私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

改めて悟りの階梯(3)

2014年10月31日 22時58分33秒 | 悟りの階梯
◇改めて悟りの階梯(3)◇

第二の段階(天界の悟り、5次元)は、私という自我を捉える見性と真我の第一段階の覚醒の両方を得た階層です。

この階層の象徴的なイメージは、幸福感、創造主、二元だと私は思っています。

まず、幸福感とその周辺について。
この階層では、見性と真我の第一覚醒の両方が得られているため、その両方の特徴が反映されます。
4次元では、自我か真我の片方の覚醒しか得られてないため、意識の状態がアンバランスであったのですが、それが改善され、安定しやすくなります。

具体的には、真我の第一覚醒が得られているため、基本的に真我の外縁による感覚が前面に出てきやすく、意識や感覚の状態として、幸福感、積極性、楽しさ(ジョイ)、愛、感謝などのバイアスが日常的にかかりやすくなります。
それでいて、自我が捉えられてますから、そのような真我の外縁による感覚に必要以上に翻弄されることもなく、バランスが保たれやすいです。

次に、創造主とその周辺について。
この階層では、4次元よりも、自我が薄くなっており、起こってくる考えも減っていますから、考えに翻弄される割合も減ります。
それでいて、この階層におられる大半の方にとっては、自我に相当程度の厚みがまだ残ってますので、創造主として自我を駆使し、考えを操るには好都合なのです。
中には、創造主としての能力や実感を楽しまれる方がおられるだろうと思います。
この次元は、人が考えの主人(マスター)になる次元なのです。
なお、自我の削減が進んでしまっている方の場合は、そのような創造主としての実感は薄い場合があると思います。

次に、二元とその周辺について。
この階層は、まだ良い悪いで代表される二元の迷いの中なのです。
この階層におられる大半の方は、真我の外縁が見せる愛や善等に代表される二元の感覚(考え)に囚われています。

さらに、この階層について申し上げるとすると、その複雑さと、分厚さと、迷いやすさです。
複雑さについては、この階層におられる大半の方は、まだ多種多様な考えを握りしめておられます。
そのため、その方に起こってくる考えや出来事の展開も複雑で多様なものになる傾向があります。
また、分厚さについては、この階層におられる大半の方がまだ相当数の考えを握りしめておられます。
そのため、それらの考えに対する手放しが並大抵ではないのです。
また、迷いやすさについては、真我の外縁が見せる幸福感や楽しさ等が迷いを誘います。
自分に意識を向けるべきところ、どうしても意識が外側に向いてしまうのです。

この階層から抜け出すには、日常生活の中での経験や、自分に意識を向ける自覚等を通じて、自我が掴んでいる考えを手放していく必要があります。
そうやって考えの手放しが進んでいくうち、自ずと第三の段階の悟りである大悟に導かれていきます。


続きます。


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改めて悟りの階梯(2)

2014年10月28日 20時06分51秒 | 悟りの階梯
◇改めて悟りの階梯(2)◇

では、悟りの階梯を第一の段階から順に改めて説明していきたいと思います。

第一の段階(4次元)は、私という自我を捉える見性か、あるいは、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒かのいずれか一方を得た段階です。
この段階は、悟りの道の入り口と言える段階です。
この段階では、多くの方の場合、まだ自我が握りしめた考えが多く、自我に起こってる考えも多いです。
そのため、感情や思考に翻弄されやすい傾向があります。

殆どの方の場合、見性と真我の第一段階の覚醒は別々に起こります。
それはなぜかと言いますと、この段階では、自我と真我との距離感と言いますか、分離感が大きいのです。
このため、自我を捉えるときの意識の使い方と、真我の第一覚醒が起こるときの意識の使い方や握っている考えの手放し方との間に大きなギャップがあるのです。
このギャップが、見性と真我の第一覚醒が一度に起きにくい最も大きな原因なんだろうと私は考えています。

余談ですが、5次元(天界の悟り)に至り、その階層を6次元(大悟)に向けて進んでいくうち、自我と真我との間の距離感が徐々に縮まっていきます。
そして、真我の第二段階の覚醒により6次元に至ると、自我と真我がいわば一枚の紙の表と裏の関係のようにぴったりと寄り添うような状態となります。

次に、この段階における見性が得られた方の場合と、真我の第一覚醒が得られた方の場合について個別に説明します。

まず、見性が得られた方の場合について。

自我を捉えるとは、本質的な私という意識に気づき、それを捉えることです。
あるいは、考えをつくり出している創造主としての自分に気づき、考えに対してある程度の主体性を獲得することです。

見性による意識の変化の最大の特徴は、「私」という意識がしっかりし、自らの意志をある程度自覚して表現できるようになる点です。
このため、意志の実現性も向上します。
一部には、特殊能力が活性化される方がおられると思います。

