宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

我々が経験してゆくことは全部必要なこと

2011-05-14 09:56:15 | 祈り
みこころのままに
と祈る
私達の天命が完うされますように
という祈り言は
正にこの祈りなのです
ただ素直に神様に任せてゆく
ということです

私達はみんな
お任せのいのちなのだから
神様のみこころが
この地上に成ってゆくためには
私達を
どんな風にも使われるんですから
いのちをささげますって
みんな唱えてるでしょ
あれはこういうことですよ
あらわれとして
この身に
どんなことが
起こってきても
神様ありがとうございます
って
いえるようになるための
それを導くための祈り言なんです
イエスがいってますね
ほっぺたを片側なぐられたら
もう片方も差し出せって
あれは
こういうことなんです

神様って方は
一切の無駄がない
人間側からみて
そんな無茶な話とか
何で私だけが
こんな貧乏くじを引くんだろう
とおもってもね
神様って方は
人間を愛する方法ということについて
一切の無駄がないんです
ということは
あらわれの世界で
我々が経験してゆくことは
全部
我々のいのちにとって
魂にとって
必要なことなんだ
ということなんです

人間のいのちというのは
いつもいってるように
この世だけのいのちじゃ
ありませんからね
自分にとって
苦しいことも
辛いことも
耐えがたいことも
起こってきます
しかし
それは
大きな意味での
一人一人のいのちに
対する
運命修正ですよね
向こうがわで
こう
じっと我々をみてましてね
よし
前々生のあれを
こういうかたちで
消そう
というわけ
消えれば
それだけ
楽になってくわけですよね

ところが
肉体の想念に支配されていますと
今の今
おこってきたこと
目の前で
面と向かって人から
やいのやいのいわれること
これが辛くて辛くて
仕方がないわけです
とうてい
業が消えたと
おもえないんですよね
で、そこで、
世界平和の祈りという
自分も他人も
大光明、大円光の中に入れ切る
こういう祈りが神様から
与えられたわけです

世界人類が平和でありますように
って祈ると
今まで
自分自分自分
だったんがね
ぽっと
世界人類のなかに
入っちゃうんですよ
ああ私の世界は
広かったんだ
とこうなる
この祈りは
宇宙の
愛と平和の気を
自然に
肉体にながしこんで
そのまま
光でみたしてゆく
そういう祈りですからね
この祈りを唱えることで
本来の自分の大きさっていうか
人間の深さっていうかね
とにかく
自分のなかで眠っていた
光の粒子が所を得て
本心をよびさましてゆくんです

で、この祈りを
一ぺん
一ぺんよりは二へん
とくりかえしていますと
そのうち
何だか大きな愛に
抱かれているという
気持ちになってきて
それで
あんまり不幸だ不幸だとか
あいつが
あの野郎が
なんておもわなくなってくる
それは
どういうことかといいますと
その人が意識するしないにかかわらず
世界平和の祈りは
すべての業を浄化する祈りですからね
祈ってゆくうちに
不幸が
あいつが
あの野郎が
消えてくんです
気がついたら
きれいにきえて
後かたもなくなっちゃうんです
嘘だとおもったら
みんな
村田さんだとか
そういう人に
きいてごらんなさい
そのとおりだって
いいますから
ねえ村田さん
そうですよね

業ってものは
人間の本来じゃないんです
とらわれや
こだわりや
そういうやっかいなものが
色々とりついて
よろいを着させるけれど
けれどそれが
その人自身じゃないんです
西園寺昌美なら西園寺昌美の
天命ね 
村田正雄なら村田正雄の
天命という風にですね
その人がその人自身であるというところに
突きすすむ
で、突きすすんでゆくと
光ばかりの天命の世界ですよ
真実の
自分自身との出会い、合体ですよね
それがおこなわれてゆく
何も昌美や村田さんだけじゃない
人間みんなそうなんです
みんな
光りかがやく天命ってものを
自分が自分であることのよろこび
大神様から生かされていることについての
よろこびってものを
持ってるわけなんです
それに気付くには
そのかがやきをよろこぶには
どうしたらいいかといえば
私がいつもいっている
消えてゆく姿で世界平和の祈り
これなんです
祈りってのは自分のいのちを
のり出すことでしょう
自分の真実のいのち、姿ってものに
ちゃんと
対面しょうとおもえば
神様の前に
人の前に
はだかになって
無一物になって
はだかで
愛してゆくこと
これしかないんです
宗教は哲学じゃありません
まして祈りはそうです

