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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句を見ました(4) 鈴木一平

2015年09月03日 | 日記
 これまでは俳句を読む経験をとおして得られた認識についての報告が中心でしたが、今回はすこし話を変えて、そうした認識が可能になるためには、鑑賞経験においてなにが必用とされているのかについて、考えてみたいとおもいます。俳句を読んでいてつよく感じるのは、制作者の存在を先取りしながら光景を仮構する手続きといいますか、私がその作品を読んで得た情景が可能だった場に、制作者がかつていたということ、そした、この作品を制作したという約束事のようなものが、俳句を読む際にはつよく意識されるのですが、こうした認識はいわば、私を作品に代入させて読むような感覚であるような気がします。

下坂速穂(「クンツァイト」「屋根」)
日本中いづこも朝や水を打つ
http://haiku-new-space-haikucho.blogspot.jp/2015_07_01_archive.html?m=1

 当たり前のようではありますが、「日本中いづこも朝」であるという認識は、朝という時間に付帯する性質が適用される領域を、「日本」に重ね合わせることで可能になります。こうした認識にまつわる同期の操作は、「日本」という語の使用においてなかなか避けがたいものですが、面白いのは、「いづこも」という語にはどこか帰納的なニュアンス、つまり計算過程があって、その時間が認識を裏打ちしているように感じるところです。「日本中すべてが朝である」とも「日本の朝」ともならない、漠然と日本中がたったいま朝であると考えるのではない、奇妙な手つきが、この作品には潜んでいる。それは「水を打つ」という動作と結び付くのではないかと考えられます。つまり、日本中の朝である場所を数え上げ、そこに水を打っていく像が、この作品から引き出される。ともすれば、「日本」のもつ包括的な大きさに対して、この作品に代入される「私」が生活の細部に身を落としてみるしかない対比の構図を繰り上げるようなイメージが、静かな朝の情景の上でふいに結ばれる。「日本」という語に飲み込まれないスケール感をこの作品は保持しているといえるのではないでしょうか。こうしたイメージの展開は幻想的なもの、想像のものというよりかは、短詩に区分されるジャンルにおいて不可欠なものだとおもいます。俳句を読むという経験のなかで、個々の単語が形式を土台にほとんど無根拠に並列されかねないなかで、にも関わらず一定の情景が結ばれるとき、そこには断絶を含む語のユニット間の連携に自己を代入して、想起の可能な空間を生起させる読み手が要請されます。そもそも、バラバラに入力される感覚を統合し、統合の結果として自身の生きる生活空間を成立させることが、私たちの生きるという行為にほかならないわけですが、複数の無関係な知覚をまとめあげて一定の光景を立ち上がらせてみること、もしくは与えられた光景からなんらかの情動を引き出すことは、イメージの自走といってもいいような状況と、ほとんど同一の条件において果たされるのではないかとおもいます。

依光正樹 (「クンツァイト」主宰・「屋根」)
水吸つてゆく土を見て日の盛り
http://haiku-new-space-haikucho.blogspot.jp/2015/07/blog-post_31.html?m=1

 先ほどの作品は水を打つという動作に対する注目が要点になっていましたが、こちらは打たれたあとの水に対する注視についての作品です。「水を吸っていく土」を「見て」、「日の盛り」を感じるという構図には、先ほどの作品と似通った静謐さがありますが、「水吸つてゆく土を見て」と「日の盛り」の関係は、そこに書き手を先取りするような私の代入を許す無関係な並置の論理と、代入の結果として喚起される情動ないしは情景があるようにおもえます。その並置と代入によって成立されるのは、土が水を吸っていく様態を見ることにおいて費やされる時間、つまり土が水を吸っていく時間に付き合う目の労働の感覚です。そして、その労働と連動するものとして「日の盛り」が選ばれているわけですが、順接によって結ばれるこの「日の盛り」という語には、単なる「日の盛り」には回収しがたい情動が引き出されるような気がします。端的に、それはうだるような暑さの感覚であると述べてみたいとおもいますが、その感覚を与えるのは、これらの語をひとつの同居する空間に位置するものとして享受する私の存在が、まさしく水を吸っていく土を見るという労働において経過する時間を想起することに伴う、言葉の字義通りの意味から逸脱するイメージの展開であるといえるでしょう。
 ここで、先ほど述べた「私の代入」について、もうすこし考えてみたいとおもいます。私を用いて「この作品を書いた」現実の視点を先取りし、想起可能なものとしてみなし、同時に、語と語の断絶を含んだ関係になんらかの意味を取り出す操作とは、言語がその部分に含まれる記号の秩序における「意味するもの」と「意味されるもの」の対には回収されない新たな秩序を、作品内に導入・発見する手続きであるといえます。言語芸術はほとんど字義通りに言葉を提示することができず、常にそれ自体から逸脱する意味を生み出してしまうものですが、その理由として挙げられるのは、作品があかじめ意味の確定されない領域、その意味作用の完了が決して約束されない領域として、まさしく私たちの目の前に与えられており、一方で、私たちはその作品に向かってなんらかの価値を仮に想定しながら、その価値を取り出すべく作品の内部を探索をしなければならないからです。私たちは作品にとってあらかじめ約束されたかたちで想定することのできない外部であるため、こうした水準は作品の内部でありつつ外部に位置しています。いわば、使い方のわからない道具とふれあうなかで、「この道具には使い道がある」という確信に支えられながら、あたらしい使い道を発見するような過程が、芸術が芸術であるための条件としてあるのではないでしょうか。

近恵
桜降るときどき追いついてしまう
http://haiku-new-space-haikucho.blogspot.jp/2015/07/blog-post.html?m=1

 先ほどの作品で取り扱った「暑さ」は、見るという行為においてしばしば忘れられがちな体の存在によって与えられたものですが、この作品も、そうした生きられる体を備えた私の存在を意識させます(以前も桜を通して「見る」という行為について考えたような気がします)。桜が降るという情景は、それが画像において享受される限りでは、桜と私のあいだに侵すことのできない隔たりがあり、だからこそ、桜を見るという行為が可能であるわけです。つまり、見られる桜の景色には、それを見る私の不在が前提になっている。しかし、私がいなければ私は桜を見ることはできないわけで、その意味で見られる桜のなかには私が埋め込まれているともいえます(それは私という存在を巡る抽象的な議論であると同時に、私の桜を見る視線に固有な視角という、即物的なものでもあります)。そうした、桜を見る過程においてネガのように見いだされる私が、地面に落ちる途中の桜に追いつくというかたちで視野にあらわれるという構図の発見が、この作品の主題になっている。そして、追いつくという行為にはそれ以前と以後とを分ける時間がすくなくとも想定されるわけですから、「桜降る」と「ときどき追いついてしまう」のあいだの断絶には、ふたつの両立しない状態をまとめあげる時間が要請されることにもなります。俳句が形式と折り合いをつけながら表現をおこなうジャンルであるということを、この作品からはつよく感じました。

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