すうたまちゃん

ラーメン?油そば?元い!オリジナルメニュー『すうたま麺』を提供したスタッフの徒然な思のは

戦争とは

2006年10月30日 01時58分08秒 | 代表“グダグダ”雑感
戦争とは、一体何なんでしょうか。

「戦争」と国家の「交戦権」を行使した状況は違うのでしょうか。

また、自衛権とは、何なんでしょうか。

我が国の日本国憲法は、自衛権を放棄しているのでしょうか。

日本国憲法は、交戦権の放棄を謳っていますが、これはどういう意味なんでしょうか。

自然権とは、何なんでしょうか?



核兵器保持からの平和の実現の可能性

2006年10月30日 01時34分01秒 | 代表“グダグダ”雑感
私たち日本人が、核兵器の保持について議論をすることは、世界に日本が核兵器を保持することの「疑念」を抱かせることが、我が国の安全保障に繋がるという主張は、なるほど説得力ある内容ではあると思います。
日本に核兵器を保持させないために、アメリカをはじめ、中国、ロシア、韓国が、必死に北朝鮮に対して核兵器の放棄を求めることに繋がるかもしれないし、北朝鮮自体が、日本の核兵器保持の危険性と自己の保持のメリットとを比較し勘案しながら、核兵器開発を断念させる可能性を高めることも考えられます。
日本の核兵器保持を一番嫌がっている国は、米国であるとおもいますがね。

核兵器の保持に関する議論の是非

2006年10月30日 01時23分07秒 | 代表“グダグダ”雑感
北朝鮮が核実験をしたということで、我が国も核武装について議論をするか否かの是非が、其処彼処で語られています。
外相や自民党政調会長の「議論すべし」という主張は、彼らのこれまでの思想の吐露からすれば、何ら不思議な内容でもありません。

私は、これまで核武装について議論をすることは、当然のことで、議論を否定することは、民主国家たる地位を放棄するものであると考えていました。
それは、現在も変わらないという意識もあれば、それを否定する意識もあります。
どちらかと言うと、現在は議論をすること自体を否定すべきであると思っています。
何故なら、核兵器の唯一の被害の国であるから。
多くの被爆者の方々の話を聞いて、核兵器の恐ろしさと、核兵器による悲惨な状況の認識と理解を強くするにつけて、核兵器は、非人間的かつ非文明的な存在であると考えるからです。

核兵器によって、戦争が抑止されていると考える理屈は、ある意味理解はできますが、その理解は、もうすでに過去のことであると考えます。
冷戦時では、その抑止力の効果がある程度是認できるような出来事があったことは、理解しようと思えることもあるかもしれません。
しかし、核兵器の拡散は、私たちが想像する以上に簡単に行われている可能性を認識すべきではないかと思います。
つまり、ならず者国家に核兵器が移転される危険性もさることながら、テロ組織に移転される/されている危険性は、想像に難くありません。
核兵器の管理が不十分な状態でソ連邦は解体されました。
この事実をもってしても、核兵器の拡散は、どの程度為されているのか。

核兵器の完全管理など、夢のまた夢であり、それは単なる現実主義的な顔を持った単なる平和ボケの理想主義者の戯言であり、幻想に過ぎないことを理解すべきです。

核兵器は、戦争の抑止力になっていると思い込みたい方々は少なくないようですが、それは現実的ではないし、新しい敵であるテロリストと対峙する新しい時代に入っていると主張するブッシュアメリカをはじめとする新自由主義者やネオコンらの希望的観測に過ぎません。
それこそ、テメイらの陣営でしか通用しない理屈です。

使えもしない核兵器が、一体何の意味があるのでしょうか。
核兵器を持ち続けるのなら、いつか、誰から必ず使用することでしょう。
使わなければ意味が無い。
使わないと断定などできない。
まさしく、使われそうになった経験がある。

もし敵が核兵器を使用したなら、私たちはどうしますか?
同盟国アメリカは、どうしますか?
報復として核兵器を使用しますか?

核兵器を1発でも使用したなら、どのような環境汚染を引き起こすのでしょうか?

日の丸・君が代訴訟 9

2006年10月07日 01時33分54秒 | 代表“グダグダ”雑感
11 予断
1 この本件訴訟では、高校の入学式・卒業式に関するものです。
小学校の入学式や卒業式とは、少し違うと私は思っています。基本的には、私は小学校の場合は、教職員らに国歌斉唱時に着席をしてほしくない。これは私の希望です。やはり、小学生は、先生が着席していることを大変不思議に思うことでしょうから。児童を指導すべき立場にある教職員が、国歌斉唱をする際に「起立」しないでいることは、児童に対して、国歌斉唱の意味について、誤った理解をする可能性は容易に想像しうるものです。つまり、教職員の着席したままの状況は、斉唱によって達成されるべき教育目標に向けた児童に対する効果を減殺(減少)することの蓋然性は、高校生のそれと比較すると高くなると考えます。

