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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 新宿俳句泥棒日記 カニエ・ナハ

2014年04月29日 | 日記
 深夜、閉店後の紀伊國屋書店にいる。
 深夜、閉店後の紀伊國屋書店にいて、自由きままに本を読みあさっている。かれは横尾忠則で、かれはまだ青年で、数日前ここで若いうつくしい書店員さんに本を万引きするところを捕えられて、社長室へとつれていかれた。社長室でじっさいの社長さんが社長さんを演じる社長さんに説教ともつかない説教をされた。大島渚の映画『新宿泥棒日記』を見ていたらそんなシーンが出てきて、もう半世紀近く前の映画だけど、あのレンガづくりはそのままで、紀伊國屋書店の社長さんのせりふはたどたどしいけどなんだかものすごく貫禄も説得力もある。ご本人役で映画に出てしまうくらいの社長さんが創業者でもある紀伊國屋書店って、やはりなんかへんな本屋さんである。おなじ建物の一階には化石と鉱物の専門店やらパイプとナイフの専門店やらが入っているし、地下にはおいしいカレー屋さんやらおいしい和食屋さんやらもある(和食屋さんのなまえは珈穂音(カポネ)である)。詩歌のコーナーがやたらに充実していて、へんな本屋さんである(詩歌の本なんて売れないだろうに)。いまどんな俳句が読まれているんだろうと思って、紀伊國屋書店新宿本店をおとずれてみた。榮猿丸さんの『点滅』(ふらんす堂)という句集がPOPつきで平積みにされている。かたわらに無料の冊子がおかれていて、「榮猿丸 句集 点滅 紀伊國屋書店新宿本店フリーペーパー」と表紙にしるされている。

 別れきて鍵投げ捨てぬ躑躅のなか 榮猿丸

 深夜の誰もいない書店はうすぐらくて、はじめわたしは躑躅(つつじ)を髑髏(どくろ)と読みちがえてしまった。髑髏のなかに投げ捨てられた鍵が立てた乾いたツメタイ音を聴いてしまった。しかし、よく見ると躑躅であった。躑躅という漢字はごちゃごちゃしていてここに鍵を投げ捨てたら二度と見つかりそうにない。おまけに虫までいて(右下のあたり)こいつは鍵喰い虫といって躑躅のなかに潜んでいて捨てられた鍵を糧としている。復縁はないだろう。梶井基次郎のせいで桜の樹を見るたびにその下に埋まっている屍体をおもうことになってしまったのとおなじように榮猿丸さんのせいで今後、躑躅を見るたびにそこに投げ捨てられた鍵とそれを喰う虫のことをおもうことになってしまった。

 ビニル傘ビニル失せたり春の浜

 ビニールがビニルになるだけでやたらにニヒルに感じられる、ましてやビニルは失せていて、あとは骨ばかりの春の浜だ。おんなのひとの横顔がちらっと見えて、しまった見つかった、と思ったらPOPのなかの写真だった。鹿もいる。深夜の書店に美女と鹿。それは野口る理さんの句集『しやりり』(ふらんす堂)のPOPで、手書きのPOPに収録句がいくつか書かれている。本はパールの紙がやみのなかでもあやしくかがやく装幀で触れるとたしかにしゃりりという音がする。

 はつなつのめがねはわたくしがはづす 野口る理

 谷崎潤一郎の『盲目物語』はひらがなを効果的につかうことで盲目のくらやみをあらわしているけれど、ひらがなはくらやみのもじで、めがねをはずされて、よくみえない。ふたりでむかえるはじめてのなつかもしれない。よるかもしれない。めがねをはずされて、ここからほんとうのこいがはじまるのかもしれない。

 象死して秋たけなはとなりにけり

 ガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』のタイトルの由来にもなっているという故事成語「群盲象を撫ず」は目の見えないひとたちがそれぞれ象の部位に触れて(牙、鼻、脚…)、その感想を語り合う。その象が死んでしまって、私たちはこれからなにをなかだちにして語り合えばいいのか。ぽっかりと巨大な穴のあいた秋だ。鹿の視線のさきには長嶋有さんの句集『春のお辞儀』(ふらんす堂)が二色並んで平積みされている。中身はおなじ。(にしても、どの本もふらんす堂ですね。『泥棒日記』のジャン・ジュネは言うまでもなくフランスの作家・詩人・劇作家・政治活動家そして泥棒。)ぱらぱらとめくってみる。

 押せば出るフロッピーディスク出さぬ春 長嶋有

 フロッピーディスクという言葉のなつかしい響きに立ち止まる。そのとなりには、

 薫風や助手席にいてチューバッカ

 という句があり、フロッピーディスクとチューバッカ。なつかしい響きがひびきあって、はるか昔、とおい銀河の未来だった。森山大道さんの著書のタイトルにあるように『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』。フロッピーディスクの句はよくわからないのだけど、ワープロ(だと思う、パソコンじゃなくて。たぶん)がお役御免になったことを言っているのか、書きかけの文書(原稿かあるいは手紙かもしれない)が行き詰ったままなのか。いずれにせよ、ワードプロセッサーは消えたけどフードプロセッサーは生き残った。にもかかわらず、フープロがワープロほど略語として定着していないのはなぜなのか。チューバッカの句は薫風に吹かれる助手席(オープンカーかな)で接吻ばかりしていることをチューバッカにかこつけてノロケているのかと思ったが、「しおり」にチューバッカの註が載っていて「キスばっかりしている人ではありません。」と釘をさされてしまった。あるいは優秀な機械工であるチューバッカならば壊れたワードプロセッサーを直してくれるかもしれない。(ちなみにチューバッカって、映画『スターウォーズ』に出てくる、ハリソン・フォードの相方の、毛むくじゃらのことね。そのモデルといわれているヨークシャーテリアのことをこの句では言っているのかも。なにせ「サイドカーに犬」の作者だものね。)

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