私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

苦しみは悟りへの最高のチケットです

2014年08月29日 14時55分24秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇苦しみは悟りへの最高のチケットです◇

悟りを起こさせる、あるいは悟りに向かわせるものとして、様々な経験や出来事等がありますが、その中でも、苦しみが悟りへの最高のチケットなのです。
味わう苦しみが大きければ大きいほど、深い悟りに到達し得るチケットなのです。

ですから、苦しみを感じられたとき、どうか、その苦しい感覚や、苦しみを引き起こしている状況と真っ直ぐに向き合って頂きたいと思います。
そしてできれば、苦しみやその状況に対し、徹底的に受けて立つんだという意気込みを持って頂きたいと思います。

そのとき、自覚(自分を見つめること)をご存知の方は、苦しさを感じている自分、苦しい状況に置かれている自分から目を逸らさず、じっと見つめて頂きたいと思います。

多くの方は、苦しさから逃れよう、何とかしようともがくのだと思います。
それが普通です(私もそうでした)。
しかしそのとき、ただ衝動的に思考を巡らしたり、行動を起こすのではなく、逃れようとしてもがいている自分の姿をしっかりと見つめて自覚して頂きたいのです。
自分が苦しみから逃れるために、どこに行こうとしているのか、何を目指しているのかを冷静に観て頂きたいのです。
そして、それで本当に苦しみから逃れられるのかを冷静にもう一度検証して頂きたいのです。


どのような出来事や状況にも、苦しみの側面は必ず備わっています。

仮に楽な感覚や幸福感を得ていたとしても、それはあなたがその出来事や状況の楽な側面にフォーカスしているだけで、その出来事等の他の側面から目を背けているだけです。
それに、人は幸福感を感じると、その状況等を握りしめてしまいます。
その幸福感を維持しようとして、あるいはさらなる幸福感を得ようとして、その状況を握りしめるのです。
そこには、その状況を握りしめることによる不自由さや、その状況を失うことに対する強い恐れがあります。
その不自由さや恐れは、得ている幸福感が大きいほど大きくなります。
つまり、幸福感等と苦しみ等は、光と影のように常に同じ大きさで備わっています。

しかし、多くの方は幸福感(光)の方にのみ目が行ってしまい、その対となる苦しみ(陰)の方には余り目を向けようとしません。
そして、いざ自分が苦しみ(陰)を感じると、今度は光を求めてもがき始めます。
その繰り返しです。
それが迷いを生みます。

この点について深く追求された方は、自分にはどこにも逃げ場がないことを悟られるかも知れません。


苦しみは、その迷いに気づける最高のチャンスであり、チケットなのです。

どうか、その貴重な貴重なチケットを有効に活かして頂きたいと思います。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印可はおまけです

2014年08月27日 09時11分12秒 | エッセイ
◇印可はおまけです◇

「印可」とは、悟り系の組織において先人が後から来た人に対して、ある段階までの悟りを得たことを認定するというものです。
どの段階で印可を出すかは、組織によってまちまちのようです。

この「印可」ですが、これが少々やっかいなのです。
悟りを得ることが本来の目的であるはずなのに、いつのまにか、「印可」を得ること、あるいは師匠に認められることに意識の焦点が移ってしまうことがよくあるのです。
そうなると、「印可」のことばかりに意識がいってしまい、自分をしっかりと見つめるという本来の悟りの道から外れてしまいます。
また、仮に運よく「印可」が得られても、自分が印可者(印可を得た者)だという慢心が生じてしまい、その後の行程が大変になります。

印可は、本質的なものではありません。

印可は、おまけです。

印可の有無が重要なのではなく、悟っているか否か、もっと言えば自分をしっかりと見つめられているかどうか(「自覚」が出来ているかどうか)が重要なのです。

印可に過剰な意識を向けないで頂きたいと思います。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「判断」について吟味し、検証する

2014年08月24日 23時18分55秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「判断」について吟味し、検証する◇