また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自我のつくった考えであるということに対するある程度の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、それにより気持ちもある程度楽になります。

但し、その意識の状態としては、多くの方の場合で、まだ自我がつくる感情や思考に忙しく、連鎖的に生じる考えに翻弄されやすい状態です。
考えに対する主導権はまだ不十分であり、また二元的な考えに代表されるような固定観念等の種々の考えを沢山握りしめており、深い迷いの中におられる方が多いです。

自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことで、自我が握りしめている考えの手放しが進んでいきます。
それに伴って、起こってくる考えが減り、自我が薄くなっていきます。
そして、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、真我の第一段階の覚醒が起こります。


次に、真我の第一段階の覚醒を得た場合について。

真我の第一覚醒とは、真我の外縁に触れることです。
この真我の第一覚醒に伴い、起こってくる考えが大きく減り、自我が大幅に薄くなります。

真我の外縁に触れることで、それによる特有の感覚や理解が得られます。
具体的には、至福、愛、歓喜、すべてはひとつ等の真我の外縁に関する感覚や理解が得られます。
また、起こってくる考えが比較的大きな落差で減るとともに、執着(囚われ)も減るため、多くの場合、苦しみもそれなりに減ります。
そのため、基本的に楽になる方が多いと思います。
また、真我の外縁は二元の感覚の世界なのですが、至福等に代表されるプラス方向の感覚が前面に出できやすいため、日常の生活でも幸福な感覚になりやすい傾向があります。


また他の特徴として、起こってくる考えがそれなりの大きさで減りますので、それに伴って智慧が発現するようになっていきます。

しかし、この真我の第一覚醒のみを得た段階では、まだ自我を捉えられていないため、主体性が欠落しやすく、心地よい真我の外縁の感覚や、真我の外縁が見せる見せかけの真理(理解)に延々と迷ってしまわれる方がとても多いです。
主体性が欠落してしまっていると、つまり私という自我をしっかりと捉えていないと、自分が何かの考えを掴んでいて、それに惑われていることに気づけないのです。

自分を見る自覚を通じて自我を捉え、自我(意識)の挙動を冷静に観察していくことで、真我の外縁から得られる感覚や理解も考えであることが理解できるようになります。


続きます。


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改めて悟りの階梯(1)

2014年10月27日 19時42分33秒 | 悟りの階梯
◇改めて悟りの階梯(1)◇

<この記事は今年2月27日に書いたものをもとに、書き直したものです>

改めて悟りの階梯について文章を書いてみたいと思い、書いてみることにしました。
前回の記事も削除せずに残しておくことにしました。

悟りの道は、階段状の構造を有していて、大きく分けて四つの段階があります。
殆どの方は、階段を一つずつ上がっていかれるようです。

ここで私が書きます悟りの階梯も、私の考えに過ぎないものであり、幻です。
しかし、悟りの各段階のゲートを潜ったときに得られる体験や理解は、少なくともその基本的な部分については非常に共通性が高いのです。
つまり、誰かがある段階のゲートを潜ったとき得られる体験や理解は、その人がどのような経過を辿ってきたかは余り関係がないのです。

まず最初に、用語や基本的なことに関しまして、予め少し説明します。
私という存在は、自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性を有しています。
なお、ここで言う自我とは、肉体に付随した私という感覚(肉体感覚の私)のことではなく、私の内面にある本質的な私(大いなる私と言ってもいいです)のことです。
あるいは、創造主としての私と言ってもいいです。

次に、悟りの階梯の四段階について簡単に説明します。
第一の段階は、私という自我を捉える見性か、あるいは、真我の第一段階の覚醒かのいずれか一方を得た段階です。
なお、真我の覚醒の段階には、真我の外縁に触れる第一段階の覚醒と、真我に完全に覚醒する第二段階の覚醒があります。
第二の段階は、真我の第一段階の覚醒を得ることと、自我を捉えること(見性)の両方を得た段階です。
第三の段階は、真我の第二段階の覚醒を得た段階です。
第四の段階は、最終的な悟りである解脱の悟りを得た段階です。

私は、第一の段階のことを、ラジニーシさんの言い方に習って4次元(物理的な次元ではなく、意識の次元です)と言ったりもしています。
なお、この次元の数は私自身はそれほど意味があるものだとは思っておらず、簡単に表現できるので便利だから使っています。
ちなみに、悟りを全く知らない一般的な人の意識は3次元です。

続いて、第二の段階のことは、天界の悟りと言ったり、5次元の悟りと言ったりしています。
また、第三の段階のことを、大悟とか、真我の完全覚醒とか、梵天の悟りとか、6次元の悟りと言ったりしています。
第四の段階は、解脱の悟りとか、無明が晴れるとか、7次元の悟りと言っています。


