俳句に関するエッセイということで原稿をお引き受けした。
私が俳句結社に所属していたのは二十代の半ばまでである。高野素十系の後継誌「雪」に所属し、当時主宰をされていた村松紅花先生に師事した。村松先生は大学の恩師でもあり、芭蕉、蕪村の研究を中心にすぐれた業績を上げられていた。反権威的な研究姿勢と、虚子、素十の客観写生を継承する創作姿勢を生涯貫かれた方である。創作者としての直観が研究に活かされたユニークな説も多く発表されている。「芭蕉忍者説」の出どころは村松先生である。斎藤栄の推理小説『奥の細道殺人事件』に登場するT大学のM教授のモデルは村松先生であるという説もある。
ロシア語をハルピン鉄道学院露語専修科で学習され、ロシアの教育理論書や日本古典文学史を飜訳されている。若い頃には演劇、映画の脚本や、短歌も創作されていた。また、R・Hブライスの大著『俳句』全四巻の飜訳を試みられたことは特筆すべきことではないかと思う。残念ながら全巻の飜訳は達成されなかったが、アメリカのビートニク世代の詩人を中心に、欧州の詩人にも多大な影響を与えた『俳句』が、一部でも飜訳されたことはとても意義のあることである。(『俳句』第一巻 二〇〇四年 永田書房刊 村松友次、三石庸子訳)
私は『俳句』飜訳の勉強会に二、三度顔を出させて頂いたが、難解な文章にまったく歯が立たなかった。
ブライスは鈴木大拙の弟子であり、現天皇の皇太子時代の英語の教師でもある。昭和天皇の「人間宣言」の起草に協力していることでも名前を残している。俳句への愛情が非常に強く、俳句は、仏教(禅)、道教、漢詩、和歌など、アジアと日本の文化のすべてが集約されたすぐれた表現であるという信念を持っていた。
鎌倉東慶寺内の松ヶ丘文庫(鈴木大拙の蔵書を中心に収蔵されている)にブライスの蔵書を拝見させて頂くために、当時ご存命であった文庫長で仏教学者の古田紹欽さんを村松先生とお訪ねしたことも懐かしい。東慶寺にあるブライスのお墓は大拙のお墓の後ろに慎ましやかに控えている。お花とお線香を供えて手を合わせたと記憶している。ブライスの辞世の句は「山茶花に心残して旅立ちぬ」である。ブライスの俳句に関する業績はもっと広められてもいいのではないかと思う。しかし、如何せん主著の『俳句』が膨大な上に難解で、なかなか取っ付きにくいことが障害になっている側面があるだろう。
私は素十俳句の本質が理解できないまま主観性の強い俳句を創作していた。村松先生からは、「金子兜太さんのところに行った方がいいかもしれない。」とからかわれることもあった。金子兜太さんとは確か訪中団の一員としてご一緒したときに、俳句に対する価値観を超えて意気投合したことを先生がお話されたのを記憶している。
村松先生の紅花という俳号は虚子から頂いたものである。小諸に疎開した虚子に師事され、虚子が鎌倉に帰られた後の小諸虚子庵を昭和三〇年まで守られている。村松先生の第一句集が『梁守』というタイトルであるのはそのことに因んでいるだろう。
次に『梁守』収録の句からいくつか引用してみたい。
庵(いおり)守るたのしさ月とはゝき木と
虚子旧廬月のつらゝの一二本
天草(てんぐさ)桶(おけ)抛りし波に身を抛り
月光の流るゝ身折り米洗ふ
冬の浪よりはらはらと鵜となりて
一古典一寒林のごときかな
よからずやおたまじやくしの生涯も
一句目、二句目に虚子庵が詠まれている。三、四、五句目は、伊豆大島で小学校の教員をしていた頃の作である。六、七句目は大学で俳句の講義をされていたころのもの。村松先生の句を一言でいえば、情の句である。対象への情愛が豊かなものが多い。また、小さな生きものへの愛情に充ちている。
先生の句を読むのに便利な俳句シリーズが二冊刊行されている。自註現代俳句シリーズ・六期32『村松紅花集』(一九九〇年 俳人協会刊)と、日本伝統俳句協会 新叢書シリーズ(2)『夕日ぶら下がり 村松紅花句集』である。
『夕日ぶら下がり 村松紅花句集』から引用してみたい。
夕日ぶら下がり枯木に飴のごと
一掬の水を宇宙として金魚
いつも一つどれかが揺れて梅の花
虹立ちぬ小諸に虚子の在りしごと