私たちは普段、良し悪し等の判断を繰り返しながら、それによって、何かの行動をしたり、「こうなったらいいなあ」等の理想や希望を持ったりしています。
この「判断」がくせものなのです。
私は、二元の迷いから抜け出していく方法として、この「判断」について徹底的に吟味し、検証することが非常に有効な方法の一つであると思っています。

聡明な方なら普段自分がやっている「判断」に重要なカギがあるんだと何となく気づいておられるのだと思います。
また、善し悪しの判断は各人の視点等による相対的なもので、絶対的なものではないということも何となくご存じの方もおられると思います。
しかしそのような方々の殆どは、相変わらず「判断」を続けてしまっています。
それが現実であり、多くの方々の姿です。

そのような方々は、どうしてそこから抜け出せないのでしょう。

その理由は、自分がやっている「判断」の無意味さにまだ本当には気づけていないからです。

「判断」の無意味さ、愚かさに気がつくようになれば自ずと判断をする頻度が小さくなっていきます。

一度、普段自分が何気なくやってしまっている「判断」を監視してみて頂きたいと思います。
そして、自分が「判断」をやっていることに気づいたら、その自分がやっている「判断」について、その正当性や合理性等を徹底的に吟味し、検証してみて頂きたいと思います。

「判断」について吟味、検証するときのコツは、複数の観点からそれをやることです。
どんなに優れている、あるいは完璧と思われる「判断」であっても、優れているのはある特定の観点から見たときの評価に過ぎず、他の観点から見ると必ず欠点や弊害があり、当初の優れた判断であるという評価が崩れ去ってしまうはずです。

「判断」に対する優れた判断とか、間違った判断等の評価は、すべて幻想に過ぎないのです。
どのような「判断」も、すべて長所と短所があり、同列なのです。

嘘だと思われるなら、何か具体的な「判断」を取り上げて検証してみて頂きたいと思います。

分かりやすい例としては、「お金持ちは良いことだ」という判断があります。
お金を持っていることによる利点は確かにありますが、それによる欠点というかリスクもしっかりとあり、とても「お金持ちは良いことだ」という判断が正しいとは言い難いです。
じゃあ「金持ちと貧乏の中間層が良い」という判断はどうかというと、もちろん中間層にも長所と短所がちゃんとあります。
例えば、中間層にはお金に困るとか、お金があることによりお金に迷う等のリスクが低いですが、金持ちに対する憧れを持ってしまい、その気持ちに惑われてしまう等の短所があります。

「ビジネス等で成功することは良いことだ」という判断も同様です。
少し難しい題材ですが、「健康は良いことだ」という判断も同様です。
さらに難しい題材ですが、「幸せは良いことだ」という判断も同様なのです。
「愛することは良いことだ」という判断についても、まったく同様です。
もちろん、「悟ることは良いことだ」という判断についても、まったくまったく、まったーーく同様です。(^o^)

ここまで読まれると、自分の心の奥底に、自分に「判断」という思考をさせてしまう何か思い込みのようなものがあることに気づく方がおられるかも知れません。

「そこ」に意識を向け、何が自分に「判断」という思考を衝動的に起こしているのかをしっかりと観て頂きたいと思います。

自分が握りしめているどういう考えが、自分に衝動的に「判断」をさせているのかを徹底的に追求して頂きたいと思います。



何か捉えられたでしょうか?(^^)



「そこ」には、「正しい方向があるはずだ」、あるいは「自分の進むべき方向があるはずだ」等の「正しさ」に関する強い強い思い込み(幻想)があります。

その「正しさ」に対する幻想から早く醒めて頂きたいと思います。


<追記(2014年8月25日)>
当初は、この記事を前半と後半のシリーズものとして書こうと思っていましたが、後半部分は単独の記事としてまとめることにしました。
その方が分かりやすくなりそうなので。
また、この記事は自覚との関連が深いので、自覚ワークに関するカテゴリに移動しました。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題があるという幻想