次に、第一から第四の段階についての全体的な特徴等について説明します。

一つの見方として、私という存在である自我は、その自我が握りしめている考えの集まりだということができます。
そして、悟り道を進んでいくということは、その自我が握りしめている考えを手放していくことなのです。

また、私という自我に起こってくる考えの原因は、自我が握りしめた考えであり、執着(カルマ)ですから、握りしめた考えが多いほど、起こってくる考えも多くなり、自我も厚くなります。
このため、悟りの道を進むのに従って、自我が握りしめている考えも減っていき、自我も薄くなっていきます。

また、良い悪い等で代表される二元の迷いとの関係で言うと、悟りを知らない一般的な方がおられる段階(3次元)から第二の段階(天界の悟り、5次元)までは、二元の迷いの中です。
第三の段階(大悟、6次元)の悟りを得ると、大凡の部分において二元の迷いから脱却できますが、多くの場合、まだ一部に二元の迷いが残るケースが多いようです。
例えば、悟りや幸せを良いものとして掴んでおられる方がおられるようです。
二元の迷いを含めたすべての迷いから抜け出すためには、第四の段階(解脱の悟り、7次元)を得る必要があります。


続きます。


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「幸せ」という迷いからの脱却

2014年10月23日 21時23分36秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇「幸せ」という迷いからの脱却◇

至福も含めて「幸せ」という感覚はまだ迷いの中なんです、ということをどうお伝えしたらいいのか、ここ暫くの間考えていました。
しかし、この「幸せ」というのはとてもデリケートで誤解も招きやすく、また迷いも深いため、それをお伝えするための上手い切り口が見つからないでいました。
いくら考えても、また妙案を待っていても何も出てこないので、今日は思い切って書いてしまうことにします。(^o^)


結論から先に書いてしまいますと。
歓喜や至福を含めた幸福感などの「幸せ」という感覚は、まだ迷いの中なのです。
「幸せ」は、幸不幸の言葉で表されるように二元の迷いの中なのです。

しかし、悟りの道を歩まれる方々の多くが、この「幸せ」の迷いから抜け出すことができません。
どうしても、「幸せ」を求めてしまうのです。
求めれば求めるほど迷いが深まるだけなのに、求めずにはいられないのです。
また、いま現在、「幸せ」を感じている人は、その幸福感や、それに関連した状況を握りしめてしまい、手放すことができません。
それほど「幸せ」とは魅力的であり迷いやすいのです。

自我が大分薄くなっているはずの大悟者でも、この迷いから抜け出せない方がおられるようです。


どうしてそのように、迷いから抜け出すことができないのでしょう。

それには二つの要因があると、私は考えています。

一つ目は、無自覚のまま自分の自我の衝動に翻弄されているからです。
「幸せ」を求めるのは自我(エゴ)がやることですから、その自我の挙動に対する自覚がないことには、自分が翻弄されていることに気づきようがないのです。
この一つ目の要因に対しては、しっかりと自分を見る「自覚」をやっていただくことで対応できます。

二つ目は、「幸せ」を求める欲と、「幸せ」の対極にある「不幸」や「苦しみ」に対する恐れです。
欲と恐れは、根っ子は同じであり、同根なのです。

特に障害となるのが、この二つ目の要因なのです。
「幸せ」に対する欲を手放すことや、「不幸」等に対する恐れに打ち勝つことは簡単ではないのです。

しかし、より深く悟りの道を進んでいくためには、この壁を乗り越えていくしかないのです。

そのやり方としては、大凡二つの方法があるのだろうと思っています。

一つ目は、自覚を極めていくことにより、「幸せ」や「幸不幸」という考えの虚構性、無意味さを見破り、その迷いから抜け出すという方法です。

二つ目は、「幸せ」を捨て去ることです。
「幸せ」を求めることを放棄することです。
あるいは逆に、「不幸」や「苦しみ」を受け入れることです。


「幸せ」は、私たちのもとを時折気まぐれに訪れては、過ぎ去っていくものです。

そのような気まぐれで不確かなものを、求めないでください。

また、過ぎ去っていくものにしがみつこうとしないでください。

そこに得られるものは何もありません。

あなたの心は、いつまで経っても満たされることなく、虚ろなままです。

そのことに早く気づいてください。

あなたの意識を「幸せ」ではなく、あなた自身に向けてください。



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「脱力」の落とし穴

2014年10月20日 22時00分37秒 | 悟り
◇「脱力」の落とし穴◇

今日は、以前から気になっていたことについて書きたいと思います。

悟りの道を歩いておられる方に、その方が得た最終的な意識状態に関する言葉として、よく「脱力」とか「脱力状態」という言葉を使う方がおられます。

確かに、脱力した状態は自我の意識も拡散されて薄くなり、楽で、それはそれで悪くないものです。

しかし、その脱力した状態は、自我の主体性が失われた状態であり、迷いの中なのです。
「脱力」だと仰っている殆どの方(おそらく、すべての方)は、まだそれなりに考えを握りしめておられます。
そして、その握りしめた考えに翻弄されており、まだ迷いの中なのです。
何よりもまず、その「脱力が良い」という考えを掴んでおり、囚われています。
「脱力」という言葉が出てくることがその証拠です。