しかし、指導要領が目標とする教育効果が減殺されたとしても、その減殺によって、児童の利益が大きく害されているものとは考えられませんし、教職員らが滅失する利益を越えるものではないと考えますので、教職員らに懲戒処分を科する事は、是認できるものではないと考えます。

2 国旗掲揚・国歌斉唱の徹底実施を実現するために、生徒に対しては、十分な配慮が必要だと思います。
一般論として、教職員に対するある一定の法義務を課することは当然のことですが、生徒に対しては、何ら法義務を課することは許されません。抽象的な公共利益を得るための教育目標である以上、指導が是認されるだけで、法的義務を負うものではないのです。内心の自由は、絶対的に生徒に保障されるものなのですから。

3 国旗・国歌が「嫌なら式から出ていけ」という論は、学校教育の場において、一番相応しくないものでしょう。ましてや、「教師になるな」「教師を辞めろ」という主張は論外です。少なくとも、教師になれば、国旗国歌についての指導を行い、入学式や卒業式に、都教委が指導するような行為をするべき義務があることは、社会的コンセンサスがあったものではありませんし、実際にこの通達は2003年の10月に出されており、その通達以前に教職員として採用された人たちは、この通達によって、己の思想・信条を曲げなければ、職を失うことを許容するような論理です。排他的かつ不合理かつ傲慢な主張であり、憲法が保障する職業選択の自由を否定する理屈です。断じて許されるべきものではありません

12 最後に
とりあえず、これで終了です。
本件訴訟の争点以外のことを言及したり、法義務不存在の確認請求や予防的不作為の請求の事前救済についての可否等の争点は、全く言及しなかったりと、かなりいい加減な内容ではありますが、一つの取るに足らない主張であるとご理解ください。

そうそう!
都知事が、判決に対して、「裁判所は実態を理解していない」と言っていましたが、実態を弁論で主張すべきは東京都なんですよ。その主張をしなかったのか、それとも、したにもかかわらず、都知事が問題視するようなレヴェルと認定されなかったのでしょうかね。
全面的に裁判所の事実認定に信頼を置くことはできませんから、断定はできませんが、異常と思えるような式の実態を裁判所に理解させるような弁論・法定活動ができなかったと言うことだけなんですよね。
甘っちょろい感想文をあいも変わらず表現しますね。彼は。

後日、追記するかなぁ?

日の丸・君が代訴訟 8

2006年10月07日 01時32分35秒 | 代表“グダグダ”雑感
10-5 教職員の当該行為による式参加者らの不利益
原告ら教職員の国歌斉唱をする時に「着席」し、「起立」しないでいることは、国旗・国歌に対して尊重と賛意を抱くような、当該教職員と反対意見を持つ人たち(参加している親御さん)の権利を侵害するものでしょうか(本件においては争点ではありません)。

親御において、斉唱時に教職員が着席していることを不愉快に思う人も当然にいることでしょう。
しかし、当該行為によって作出されたその状況を不愉快に思う人の思想・良心及び信仰の自由を侵害する、とまでは言えません。
国旗・国歌を耳にすることや目にすることだけでも嫌悪を感じる人もいますし、国旗に敬礼をする姿や国歌を歌う人に不快感を抱く人もいるわけです。自分とは違った考えや想い、思想を持つ人の言動に不快感を抱くことは、日常においてしばしば経験するものです。しかし、その不快感をもって直ちに、その不快感を抱かせた者が、自己の思想・信条を侵害するものと評価することはできません。思想・良心の自由等の自由権は、「個人の尊厳」の原理から派生する権利であり、「他人と考えを異にすることの自由」であり、そこには「自分と考えを異にする者を認める」という精神的「寛容」性を求められるものだと考えます。これは、自由のある一定の「制約」というニュアンスではなく、あくまで「寛容さ」が求められると私は解釈しています(法律論ではありません)。
ただ、これは私人間に妥当する理屈であり、個人と国や行政機関とでは、妥当しません。国家の行為を寛容することは、立憲主義国家ではありえませんからね。

よって、原告ら教職員の国歌斉唱をする時に「起立」しないで着席していることは、反対意見の人たちの権利を侵害しません。

10-6 結語
教職員の当該行為によって、指導要領が目指す「公共の利益」の滅失が、生徒の利益を害するまでの程度とは言えず、学習指導要領が目指す教育目標達成のために、学校において国旗掲揚・国歌斉唱することが、必要・不可欠の手段であるとは言えず、さらに、それを法的義務として教職員に対して、国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することの義務を課する事は、相当な合理性を有する手段と評価できません。
当該職務命令は、重大かつ明白な瑕疵があると評価せざるをえません。
したがって、本件通達に基づく、学校長の職務命令は、違憲かつ違法であるといえます。
よって、国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することの義務を教職員は負わないと解することが相当であると考えます。
また、違法である職務命令に対する、教職員の当該行為については、法義務の回避が認められ、当該処分は、当然に違憲かつ違法であるといえます。