2014年08月20日 11時46分00秒 | 悟り
◇問題があるという幻想◇

私たちはよく、問題が起こるという言い方をしますが、そこには大きな誤解が潜んでいます。

私たちの身のまわりには、本当に様々な現象が起こってきます。
しかし、起こってくるそれぞれの現象についてそれをどう捉えるかは、各人ごとに大きく異なるものです。
起こってきた同じ現象に対して、「これは問題だ」、「なんとかしなきゃ」と捉える人もいれば、「ラッキーだ」、「その出来事を活かそう」と捉える人もいるし、特に何も感じることなく、受け流してしまう人もいます。

問題が起こっているのではないのです。
そこには、現象が起こっているだけなのです。
その起こってきた現象に対して、あなたが「問題だ」という考え(認識)をつくっているだけなのです。
元々、問題などどこにも無かったのです。

早くそれに気づいて頂きたいと思います。

そして、元々無い「問題」をわざわざつくる不毛とも言えるその営みから早く卒業して頂きたいと思います。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「空」という理解について

2014年08月19日 11時02分23秒 | 悟り
◇「空」という理解について◇

私がこんなことを書くと、仏典もろくに読んだことのないヤツが適当なことを言うなとその道の方々に叱られそうですが、構わず書きます。(^o^)
今日はかなり強烈なことも書いてしまおうと思っています。(^o^)


私は、仏教、特に空思想を基本とした仏教系列には、大悟(空の悟り、あるいは真我の完全覚醒)は伝承されているものの、最終的な悟りである解脱の悟りについてはしっかりとした伝承がもう無いのではないかと思っています(とうとう言うてしもた、(^o^))。
そう思う理由は単純明快でして、そこには「空」の理解に関する雰囲気しか感じられず、解脱の理解に関する雰囲気が感じられないからです。

「空」の理解では足りないのです。
「空」と言ったとき、抜け落ちるものがあるのです。

今日はそのことについて書いてみたいと思います。

まず、原点に立ち戻りたいと思います。
原点とは何かと言いますと、それは私という存在の意識です。
私という存在、あるいは私を中心としたこの世界とは、連鎖的に起こってくる考え、あるいは考えの連鎖そのものなのです。
これが原点であり、出発点となります。
「空」は、このような私という存在を捉え、理解するための方便に過ぎません。
「空」が先にあるのではなく、まず考え(識)の連鎖が先にあるのです。

この原点から観たとき、「空」とは何を言っているのかというと、端的に言えば「空」とは連鎖的に起こり様々に移り変わっていく考え(識)のことを言っているのです。
この言い方が強すぎるなら、「空」とは、意識の推移や意識の有り様に主にスポットが当てられているのだという言い方に代えさせていただきます。
しかし何と言おうと、この理解ではどうにも不十分というか、何かが足りないのです。

その足りないものとは、考えの連鎖が起こるメカニズムに対する視点なのだろうと私は思っています。
延々と続く考えの連鎖が私という存在であり、迷いの根本であるのですから、その考えの連鎖を断ち切るには、その連鎖が起こる原因に対する視点が必要なのではないかと思うのです。

「すべては空だ~」、「まさにその通りだな~」、「ほんまにそうや~」と延々とやっているだけでも、解脱の悟りが起こることもあるのかも知れませんが、イラチ(標準語訳:せっかち)な私としては悠長にそんなことやってられないのです。(^o^)

実はその視点からフォーカスしている概念が既にありまして、それが「縁起」です。
「縁起」も、考えの連鎖である私の姿を理解するための方便なのですが、「縁起」には考えの連鎖を断ち切る視点がしっかりと入っているのです。

どういうことか簡単に説明しますと、「縁起」は原因があって結果があるという原因と結果の関係から、私という存在である考えの連鎖を観ているのです。
つまり、「縁起」は考えの連鎖(結果)が起こるのはその原因があるのだということを言っているのです。
では、その原因とは何かというと、それは起こってきた考えを掴むこと、つまり執着をつくることなのです。
起こってきた考えを掴み、執着をつくると、それが種となって次の考えの連鎖を生むのです。
一切考えを掴まなくなれば、起こってきた考えは順次流れて消えていきますから、既に作られている考えの種が尽きたとき、考えの連鎖も止まるのです。
逆に、何か一つでも考えを掴んでいると、それが種になり、考えの連鎖がいつまでも続くことになります。