脱力に嵌まってしまうと、自我の主体性が失われたままになり、自分が考えを握りしめていること、迷っていることに気づけなくなるのです。
迷いの中から抜け出せなくなるのです。

ですから、これを読まれている方は、安易に脱力や楽な状態に気を取られないようにして頂きたいのです。

そのためには、しっかりと「私」に意識を向け、ご自分の意識の動きに常に気づいていて頂きたいと思います。


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個人的なこと(最近の心境、仕事など)

2014年10月19日 22時12分19秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(最近の心境、仕事など)◇

まず、このブログのことですが。
ここのところ、意識が家族や仕事のことに行っているのもあり、ブログの記事を書く気が余り起こってきません。
それと、私が伝えたいと思う基本的な事柄については、大体は記事に書いてしまったとも思っています。
掲示板を併設したので、今後はみなさんとの具体的なやり取りを通して、個別具体的にお伝えしていくことになるのかも知れないと思ったりもしています。
そんなこんなで、このブログについては、もう暫くはこのまままったりとした感じで進むのかなと思っています。

次に、私の心境や精神状態等の変化についてですが。
最近は特に変わったこともなく、安定してきたのかも知れないなあと思っています。
基本的に常に、意識を身体の中心を貫く中心軸に向けた状態で生活しています。
夜寝るときも、その状態のまま眠りに入って行きます。

意識を中心軸に向けると、自ずと「私」に意識を向けることとなり、それによって私の場合、観照意識と自我が立ち上がるのです。
私はこうして、観照意識と自我を常に立たせた状態でここ3ヶ月くらい生活しています。
いまは、その状態が完全に日常化してきたという感じです。

私がなぜ、この観照意識と自我を立たせた状態を選択しているのかと言いますと。
私は、観照意識と自我を手放して起きてくる展開に任せてしまうという意識状態も選択することができます。
今年2月11日に解脱の悟りを得てから、約5ヶ月くらいの間は、ずっとその流れに任せる意識状態で過ごしていました。
この意識状態は楽でいいのですが、自我の選択権をほぼ完全に放棄してしまうことになるので、退屈で面白くないのです。
それで退屈して困っていたとき、いまやっている観照意識と自我を立たせる意識状態も選択可能なことを偶然発見しました。
それ以来、観照意識と自我を立たせる意識状態のまま過ごしています。

この意識状態だと、自分やこの世界に起こってくる考えや出来事に客観的に気づいていられるので、この点で少し面白くて退屈さも少し紛れるのです。
また、私は自我が薄くなっていて、自我の選択権も小さくなっているのですが、この意識状態だと、自我の選択権も行使しやすいので、自分がこれをやってるんだ、生きてるんだという実感が湧きやすくていいのです。

日々の生活に対する感想や感覚は、正直なところ、相変わらず日常生活はしんどいままで、すべてを投げ出したくなる衝動に駆られたりすることもあります。
でも今は、できる限り家族と一緒に社会の中で過ごしていこうという気持ちを持って生活しています。

仕事に関してですが。
現在の仕事は、10月末で終わりすることにしました。
それに伴い、借りていたオフィスも閉鎖します。
しばらくは、仕事はせず、家族中心の生活になる予定です。
家族のことや私の周りが少し落ち着いたら、何か仕事を探して働いてみようと思っています。


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真我の第一段階の覚醒方法について

2014年10月14日 21時12分25秒 | 悟り
◇真我の第一段階の覚醒方法について◇

このブログでは、悟りの各段階に至るときの方法や手がかりについて書いてきました。
その方法等は、基本的に自覚をベースとしたものであり、具体的には、自我を捉える悟りである見性を得る方法、大悟(真我の第二段階の覚醒)を得る方法、そして解脱の悟りを得るための手がかりなどでした。