よって、国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することの義務を教職員に課する当該職務命令は、違憲かつ違法であり、教職員の「思想・良心の自由」、そして「信仰の自由」を侵害すると考えます。
<つづく>

日の丸・君が代訴訟 7

2006年10月07日 01時30分51秒 | 代表“グダグダ”雑感
10-4 教職員の当該行為と法義務
教職員は、生徒に対して、「君が代を歌いましょう。」と指導すべき立場であり、学習指導要領や通達、職務命令等によって法的義務を負うものです。
その指導する立場である教職員が、自己の内心の思想・良心及び信仰の自由に基づいて、国歌斉唱の際に国旗に向けて起立することを拒否し、着席することが許されるのでしょうか。

10-4-1 判断基準
(1)当該思想・良心の自由の真摯性。特に非宗教的な思想・良心については、宗教的信念と同程度の強さを持つものといえるか。
(2)当該法義務の性格。その法義務が実質的な公共的利益を実現するために必要不可欠なものといえるかどうか。
(3)当該法義務による規制が当該信仰ないし思想・良心にどの程度の負担・妨げを生じさせるか。当該法義務を履行しないことによって、その者にどの程度の不利益が許されるか。また、生徒らの不利益の存否。
このような諸事情を考慮して、決せられるべきです。

10-4-2 判断基準に基づく評価
(1)当該思想・良心の自由の真摯性について
『5 思想・良心の自由と信教の自由について』において、記した通り、認められると考えます。

(2)当該法義務の性格について
国旗を掲揚し、国歌を斉唱することの公共の利益は、前記の通り、①国際社会において尊敬・信頼される日本人として成長、②国旗・国歌に対する尊重、③日本人としての自覚と愛国心、④国歌への帰属意識の醸成、と考えられます。
これらの目的を達成するための、都教委の通達、指導、職務命令は、『9 本件通達について』の通りの内容であり、本件通達内容の具体性かつ詳細性を有する方法を画一的に指導することの必要性や妥当性はないと考えます。蓋し、他の採りうる方法は、様々にあるからです。

(3)当該法義務による、教職員らの不利益等について
1 思想・良心及び信仰から、国旗・国歌に対して嫌悪感を抱く人たちにとっては、学校行事において、国旗掲揚・国家斉唱を強制されることは、当然に自己の思想・良心及び信仰の自由を侵害するものであると感じます。
その程度は、人それぞれであって、明確に程度を示すことは当然に不可能です。これは、推し量るしかありません。
ただ、国旗掲揚・国歌斉唱を拒むことができない状況下にあれば、それは明白に嫌悪を感じる人たちの内心の自由を著しく侵害し得るものであると言わざるを得ません。

2 さらに、職務命令違反を理由に、懲戒処分が当該教職員に科せられるという事実から、二重の痛みを受けると評価しうる状況を作り出されることとなります。
つまり、国旗掲揚・国歌斉唱を受け入れられない人は、例え国歌斉唱時に、その場に着席したとしても、日の丸・君が代を行事に使用されれことによって、空間的共有を甘受しなければならず、甘受したにも拘わらず、着席した行為に対して、職務命令違反を理由に懲戒処分が為されれば、さらに経済的制裁をも受ける可能性まで生じるのです。事実、前記の通り、被告都教委は、上記職務命令に違反した教職員に対し、1回目は戒告、2回目及び3回目は減給、4回目は停職との基準で懲戒処分を行うとともに、再発防止研修を受講させており、定年退職後に再雇用を希望する教職員について、入学式、卒業式等の式典において国歌斉唱時に起立して国歌を斉唱しないなどの職務命令違反があった場合、再雇用を拒否されるという制裁が為されています。これは、教職員の思想・良心及び信仰の自由の侵害を甘受せざるを得ない状況が作られていると評価できると考えます。

3 では、法義務を履行しなかった場合の、生徒たちの不利益は生じるのでしょうか。
高校生である生徒らは、「思想・良心の自由」という権利等、憲法について、簡単にですが、すでに社会科教科で授業を受けています。さらに生徒らは、高校生ですから、教職員の当該行為を理解する能力は、備えられていると考えるのが自然です。また、自己で現実に起こっている事象を理解する能力も、備えられているでしょう。つまりは、教師らが国歌斉唱の際に着席している事実を見ることで、国旗・国歌に対する間違った認識を与えること及び国旗・国歌を尊重する態度を育てるという指導要領や通達の目的とする公共の利益を阻害するような教育的損失が生じることもないと思われます。
また、教職員の当該行為は、積極的な妨害行為と評価しうるものでもありませんし、生徒らに拒否を煽るものでもありません。

