ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

改めての確信

2017-05-01 12:05:14 | 日記・エッセイ・コラム
これは私の核心(確信)です。
それは人が言葉を持っている、
ということに関わるものです。
言葉こそ人間が人間であることの証である。
他の生物と一線を画す決定的な因です。
どこでいつ手に入れたのか。
怖ろしき智慧の実なのです。
・・・・・
現実の前で、その現実を、現実のまま受け入れる。
その中で精一杯生きる。
それが自然界における生物の有様です。
人間も自然界の一部です。
そこは何も変わらない。
でも言葉を持ってしまったのです。
言葉が現実を切り分ける。
その切り分けが知るということです。
もともと全感覚を駆使し漠として捉えていたものを、
言葉により一見明瞭感を与えられる。
しかし、それは脳が捉えた現実でしかない。
つまり、仮想現実(バーチャルリアリティ)なのである。
そのことを踏まえよう。
それを忘れたら必ず現実を見失う。
科学といえば本来自然科学を指す。
自然科学が素晴らしいのは、
どんな理論も現実によって証明されなければ、
認められないということだ。
そこが素晴らしい。
そこには嘘がない。
・・・・・
言葉は最後は嘘になる。
これが私の核心である。
自然科学は素晴らしいと言ったが、その自然科学でもだ。
現実によって証明されたものに嘘はない。
それは確かにそうだ。
だがそれは現実(自然現象)の一部についてである。
すべての現実に当てはまるかといえば、それは分からない。
そもすべての現実を知らない。
我々に見えるのは常に一部でしかないのだ。
だから如何なる理論も絶対的真理だとは断言できない。
部分でもって全体を計れば必ず嘘になる。
それを覚悟しなければならない。
だからこそである。
胆に命じている。
言葉は最後は嘘になる、
と…。
・・・・・
さらに言えば、
人間は言葉によって初めて「わかる」という感覚が、
昇ってくる。
俗に分別という言葉がある。
分も別も物事の違いの起点(境)に感応する。
そしてその感応した境でもってわけるのです。
そこで初めてわかるという思いが昇る。
分別はその同じ意の文字を重ねている。
そして「物事の道理をわきまえること」という意を表わす。
このことから分かるように、
「わかる」という感覚こそ大事なのである。
すべての学問はその為にある。
しかして、この「わかる」ということこそ同時に大問題なのだ。
わかるとは理解するとも謂える。
しかし、その理解が正しいかどうかは誰が保証する。
神様が保証してくれない限り不明なのだ。
つまり理解と誤解は常に一心同体、同じものなのである。
自分に都合が良ければ理解と言い、
そうでなければ誤解だと言う。
特に心の問題はそうである。
まだしも事実関係については歩み寄れるかも知れない。
しかしご存知のように、
それすら平気で嘘を言う人々がいる。
情けないことに。
・・・・・
ことほど左様に言葉は難しい。
まことに取扱注意のしろものだ。
だからである。
現実から目をそらしてはいけない。
このこと胆に命じよう。
仮想を仮想として楽しむのは自由だが、
仮想と現実を違えれば、
破綻あるのみ。

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