しかし現在のところ、真我の外縁に触れる悟りである真我の第一段階の覚醒方法については有効な手がかりを提示できていません。

それはなぜかと言いますと。
このブログに書いております方法やワーク等は、ほぼすべて私の実体験に基づくものなのです。
私は、見性、大悟及び解脱の悟りについては、自覚をベースとした方法によりそれらを得たため、その体験により得たものをここに書くことができたのです。
しかし、私は真我の第一段階の覚醒については突発的に訪れた明け渡しによってそれを得たため、つまり自覚等の方法を使わずに得たため、真我の第一段階の覚醒に対して自覚を使ってどのようにアプローチすればいいのか、体験に基づく有効な情報を持っていないのです。

それでどうしようかと思っていたところ、ピーンと閃いたのです。
せっかくこうしてブログを書いているのだし、また掲示板を併設したんだし、その情報をここに来られる方々に提供してもらえばいいじゃないかと思ったのです。(*^_^*)

それで、みなさんにお願いなのですが、このブログに来られる方で、何か方法を使って真我の第一段階の覚醒を得た方がおられましたら、どんな方法を使って、どんな経過を辿って、どんな感じで、真我の第一段階の覚醒に至られたのかをお教え頂けいただけないでしょうか。
特に、自分に意識を向ける自覚を使って真我の第一段階の覚醒に至った方がおられましたら、ぜひその経過等をお教え頂けると大変有り難いです。

情報を提供頂ける方は、この記事のコメント欄に書いて頂いても結構ですし、このブログ併設の掲示板(どのスレッドでも構いません)に書いて頂いても結構ですし、メール(アドレスはこのブログ画面の向かって右側をご参照下さい)を頂いても結構です。

何とぞご協力よろしくお願いいたします。m(_ _)m


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大悟を得る(天から梵天へ)(2)

2014年10月11日 20時33分09秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟を得る(天から梵天へ)(2)◇

今回の記事は前回の記事の続きです。

前回の記事で書きました三つの事柄について大凡引っかかりがなくなると、何らかの形で自然と大悟に向かうことになります。

大悟に至るまでの経緯や使用した方法は人それぞれであり、多種多様な経過を辿られた方がおられるでしょうし、また何か方法を使われた方についても多様な方法があるんだと思います。
ですから、私がここで紹介します方法等はほんの一例に過ぎないとお考え頂きたいと思います。

ただ一つ確信を持って言えることは、意図して悟りの道を進まれている方の場合、大悟を得るときの要となるものは、燃えさかる炎ような強い意識の集中だと思います。
そのときに意識を向ける対象や具体的なやり方が異なるだけで、極度の意識の集中状態を経るという点では共通しているのだろうと思っています。

では、本題に入っていきたいと思います。
なお、今回の記事では私が実際に実践してよく知っている方法だけに絞って書きたいと思います。

私は二つの方法を実践し、知っています。

まず一つ目の方法は、「私」に意識を集中する方法です。
意識の集中度合いを極限まで高めた状態で、「私」に意識を集中してください。
燃えさかる炎のような激しさで、あなたの意識を「私」に集中してください。
この世界いっぱいに広がったあなたの意識を、「私」の中心である一点に集中してください。

そのとき、あなたが認識する世界には、あなたが意識を向けている対象である「私」しか存在しなくなります。
「私」以外の他の考えがある場合には、まだ意識の集中度が足りません。
あなたが認識する世界に「私」だけが存在するようになるまで、意識を集中してください。

「私」以外の他の考えが起こってくるときは、他の考えが起こってくるたびに丁寧に、その考えを私が起こしているんだなと自覚することで、無用な考えの連鎖が起こらないように消し去ってください。
そして、「私」への集中度を高めていってください。

「私」への集中度が高まってくると、自然と自我の意識が薄れていき、思考の無い無我(無心)の方に行ってしまいます(そのままいくと、無我や禅定に入ってしまいます)。
この方法はあくまでも「私」に意識を集中することが重要なのであり、無我に入ることが目的ではないのです。
ですから、安易に無我に入るのではなく、「私」という考えをしっかりと維持して、その「私」に意識を集中し続けてください。
そのときのコツとしては、例えば、「わたし、わたし、わたし、...」とゆっくりと声に出して、あるいは心の中で唱えながら、つまり「私」という考えを「私」の中心につくり続けながら、その「私」に意識を集中してみてください。

このように、「私」に意識を高い集中度で集中するすることで、私という自我が溶かされていきます。
自我が溶かされ、自我の厚みがある閾値(臨界値)を超えて薄くなると、大悟となります。


二つ目の方法は、私という存在である自我が考えをつくりだす現場に高い意識の集中度で直面しつづけることで、私という自我を溶融させつつ、自我と自我がつくりだす考えとをいわば直接的に統合させようとする方法です。

(なお、私という自我を捉える悟りである見性を得ようとされている方の場合は、通常、私(自我)と考えとは別のものであるという両者の分離を確立する過程を経られる必要があるため、混乱されないようにご注意ください。見性を得ようとされている方は、このワークのことは読み流して頂きたいと思います。)