4 したがって、教師の当該行為によって、公共の利益つまりは、指導要領や通達等が目的とする教育効果が減少することは、想定できないし、たとえ、減少があったとしても(その蓋然性は大変低けれど)、その程度は軽微であり、生徒の利益が害されるものとは考えられません。

10-4-3 利益衡量
指導要領や通達等が目的とする「公共の利益」の滅失が、生徒の利益を害するまでの程度とは言えず、また当該法義務が、必要・不可欠の手段であるとは言えず、さらに、それを法義務として、教職員に対して履行を強制することが、相当な合理性を有する手段とはいえません。

また、法義務に反し、職務命令違反に基づく減給等の懲戒処分を受けることは、教職員への経済的制裁を意味します。この経済的制裁は、教職員にとって、大きな不利益であることは言うまでもなく、この事実は、自己の内心を曲げて、君が代斉唱の際に起立するか、または内心に従って、着席をし、その結果職務命令違反による懲戒処分である減給という経済的制裁を受けるかという、どちらにおいても教職員にとって、甘受しがたい状況です。

したがって、教職員の当該行為による公共の利益の滅失と、当該行為に対する懲戒処分等による教職員の利益の滅失、当該行為を行わなかった時の教職員の利益の滅失を比較衡量すると、教職員の当該行為の許容性や妥当性を認められると考えます。
<つづく>

日の丸・君が代訴訟 6

2006年10月07日 01時28分16秒 | 代表“グダグダ”雑感
10 本論
では、国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することの義務を教職員に課することが、教職員の思想・良心の自由、そして信仰の自由を侵害するものであるかを考えます。

10-1 公務員の職務命令に対する法義務とその回避
まず、公務員が上司からの職務命令に対して、すべて遵守しなければいけないのかという論点があります。
つまり、自己の内心に反する行為を法義務によって、強制されることに対して、拒否が可能なのか。
個人は、自己の思想・良心の自由、信仰の自由を根拠として、一般的な法義務を回避できるのか。
学説においては、回避を認めない説と、認める説があります。

私は、法義務回避を認めるべきであると考えます。
内心的なモノの考えを内心に置き留めていることは、当然ながら自由であることはいうまでもありません。
その内心に反する法義務に、常に服従すること、つまりは個人がすべての場面で制約を受けることになると、憲法19条の存在意義は大きく損失します。
ただ、絶対的権利である内心の自由は、時として、外部的に表現される場合があるのです。
それは、例えば本件の教職員らの当該行為です。
己の思想・良心に基づいた「着席する」「起立しない」という外部的行為(表現の自由:21条)が為されているのです(思想及び良心に従った行為)。
このような外部的行為があった場合は、ある一定の制約に服することになります(所謂公共の福祉等の制約)。

しかし、法への服従が個人の人間性の核心を否定する場合においては、権力による法への服従要求は、その個人の人間性自体を、法によって奪い葬り去ることと同じといってもいいと思います。
ゆえに、法義務の回避を一律に禁止することは、憲法が規定する「思想・良心の自由」の趣旨を没却することになります。

判例・通説は、後者でほぼ決着し、法義務の回避を認めています。
如何なる場面で、法義務の回避が認められるのか、つまり如何なる要件が具備されれば、回避が可能であるのかは、職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合には、これに従う義務がないものと解するのが相当であるとしています(昭和53年11月14日 最高裁第三小法廷)。

10-2 本件職務命令の法的拘束力
学習指導要領から本件通達の内容を導くことができるのかを検討します。
前記の通り、学習指導要領は、国旗・国歌の指導方法等を詳細かつ具体的に示す内容になっていません。つまり、各学校の学校長の裁量を十分に担保する内容です。
そもそも、通達とは、学習指導要領に比して、より具体的な指導内容等になる可能性は高いものです。しかし、その内容は、学習指導要領と同様に、助言指導的な程度であって、当然に学校長の裁量権を侵害するものであってはなりません。
本件通達は、各々の内容が、具体的かつ詳細に明示されており、各学校長の裁量は、全くないと言って良い程度のものであり、また、従わない場合は、懲戒処分という強制力が伴うものである事に鑑みると、通達の内容を学校長及び教職員に強制する内容と評価せざるをえません。
これは、公共の福祉のために、教育の機会均等を図る上からも、全国的一定水準を確保すべき強い要請という目的を実現させるために必要かつ合理的な制約とはいえません。
したがって、この通達及び指導は、教育基本法第10条第1項に違反し、不当な支配という評価は免れません。
よって、当該通達及び指導は、法的拘束力は認められないと考えます。