何が言いたいのか自分でもよく分からなくなってきましたが。(^o^)

私の言いたかったことは、解脱の悟りのカギは「空」ではなく、むしろ「縁起」だということと、
空思想を基本とした仏教系列には解脱の悟りの伝承が途切れてしまっている可能性があるということでした(また言うてしもた、(^o^))。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解脱の悟りと無明について

2014年08月18日 13時32分00秒 | 悟り
◇解脱の悟りと無明について◇

時々ネットを検索したりして、解脱の悟りや無明について語られているものはないかと探しているのですが、それらについて明確に語られているものがなかなか見つかりません。
(もしご存知の方がおられたらご教示いただければありがたいです。)
なので、僭越ではありますが、私(慧空)がそれらについて書いてみたいと思います。


解脱の悟りとは、「私」という存在に対する最終的な理解です。
それは、「私」という存在が抱え込んでいる最後のものに対する気づきであるとともに、その最後のものを抱え込んで彷徨ってきた自分自身の姿に対する気づきです。

最後とは、それ以外はすべて手放した後にそれだけが残っているという意味です。
その最後に残るものに対する具体的な感覚や感触は人それぞれなんだと思いますが、私はそれを一言で言えば「苦」なんだろうと思っています。
私の場合、それは、言葉ではうまく表現できませんが、不足感のような、もどかしさのような、不自由さのような、苦しさのようなもので、さらにそれに、なんとかしたい、なんとかしなきゃというせき立てられるような強い衝動を伴ったものでした。

その最終的な気づきのとき、自分はその最後のものを抱え込み、延々と彷徨っていたんだ、迷っていたんだという理解が起きます。
それと当時に、その理解が「私」という存在に対する最終的なものであるという理解が生じます。
そして、その最後に抱え込んでいたものが消え去るとともに、その最後のものを抱え込んでいた主体である「私」という自我が十分に滅せられ、それ以後、考えを握りしめることが無くなります。
もっと正確に言えば、それ以後は仮に何かの考えを掴もうとしても、一切掴めなくなります。

このような悟りのプロセスについて、「無明の迷い」あるいは「無明の煩悩」が落ちるなどと言います。


なお、原始仏教において無明とは、四諦の理を、あるいは縁起の理を知らないことであると定義されているようです。
そして、それはお釈迦さまによるものだとも言われているようです。
まさにその通りではあるのですが、私はこの定義はあまり好きではありません。(^o^)


<補足です(2014年8月21日)>
私は無明を、考えを握りしめていることだと定義したいと思います。


<補足です(2014年9月23日)>
上で書いたことは私の体験に基づくものであり、私の場合、自分が「苦」を握りしめ、それをどうにかしようと延々と奔走していたことに気づくことで無明の迷いが晴れました。
おそらく、お釈迦さまも私と似たプロセスだったんだろうと思っています。

しかし、解脱の悟りを得られる方の中には、どうやら、解脱の悟りを得る直前において、お釈迦さまや私(慧空)のように「苦」を握りしめてない方がおられるようなのです。
そのような方の場合、解脱の悟りを得る直前に握りしめている考えは、「苦」ではなく、何か他の考えなのです。

<補足と訂正(2017年5月8日)>
上に、「苦」を握りしめていない方がいるかのような記載をしていますが、それは私の誤解でした。
私という存在の根本に「苦」を握りしめていない方などいないのです。
この誤解は比較的直ぐに気づいたのですが、訂正するのを忘れて放置したままになっていました。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自覚ワーク:私を愛し、本来の私を取り戻していく

2014年08月09日 23時04分37秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚ワーク:私を愛し、本来の私を取り戻していく◇

私を愛するワークについての記事のご要望を頂いたので、書いてみたいと思います。
ただ、私はこのワークを殆どやったことがありません。
このため、どこまで的確な文章を書けるのかちょっと心配ではありますが、すべてオッケーということで、フィーリングに任せて書いてしまおうと思います。(^o^)