虹消えぬ小諸を虚子の去りしごと
四首目、五首目は、虚子が孫弟子の森田愛子に送った次の句を踏まえている。
虹立ちて忽ち君のある如し
虹消えて忽ち君の無き如し 「小諸百句」より
虚子と愛子の交流は、小説「虹」に書かれていて名高いが、村松先生は「小諸百句」の先の句をプレ・テクストとして虚子への思いと句への讃辞を送っている。二句目の句は私のとても好きな句である。
第二句集『木の実われ』からも引用しておきたい。
百千(ひゃくせん)のいのちの蝌蚪(かと)となり群るゝ
ものの芽(め)に夕影(ゆうかげ)といふもの生(うま)れ
潮来(いたこ)に遊女(ゆうじょ)鹿島に月の一古人(いちこじん)
冬日(ふゆひ)浴びをりて心に二(ふ)た仏(ほとけ)
信濃(しなの)よりころび出(い)でたる木の実われ
三句目の「一古人」は、鹿島に月見に出かけた芭蕉のこと。この句は一九八三年の潮来吟行のおりのもので、私も参加させてもらっている。新潟大学医学部の俳句会、若萩会との合同句会で賑やかな吟行であった。最後の句は、長野県の丸子出身の先生の自省の思いの深い句である。
村松先生がお亡くなりになる数ヶ月前に入院先の病院をお訪ねしたとき、先生は病室のベッドで原稿を書いて居られた。新たな研究の構想が生まれてくることをお話しされた。私は西田幾多郎が島木赤彦の写生について、自分の哲学との類似を指摘している随筆のお話をした。それは以前、先生が、エッセイ集『俳句のうそ』(一九九七年 永田書房刊)に、「虚子の写生論と西田哲学」という文章をお書きになっているのを読んでいたからである。
西田は赤彦の「写生」に言及した文章の中で、「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある、真の写生は生自身の現表でなければならぬ、否(いな)生が生自身の姿を見ることでなければならぬ。(中略)表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有(も)つ真の生命の表現に外ならない。我々の見る所のものは物自身の形ではない、物の概念に過ぎない、詩において物は物自身の姿を見るのである。」と書いている。短歌の「写生」と俳句の「写生」を一括して考えるには充分な注意を要するが、西田の「写生」への理解は、短詩型文学を考える上でとても示唆に富んでいる。村松先生は西谷啓治経由で西田哲学に親炙されていた。西田哲学と「写生」について、先生と深く意見を交換できなかったことが今さらのように悔やまれる。
俳文学者としての村松友次と俳人としての村松紅花にとって、私は不肖の弟子ともいえない存在にすぎない。芭蕉や蕪村の研究の道を進むこともなく、写生句の実作に邁進することもできなかった。しかし、私が先生から教えを受けたことは、今でも自分の中に生きていることを実感している。
俳文学者で俳人の谷地快一先生が、村松先生の追悼文の中に、「選者になると句が下がる」という先生の持論を紹介している。『雪』の選者になったが、「師が在りし日のごとく、終生選を受け続けたい」という信念が揺るがず、『雪』の選者を辞し『葛』の主宰となって以後も、『ホトトギス』への投句を怠らなかったという。
先生の反骨精神に触れる機会はいくたびかあった。その中で印象に残っていることの一つが俳句の前では誰もが対等であるということである。人を見て句を評するのではなく、句を見て句を評するということ。これは当たり前のことのようで、実際にはそうでない場面にしばしば遭遇する。権威がそこに絡むと尚更である。俳句でも短歌でも変わるところがない。村松先生の生涯は、選句に対する絶対的な自信を持ちながら、反権威的な姿勢を貫かれたものであった。
私は最近やっと芭蕉の存在の大きさと素十俳句の本質が少しだけ解りかけてきたように思っている。以前には何げなく聞き過ごした先生のお話が、改めて意味深いものとして甦ってくる。先生の学恩に報いることが何かできるだろうか。それは私の大切な今後の課題の一つである。
村松先生の俳文学研究の業績と俳句作品が広く読まれることを希望してやまない。