具体的なやり方は、「私」が何かの考えを起こす現場に高い集中度で直面し、その現場における「私」と、「私」がつくりだす考えとの関係性を徹底的に洞察し続けます。

「私」が何かの考えをつくりだした瞬間における「私」の意識の動きや変化を徹底的に観察し、「私」と考えとの関係を徹底的に洞察してください。
また、「私」が何かの考えをつくりだし、さらに次の考えをつくりだしたその瞬間における「私」の意識の動きや変化の様子を徹底的に観察し、洞察してください。

例えば、「私」が「いま何時?」とか、「雨が降ってる」とか、「電車だ」という考えをつくりだした瞬間の「私」の意識の動きや変化を観察し、洞察してみてください。
また例えば、「私」が「私」に意識を向けている状態から、「いま何時?」等の他の考えをつくりだした瞬間の「私」の意識の動きや変化を徹底的に観察し、洞察してみてください。

そうやってあなたがご自分の自我が考えをつくりだす現場や、自我がその意識を向ける対象が何かの考えから次の考えに移り変わる瞬間に直面し続けることにより、いずれあなたは、ご自分の自我という意識が、起こってくる考えそのものであることに気づかれるでしょう。
「私」という自我が、連鎖的に起こってくる考えそのものであり、その考えの連鎖に伴って移りゆく意識そのものが「私」であることに気づかれるでしょう。


あなたが大悟に至ったとき、それは直ぐに分かります。
あなたの自我がある閾値(臨界値)を超えて滅せられるのに伴って、あなたの自我の感覚が大きく薄れます。
それによって、あなたの自我(主体)と、あなたの自我がつくる考え(客体)との統合が始まります。
そして、あなたが何かの対象を見たとき、あなた自身の自我の存在感覚は欠落して無く、あなたが見ているその対象物のみが存在しているかのような感覚になります。
この感覚を「見るものは見られるもの」と言ったりします。

大悟に至れば(特にその直後は)、四六時中と言っていいほど、あなたは「見るものは見られるもの」になるはずです。
あるいは、四六時中とは言わないないまでも、あなたが意識をそこに合わせると、いつでも好きなだけ、しかもとてもたやすく「見るものは見られるもの」になれるはずです。

大悟の間近まで到達された方が、一時的に「見るものは見られるもの」になることがあります。
しかし、それが一時的である場合は未だなのです。
この点、ご注意頂きたいと思います。


上の一つ目の方法についてのより具体的な方法例として、このブログに「ハートの自覚ワーク」(1)(2)という文章を書いておりますので、ご参照ください。
また、二つ目の方法に含まれる具体的の一つとして、「私とは何か」を徹底的に追求する方法があります。

最後に私(慧空)の場合について簡単にお話しますと、上の二つの方法をほぼ同時並行してやっていたのですが、掛けた力の配分としては、一つ目の方法の方により多くの力を注ぎました。
なお、私の体験談については出来れば近いうちに文章を書こうと思っています。


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大悟を得る(天から梵天へ)(1)

2014年10月08日 21時00分12秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟を得る(天から梵天へ)(1)◇

今回の記事では、天界の悟りから梵天界の悟りである大悟に向かうときに気を付けて頂きたい点等について書いてみたいと思います。
なお、天界の悟りとは、以前、悟りの階梯(1)(2)(3)(4)という記事でも書きましたが、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒が得られているとともに、私という自我を捉えられている状態です。

この天界の悟り階層は、複雑であるとともに厚みも大きいため、大悟に挑むための準備段階と、実際に大悟に挑む段階とに分けて書きたいと思います。
複雑だと言いましたのは、この悟り階層におられる方の多くがまだ多種多様な考えを握りしめた方がおられると言う意味です。
また厚みが大きいと言いましたのは、この悟り階層におられる方の多くがまだ多くの考えを握りしめておられると言う意味です。

今日は、この記事の前半部分である大悟に挑むための準備段階について書きたいと思います。

この天界の悟り階層は、まだ良い悪い等で代表される二元の迷いの中なのです。
この悟り階層に到達される方の多くは、これが正しい、これが良い、こうあるべきだ等の種々の二元的な考えを沢山掴んでいます。
ですから、そのような方はまず、掴んでいる二元的な考えを手放していく必要があります。
ではその手放しをどうやるのかと言いますと、それは多くの場合、日常的な体験の中でやっていくしかないのです。
出家等をして修行をされている方についても、その方の日常である修行生活の中でそれをやっていくしかないのです。
そうやって、二元的な考えの大半を手放すことができたら、この点については準備完了となります。