このワークについては以前にも文章を書いておりまして、そこでも書きましたが、このワークはそのやり方等が本当に多岐にわたっており、また各自がワークを行う際のアレンジも容易なため、とてもじゃないけど説明しきれないというのが本音です(笑)。
とは言いながら、なんとか私なりにこのワークの本質的な点やその可能性について意識しながら、説明してみたいと思います。

前置き終わりです。(^^)


このワークも、その基本は私に意識を向けることです。
私に意識を向け、徹底的に私を見守り、私を愛し、私を許していくのです。
それによって、知らず知らずのうちに抑圧され、あるいは見失っている自由で闊達な創造主としての本来の私を取り戻していくことを主眼としています。

ですから、このワークをやられる際はまず、一日24時間、毎日、自分を見守り続けるんだという強い決意を持って頂きたいのです。
仮にあなたのパートナーや両親や兄弟があなたを批判しても、また世界中があなたの敵になっても、あなただけはあなた自身の身方であり続けるという強い決意を持って頂きたいのです。
そして、徹底的にあなた自身を愛して頂きたいのです。
あなたの中に起こってきた感情等の考え、そしてあなたの行動を徹底的に許していって頂きたいのです。

多くの方々は、知らず知らずのうちに種々の固定観念や社会常識で自分自身を縛り付け、自分自身の自由を奪ってしまっています。
また、過剰な自他の比較などにより、無用な劣等感を持ち、自分自身に対しあまりに批判的であり、否定的です。
そのような方々は、本来は自分自身が主役であり、主体性を持って生きるべきなのに、固定観念や社会常識や、自分でなく他人に主役の座を明け渡してしまっているのです。
これが多くの方々の姿なのです。

ですから、これからは固定観念等に盲目的に従うのではなく、あなたがあなた自身の身方になり、あなたの中に起こってきた感情等の考え、そしてあなたの行動をまずは肯定的に捉え、徹底的に許していって頂きたいのです。
それによって、固定観念等に奪われていたあなたの主役の座を取り戻し、主体性を回復していって頂きたいのです。
そして、あなた自身をあなたの世界の中心に置いて頂きたいのです。

いつもあなた自身に関心を持ち、見守ってください。
そして、愛してください。
あなたがあなた自身に注意を向けるほど、自然とあなた自身が主役となっていき、あなた自身が輝き始めます。

そして、あなたがあなた自身の身方になり、あなたに起こってくる感情等の考えや、あなたがしようしている行動を許し、自由で闊達なあなた自身の姿を取り戻していってください。

もう、こんな状況でこんな感情や考えが湧いてくるなんていけないんじゃないかとは、思わないでください。
そうか、私はいまこんな気持ちなんだ、そう考えてるだと、その気持ち等を受け入れ、許してください。

もう、こんな行動をしたらダメなんじゃないかとも思わないでください。
そうか、私はそうしたいんだなと、あなたが素直にしたいと思う行動を受け入れ、許してください。
そして、その行動により生み出された現実を、私がつくり出したんだと自覚し、実感してください。

しかし、そうは言っても実際には、あなたに起こってきた考えや、あなたがしようとしている行動がどうしても許せないと思い戸惑うことがあるかも知れません。
そういうときは、無理に許そうとしなくても大丈夫です。
許せないというその思いが、その時点のあなたの本意なのですから。
許せないと思うあなた自身を受け入れ、愛してください。

そうやって、あなた自身を見守り、身方になり、愛していって頂きたいのです。

このように、あなたがあなた自身を見守り、愛していく姿は、ちょうど母の子に対する姿や、互いに想い合う恋人同士の姿に似ています。
母が子を育むように、あなた自身を擁護し、育んでください。
嬉しいことがあったときは、一緒に喜んでください。
辛いことや悲しいことがあったときも、一緒にそれを受け止めてください。
がんばったときは、がんばったねとほめてあげてください。
困ったことや悩んでいるときは、「どうしたの?」とか、「あなたの本当の気持ちはどうなの?」とか、「あなたはどうしたいの?」と問いかけてみてください。
そして、解決策や答えを一緒に探してあげてください。
そうやっていつも、あなた自身に寄り添っていてください。