10-3 学校長の職務命令に基づく法義務
学校長の本件職務命令は、都教委の本件通達・指導に基づくものです。
前述の通り、職務命令の前提である通達が、法的拘束力がありません。しかし、通達の法的拘束力がなくとも、学校長による職務命令は、たとえ通達に基づいていたとしても、学校長の裁量権の範囲にあるものであり、直ちに法的拘束力を否定することはできません。学校長には、不当な支配によらない、自己の教育理念に基づいた職務命令を発する権限を有しているからです。

しかし、その職務命令は、本件通達・指導の内容と異ならない内容であり、学校長の独自性が認められるような内容ではなく、学校長の何らの強制力に基づかない、一般的かつ自然なる裁量権・権限に基づいた職務命令とは認められません。
<つづく>

日の丸・君が代訴訟 5

2006年10月07日 01時25分09秒 | 代表“グダグダ”雑感
7 国旗・国歌に関する部分の学習指導要領の法的拘束力について
学習指導要領における「公共の利益」の性質について確認・検討します。
文部省が編集した学習指導要領指導書・特別活動編には次の通りです。

『日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、生徒が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗および国歌に対して正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。』
『学校行事においては…(略)…社会・国家など集団への所属感を深める上で、…(略)…良い機会となるものである。』
『このような意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」こととしている。』
『入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の指導に当たっては、社会科や音楽科における指導などとの関連を図り、国旗及び国歌に対する正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることが大切である。』
としている。

当該要領の内容は、国旗掲揚・国歌斉唱の具体的な利用方法や実施方法等を規定するものではありませんし、強制力を伴い、画一的指導を求めるような、各学校長らの裁量を侵害するものでもありません。
したがって、当該部分の学習指導要領に関しては、法的拘束力があると考えます。

8 都教委の通達の法的拘束力について
次に、都教委の通達について検討します。
通達の内容は、当然に学習指導要領と同様に、教育基本法第10条の趣旨(不当な支配の排除)に合致するようなものでなければいけないことは自明です。それは、法的拘束力に関しても同様です。
つまり、前記の通説の立場で、助言指導的な基準に止めるべきであると考えます。

9 本件通達について
本件通達の内容は次の通りです。

『入学式、 卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)』
1 学習指導要領に基づき入学式、 卒業式等を適正に実施すること。
2 入学式、 卒業式等の実施に当たっては、 別紙「入学式、 卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。
3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、 教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、 服務上の責任を問われることを、 教職員に周知すること。」

『別紙』
入学式、 卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針
1 国旗の掲揚について
入学式、 卒業式における国旗の取扱いは、 次のとおりとする。
(1) 御国旗は式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。
(2) 国旗とともに都旗を併せて掲揚する。この場合、 国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、 部族にあっては右に掲揚する。
(3) 屋外における国旗の掲揚については、 掲揚塔、 校門、 玄関等、 国旗の掲揚状況が児糞・生徒、 保護者、 その他来校者が十分認知できる場所に掲揚する。
(4) 国旗を掲揚する時間は、 式典当日の生徒の始業時刻から終業時刻とする。

2 国歌の斉唱
入学式、 卒業式等における国歌の取扱いは、 次のとおりとする。
(1) 式次第には、 「国歌斉唱」と記載する。
(2) 国歌斉唱に当たっては、 式典の司会者が、 「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。
(3) 式典会場において、 教職員は、 会場の指定された席で国旗に向かって起立し、 国歌を斉唱する。
(4) 国歌斉唱は、 ピアノ伴奏等により行う

3 会場設営等について
入学式、 卒業式等における会場設営等は、 次のとおりとする。
(1) 卒業式を体育館で実施する場合には、 舞台檀上に濱台を置き、 卒業証書を授与する。
(2) 卒業式をその他の会場で行う場合には、 会場の正面に濱台を置き、卒業証書を授与する。
(3) 入学式、 卒業式等における式典会場は、 生徒が正面を向いて着席するように、設営する。
(4) 入学式、 卒業式等における教職員の服装は、 厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとする。

通達等に関する裁判所の事実認定は、下記の通り。
①被告都教委は本件通達発令と同時に都立学校の各校長らに対し「適格性に課題のある教育管理職の取扱いに関する要綱」を発表。
②被告都教委は、本件通達発令後、都立学校の各校長に対し、入学式、卒業式等の国歌斉唱の実施方法、教職員に対する職務命令の発令方法、教職員の不起立等の現認方法及び被告都教委への報告方法等について詳細な指示を行う。
③都立学校の各校長は、被告都教委の指示に従って、教職員に対し、入学式、卒業式等の式典において、国歌斉唱の際に起立して国歌を斉唱すること、ピアノ伴奏をするよう職務命令を発した。
④都立学校の各校長は、教職員が上記職務命令に違反した場合、これを服務事故として被告都教委に報告した。
⑤被告都教委は、上記職務命令に違反した教職員に対し、1回目は戒告、2回目及び3回目は減給、4回目は停職との基準で懲戒処分を行うとともに、再発防止研修を受講させた。
⑥被告都教委は、定年退職後に再雇用を希望する教職員について、入学式、卒業式等の式典において国歌斉唱時に起立して国歌を斉唱しないなどの職務命令違反があった場合、再雇用を拒否したことが認められる。
<つづく>