それと、もう一つ大きな要素としては、この悟り階層におられる方の多くは、悟りの道を真っ直ぐに進んでいくことよりも、まだ他にやりたいことや、やるべきことがそれなりに残っておられます。
深く自覚をやられ、自分に何かをやらせようとしている考え(執着あるいはカルマと言ってもいいです)に気づき、それを手放すことで、自分がやりたい又はやるべきと感じることを解放する方法もありますが、これは多くの場合難しいのです。
ですから、この悟り階層におられる方も、まだ悟りの道に入っていない一般の方と同様に、ご自分がやりたい又はやるべきと感じることをやられることで、その執着を解放していく必要があるのです。
ご自分ではその実感がなく、やりたいこともやるべきこともないと無いと感じられるかと思いますが、この悟り階層で留まって日常を送っておられることそれ自体が、まだそこでやるべきことがあることを物語っているとも言えるのです。
やり残した執着があると、大悟への発心が芽生えないのです。
そう言った執着を解放し、大悟へ向かう準備が完了することで、それに伴うようにして、大悟に向けた発心が芽生えてきます。

さらにもう一つ、この悟り階層を抜け出していく上で大きな障害となり得るものがあります。
それは真我の感覚による迷いです。
この迷いは、真我の第一段階の覚醒が得られることで生じるものであり、この悟り階層特有のものです。

真我の外縁は至福感、統一感、喜び等の感覚が強烈に前面に出て来やすいため、それを掴んでしまい、また酔ってしまい、延々と迷ってしまう方がとても多いのです。
意識のチャンネルを真我に合わせると、私という自我の意識が抑制され、それに変わって至福感や、愛で満たされる感覚に比較的簡単になってしまうため、これが究極の意識状態に違いない、あるいは、これが解脱の悟りだと誤解して、そこに留まってしまうのです。

「至福」、「愛」、「ひとつ」、「神」、「真我」、「根源」等の言葉(考え)が出てくるうちは、まだまだ迷いの中なのです。
「あるがまま」、「ただ在る」、「いまここ」も迷いの中です。
「愛」や「ひとつ」等の考えをそれがいいものだと思い、握りしめ、それらに意識を向けておられるのです。
それらの考えに囚われてしまっているのです。
「愛」や「ひとつ」に意識を向けるのではなく、「私」に意識を向けて頂きたいと思います。
そして、「私」がそれらの考えを握りしめていることに気づき、その迷いから脱して頂きたいと思います。

あなたの自我は決して滅せられてはいません。
そもそも、存在が残っている限り、自我が滅せられることはあり得ないのです。
例え、最終的な悟りである解脱の悟りを得ても、まだ存在が残っている以上、最低限の自我は残るのです。
自我が残っているのですから、いろいろな感情も欲求も、分別等の思考もそれなりに残ります。
自分の自我は滅せられたんだなどと早合点されずに、もう一度改めて、ご自分の意識とその動きをしっかりと確認して頂きいと思います。

これは私(慧空)の体験に基づくものですが、二元の迷いから抜け出していくとき、自分が普段何気なく行っている判断や選択についてそれを自覚し、検証、追求していくという作業がとても有効です。
この点について、このブログに記事を書いておりますので、どうぞご参照ください。
これです、「「判断」について吟味し、検証する」。


次は、実際に大悟に向けて挑むときのことについて書きます。
(つづきます)


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自覚と主体性について

2014年10月07日 20時45分38秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚と主体性について◇

自分に意識を向けさえすれば「自覚」なのですが、このように簡単に言ってしまうと、自覚の大切な要素が抜け落ちてしまわないかと心配になります。

その大切な要素とは、私という存在の「主体性」に対する認識です。

ただ自分に意識を向けるだけだと、他の内観手法と余り変わらないものになってしまいかねないのです。
ですから、「私が」それをやっているんだとしっかりと意識しながら、自覚をやって頂きたいのです。

自覚をやられるときは、「私が」自覚をやっているんだとしっかりと意識してください。
また、私に意識を向けるときは、「私が」それをやっているだとしっかりと意識しながら、私に意識を向けてください。

そして、そうやって自覚をやろうとしている自分の意思をしっかりと認識し、自覚して頂きたいと思います。
そこに、あなたの意思(自由意思)があり、主体性(主導権)があります。

ぜひ、そのことに気づいて頂きたいと思います。
また、気づいていて頂きたいと思います。


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掲示板を設置しました

2014年10月02日 22時41分02秒 | その他
◇掲示板を設置しました◇

このブログを訪問される皆さんが自由にやり取りできる場があればいいかも知れないと思い、掲示板を設置することにしました。

例えば、自覚に関する疑問や、気づいたことや、そのやり方についてなど。
また、悟り全般のことや、悟り以外のいろいろなことなど、何でも書き込んで頂きたいと思います。
皆さんでお好きなテーマのスレッドを設定して頂いても結構です。