あなた自身をあなたの世界の中心に置けるのは、あなたしかいません。

どんなことがあっても、またどこまでもどこまでも、あなたの身方になってくれるのはあなたしかいません。

あなたを徹底的に愛し、許すことができるのもあなたしかいません。

そのことに早く気づいて頂きたいと思います。


このワークを続けられるうち、あなたは、自ずと創造主としての主体性と自由を取り戻していかるでしょう。

そしてまた、あなたは、あなた自身を愛し、許していくことにより、自ずとあなた自身から生じるその世界を受け入れていくことになるでしょう。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自覚ワーク:創造主としての実感を深めていく

2014年08月08日 15時01分53秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚ワーク:創造主としての実感を深めていく◇

私のブログを訪問くださる方々が思いの外、自覚ワークに興味を感じておられるようなので、また自覚ワークに関する記事を書いてみたいと思います。

本質の私である自我を捉える方法としては、私が知っているものは大きく分けて大凡三つか、四つの方法があります。
一つ目は、「私」に意識を向けつつ、起こってきた一つ一つの考えに対して、「この考えは私がつくったんだ」、あるいは「これは私に起こってきた考えなんだ」などの自覚を行っていくものです。
二つ目は、私に意識を向け、徹底的に私を愛し、許していくことを通じて、それまで知らず知らずの間に抑圧し、あるいは見失っていた自由で闊達な創造主としての本来の私を取り戻していくというものです。
三つ目は、自分が行っている行為の一つ一つについて、「私がその行為を起こしてそれをやっているだ」という具合に自覚し、創造主としての実感を深めていくというものです。
四つ目は、これは少しハッキリしない部分もあり微妙なのですが、自我の意識の根底部にある観照意識を捉え、その意識と合一するというものです。
なお、自我を捉えられた後は、シンプルに私(自我)に意識を向けるだけで自覚が進んでいきます。

今日は、上の四つの方法のうち、三つ目の方法について書いてみたいと思います。

この方法は、誰でも簡単にでき、しかも意外なほど大きな効果があります。

方法は、本当に簡単です。
自分が行っている一つ一つの行為について、「私がいまその行為を起こして、それをやっているんだ」と自覚するだけでいいんです。
この三つ目の方法は、一つ目の方法と近いものですが、一つ目が考えに主眼を置いているのに対し、三つ目は行為に主眼を置いている点に特徴があります。
考えに対する自覚よりも、行為に対する自覚の方が簡単なので、まずは行為に対する自覚だけをやられるのも一手だと思います。
但し、一日24時間、しかも毎日、やり続けて頂きたいのです。
何も手応えや変化が無くても、2ヶ月はやり続ける覚悟でやっていただきたいと思います。

朝、起きるときから、「いま私が目が覚めたんだ」と自覚し、起き上がるときも「私が起きるという考えを起こし、身体を動かしているんだ」と自覚していてください。

朝ご飯を食べているときは、「私がご飯を食べるという考えを起こし、身体を動かし、ご飯を口に運んでいるんだ」、「私が口を動かし、ご飯を噛み、味わっているんだ」、そして「呑み込むという考えを起こして、噛んだものをいま呑み込むぞ」と自覚してください。
そして、おかずを食べるときも、次にどのおかずを食べるのかを選んでいる私を自覚しながら、「いま私がこのおかずを選んで身体を動かし、口に運んでいるぞ」と自覚してください。

自宅を出て駅に向かうときは、自分が何時何分の電車に乗ろうとしているのかを自覚してください。
何時何分に電車に乗ろうとして身体を動かし、歩いている私を自覚してください。
右、左と一歩一歩、足を運んでいる私を自覚してください。
角を曲がるとき、信号で立ち止まるとき、それらの動作をつくりだしている私を自覚してください。
そして、駅に到着し、電車に乗るとき、目的の電車に乗っている私を自覚してください。
「目的の電車に乗っている私」を「私が創造したんだ」ということを自覚し、実感してください。