日の丸・君が代訴訟 4

2006年10月05日 04時12分07秒 | 代表“グダグダ”雑感
6 「学習指導要領」とその法的拘束力ついて
本件事案における懲戒処分は、校長の職務命令に反する教職員の行為に対するものであり、この職務命令は東京都教育委員会の通達によるものです。

この都教委の通達は、「学習指導要領」に基づいたものです。
この通達及び指導が、学校長に対して行われ、この通達・指導に基づいた学校長による職務命令が出されました。それに対して、教職員の行為が通達・職務命令に反するものであることから、懲戒処分が為されたのです。

では、学習指導要領の法的拘束力の有無について検討します。
学習指導要領は、法律でもないし政令でもないし、省令でもない。実は、文部科学省の告示に過ぎません。
しかし、法的拘束力の有無について、争いがあるのです。

代表的な学説として、
①大綱的基準説
 学校教育法の委任による教育課程に関する国の法規命令事項は、「ごく大綱的な基準」に限られるとされ、指導要領は大部分が委任の限界を超え、法的拘束力を有しないが、指導助言文書としては適法であると考える。

②外的教育条件説
 教育行政は教育内容・方法に介入することは許されず、指導要領は、対抗たる細目たるとを問わず、教育内容・方法に関する限り、指導・助言の効力しかもちえない。

③学校制度的基準説(通説)
 学校教育法が立法化を予定しているのは「学校制度的基準」をなす各学校段階の教育編成単位である教科目等の法定に他ならなく、指導要領は助言指導的基準としてのみ適法である。
(『別冊ジュリスト 憲法判例百選Ⅱ 第三版 p294 参照)
という3説を挙げることができます。

判例は、平成2年1月18日最高裁第一小法廷の判決 2件

『高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)は法規としての性質を有するとした原審の判断は、正当として是認することができ、右学習指導要領の性質をそのように解することが憲法二三条、二六条に違反するものでないことは、最高裁昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年五月二一日大法廷判決(刑集三〇巻五号六一五頁)の趣旨とするところである。』

上記判決が引用する、1976年5月21日の最高裁判決(旭川学テ事件)は、以下の通り。
『本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認められるのであり、その中には、ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、また、必ずしも法的拘束力をもって地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としては、なお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められるし、また、その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていないのである。それ故、上記指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、上記目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが、相当である。』

このように、明確に法的拘束力について言及していませんが、
(1)学習指導要領には法的拘束力を予定していない部分がある。
(2)詳細過ぎる等の法的拘束力を持つべきでない部分がある。
(3)学習指導要領は地域および教師の自主的教育の余地を十分残しているはずである。
(4)学習指導要領は教師に一方的教育内容を強制していないはずである。

と判示しています。
つまり、学習指導要領に全面的に法的拘束力を認めるようなスタンスではありません。

ただ、平成2年1月18日最高裁第一小法廷の判決においては、法規による基準の定立事項について、教師の教育裁量にも制約が及ぶのは当然であるとしています。
これは、学テ判決より、教師の裁量の範囲を狭めています。
<つづく>

日の丸・君が代訴訟 3

2006年10月05日 04時10分44秒 | 代表“グダグダ”雑感
5 思想・良心の自由と信教の自由について
日の丸・君が代問題でよく耳にするのが「思想・良心の自由」という言葉。
そして「信教の自由」という言葉ですよね。
君が代・日の丸の教育現場への強制に反対する人たちは、大方これらの「自由」の侵害を問題にしています。

信教の自由は、積極的な宗教活動の自由とは別であり、自己の信仰に反する行為を如何なるものにも強制されない、という個人の内心的「信仰」の自由の問題です。
よって、内心の自由の侵害を問題とする点において「思想・良心の自由」と判断構造を同じくするものであると言われています。

ということで、この事案の場合「思想・良心の自由」「信仰の自由」を同レヴェルで論じていこうと思います。

では、まずこの論議の大前提として、『君が代斉唱、日の丸掲揚の問題は、憲法第19条「思想・良心の自由」、同第20条「信仰の自由」に関わるものであるのか?』という論点を考えなくてはいけません。

「思想・良心の自由」とは、如何なるものなのでしょうか。
憲法第19条は、人間の内心の自由を保障したものです。
思想・良心の自由は、外面に現れない内心の精神作用、または状態の自由をいいます。
細かいことは省略しまして、思想・良心の自由の保護対象について、大別して二つの説があります。