私が俳句結社に所属していたのは二十代の半ばまでである。高野素十系の後継誌「雪」に所属し、当時主宰をされていた村松紅花先生に師事した。村松先生は大学の恩師でもあり、芭蕉、蕪村の研究を中心にすぐれた業績を上げられていた。反権威的な研究姿勢と、虚子、素十の客観写生を継承する創作姿勢を生涯貫かれた方である。創作者としての直観が研究に活かされたユニークな説も多く発表されている。「芭蕉忍者説」の出どころは村松先生である。斎藤栄の推理小説『奥の細道殺人事件』に登場するT大学のM教授のモデルは村松先生であるという説もある。
ロシア語をハルピン鉄道学院露語専修科で学習され、ロシアの教育理論書や日本古典文学史を飜訳されている。若い頃には演劇、映画の脚本や、短歌も創作されていた。また、R・Hブライスの大著『俳句』全四巻の飜訳を試みられたことは特筆すべきことではないかと思う。残念ながら全巻の飜訳は達成されなかったが、アメリカのビートニク世代の詩人を中心に、欧州の詩人にも多大な影響を与えた『俳句』が、一部でも飜訳されたことはとても意義のあることである。(『俳句』第一巻 二〇〇四年 永田書房刊 村松友次、三石庸子訳)
私は『俳句』飜訳の勉強会に二、三度顔を出させて頂いたが、難解な文章にまったく歯が立たなかった。
ブライスは鈴木大拙の弟子であり、現天皇の皇太子時代の英語の教師でもある。昭和天皇の「人間宣言」の起草に協力していることでも名前を残している。俳句への愛情が非常に強く、俳句は、仏教(禅)、道教、漢詩、和歌など、アジアと日本の文化のすべてが集約されたすぐれた表現であるという信念を持っていた。
鎌倉東慶寺内の松ヶ丘文庫(鈴木大拙の蔵書を中心に収蔵されている)にブライスの蔵書を拝見させて頂くために、当時ご存命であった文庫長で仏教学者の古田紹欽さんを村松先生とお訪ねしたことも懐かしい。東慶寺にあるブライスのお墓は大拙のお墓の後ろに慎ましやかに控えている。お花とお線香を供えて手を合わせたと記憶している。ブライスの辞世の句は「山茶花に心残して旅立ちぬ」である。ブライスの俳句に関する業績はもっと広められてもいいのではないかと思う。しかし、如何せん主著の『俳句』が膨大な上に難解で、なかなか取っ付きにくいことが障害になっている側面があるだろう。
私は素十俳句の本質が理解できないまま主観性の強い俳句を創作していた。村松先生からは、「金子兜太さんのところに行った方がいいかもしれない。」とからかわれることもあった。金子兜太さんとは確か訪中団の一員としてご一緒したときに、俳句に対する価値観を超えて意気投合したことを先生がお話されたのを記憶している。
村松先生の紅花という俳号は虚子から頂いたものである。小諸に疎開した虚子に師事され、虚子が鎌倉に帰られた後の小諸虚子庵を昭和三〇年まで守られている。村松先生の第一句集が『梁守』というタイトルであるのはそのことに因んでいるだろう。
次に『梁守』収録の句からいくつか引用してみたい。
庵(いおり)守るたのしさ月とはゝき木と
虚子旧廬月のつらゝの一二本
天草(てんぐさ)桶(おけ)抛りし波に身を抛り
月光の流るゝ身折り米洗ふ
冬の浪よりはらはらと鵜となりて
一古典一寒林のごときかな
よからずやおたまじやくしの生涯も
一句目、二句目に虚子庵が詠まれている。三、四、五句目は、伊豆大島で小学校の教員をしていた頃の作である。六、七句目は大学で俳句の講義をされていたころのもの。村松先生の句を一言でいえば、情の句である。対象への情愛が豊かなものが多い。また、小さな生きものへの愛情に充ちている。
先生の句を読むのに便利な俳句シリーズが二冊刊行されている。自註現代俳句シリーズ・六期32『村松紅花集』(一九九〇年 俳人協会刊)と、日本伝統俳句協会 新叢書シリーズ(2)『夕日ぶら下がり 村松紅花句集』である。
『夕日ぶら下がり 村松紅花句集』から引用してみたい。
夕日ぶら下がり枯木に飴のごと
一掬の水を宇宙として金魚
いつも一つどれかが揺れて梅の花
虹立ちぬ小諸に虚子の在りしごと
