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映画ブロガーら有志23名による「10年代映画ベストテン」発表!

虹の女神 Rainbow Song [監督 : 熊澤尚人]

2006-11-20 03:25:37 | 映評 2006~2008
今年のマイベストかもしれない・・・というくらい思い入れたっぷりで観る事ができた。
しかし、最初にことわっておくが、優れた映画ではないと思う。単なる私の偏愛である。8mmで映画撮ってた大学の映研の時の思い出がオーバーラップし、あのころ夢に見た様な死ぬほどうらやましい撮影環境とか観て、色々感傷にひたったりと、そんなごくごくパーソナルな理由で感動しただけである。

まずは内容面での不満などから・・・
この映画は昨今はやりの純愛系とか言うけど、「かわいい女の子が死んで残された男の子が悲しくなる」だけの映画の同類である。死で片付けてしまう物語はあまり好きになれない(ヒーローが悪党をぶち殺すのは別にいいのだけど)。死は人生という物語の強制終了であり、脚本家が物語作りにさじ投げてる気がする。死んでしまったら後はどうしようもないから脚本家は残った男をただ悲しませて終わり。せいぜい残った者が人生を精一杯生きたことを描くか、精一杯生きていくことを決意させるか案じさせるか・・・ほとんどお決まりの展開であり、お決まりだっていいんだよなどと開き直ると、弱い女の子が死ぬことを心待ちにしてるみたいな気分になり、自分が恐ろしくなってくる。
若い女の子の死が、戦争とか差別とか社会とかへの抗議のメッセージであったり、時代の移り変わりとか社会の変革を象徴したりするんでなく、中流程度の生活水準の女の子たちがただ男に悲しい思いをさせるためだけに殺されていく。
死ぬより生き残る方が物語作りは大変なんだ。残された者はその後の人生を精一杯生きましたなんて綺麗ごと並べて片付けられるより、最愛の者が死ぬ事で残された者たちの関係が崩壊していく様の方が観たい。最愛の女が死に生き残った者が悲しみにくれる物語・・・というそれだけ書くと定番みたいな物語を撮りつつも、最愛の女に自らの手でトドメをささせるイーストウッドはやっぱすごい。彼がジャパンで流行りのジュンアイ映画を観ていたとは思えんが。森山未來もそれくらいやってくれればあの映画ももう少し感動できたのに(絶対安静の病人を連れ出して海外旅行させようとするのは似た様なもんかもしれんけど)
男女は逆だけど「タイタニック」だって似た様なもんだ。
で、本作だけど、基本的には女の子が死んでやっと彼女の気持ちに気付き泣き出す男。その前のシーンで彼が映像制作会社の人間として成長しつつあることを示唆するシーンから、これから彼があおいのいない人生を精一杯生きていくんだろうと思わせるところも、従来の女が死に男残る映画と同じ展開である。

可愛い上に目が見えない同情度MAXの女の子が主人公の恋愛対象でなくただの脇役だったのはまだ救いである。もっともあの子何のために登場したのかよく判らんのだけど。
目が見えないことが物語に何か絡んでくるのかと思ったが「目が見えない代わりに、人の心はよく見えます」という、ベタキャラでしかなかった。まあ恐らくは映像を目指すあおいの妹が盲目であるということでキャラ設定に深みを持たせたかったのだろう。だったら8mmフィルムを意味なく指でなぞるとか(フィルムの持ち主としては絶対やってほしくないが)、「The End of the World」の上映会の間ずっとみなと一緒にいてサウンドだけ聞いているとかしてほしかった。それとも「あおい」の妹が「蒼井優」ということで観客を混乱させる役回りだったのだろうか。他に耳の聞こえない妹がもう一人いて宮崎あおいが演じてたら完璧だった!!
余談ですが、この映画見ていてつくづく思うのは、「フラガール」の蒼井優の親友役を上野樹里がやってれば、あの映画もっと良くなったのに・・・ってことです。ファーストシーンでフラガールになることを決意した女の子がコミカルな役回りで物語を引っぱり、そして中盤まさかのドロップアウトで主役が頼りなげな蒼井優に移ったら・・・それは「エグゼクティブ・デシジョン」のまさかのセガール死亡と同じくらい物語をスリリングにしたでしょう・・・余談終わり

