これは私の核心(確信)です。
それは人が言葉を持っている、
ということに関わるものです。
言葉こそ人間が人間であることの証である。
他の生物と一線を画す決定的な因です。
どこでいつ手に入れたのか。
怖ろしき智慧の実なのです。
・・・・・
現実の前で、その現実を、現実のまま受け入れる。
その中で精一杯生きる。
それが自然界における生物の有様です。
人間も自然界の一部です。
そこは何も変わらない。
でも言葉を持ってしまったのです。
言葉が現実を切り分ける。
その切り分けが知るということです。
もともと全感覚を駆使し漠として捉えていたものを、
言葉により一見明瞭感を与えられる。
しかし、それは脳が捉えた現実でしかない。
つまり、仮想現実(バーチャルリアリティ)なのである。
そのことを踏まえよう。
それを忘れたら必ず現実を見失う。
科学といえば本来自然科学を指す。
自然科学が素晴らしいのは、
どんな理論も現実によって証明されなければ、
認められないということだ。
そこが素晴らしい。
そこには嘘がない。
・・・・・
言葉は最後は嘘になる。
これが私の核心である。
自然科学は素晴らしいと言ったが、その自然科学でもだ。
現実によって証明されたものに嘘はない。
それは確かにそうだ。
だがそれは現実(自然現象)の一部についてである。
すべての現実に当てはまるかといえば、それは分からない。
そもすべての現実を知らない。
我々に見えるのは常に一部でしかないのだ。
だから如何なる理論も絶対的真理だとは断言できない。
部分でもって全体を計れば必ず嘘になる。
それを覚悟しなければならない。
だからこそである。
胆に命じている。
言葉は最後は嘘になる、
と…。
・・・・・
さらに言えば、
人間は言葉によって初めて「わかる」という感覚が、
昇ってくる。
俗に分別という言葉がある。
分も別も物事の違いの起点(境)に感応する。
そしてその感応した境でもってわけるのです。
そこで初めてわかるという思いが昇る。
分別はその同じ意の文字を重ねている。
そして「物事の道理をわきまえること」という意を表わす。
このことから分かるように、
「わかる」という感覚こそ大事なのである。
すべての学問はその為にある。
しかして、この「わかる」ということこそ同時に大問題なのだ。
わかるとは理解するとも謂える。
しかし、その理解が正しいかどうかは誰が保証する。
神様が保証してくれない限り不明なのだ。
つまり理解と誤解は常に一心同体、同じものなのである。
自分に都合が良ければ理解と言い、
そうでなければ誤解だと言う。
特に心の問題はそうである。
まだしも事実関係については歩み寄れるかも知れない。
しかしご存知のように、
それすら平気で嘘を言う人々がいる。
情けないことに。
・・・・・
ことほど左様に言葉は難しい。
まことに取扱注意のしろものだ。
だからである。
現実から目をそらしてはいけない。
このこと胆に命じよう。
仮想を仮想として楽しむのは自由だが、
仮想と現実を違えれば、
破綻あるのみ。
それは人が言葉を持っている、
ということに関わるものです。
言葉こそ人間が人間であることの証である。
他の生物と一線を画す決定的な因です。
どこでいつ手に入れたのか。
怖ろしき智慧の実なのです。
・・・・・
現実の前で、その現実を、現実のまま受け入れる。
その中で精一杯生きる。
それが自然界における生物の有様です。
人間も自然界の一部です。
そこは何も変わらない。
でも言葉を持ってしまったのです。
言葉が現実を切り分ける。
その切り分けが知るということです。
もともと全感覚を駆使し漠として捉えていたものを、
言葉により一見明瞭感を与えられる。
しかし、それは脳が捉えた現実でしかない。
つまり、仮想現実(バーチャルリアリティ)なのである。
そのことを踏まえよう。
それを忘れたら必ず現実を見失う。
科学といえば本来自然科学を指す。
自然科学が素晴らしいのは、
どんな理論も現実によって証明されなければ、
認められないということだ。
そこが素晴らしい。
そこには嘘がない。
・・・・・
言葉は最後は嘘になる。
これが私の核心である。
自然科学は素晴らしいと言ったが、その自然科学でもだ。
現実によって証明されたものに嘘はない。
それは確かにそうだ。
だがそれは現実(自然現象)の一部についてである。
すべての現実に当てはまるかといえば、それは分からない。
そもすべての現実を知らない。
我々に見えるのは常に一部でしかないのだ。
だから如何なる理論も絶対的真理だとは断言できない。
部分でもって全体を計れば必ず嘘になる。
それを覚悟しなければならない。
だからこそである。
胆に命じている。
言葉は最後は嘘になる、
と…。
・・・・・
さらに言えば、
人間は言葉によって初めて「わかる」という感覚が、
昇ってくる。
俗に分別という言葉がある。
分も別も物事の違いの起点(境)に感応する。
そしてその感応した境でもってわけるのです。
そこで初めてわかるという思いが昇る。
分別はその同じ意の文字を重ねている。
そして「物事の道理をわきまえること」という意を表わす。
このことから分かるように、
「わかる」という感覚こそ大事なのである。
すべての学問はその為にある。
しかして、この「わかる」ということこそ同時に大問題なのだ。
わかるとは理解するとも謂える。
しかし、その理解が正しいかどうかは誰が保証する。
神様が保証してくれない限り不明なのだ。
つまり理解と誤解は常に一心同体、同じものなのである。
自分に都合が良ければ理解と言い、
そうでなければ誤解だと言う。
特に心の問題はそうである。
まだしも事実関係については歩み寄れるかも知れない。
しかしご存知のように、
それすら平気で嘘を言う人々がいる。
情けないことに。
・・・・・
ことほど左様に言葉は難しい。
まことに取扱注意のしろものだ。
だからである。
現実から目をそらしてはいけない。
このこと胆に命じよう。
仮想を仮想として楽しむのは自由だが、
仮想と現実を違えれば、
破綻あるのみ。
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