世界平和の祈りを祈って
神様、あなたの前に
私の生命をささげますって
いうなら不借身命をちかうってことは
これは
なまなかなことじゃないんですよ
そうでしょう
言葉では色々なことがいえます
必要とあらば嘘だって
つける
自分の対面や位置を守るために
みんなきゅうきゅうとして
不自由になっている
それが
今の
肉体界にあらわれている世界です
しかし
神様を信じている私達は
まず
何よりも
このきゅうくつな
おもいの世界から
業の世界から
自分を
とき放ってゆくことが大事なんです

そしてどんな小さな
目立たないことでもいい
ささやかでいいから
愛の行為をしてゆく
これなんですよ
言葉だけが立派で
先生先生って
いわれても
裡をつとめるって
ことがなければ
何にもなりゃしない
かえりみて
今日
一人の人にでも
心をきずつけるようなことを
言ったんなら
その人のところに行って
あやまる
これが信仰者の行為ですよ
私はいつもそうしてきた
私の場合
いい加減にいのちを張ったりなんかしたら
すぐにあの世行きでした
そうでしょう
私は真剣なんだ
今も真剣なんだ
そして
このことを
地球人類のために
メッセージしつづけてるんです
わかりますか
誰のためでもない
人類のために
神が私を使って下さるってるんです

自愛他愛っていうことを
いってますよね
教義で
本当に
自愛他愛ってのは
きびしいもんなんです
ただ
神様が
そのはじめから
人間を
極みまで
愛して下さっている事実をおもうと
そのきびしさは
むしろ
ありがたいんですよ

ペテロだって
三度主を拒みましたよね
愛ってものを
あれ程
イエスの近くにいて
身に沁みて
知ってる筈のペテロが
やっぱりイエスを拒んだんです
そこを通らなければ
ペテロは
さながらのペテロにはなれなかったんです
それを
イエスは
誰よりもよく承知していたんです
その時
イエスは
人間としては
やはり寂しかったでしょうよ

そくそくと
その寂しさが
私の胸に迫ってきています
世界人類が平和でありますように
っていう
この祈りが
あまり
簡単にみえて
はなれていった人も
沢山いますからね

そのとき
はなれる
私のこころ
私ってものが
神様ってものが
わからないっていう風に
させられるのが
その人にとっての
修行で
必要なことなんですけどね
だから
安心してるけど
やっぱり
人間の心を持つ身としては
寂しいですよ
正直に
そうおもいますよ

そういう
色々な心というんですか
気持ちといったらいいのか
やり切れなさね
そこを通って
みんな光に
なってゆくんです
神様が
絶対に
人間を
愛して下さったように
辛くても寂しくても
そこの、ああ辛いな
寂しいな
けれど神様
どうぞここを無事に過ぎて
私を朗らかにして下さい
私を朗らかにして
真実の自分のいのちと
対面させて下さいって
いうのが
世界平和の祈りなんです

まちがっちゃいけないんで
いっときますけれど
業ってのはやさしくいえば
とらわれ、こだわりです
ただ
寂しいとか辛いとか
その瞬間
ぐっと人間が
味わう気持ちね
これは大事なんです
それは人間の気持ちなんですから
我々が
神様の分生命(わけいのち)だからって
人間を
肉体身をすぐに脱ぐってわけにはまだ
ゆかないんですから
胸にきた
人としての心を
抱くってことは大事です
ただそれを下手に持続させちゃうと
つもらせちゃうと
業になるんです
抱いて
パッとはなすということですよね
これが大事なんです

そのためにも
自分の心をみつめる
座におりてゆく覚悟をつけるって
ことが大事なんです
心を大事にして
世界平和の祈りを唱えて参りましょう

       昭和62年2月13日 午前


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