映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

恋文 (新東宝 公開1953年12月13日 98分 田中絹代)

2018年03月29日 08時13分10秒 | 邦画その他
『恋文』
監督  田中絹代
製作  永島一朗
原作  丹羽文雄
脚本  木下恵介
撮影  鈴木博
美術  進藤誠吾
音楽  斎藤一郎

出演
道子.......久我美子
礼吉.......森雅之
洋........道三重三
山路直人.....宇野重吉
本屋のやっちゃん.香川京子


兄の礼吉は友人の山路の仕事の手伝い、街娼達のアメリカ兵との手紙のやり取りの手伝い、恋文の代筆の仕事をしていた.彼に英語の才能があればこそ出来る仕事であった.
弟の洋は商売の才能があって、古本屋を回って転売をする手間賃稼ぎの仕事をしていたが、やがて、アメリカ兵から街娼達に送られて来る雑誌に目をつけて、その雑誌を転売する商売を始めたのだった.

田中絹代が扮する、年増の街娼が出てくるけれど、彼女にこう言わせれば、何が描かれているかよく分るはず.
『なにさ、真面目な仕事をしろだと.説教ばかり言いやがって.あんただって同じだろ.手紙の代筆と言ったって、所詮は私達の上前をはねてるのと同じことじゃないか.あんたはいいよ、英語の才能があるから、そうして食べて行ける.だけど才能も何もない女は身体を売らなきゃ食べて行けないのさ』

兄も弟も、二人共、街娼の稼ぎに、つまり進駐軍のアメリカ兵に頼って生きていたのであり、街娼たちとの違いは、何らかの才能があるか無いかの違いだけである.

道子は街娼ではなかった.進駐軍に勤めていて、たまたま知り合ったアメリカ兵と関係を持ったに過ぎなかったのだが、彼女は礼吉に対して、その事を言い訳として話しはしなかった.
顔見知りの街娼たちが、道子を仲間と思って寄ってきた時、弟の洋が、『なぜ、貴方たちとは違うと拒絶しないのだ』責めたのだけど、彼女は、私は街娼ではなかったけれど、街娼たちと違わないのだと、言ったか、言いたかったのか.....ここが一番大切なのに、きちんと描かれていない.

道子が進駐軍で通訳をしていたのか事務員をしていたのか、あるいは皿洗いをしていたのか、何をしていたのかは描かれないけれど、いずれにしても同じ、アメリカ兵に頼って生きていたのであり、その点は街娼たちも、礼吉も山路も洋も変わりはしない.
けれども、道子は『優しい言葉をかけてほしかった』ので、知り合ったアメリカ兵と関係を持ったのだ、と、礼吉に言ったはずである.道子が純粋にアメリカ兵を好きになって関係を持ったのであれば、誰からも責められる筋合いは無く、ことさら街娼の上前をはねて生活している礼吉から責められる筋合いは全く無いはずである.

道子に対して、礼吉はアメリカ兵と関係を持ったことを罵り、弟の洋もまた、街娼たちを拒絶しろと責めたてたけれど、アメリカ兵に頼らずに生きて行くべきは、礼吉であり洋であった.
今一度書けば、道子とアメリカ兵の関係は恋愛であり、それに対して、礼吉も洋も売春婦にたかっていたのである.
これが丹羽文雄の原作の『恋文』ではないでしょうか?.そして、脚本を書いた木下恵介は、どうしようもないクズなので、原作を理解せず、一番大切なところを書き換えて、作品をクズにしてしまったのであろうと思われます.








追記
成瀬巳喜夫が脚本に手を入れて、相当に削ってしまったらしく、洋の女性関係が全く描かれない.
冒頭、洋と一緒にタクシーに乗っていた女、彼女は洋の何だったのか?.仕事にしろ、飲み会にしろ、一晩付き合って朝一緒に帰ってきたのだから、相当に親しい男女の関係であったであろうが、彼女が次にアパートに訪ねてきたときには、『未練が有って来たのじゃない』と言ったので、その時は別れていたと思われる.
事の成り行きが全く描かれないのだけど、おそらく洋は古本屋のやっちゃんに出会って、タクシーで一緒に朝帰りした女と別れることにしたのであろう.

再会した道子に礼吉が酷いことを言ったけれど、この点は好き合った者同士が許し会えば済むことで、他人がとやかく言う筋合いは無い事である.けれども洋の場合は違うはず.
道子が横浜に居た頃の顔見知りの街娼たちに出会ったとき、なぜ決然とした態度を執らないのかと、洋は道子を責めたが、洋にそう言う資格があるのだろうか?.洋は道子は貴方たちと違うと言って、街娼たちを蔑んだ言い方をしたが、そんな言い方が彼に出来るのか.
皆同じ人間のはず.但し、そうした境遇から自ら逃れる努力をするかどうか、それだけの違いのはず.誰にも蔑んだ目で見られ、責められる筋合いは無いはずである.

道子はこう言った.
夫に死に別れて、優しさを求めてアメリカ兵に身を任せた.複数の男に身を任せた自分が汚れた女と言うならば、街娼たちと同じである.
オンリーさんと言われるように、アメリカ兵が日本にいる頃は、皆、関係を持つ相手は一人だけだったようだ.アメリカ兵が帰ってしまい、仕方なく身を持ち崩していった、そんな女性が多かったのであろう.
複数の相手と肉体的関係を持った結果を汚れた人間というのならば、関係のあった女と別れて別の女との結婚を望んでいる洋も、彼も自ら望んで汚れた道を進もうとしていると言わなければならない.