虹消えぬ小諸を虚子の去りしごと
四首目、五首目は、虚子が孫弟子の森田愛子に送った次の句を踏まえている。
虹立ちて忽ち君のある如し
虹消えて忽ち君の無き如し 「小諸百句」より
虚子と愛子の交流は、小説「虹」に書かれていて名高いが、村松先生は「小諸百句」の先の句をプレ・テクストとして虚子への思いと句への讃辞を送っている。二句目の句は私のとても好きな句である。
第二句集『木の実われ』からも引用しておきたい。
百千(ひゃくせん)のいのちの蝌蚪(かと)となり群るゝ
ものの芽(め)に夕影(ゆうかげ)といふもの生(うま)れ
潮来(いたこ)に遊女(ゆうじょ)鹿島に月の一古人(いちこじん)
冬日(ふゆひ)浴びをりて心に二(ふ)た仏(ほとけ)
信濃(しなの)よりころび出(い)でたる木の実われ
三句目の「一古人」は、鹿島に月見に出かけた芭蕉のこと。この句は一九八三年の潮来吟行のおりのもので、私も参加させてもらっている。新潟大学医学部の俳句会、若萩会との合同句会で賑やかな吟行であった。最後の句は、長野県の丸子出身の先生の自省の思いの深い句である。
村松先生がお亡くなりになる数ヶ月前に入院先の病院をお訪ねしたとき、先生は病室のベッドで原稿を書いて居られた。新たな研究の構想が生まれてくることをお話しされた。私は西田幾多郎が島木赤彦の写生について、自分の哲学との類似を指摘している随筆のお話をした。それは以前、先生が、エッセイ集『俳句のうそ』(一九九七年 永田書房刊)に、「虚子の写生論と西田哲学」という文章をお書きになっているのを読んでいたからである。
西田は赤彦の「写生」に言及した文章の中で、「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある、真の写生は生自身の現表でなければならぬ、否(いな)生が生自身の姿を見ることでなければならぬ。(中略)表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有(も)つ真の生命の表現に外ならない。我々の見る所のものは物自身の形ではない、物の概念に過ぎない、詩において物は物自身の姿を見るのである。」と書いている。短歌の「写生」と俳句の「写生」を一括して考えるには充分な注意を要するが、西田の「写生」への理解は、短詩型文学を考える上でとても示唆に富んでいる。村松先生は西谷啓治経由で西田哲学に親炙されていた。西田哲学と「写生」について、先生と深く意見を交換できなかったことが今さらのように悔やまれる。
俳文学者としての村松友次と俳人としての村松紅花にとって、私は不肖の弟子ともいえない存在にすぎない。芭蕉や蕪村の研究の道を進むこともなく、写生句の実作に邁進することもできなかった。しかし、私が先生から教えを受けたことは、今でも自分の中に生きていることを実感している。
俳文学者で俳人の谷地快一先生が、村松先生の追悼文の中に、「選者になると句が下がる」という先生の持論を紹介している。『雪』の選者になったが、「師が在りし日のごとく、終生選を受け続けたい」という信念が揺るがず、『雪』の選者を辞し『葛』の主宰となって以後も、『ホトトギス』への投句を怠らなかったという。
先生の反骨精神に触れる機会はいくたびかあった。その中で印象に残っていることの一つが俳句の前では誰もが対等であるということである。人を見て句を評するのではなく、句を見て句を評するということ。これは当たり前のことのようで、実際にはそうでない場面にしばしば遭遇する。権威がそこに絡むと尚更である。俳句でも短歌でも変わるところがない。村松先生の生涯は、選句に対する絶対的な自信を持ちながら、反権威的な姿勢を貫かれたものであった。
私は最近やっと芭蕉の存在の大きさと素十俳句の本質が少しだけ解りかけてきたように思っている。以前には何げなく聞き過ごした先生のお話が、改めて意味深いものとして甦ってくる。先生の学恩に報いることが何かできるだろうか。それは私の大切な今後の課題の一つである。
村松先生の俳文学研究の業績と俳句作品が広く読まれることを希望してやまない。