信条説と内心説です。
■信条説(狭義説)……政治的信念、思想的確信、世界観などの、個人人格形成の核心を為すもの
■内心説(広義説)……モノの見方乃至考え方

狭義説の信条説を採用しても、内心説を採用しても、思想・良心の自由を規定する19条の保護対象に関わる問題であることが解りますね。
日の丸掲揚、君が代斉唱の是非ついての態度決定は、日の丸・君が代に関する歴史的経緯や、君が代の歌詞についての政治性などの評価に関わるものです。
そして、政治性・思想性を帯びた問題であることは明白です。
狭義説によっても、人格形成の核心に関わるとして、19条の保護対象と解されます。

ちなみに、前述しましたが判例では、地裁レベルにおいて、君が代に対して先の戦争の辛い記憶と重ね合わせ、君が代に対する強い嫌悪感を抱く人たちがいることを認定しています。
この要な嫌悪感を抱く人間に、君が代斉唱を強制することは、個人の宗教的信条に関わる問題が生じることが是認され、「信仰の自由」の侵害の可能性も惹起されうるものだと、裁判所は述べています。

したがって、日の丸掲揚・君が代斉唱問題は、憲法19条の保障対象に関わる問題である、ことは争いのない事実であると現状において言えます。

<つづく>

日の丸・君が代訴訟 2

2006年10月05日 04時02分52秒 | 代表“グダグダ”雑感
4 日の丸・君が代に対する感情とその原因
日の丸・君が代に対して嫌悪感を覚える人たちは、何故そのような嫌悪感が生まれたのかを考えます。

この嫌悪感の原因を考えるにおいて、やはり日の丸・君が代が戦前・戦中において、どのような役割を果たしてきたのかを検証する必要があるでしょう。
では、明治から昭和初期にかけての日の丸・君が代がどのような存在であるかを考察してみます。

戊辰戦争の時に、権力の正当性を強調するために日の丸が利用されました。
1872(明治5)年には、一般は「天長節・紀元節」など、天皇制と国家神道の祭典であった祝祭日、また開港場では常時、国旗をあげることが通達されました。
すなわち、前述致しましたように、日の丸は、外国に対しては標識・船印であったが、国内に対しては天皇制権力のシンボルとしての役割を果たしました。
それは、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布ごろから、強調されるようになり、日清・日露戦争時には、戦意高揚の国家スローガンとして利用されたのです。
その後、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと戦端の拡大とともに、君が代と一緒に、日の丸は軍国主義、国家主義の高揚を担わされるようになったのです。

『我が日章旗は日の本を象徴し、我が日の本の國は天津日嗣(あまつひつぎ)の大君(おおきみ)のしろしめす神聖尊厳なる國家にて、日章旗は我が國體の象徴であって、國旗を尊重すること即ち皇室の尊崇であり、國旗を尊重すること即ち國體の擁護であるといふ深遠なる意義が含まれてゐる。』
これは、帝国陸軍教育総監部が1933年に発刊した「日章国旗に就て」にて記されています。

戦前の国定教科書である尋常小学校修身書卷四(1937(昭和12)年刊)では、

『「君が代」の歌は、我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいついつまでも續いてお栄(さか)えになるやうに。」といふ意味(いみ)で、まことにおめでたい歌であります。』
『私したち臣民が[君が代」歌ふときには、天皇陛下の萬歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。]

国民学校(1941年より)初等科修身二-1942(昭和17)年刊では、
『この歌は、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」という意味(いみ)で、國民が心からおいはひ申しあげる歌であります。』
『「君が代」の歌は、昔から、私たちの先祖(せんぞ)が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて来たもので、世々の國民のまごころがとけこんだ歌であります。』

このように、当時の日本では、「君が代」は天皇制が永遠に続くことを望む内容であることを確認しています。
天皇制であったのだから、当然と言えば当然ですよね。
そう解釈することは自然であることでしょう。

このような日の丸・君が代の利用によって、戦後、日の丸・君が代に対して嫌悪感が生まれてきたと言っても、不思議ではありませんよね。
何故、嫌悪感を抱くのか?その根拠を示せ!と言われれば、このようなことを示すのが、日の丸・君が代に嫌悪感を抱く人たちの論になるでしょう。


ここで、ひとつ紹介。
京都地裁判決(1992.11)において、「君が代」は「各人の心の深層に内在するシンボル」と言えるものであって、「『君が代』に強い嫌悪の情を持つ者の存在」を認め、「歌詞の解釈もさまざまである」と裁判所は判断しました。

つまり私が言いたいことは、日の丸・君が代に関して嫌悪感を抱こうが、そうでなかろうが個人の自由であるってことです。
嫌悪感の根拠を表明して、その内容に関してイチャモンをつけても意味がないのです。
例え、その嫌悪感が戦後の左翼思想の賜物、日教組の偏狭教育(日教組が偏狭的な教育を行っていたという意味ではありません。)が原因であろうが、そのような感情が生じたことを人は何ら非難することはできないのです。
日の丸、君が代は、あくまで偶像的なものであり、それはシンボルでしかなく、国そのものではないのは明らかなのです。