そうやって、一つ一つの行為について丁寧かつ徹底的に自覚し、一つ一つの行為を私が選択し、つくり出しているんだという実感を深めていって頂きたいのです。
そうしているうち、行為だけなく、私に起こってくる考えについても、一つ一つしっかりと「この考えは私がつくったんだ」と自覚できるようになっていきます。

行為に対する自覚が上手に出来るようになってきたら、普段は決してやらないような突飛な行為をわざとやってみてください。
例えば、歩いているとき、普段は決して通らない道をわざと選んで歩いてみるとか、急に走ってみるとか、止まってみるとか、寄り道してみるとか、普段は乗らない少し早い時間の電車に乗ってみるとか、誰かにプレゼントするとか、自分にプレゼントするとか、誰かに気持ちを伝えるとか、なんでもいいと思います。
そして、その行為によりあなたがつくり出した現実を自覚し、実感して頂きたいと思います。

どのような行為も、どのような現実も、あなた自身がつくり出したものであることを自覚し、実感して頂きたいと思います。

そうしているうち、一つ一つの行為を、そしてそれにより生じた現実を愛さずにはいられない自分に気づくかも知れません。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の成り立ち(3)-考えの二つの階層

2014年08月05日 10時58分55秒 | 私の成り立ち
◇私の成り立ち(3)◇

この記事は、過去記事「私の成り立ち(1)」「私の成り立ち(2)」の続きです。

「私の成り立ち(1)」で、私(自我)とは断続的かつ連鎖的に起こってくる考え(認識)そのものであると書きました。
今日は、その考えの二つの階層について書いてみたいと思います。

起こってくる考えには、言わばその考えを受け取るだけの受動階層に属するものと、起こってきた考えに対する積極的な関与を伴う能動階層に属するものとがあります。

受動階層に属する考えは、その考えが起こってきたとき、自我の感覚としてはそれを認識するだけ(受け取るだけ)です。
また、考えは数個から数十個程度(いや、数百、数千というべきか?、笑)の群をなして起こってくるのですが、その一群の考えの起点となる最初に起こってくる考えは、常にこの受動階層に属する考えになっています。
例えば、五感を通じた音等に関する最初の認識や、ふと湧き起こってくる記憶に対する最初の認識などが、この受動階層の考えに該当します。

能動階層に属する考えは、それが起こってきたとき、その起こってきた考えに対する何らかの積極的な関与を伴います。
その関与とは何かと言いますと、起こってきた考えを握りしめることです。
考えを握りしめると、それによりさらに別の考えが派生的に起こってきます。
そして、その派生した考えも握りしめることになります。
するとまた新たな考えが派生することとなり、一段落するまで考えの連鎖が続きます。
この能動階層に属する考えが起こってきたときの自我の感覚としては、分別心等の強い自我感覚を伴ったものとなる傾向があります。

最初に受動階層の考えが起こってきて、それが能動階層の考えに繋がっていく簡単な例について書いてみます。
例えば、同じ職場にAさんという人がいて、そのAさんの言動があったとします。
そのAさんの言動に対する五感を通じた最初の認識は、常に受動的な考えです。
そのAさんの言動に対して、それを掴まない人は、Aさんの言動があったという認識が直ぐに流れていき、Aさんの言動を起点して発生した考えの連鎖は直ぐに収束します。
またこの人は、Aさんの言動を掴みませんから、その言動が心に印象を残すこともありません。

これに対し、Aさんの言動を掴んでしまう人は、Aさんの言動に対する認識があると、それに続いて、その言動に対する分別等の能動階層の考えが連鎖していきます。
Aさんの言動が悪いと判断した場合は、Aさんの言動にはいつも問題がある、私がAさんのことを正さないといけない、あるいはAさんに何か言い返さないといけない等の考えが連鎖していき、憤り等の感情も湧き起こり、心の中が暫く騒がしい状態が続きます。
また、Aさんの言動に対しする批判的な考えが印象として心に刻まれます。
その心に刻まれた印象は、Aさんに関連して起こってくる次回以降の考えの連鎖の種になります。
Aさんの言動を良いと判断した場合にも、Aさんの言動に批判的な判断をする場合ほどではないにしても、Aさんの言動を暫く握りしめ、その言動に対する印象が心に刻まれます。

