが……正直、白状してほっとした。
 そうなんだ、実は
 『校本治全集』は高瀬露が帰天するのを待って、露宛の「書簡下書」が新たに発見されたということにした。
のだ。
鈴木 そうすると、この『第十六巻』で言っていることと、以前引用した堀尾青史の発言
 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
とは全く符合しているから、堀尾の言っていたことは本当のことだったのだ。露が帰天するのを待って、〔252c〕等を公表しようと目論んでいたのか。
荒木 いいんだべが、そんなごどして…。露の人格や尊厳を一体何と思ってんだべ。

 
本名を公表した結果起こったこと
鈴木 そうだよな。『私的事情を慮って公表を憚られていたものである』という釈明はあるものの、私が言うのも憚られるけど誤解をおそれずに言えば、それこそ露のことなど全く慮っていない、あまりにも露をないがしろにした公表だった。
荒木 俺もしつこいけど、
 相手の女性のイメージをも、これまでの風評伝説の類から救い出しているように思われる。
という認識だって似たようなものだと言いたい。この公表の結果起こったことはそれとは全く逆で、「悪女伝説」を加速させ、定着させてしまったということではないべが。
 救い出したかったならばせめてこのような公表の仕方だけはするな、と言いたい。実際ここまで調べてみた限りにおいては、“一連の「書簡下書群」”は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」などということは全くないのだから。
吉田 しかもここで、『校本全集第十四巻で初めて活字化された』<*1>とさらっと述べているがこんなことは自慢などできることでもなんでもなく、それどころか僕に言わせりゃ、はしなくも「罪なことをしてしまった」と自ら喋ってしまったようなものだ。
 なぜならば それまではMだって、Gだってその女性の名前を明示にせずに「女の人」という表現とか仮名「内村康江」を用いているから、少なくとも高瀬露に対して慮っていなかったわけではない。一方では、『宮沢賢治と三人の女性』や『宮沢賢治 その愛と性』はそれほどの部数が出回ったわけでもなかろう。ところが、これが他でもない『校本宮澤賢治全集第十四巻』上で、その女性の名は高瀬露であると検証不十分なままで「初めて活字化され」て公表してしまったからだ。まさしく全国的に「悪女伝説」を流布させた最大の功労者だ。
荒木 皮肉?
吉田 そのようなつもりはないが、ある意味でその貢献度は計り知れない。

安易に公表してしまったという罪
鈴木 少なくとも、私たちがここまでいろいろ調べてみた限りにおいては、とりわけ〔252c〕は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」等とは到底言えないことがそれこそ判然としているのにな…残念だ。いや、悔しいと言えばいいのかな。
吉田 だから人によっては、
 そのような状況下で、『校本宮澤賢治全集第十四巻』が行ったあのような公表によって『相手の女性のイメージをも、これまでの風評伝説の類から救い出し云々』などとよく言えるよ。あげく、最後に取って付けたように『高瀬はのち幸福な結婚をした』と述べているが、白々しい。
 また、『これらの書簡は、賢治の苦渋と誠実さをつよく印象づける』とあるが、「苦渋」があることは手に取るようにわかるが、どこに「誠実さをつよく印象づける」部分があるというのか全く見付けることができない。
 それどころか、たとえば
 あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三ぺんも写真をおよこしになったことです。
からは、「誠実さ」どころかその対極にあるいわば「不実さ」や「責任転嫁」の方を強く印象づけられる。
 それにしても罪なことをしてしまったものだ。だから当然、今後その責めを負わねばならないと思うが、一体どのようにしてその責めを負うつもりなのか。
と誹ったり、詰ったりする場合もあろう。
荒木 それにしても判然としていないものを、俺から見れば、なぜ安易に本名を決めつけて公表してしまったのだろうか。たしかに罪なことをしてしまったものだ。もしこの公表が露の帰天前だったならば、露はどのように思ったんだべ?
鈴木 あっそうそう、それを教えてくれそうな格好の書簡がある。
荒木 じゃあ、早速それを見せてくれ。

<*1:註> 彼女の名前と略歴は『校本宮澤賢治全集』第十四巻堀尾青史「年譜」によって初めて明らかにされた。
              <『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年3月)153pより>

露に事前に打診をしていたならば
鈴木 これがその伊藤ちゑの書簡だ。藤原嘉藤治に宛てた書簡で、何年のものかは判らないが、彼が在京して『宮澤賢治全集』(十字屋書店版)の編集委員をしていた頃のある年のものであろう10月29日付の書簡だが、その中に
 宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしゃる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます
という伊藤ちゑの切実な懇願がある。
吉田 まさしく露の“一連の「書簡下書群」”の場合と全く同じ構図じゃないか。
鈴木 そうなんだ。藤原嘉藤治らが全集に「伊藤ちゑ宛と思われる書簡下書」を載せるということだからな。
 それでそのことに対してちゑがどうしたかというと、
 「伊藤ちゑ宛と思われる書簡下書」の中身を自分は知らないのでビクビクしている。せめてそれを見せてもらえないか。
 たしかに、ちゑという名前を出さないという約束だったから一応了承してみたものの、なるべくならばそれは止めてほしい。くどいのですがそれは賢治が実際には投函しなかったものだからです。どうかその反故はそのまま葬り去ってください。
と懇願したというわけだ。
荒木 う~む。共に自分に宛てられたと思われている手紙の反故、ちゑも露も当時の女性、そのどちらも相手の男性は宮澤賢治。ということは二人は同じような状況下におかれていたわけだ。
 すると、『校本全集第十四巻』の担当者から高瀬露に対して、その当時ならば小笠原露か、露に対して
 「露さん宛と思われる書簡下書」を今度『校本全集』に載せたいのですが…
という打診が露の帰天前に露に対してなされていたならば、露はちゑと同じような心境におかれ、同じような懇願をしたということが十分に考えられる。
鈴木 そうなんだ。露が事前にそのような打診をされた場合にどう対応するであろうか、ということをこの「伊藤ちゑの書簡」が示唆してくれている。
吉田 そして、実は想像力を働かせれば、露やちゑと同じような状況下におかれた女性はこの時のちゑのように対応する可能性が大であろということは容易に想像できることだ。だからこそ、もしかするとそのことを恐れた彼らは帰天する前に公表することを避けた、という可能性すら逆に浮かび上がってくる。
荒木 そっか、そうすっと中には、
 その“一連の「書簡下書群」”が「内容的に高瀬あてであることが判然として」いなかったからこそ、そうしたのだべ。
などと皮肉る人もあるベな。もちろん俺はそこまでは言わんが。
 これで俺も、少なくとも「高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである」などとは全く言えないことが、伊藤ちゑのこの書簡の内容を知って、しかとわがった。
吉田 だから、この際の公表のタイミングが不自然だと感じた人の中には、
 慮ったのは高瀬露に対してではなくて、自分たちに対してだ。このよう公表の仕方はまさに「死人に口なし」を悪用したものである。
などと誹る人だっていないわけではなかろう。
荒木 おっ、吉田も言うな。しかもそれって、お前の本心だべ。
吉田 いやあ、まさか。客観的にその可能性を想像しただけだ。
鈴木 何はともあれ、私たちはこれだけの問題提起ができた。
 だからたとえば、伊藤ちゑのこの書簡を読んだ人たちがその示唆するところを汲み取り、“一連の「書簡下書群」”の公表の仕方には大いに問題があったという私たちの主張を支持してくれること等を願いつつ、先に移ろう。
 前にもそう言ったのだが、その後もかなりの時間この“一連の「書簡下書群」”について話し合ったからそろそろ次に、難題の昭和5年に今度こそ移ろう。

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