『商売上手ね』と、古本屋のやっちゃんが洋を褒めると、洋はやっちゃんにこう言った.
『(街娼たちから)もっと安く本を仕入れろ』と.
洋は、一見、清く正しい人間に、兄を親身に心配する優しい人間に思えるけれど、無知無学の人間を知能の低い者達と蔑んで観る、冷たい心の人間であった.


あに・いもうと (1953年8月19日公開 86分 成瀬巳喜男 大映)

2018年03月29日 03時43分50秒 | 成瀬巳喜男
『あに・いもうと』 (1953年8月19日公開 86分 成瀬巳喜夫 大映)
監督  成瀬巳喜男
企画  三浦信夫
原作  室生犀星
脚本  水木洋子
撮影  峰重義
美術  仲美喜雄
衣裳  堀口照孝
編集  鈴木東陽
音響効果 花岡勝次郎
音楽  斎藤一郎
助監督 西條文喜

出演
姉 もん...京マチ子
妹 さん...久我美子
兄 伊之吉..森雅之
小畑.....船越英二
うどん屋の息子鯛一...堀雄二
赤座.....山本礼三郎
妻りき....浦辺粂子
貫一.....潮万太郎
喜三.....宮嶋健一
坊さん....河原侃二
豊五郎....山田禅二
とき子婆さん.本間文子


成瀬巳喜男は、原作を忠実に描く監督なのですが(悪く言えば能無し)、この作品、最後の方でしくじっているのですね.
好きだったうどん屋の息子の家はバス停のすぐ前だった.妹はおそらく彼がもう結婚しているであろう、そう思うと会いたくなくて、いつものバス停ではなく、別のバス停から歩いて帰ってきた.「変な道から来たのね」と言って、姉と出会いました.
東京へ戻る時も同じで、妹はうどん屋の息子に会いたくないので、「次のバスまで歩くの、暑いわね」と言う姉の言葉になるのですが、この辺の会話は変です.
「どうして、次のバス停まで歩くの?」「別に、なんでもないの」と言うような、ちょっと変な会話に変えれば、妹がうどん屋の息子に会いたくないのだと言うことがよく分るのですが.
さて、それはそれとして、次の会話.「今度何時帰ってくるのと」、妹が聞いたら、「母さんたちの顔を観たくなったら.あんな兄でも顔を見たくなるときがあるの」と、姉は答えました.兄は「『お前なんか、顔を観たくない.出て行け」と、姉に言ったのですが、「嫌な兄だけど、顔を観たくなるときがある」、姉はこう言ったのですね.
兄、妹の対比がここにあるのですが、会いたいと思う、それが家族の自然な心のはず.
妹とうどん屋の息子の場合では、うどん屋の両親は二人が会うのを邪魔しました.それは、息子の心を何も考えない行為であり、家族の心とは言えません.
それに対して、この兄妹の両親は、父親は昔気質の頑固親父だったのですが、もう、おそらく娘が会いたくないであろう、そう思われる男が尋ねてきたとき、丁寧に応対をしました.娘に会いに来た男を、決して粗末には扱わなかった、恨みのある相手であっても、会いたいという心を大切にした、ここに、家族の心があると言えるはずです.






愛怨峡 (溝口健二 新興キネマ 1937年6月17日 108分)

2018年03月20日 22時53分32秒 | 溝口健二
『愛怨峡』
公開 1937年6月17日 108分

監督   溝口健二
原作   川口松太郎
脚色   依田義賢
     溝口健二
撮影   三木稔
美術   水谷浩
編集   板根田鶴子
     近藤光夫
音楽   宇賀神味津男
助監督  高木孝一
     関忠果

出演   山路ふみ子
     河津清三郎


『浪華悲歌』
女は自分を好きな男、自分と結婚したい男なら自分をかばってくれるはず、と考えていたのであろう.好きな男に美人局の片棒を担がせ、そして、警察に捕まったとき、『なぜ、あんなことをしたのか正直に言え』と警察で問われて、彼女は、『あの人と一緒になりたいから、あんなことをした』と、答えたのだった.
けれども男は、『彼女に躍らされただけで自分は何も知らない.こんなことが知れたら会社を首になってしまう』と、女との関係を否定して、彼女の前から去っていった.


『愛怨峡』
仕事の世話をしてくれるという甘い言葉に引っかかり、悪人に騙されそうになった女.その女を救うために悪人を刺して、刑務所に行くことになった男.刑務所から出てきた男は、酌婦に身を持ち崩した女に優しく尽くすのだけど、けれども、女はこう言うのだった.
『あんた、なぜ私につくしてくれるの.もう私、男はこりごりだから、私に優しくしても無駄よ』
女は身を持ち崩したにしても、決して男に頼らずに、自分の力で子供を育てて行こうとしていた.

やがて二人は旅芸人の一座に加わり、漫才のコンビを組むことになった.演ずるものは二人の人生.掛け合い漫才を通して描かれたのは、互いに助け合って生きる男女の姿であり、同時に、決して男に頼るのではない、一人の人間として自立して生きて行く女の姿でもあった.