相当にぶい男は、飛行機墜落したのに奇跡的に壊れずに残っていた彼女の携帯のメールを観て、一万円の指輪を観てもまだ気付かず、昔の手紙の裏に書かれた決定的物的証拠の好きだと書かれた文面を見てやっと気付く。もちろん見るまでもなく気付いていたけど信じようとしない自制が働いたのだろう。しかし映画としてはあそこまでくどくど説明しなくてもいいんではなかろうか。特に手紙は蛇足と感じた。そのシーンの前に観客は全員気持ちに気付いているんだから・・・
個人的には余韻などなくていいから、ハッピーエンドにしてほしかった。
死んだと思っていたあおいは実は生きていて、何も無かったように戻ってきて智也と結ばれ、さらに「The End Of The World」のエンディングの別バージョンが発見され、それでは地球最後の日にヒロイン自ら南極に飛び立ち、そして奇跡的に南極だけが滅亡から逃れ2人は南極で幸せに暮らす・・・みたいな・・・・無理か

******

さてここまで批判しまくっておいてなんだが、正直いってとても感動した映画だった。

最初に心撃たれたのは、水たまりに映る真っすぐな虹である。
風がふけばすぐに壊れてしまうようなもろさ
そして、それが所詮は光の反射に過ぎず、現実を切りとっているようで、現実とは異なる心の無いコピーみたいなものであり、その反面現実よりも美しい一瞬を切り抜いてしまうところが、リアルと映画の関係性を示唆しているようでもあった。

そんな美しさ以上に自分が偏愛するのは、かつて自分が撮った映画や、撮ろうとして断念した企画に似ているところがいくつかあったという、どうでもいい超個人的な理由もあるのだが、それよりもこの映画が、8mmフィルムで映画を撮る人たちが大喜びする内容にしているからというきわめてオタクっぽい理由によるのである。
以下の文章で青字の箇所は作品内容にも評価にも全く関係のない8mmフィルムで映画を撮ってた男のうんちく部分なので、興味ない方は飛ばしてください。

あおい(上野樹里)はあれだけコダックがいいコダックがいいと言っておいてシングル8のカメラを使っている。
8mmフィルムにはフジフィルムのシングル8と、コダックのスーパー8がある。スーパー8の方がやや肉厚なフィルムでアオイの言っていた通り発色がいいらしい(私はスーパー8は使った事がないのでよくわからないが)。また、フィルムを収納しているマガジンの形もシングル8は縦長だがスーパー8は正方形に近く、したがってカメラもシングル8とスーパー8で別々の機体が必要になる。
おいおい、それくらい調べておけよと心の中でつっこんでいる私だったが、終盤私の目は点になる。佐々木蔵之介と同じく「その手があったのか!!!」とびびりまくる。カメラオタクによるコダックとフジの入れ替え術。

上記のシーンはマニアックに説明が施されているが、あとは極めて不親切に8mmフィルムでの映画撮影のうんちくはすっとばされる。例えば「Shall we ダンス?」では社交ダンスを知らない一般人のため、競技ダンスのルールやマナーについてさりげなく解説が入れられる。だからあの映画の後社交ダンスのちょっとしたブームが起きたのだろう。
しかし「虹の女神」ではマニアックな専門用語連発のオタク会話の他は説明なし。8mm映画をやりたがる人は、この映画がどんなにヒットしても増えないだろう。
でもすでに映画オタクである私にはそんなことどうでもいい。だから偏愛映画でというのだ。