どうぞご利用ください。

下のリンクからどうぞ(^^)/

私を知る掲示板

それと、このブログ画面右側にも、リンクを貼り付けました。


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大悟から解脱の悟りへ

2014年10月01日 21時20分36秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇大悟から解脱の悟りへ◇

今日は、大悟から最終的な悟りである解脱の悟りに至るときの手掛かりについて書いてみたいと思います。

なお、大悟とは自我の大半が滅せられることによって生じる悟りであり、自我である主体と客体である考えとの統合は始まる段階です。
大悟の特徴的な感覚や理解としては、「見るものは見られるもの」という感覚や理解が生じたり、ハートに私という自我の感覚が消失することなどが挙げられます。


大悟から解脱の悟りに進むときの方法は、基本的には自分を見つめる内観的な手法しか無いのだろうと思っています。

私という自我にしっかりと意識を向けて、私をしっかりと捉えつつ、私に起こってきている考えを逐一観察して頂きたいと思います。
そして、私という自我が何かの考えを握りしめ、その握りしめた考えに関連して起こってくる考えにより突き動かされるように、右往左往して彷徨っている自分の姿に気づいて頂きたいと思います。

何か考えを握りしめているから、それに関連して不足感等が生じ、それをなんとかしようとして、衝動的に意識が彷徨ってしまうのです。
だから、心の中で何かハッキリしないものがあり、スッキリせず、意識も定まらないのです。
そのような自分の意識やその動きに気づいて頂きたいのです。

自分が掴んでいる考えをわざわざ探す必要はありません。
多くの場合、探そうとしても対象とする考えをなかなか見つけられないことが大半ですし、探そうとするとどうしても意識が私からずれてしまい、ぐるぐると空回りすることになります。


大悟に至ったあなたは、起こってくる展開に身を任せる「あるがまま」や「それそのもの」という意識状態を選択することもできるでしょう。
その状態は確かに楽で平穏でとてもいいものかもしれません。

しかし、あなたはその「あるがまま」等の意識状態を、その都度選択しています。
無意識のうちにその選択をやっておられる方も多いのだろうと思いますが、間違いなく、あなたはその意識状態をご自分の自我(エゴ)で選択しておられるのです。
どうしてそれを選択するのでしょう。
それがいいものだと思っておられるのです。
そこに、あなたの自我の判断と迷いがあります。
まずは、そのことに気づいて頂きたいと思います。


私(慧空)の例を書かせて頂きますと、私は自分に意識を向ける自覚を通じて、解脱の悟りを得る確か3週間ほど前に、解脱したいとか、解脱の悟りの実感がほしいという考えを握りしめ、右往左往している自分に気づきました。
そして、解脱の悟りを得るときの最後の気づきは、「苦」を握りしめ、その苦しみをどうにかしたいと右往左往している自分に対する気づきでした。


できるだけ高い集中度で絶えず自分を見つめ続けることで、そう言った自分の意識の囚われや迷いに気づいて頂きたいと思います。

自分が握りしめているすべての考えに気づいて手放せば、その時点で解脱の悟りとなります。
その最後の気づきの瞬間、それまで右往左往して揺れ動いていた自分の意識がすうっと一点に定まり、静止します。
そのとき、何らかの形で「終わった」という感触を得られると思います。
それを誰かに確認してもらう必要などないのです。
自分で「これか」とハッキリ分かります。(^^)


また、他の補足的な手法として、瞑想等により涅槃に落ち、涅槃から通常の意識に帰ってくるときの自分の意識を観察するという方法があります。
涅槃とは完全な無我の状態のことであり、涅槃に落ちると、感覚を含めたすべての意識が落ち、気絶状態となります。
涅槃から通常の意識に帰ってくるときは、五感と意(意識)の六根のいずれかを通じた認識が起こるのと同時に帰ってきます。
よくあるパターンとしては、耳から入る音に対する認識と同時に通常の意識に戻ってくることが多いです。

そしてまずは、六根を通じた認識と同時に戻ってきた瞬間の自分の意識を捉えて観察して頂きたいのです。
さらには、その六根を通じた認識そのものとして帰ってきた自分の意識が、連鎖的に他の意識(考え)へと展開していく様子を観察して頂きたいのです。
そうやって、私という意識の成り立ちについて知っていかれるうち、自然と私という存在の姿について理解が深まり、掴んでいる考えや、囚われが解放されていきます。
なお、この方法はあくまでも補足的なものであり、無くても大丈夫です。


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読んで頂いてありがとうございました。

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