山猫の黄金のどんぐり

日々の生活の中で見つけた、黄金のどんぐり拾っています

シンドラーのリスト2

2010年11月04日 | テレビ

こんばんは。

今日は、とてもいいお天気でした。朝はさすがに寒かったですが、お昼になるとポカポカ天気でした。


先日の続きです。

シンドラーは1908年チェコ生まれ。1939年、ドイツに占領されたクラクフにその姿を現します。その時からの友人イザーク・ステルンによると、戦争特需を当て込んで金儲けにポーランドに来た、とシンドラーは明言していたそうです。シンドラーはナチスに入党しており、クラクフに来る前には、ナチスのためにスパイ活動もしていました。

当時、ユダヤ人は強制収容所に入れられていました。ブワシュフ収容所もそのうちの一つです。その収容所の所長アーモン・ゲートは、残忍な方法で収容されたユダヤ人を虐殺していました。それは、ここでは書きたくないくらい残虐なものです。

ユダヤ資本で工場を経営して成功していたシンドラーは、それをなんとかしたいと思いました。酒好きなところはゲートも同じだったので、交渉するために高価なコニャックを5、6本持って行きました。「ゲートとのつき合いには金がかかる」とシンドラーはよくこぼしていたそうです。また、「机の上より、夜の席の方が話が進む」とも言っていました。

コニャックを2本空けるうちに交渉はまとまり、収容所にいるユダヤ人をシンドラーの工場で働かせる許可を得ることに成功しました。シンドラーの工場で働くユダヤ人は、ゲートの気まぐれで虐殺されることがなくなったのです。

戦局が悪化し、ドイツは1943年、1,000以上の収容所を解体しました。ブワシュフ収容所もその対象になっていました。しかし、それまでの王侯貴族のような贅沢な生活のため糖尿病を患い、肥満していた所長のゲートは、前線に行きたくありませんでした。シンドラーも金儲けができる工場を解体されたくありませんでした。ここにふたりの利害が一致。ゲートのユダヤ人秘書ミーテク・ベンパーの提案により、収容所が戦争遂行に必要な武器を生産する場であることを当局に認めさせ、解体を免れます。

さらに戦局が悪化した時、シンドラーはリストアップした男性801人、女性297人、追加で約100人を連れて、シンドラーの故郷ブリンリッツの工場に移動します。


戦後、シンドラーも生き残ったユダヤ人も苦難の道を歩みます。

シンドラーの父親は、息子がナチスに入党していたことを咎められ、拷問死します。シンドラーも経営する会社がことごとく失敗。ナチスであったことを追求され南米に逃れ、ヌートリアの毛皮工場を始めるも失敗。その度に命を救ったユダヤ人から物心両面の援助を受けたようでした。

収容所から生還したユダヤ人は、クラクフの自宅に帰ろうとします。そのうちのユダヤ人のひとりの証言。「駅から歩いて帰ろうとすると、帰らない方がいいと忠告する人がいる。街のあちこちで、ユダヤ人が殺されている、と。それでも帰宅すると、家には見知らぬポーランド人がいた。収容所にいる間に、家を占拠されていたのだ。」

(つづく)


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