あおいに智也がラブレターの代筆を頼むシーンで、あおいが黒くて細長いものを光に空かして見たり、切ってその切れ端を貼付けたりしているのを、一般人は何やっているか理解できるのだろうか?あれは編集をしている光景である。
モニタ付きの手動ハンドルのマシンは「エディター」と言われてフィルムのコマを1コマずつ手動で送ったり戻したりすることができ、はさみを入れたい部分に窪みをつけて印を付けることができる機械である。画面にはほとんど映っていなかったが、「スプライサー」というマシンで、フィルムを切断したり、フィルムとフィルムをスプライシングテープで貼付けたりするのである。
その編集のシーンにおいて、大学の弱小映研のくせに、部員のたむろ部屋兼機材置き場の他に編集ルームまで持っているという、あり得ないくらい恵まれた環境を見せつけられる。部員も少なそうだし何だってあんなに優遇されてんだろう・・・と思うけど私立大のサークルってみんなあんな感じなんだろうか?
機材の充実ぶりも凄まじい。金がない金がないというわりに、使っているカメラは蔵之介がびびっていた通りの超高級カメラだし、あの三脚だってプロ使用の数十万円しそうなものだし、あのマイクは何ですか?触った事もありません。
私も8mm撮影で同録を試みたことがあるが、カメラの動作音(ガラガラガラ・・・って音)がどうしてもマイクに入ってしまい、あまりに耳障りであり、結局全部アフレコにするのが普通だった。「虹の女神」のあの録音スタッフと思われる人が使っていたマイクと録音機があればカメラの音を除去できるのだろうか・・・?
「虹の女神」では全く描かれなかったが、アフレコという作業も素晴らしくスリリングで手間と時間と人手のかかる作業であり、それ故思い出の多い作業である。全キャストを再招集させ、口と声がピタリ一致するまで何度も何度もやり直す。テイク20も30も珍しくない。出演者などみなド素人だが何作も出演しているやつはアフレコのコツがわかってくる。コツというか何度も駄目だしする監督の目と耳を誤摩化す方法だ。喋り始めと喋り終わりのタイミングだけ完璧にする。録音機器に精通している人間がごく少数しかいないため、大抵の場合監督が演出兼オペレータになる。そうなると喋り始めと喋り終わりだけ確認して後は、音量調整に全神経を集中させ画面なんか見ないのだ。OK出した後で、カセットテープに録音した音をフィルムにダビングする時、途中の部分が全く口とあっていないことに気付く。明日が上映会だというのに録音やり直しするわけにもいかず、テープの再生ピッチを早めたり遅くしたりして、無理矢理タイミングをあわせるのだ。
さらにアフレコが必要なのは台詞だけではない。他の全ての音を後付けする。足音、体を動かす時の「絹ずれ」の音。俳優の背後を車が通り過ぎれば、その音を作り、俳優がアドリブで何気なくライターやグラスをもてあそんだりしたら、その音も作らなくてはならない。だから時には撮影中に、後で音を作るのがめんどくさそうな物には決して触らないよう俳優に注意したりすることもある。
こんな苦労だらけのアフレコ作業だが映画を見る観客たちにはその苦労が判らない。アフレコで苦労に苦労を重ねればそれだけ音がリアルに聞こえて観客は誰も音に注意を払わなくなる。そのくせ、0.1秒でも音がずれると苦労を何も知らない観客から「音ずれてるよ」などと文句を言われるのだ。ミスは一般客でもはっきり判り批判対象となるが、上手すぎると誰にも気付かれなくなる・・そんな損な作業がアフレコである。
3~4日一睡もせずアフレコを続けたり、撮影中は仲良かったカップルが編集期間中に仲悪くなり、めちゃくちゃ険悪な雰囲気でアフレコすることになったり、やたら口うるさい奴に手伝ってもらったアフレコが機械の操作ミスで全部やり直しになり、そいつ抜きで、そいつが作った音をもう一度再現して誤摩化したり・・・様々なドラマがあったものである。

「虹の女神」では超立派な録音機器のお陰で台詞も効果音も全部同時録音しているらしい。同録できればなあ・・・といつもいつもそんな夢の様なことを私たちは語っていたが、「虹の女神」のあおいちゃんはいともたやすく我らの夢を実現させていたのだった。
まあ、機材については知り合いのプロの映像作家から借りた、と見るのが正しいのだろうが・・・

それやこれや、この映画の映研は、学生当時の廃部の危機を乗り越え必死にもがいた私が夢に見た憧れの映研だった。
あれだけ撮影機材に愛着をもち、金をかけ、そして使いこなす、美人の女の子などいなかった。いれば市原隼人なんかと違い、即惚れていただろう。映画の機材や演出論について飲み会でつい熱く語ってしまう時の男と女の温度差に何か寂しいものを感じていたあのころを思い出す。
出演者同士、スタッフ同士でいつの間にかいい仲になってるカップルも随分いたし、そういうのがうらやましかったり腹立たしかったり、私も青春真っ盛りだった。大学映研では作品への思いと同じかそれ以上に、みんな恋に一生懸命である。そんな感じも「The End Of The World」の撮影風景によく出ていて、あの頃にタイムスリップしたような錯覚に襲われた。

・・・なんか作品と全く関係ない私の思い出話ばかりであり、この記事を読んでくれた方々もそろそろ読むのやめようかと思い始めた頃だろうが、構わず続ける。

あおいは「The End Of The World」の主演の女の子にキスシーンを求めるが、女の子は出来ないと言い、それを聞いたあおいはキレる。あおいは監督としては才能があったかもしれないが、プロデューサとしてはものすごくデタラメな人だったことが伺える。
普通、キスシーンとか撮る場合、本読みなり打ち合わせなりで確認とっておくもんだと思う。それぐらいやってくれると思ってたのだろうが、リスクを何も考えていない見切り発車クランクインだったと言わざるを得ない。
フィルムの撮影というやつは恐ろしく金がかかる。予算の大半はフィルム代で消える。
フィルムはシングル8の場合、1巻につき3分(18回転で・・・フィルムのカメラは18回転と24回転を選択できるものがある。さらにスローモーション撮影用に36回転での撮影も可能なカメラもある。電池喰うんだ、これが)であり、1巻の値段は1000円くらいする。さらにフィルムは現像しなくては見る事ができない。フィルムを知らない人たちは、あれをビデオと同じ物だと思い込んでいたりする。撮影直後にどんな風に撮れたのか見せてよと言ってくるが、残念ながらフィルムを写真屋に持っていき現像の依頼をしないと見る事ができない。
その現像にシングル8の場合500円くらいかかる。あわせて3分につき1500円くらいかかる計算だ。
ビデオ撮影の場合、MiniDVテープは60分テープが1000円くらいで買えるので・・・コストパフォーマンスの差は歴然としている。
ついでに8mmフィルムは東京ならヨドバシとか行けば買えるのだろうが、長野県松本市や山形県山形市の場合、100%注文が必要になる。注文から入荷まで1週間はかかる。現像も注文してから1週間はかかるのが普通だ。
以上の話は全て富士フィルムのシングル8の場合である。あおいが使っていたコダックのスーパー8の場合、フィルムが厚いんだから恐らくシングル8より値段がはるだろう。しかもスーパー8の現像は日本国内ではおこなっていないハズで、現像を依頼したフィルムはアメリカに送られているはずである(違うかもしれんが)。金も日数もシングル8よりかかるのだ。

智也の10000円の指輪でもフィルム数本分にしかならないのだ。
だからこそ!!・・・とここで話をもどすが・・・俳優に拒否されそうなキスシーンとかエロシーンとかは事前に確認しなくてはならないのだ。それを怠ったがため、俳優を降板させ、それまで撮影したカットを全部撮り直すことになった。異様にコストのかかるフィルム撮影では監督はリテイクを嫌うが、それでもクランクアップし完成までこぎつけるのだから、あおいちゃんはなんだかんだで結構金持ちだったんだろう・・・

映画の最大のクライマックスは実際に8mmで撮影されたと思われる「The End Of The World」の全編がまるまる挿入されるところではないかと思う。作品を見ている市原隼人や佐々木蔵之介の顔を写す客観ショットは何もなく、8mmフィルム作品をそのまま35mmフィルム(今はデジタルビデオ(HD24Pというやつ)かな?)に引き延ばして挿入した様な使われ方だ(マーティン・スコセッシの「ニューヨーク・ニューヨーク」のミュージカルのシーンもそんな感じの演出だった)。
話はめちゃくちゃそれるが(さっきからそれてばっかだけど)、島本理生という作家が2005年に発表した「ナラタージュ」という小説がある。とても素晴らしい恋愛小説の傑作であると思っている。しかしこの本で一つ不満なところがあった。
この本は高校演劇部OBの女子大生と演劇部の顧問の恋愛を描くのだが、前半は現役演劇部員とOBたちとが協力して芝居をすることになり皆で公演に向けて練習していく過程が描かれる。で、後半では公演後のメンバーたちの姿が綴られていくわけだが、この物語の登場人物たちの青春の中心にあったのは彼らがやった芝居にあったと思うのだか、小説ではその中心核がすっぽり抜けている。はっきり言えば彼らが行った芝居の戯曲をそのまま掲載してほしかった。彼らが芝居に情熱を燃やした一夏の重力中心を欠いた形で彼らの青春模様が綴られてもそこにイマイチ入り込んでいけないのである。それは吉田秋生の漫画「櫻の園」あるいはその映画版・中原俊監督の「櫻の園」にも言える。こちらはこれから公演が始まります・・・というところでエンディングになる。もっとも演目はチェーホフの古典名作だから本屋か図書館に行けばすぐ内容は判る。とはいえあの女の子たちがどのような表情でどんな台詞を喋るのか・・・特に映画版はそれを見てみたいのに見れない欲求不満がたまる(そこが狙いだろうし、物語の目的は彼女らに芝居をさせることではないからいいのだが)
そこに行くと「虹の女神」は観客みなが気になる、学生時代のあおいと智也の重力中心「The End Of The World」が完全な形で挿入される。「ナラタージュ」や「櫻の園」のおあずけくらった感がようやく「虹の女神」で解消された感じ。
これだけでもこの映画は評価したい。
しかも8mmフィルムに写されているのは今は亡き女。上映会はその子の葬儀の際に行われる。それは動き喋る遺影である。
写真による遺影は、在りし日の姿を、そのほんの一瞬を抜き取ったもので、時間を殺すことで死んだ筈の人間の生きていた時の姿を留め置くものである。
しかしながら8mmフィルムというやつは、在りし日の彼女に流れていた時間までも切り取ってくる。リアルで生々しい姿が、死者を偲ぶセレモニーの場において蘇ってくるのだ。
しかもまた余談になるが、8mmフィルムというやつは、基本的に焼き増しができない映像メディアである。ビデオならダビングでコピーを次々と作ることができるし、16mmフィルムや35mmフィルムの場合、現像されたフィルムはネガであり、それをプリントしていけばコピーはどんどん増やしていく事ができる。しかし8mmフィルムはポジとして現像される。つまり焼き増しができないのだ。
だから智也も他の仲間たちもあの葬儀の日まで、「The End Of The World」を見る事がなかったのである。

コピーの存在しない世界でただ一つの「The End Of The World」。そこに映るのは、在りし日のあおいと、その時あおいと同じ時を共有していた智也。2人の青春の恐らく最も大きなウェイトを締めていた「The End Of The World」が、作り手の作為が全く入っていないかのように、そのまま挿入される。
とはいえ「The End Of The World」にしても「虹の女神」の監督が、脚本家が、原作者が創造したものである。
「ド素人俳優のハズのお父さん、演技が上手すぎだよ。つったってそりゃ小日向文世だもん上手いに決まってらあ」
と思って笑っている場合ではない。
「虹の女神」の主演者たちと楽しんで作ったように思える8mm映画が、葬儀の場で遺影として挟まれることが何を意味するか? それは「楽しいだけで撮っていれば良かったアマチュア時代」の遺影・・・ではなかろうか?
智也がさんざんいびられる映像制作の現場が執拗に写されてきたことも無意味じゃない。過酷なプロの世界で生きていくことを決意する、自主制作の遺影を突きつけられた気がしたのだ。
考えすぎかもしれない。
でもあのわずか10分程度の8mm映画を見てつい泣けてきたのは、あおいというキャラに同情させられただけではなく、二度と戻らない自分の学生時代を思い感傷にひたってしまったこともあるし、どんなにつらくても逃げ出さない覚悟の表明のように感じ、それに感銘を受けたからでもあり、色んな思いがぐっちゃになって冷静には観れないところだった

******

最後に原作者・桜井亜美について
実は結構好きな作家である。デビュー作「イノセントワールド」は衝撃的だった。映画化もされたのだが、監督が「SHINOBI」の下山天なので見ない方がいいと思い、まだ見ていない。
他にも何冊か読んだのだけど面白い。しかし反面、小説に顔写真はのってないし、「イノセントワールド」は女子高生が書いたとは思えないほどこなれた文章だったし、解説などでも「桜井亜美に会ったら、こんな印象の娘だった」などと書かれているのが、妙に存在する事を強調しているように書いていたりして、それで思った。
ほんとは桜井亜美なんて人間は存在しないのではないか?
ま、でもこうして映画用の書き下ろし原作を提供したり、自身のブログで色々書いてたり、実在はするらしい。
存在のはっきりしない感じがミステリアスで、作風にもあっていたのだけど、
しかし物語だけ考えると、イノセントワールドで深く濃くこびり付いていた性の匂いが、きれにいはぎ取られている。最初にも書いたがありがちな純愛物語になっているところに、年をとったのかなあ(まだ若い筈だが)・・という印象を抱く。
これから作家としてどう活動していくのだろうか?
これだけ8mmオタク顔負けの知識があるのなら、小説は一旦お休みして、是非8mmで映画を撮って欲しい。世界に一つしか存在し得ない8mmの中で性にもがく少女・・・なんてこの人向きの世界でなかろうか?

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9 コメント

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こんばんは (ノラネコ)
2006-11-20 23:18:07
コメどうもです。
岩井俊二一派が、自分たちのために作ったような映画でしたね。
「The End Of The World」にしても、もうモロ新井素子で、80年代テイストぷんぷんでした。
あの頃多かったタイプの自主映画だなあと懐かしく、あおいの時代とはちょっと違うんじゃないのとも思いましたけど(笑
映画オタク以外の人には受けないかと思いきや、意外と好評な様で、やはりこの手の青春回想系は心の琴線に触れる物があるのだろうなあと言う気がしました。
長く、心に残りそうな作品です。
返信する
トラックバックをいただきました。ありがとうございます。 (冨田弘嗣)
2006-11-21 23:23:26
上手いなあ、文章が。そこらの評論家には書けないですね。私は文章はとても上手いとは言えず、だらだらと書くだけです。あの映画からこんなにたくさんのエピソードが読めるブログはここだけではないでしょうか。他には知りません。読ませますね。・・・あのガンマイクはたぶん・・・安いと思う・・・30万円くらい。三脚はヴィンテンで70万円くらい・・・だと思います。8ミリは素人でも、カメラ以外の機材はプロ仕様ですね。私はそこをつっこもうとしましたが、誰も読んでくれないかと削除しちゃいました。今回も素晴らしい評論を読ませていただき、本当にありがとうございました。  冨田弘嗣
返信する
こんにちは (Kei)
2006-11-23 14:39:10
はじめまして。TBさせていただきました。
8ミリを撮ったことのある人なら、いくらでも語りたくなる映画ですね。反面、マニアックになり過ぎて近寄る人が少なくなる可能性も(笑)。