確かに、君が代については、昔から親しまれた歌であり、一時期に戦争に利用された事実だけで否定することはナンセンスであるという意見ももっともです。個人的には、私はそう考えています。
先の戦争の苦い経験を忘れないためにも、日の丸・君が代は国旗・国歌として残すべきであるという意見も、何ら問題のないものでしょう。
しかし、新しく国旗・国歌を作るべきであるという意見も、何ら問題などないのです。
人それぞれの考えですからね。国民全体で考え、どのような結論を導くのか。

<つづく>

日の丸・君が代訴訟 1

2006年10月05日 04時01分44秒 | 代表“グダグダ”雑感
1 はじめに
このたび、色々な方々と意見交換をいたしました。
その意見交換で共通するご意見は、「藹の主張を提示せよ」ということでした。
日の丸・君が代について様々な問題に関して、これまで個人的な見解を表現してきました。
私のHPや多くのBBSでね。当ブログでは、しておりませんけどね。

でも、藹としてHPを運営もしていませんし、藹というHNは最近使用しましたので、藹という人物がネットで意見表明しているのは、すうたまちゃんブログが始まりです。
なので、ここで、ある程度具体的に私見を述べさせて頂きます。
一度に表現するような内容ではありませんので、数回に分けてここで表現させて頂きます。
この私の主張は、5年前に書いたものに、今回の事案と絡ませて追記させて頂いたものです。
では、ご覧下さい。

2 2006年9月21日の東京地裁判決についての事実の概要
本件事案の概要は、次のとおりです(判決文より引用、一部削除)。
原告らは、東京都立高等学校及び東京都立盲・ろう・養護学校に勤務する教職員又は勤務していた教職員である。被告都教委教育長は、平成15年10月23日都立学校の各校長に対し、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(本件通達) を発して、都立学校の入学式、卒業式等において、教職員らが国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること、国歌斉唱はピアノ伴奏等により行うこと国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本件通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の蕾性を問われることを教職員に周知することなどにより、各学校が入学式、卒業式等における国旗掲揚及び園歌斉唱を適正に実施するよう通達した。
本件は、原告らが、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること、国歌斉唱の際にピアノ伴奏をすることを強制されることは、原告らの思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由、教育の自由等を侵害するものであると主張して、在職中の原告らが被告都教委に対し、都立学校の入学式、卒業式等の式典において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務、国歌斉唱の際にピアノ伴奏をする義務のないことの確認、これらの義務違反を理由とする処分の事前差止を求めるとともに、原告らが被告都に対し、本件通達及びこれに基づく各校長の職務命令等によって精神的損害を被ったと主張して、国家賠償法1条1項に基づき、慰謝料各3万円の支払を求めた事案である。

3 日本国の国旗・国歌である、日の丸・君が代の発祥
まず、日の丸・君が代の問題を語る上で、しっかりと認識しておくべきことがあると言われています。
それは、日の丸・君が代の発祥についてです。

日の丸は、幕末に薩摩藩主が、幕府に大船・蒸気船建造申請を行った時、日本船の総印として白い帆に朱の日の丸を使用し、さらに「日の丸」を日本全体の船印にすることを幕府に進言、そうして日本船の総船印とされ、明治政府によって、日本の商船旗として定められたようです。
日の丸は、外国に対しては標識・船印。
国内に対しては天皇制権力のシンボルとしての役割を国民に対して果たしました。
こういった経緯から、国旗として扱われるようになったそうです。

君が代については、平安時代に詠まれた和歌であると言われています。
鎌倉時代には祝歌として広がりを見せたようです。
こうして人々に親しまれながら、和漢朗詠集に編集されました。
江戸時代には、恋の小唄として唄われました。

日本の歴史を振り返ると、当然のことながら天皇という存在は大きいものでした。
代々の天皇は、民を「おほみたから(大御宝)」として大切にしてきたことは、簡単に窺うことができます。
先の戦争の終戦において、昭和天皇が詠まれた「身はいかになるとも いくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」という歌からも、天皇の民を大切にするという思いは分りますよね。

民を大御宝として大切にする政治道徳の伝統があり、それを常に体現する皇室。
国外からの多くの人たちが入って来ても、長い間に平和的に一つの国家としてまとまり、発展してきたのは、この政治道徳が国家の統合力として働いてきたからであるという考えもあります。

君が代とは、このような政治道徳を体現する皇室を中核として、平和的にまとまり、発展してきた我が国の姿を示している。
とある学者は言っています。
そのことは、大きさも種類も異なる様々な小石が結ばれあって、長い時間をかけて見上げるような巨岩に成長した「さざれ石」は、この国柄を象徴していると言えると。

日の丸・君が代の発祥については、このようなものだと言えます。

<つづく>