満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

藤井郷子オーケストラ名古屋  『山嶺』

2008-05-26 | 新規投稿

「藤井郷子オーケストラ名古屋版のCDを送ってくれ」
岐阜のドラマー近藤君に電話したのが、1年前だが、‘ずっと送ってこない。そんな奴だ。まあいいが。’と当時のブログに書いている。その近藤君がいきなり電話をかけてきて「今、大阪に来てるんで、会えませんか。実は新作、持ってきてるんです。」と言う。夜の11時に。どこまでも意表をつく奴である。

藤井郷子の数あるプロジェクトの中で、唯一、自身が演奏しないのが、この名古屋オーケストラ。彼女はコンダクターに徹する事で演奏の自発性を誘発する。名古屋オーケストラのサウンドの特徴はその土着的パワーだろうか。ライブは見てないが、このCDからもその渦巻くようなエネルギーが伝わってくる。

野暮ったい。垢抜けない。洗練されてない。
「えらいゆわれかたやな」と怒られそうだが、その通りなのだ。それが持ち味なのは皆が認める所だろう。しかしその土着的パワーを呪術的方向へ深めたりして音楽性が小難しくなるのかと思えばそうではない。常民パワー的な混沌。猥雑さ、ごちゃ混ぜご飯のような味わい深さ。エロスならぬスケベ。そんな感じである。
「ほめてんのかけなしてんのかどっちやねん」と言われそうだが、これもその通りなのだから仕方がない。しかし混沌の中にポップでキャッチーな音楽性が潜んでおり、そんな明るさこそがこのオーケストラのパワーの源泉であるようだ。曲は相変わらず入り組んで複雑だが、演奏の‘野放し感覚’が音楽性を何とも開放的であっけらかんとしたものにさせているのだ。近藤君曰く「間違った箇所もそのまま収録されてます」との事。

なるほど藤井郷子はピアノを弾かない事でこのオーケストラの勝手気ままな生のエナジーを放出させているのだ。彼女の神秘的な緊張感に満ちた必殺の一音は切れ味が鋭すぎて、このバンドの集合ドタバタチャンバラ劇に合わぬのか。渋さ知らズの高度スペクタクル性に程遠い、その庶民的どんちゃん騒ぎは町内会の盆踊り大会のよう。いや、ええじゃないかのジャズオーケストラ版か。
「ふざけたことばっかりゆうて、おまえええかげんにせえよ。」と言われそうだが、私は感動しておるのだ。本当に。これが藤井郷子の芸術性の一面なのだ。しかも極めて強烈な。バンドリーダーはギタリスト臼井康浩のようだが、藤井郷子オーケストラ名古屋版は彼の個性の反映でもあるのだろう。バンド全体の音色のアーシーな処理にその土着感覚が滲み出る。どこまでも、いわばローファイな盛り上がりが信条なのではないか。

自身が主席で卒業したバークリーついて「職業音楽家を育てる所で芸術家を育てる所とは言えない」と嘗て発言した藤井郷子。彼女の表現魂の深化、広角性をこの名古屋オーケストラからも再認識できる。

近藤君と夜中の2時頃までファミレスで話し込み、彼の相変わらずのエネルギッシュな話しっぷりに辟易する。そのパワーインプロなドラムスタイルと全く同じしゃべり方。長く一緒にいるとこっちが疲れてくる。それほど外向的エネルギーに溢れる人間だ。
アルバム「山嶺」の4曲目は「近藤スター」。近藤君の即興をメインにした藤井郷子のオリジナルである。
「近藤君が曲名になってるやん!すごいな、マイルスみたいで。ビリープレストンかムトウーメみたいやな。」

ブログを見てもらおうと思い、アドレス書いてくれとパソコンと携帯のアドレスを紙に書いてもらうが、発信してもエラーで返ってくる。両方、間違えてるようだ。そんな奴だ。まあいいが。このページ、いつか見てくれ。

2008.5.26


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