ところで桜井亜美ですが、実在の小説家です。
ただし本作は、岩井俊二とのコラボで作られたものだそうで、クレジットでも「原作」でなく「原案」となってました。
8mmオタク顔負けの知識部分は、多分岩井俊二が提供した情報によるのではないでしょうか。
返信する
コメントどうもです (しん)
2006-11-24 05:28:17
>ノラネコさま
まあ、映画オタク受けもねらった純愛映画ですからね・・・
岩井組の内輪受けがどれほど一般にも通じるか試してみたのかもしれません

>冨田弘嗣さま
マイクは30万ですか・・・マイクに30万出す経済力は私にはありません。三脚も30000円くらいのだし。カメラは30万の使ってますが。
あんな高価な機材使ってみたいです

>Keiさま
でも初期作品とか絶対、ゴーストライターがいたんじゃないかと思ってます。根拠はないですが・・・
8mm知識もそうですが、ストーリーも50:50以上で岩井俊二がイニシアチブとってたんじゃないかと思います。根拠はないですが・・・
いわば監督に熊澤尚人を迎えたように、ほとんどノベライズくらいの意味で桜井亜美を迎えたんじゃないかと・・・根拠はないですが・・・
返信する
二人の距離感と虹の橋。 (TATSUYA)
2006-11-26 15:29:58
達也です。
やっぱり岩井さん、亡き篠田撮影監督への
オマージュとしてこの映画を作ったんでしょうね。
辛いです。でも、後進へのエールを送る彼の姿勢に
感動しました。
熊澤監督も「ニナイカライ」の時よりも更にシャープな演出でグッド!
映画もカメラワークと言葉のバランスが良く、
上野樹里を始めとする若手俳優たちが、キラキラと
輝いています。
レンタルが出たら、またじっくりと観てみたい映画です。

+トラバさせてくださいね。

返信する
しん 様 (冨田弘嗣)
2006-11-26 22:46:18
 本当にカメラ以外はプロ機材で、技術屋もリース、レンタルしているくらいの高価なもの。制作屋の私達には買えません。私は観ながら・・・それはないだろうと思いつつ、大学の映画研究会はお金持ちだなとも思いました。最近の映画研究会はあんな高価な機材を使っているのでしょうか。最新事情がわからないので・・・。そういう意味も含めて、高価な機材を使っているところをつっこむつもりが、削除した次第。あれが最新情報の事実なら、プロも羨ましい・・・。  冨田弘嗣
返信する
コメントどうもです (しん)
2006-11-27 00:54:34
>TATSUYAさま
篠田さんへのオマージュだと思えば、セカチュー型女の子死んじゃう物語をわざわざ撮ったことも納得できますね

>冨田さま
どうなんですかね?
私は寮住まいの貧乏学生でした。映研の機材は古くてガタきてるやつをだましだまし使っていました。
でもボンボンの通う学校もあるんでしょうし、あれくらいの機材使っているところもあるかもしれません。
ただ、「虹の女神」のあおいが使っていた機材については借りたものと考えていいんじゃないでしょうか?
毒ガスがどうのというSFっぽい映画の撮影シーンを演出していたのは映像制作会社のディレクターだったので、彼が仕事かあるいは趣味で撮っていた映画に関わったことでできたコネを使い、三脚とマイクだけ借りたってことじゃないでしょうか?
ついでにそのコネであの会社に就職したってことで
返信する
TBありがとうございました ()
2006-11-27 12:51:52
風邪で寝込んでいたので
ご挨拶が遅れました。
感想読ませて頂きました・・が とても長かったので
批判部分まで(すみません~!)
たぶん
私はその批判部分で気持ちが止まってしまったので
この映画に対する評価が低くなったんだと思います。
市原~~~!!!
おまえ ドンカンすぎ~~~~~!!!!!!爆
こちらからもTBさせていただきますね。
宜しくお願いします。
返信する
コメントどうもです (しん)
2006-12-03 13:04:41
>猫さま
いつもなら批判ポイントだけで片付ける、デキとしては普通の映画だと思います。
なにせオタクなもので、いろいろ思い入れが・・
返信する

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