このように、自我を構成する考えには受動階層、能動階層の二つの階層があります。
表現を変えて、自我には受動階層、能動階層の二つの階層があると言ってもいいです。

悟りの道を進み、自我が薄くなってくるにつれ、起こってくる考えに含まれる能動階層の考えの割合が減っていきます。
受動階層の考えについては、減ること無くほぼ一定です。

真我の完全覚醒である大悟に至ると、能動階層の考えが大きく減少します。
その減少の度合いは実感として非常に大きいもので、大悟に至った方の多くが、能動階層の考えが消滅したと誤解してしまう程です。
解脱の悟りに至ると、能動階層の考えが十分に抑制され、起こってくる考えに対する関与の余地が殆ど無くなります。
あとは主に、起こってくる考えを受け取るだけとなります。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大悟と解脱の悟りの間にあるもの

2014年08月01日 13時47分44秒 | 悟り
◇大悟と解脱の悟りの間にあるもの◇

ここ数ヶ月の間、大悟(真我の完全覚醒)と解脱の悟りとを隔てるものについて延々と考えていました。

最初は、過去記事「大悟と解脱の悟り」等に書いたように、「在る」や「真我」やそれらに関連した事柄への執着の有無に過ぎないのだろうと思っていました。

それを信じておられる方々には大変失礼な言い方で恐れ入るのですが、私には「在る」という理解がとてもちっぽけなものに感じ、彼らがどうしてそれに拘るのかが理解できませんでした。

それで、過去記事「無我の体験と解脱について」にも書きましたように、彼らが「在る」に囚われてしまうのは、完全な無我の体験がまだ無いからなのかも知れないと考えたりもしました。

しかし、どうもスッキリとはしなかったのです。

そうしているうち、つい先日、ある方からバーナーデット・ロバーツという方のことを教えて頂きました。
彼女は大悟された方なのですが、完全な無我の経験を繰り返し繰り返し経験されているのです。
でも彼女は、「在る」を握りしめ、大悟に止まっているのです。

私は、彼女が「在る」に止まっていることに対し、完全な無我を知っているはずなのに、どうして「在る」を握りしめ、そこから抜け出せないのかが本当に理解できず、なぜなんだと考え込んでしまいました。

すると、間もなく理解が訪れました。

「在る」に止まる存在と、解脱の悟りに到達する存在との間にある決定的な違いが理解できたのです。

それは、存在を続けること、すなわち在り続けることに対する執着の有無だったのです。

私の場合、大悟した時点で既に、在り続けることへの執着を手放していたため、それに気がつかなかったのです。


以下、余談です。

今後、解脱の悟りをどう伝えていけばいいのか思案中です。
また何らかの配慮も必要なのだと考えています。
在り続けたいと思っている人に対して、その執着を捨ててくださいとと言うのは余りにも無茶なことであり、無神経なことですから。
伝え方のニュアンスとしては、解脱の悟りを求めているのにもかかわらず、途中で躓いておられる方々に向けてお伝えしていくことになるのだろうと思っています。

もう一つ余談として。
在り続けることに対する執着について、私の場合のことを少し書いておきます。
私の場合は、この現実世界に生まれてくる時点で既にその執着が無かったか、2012年12月に経験した明け渡しのときに、その執着も一緒に手放したかのどちらかだと思います。
おそらくは、後者の方だろうと思っています。


<追記(2014年8月29日)>
上の余談の部分で、私は、2012年12月に経験した明け渡しのときに、在り続ける執着を一緒に手放したんじゃないかと書きましたが、思い返してみますにどうも違うようです。
私は、この現実世界に生まれてきた時点で既にその執着が無かったように思います。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする