吉野弘の詩に出会ったのは、高校時代のことだった。
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
——やっぱり I was born なんだね——
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
——I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね—
「I was born」[1]
“I was born”という言葉から、人間は「生まれさせられる」ものなのだと読み取る——そうした把握は、僕のなかにもあった。”be born”という語法をはじめて目にしたとき、ある言語における生命の把握を垣間見てしまったような感覚があった。「僕」の発見は、いつかの僕の発見でもあったのである。同じことを発見している人間がいたことに嬉しさを覚えるとともに、その発見から生命の存在をこんなにあざやかに言語化できるということに衝撃を受けた。
あるひとつの詩と共鳴するということは、遠くの土地に親しい友人ができることに似ているように思う。はなれた位置にいても、どこかで通じ合えるのである。そうした意味で、「I was born」は僕にとってのはじめての友人だった。言葉から把握が、把握から言葉が生まれる世界があることは、この友人に教えてもらったのだと今では思う。
*
首切案の出た当日。事務所では いつに変らぬ談笑が声高に咲いていた。
さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。
翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。
ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。
野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が裂かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸たしたとき 牛の尻の穴から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。
生き残ったつもりでいた。
「記録」[2]
いま挙げた「記録」では、首切案の提示された会社での人間の動きと、牛をする情景とがオーバーラップしている。そこでは会社は牛という一つの生命に、人間はそのなかに暮らす寄生虫にそれぞれ投影される。寄生虫の生命は牛の生命に依り、また牛の生命はより上位の生命の都合に左右される。「牛の密殺」を見るなかで、主体は人間の営みもまた同様の構造上にあることを把握している。
中村稔はこの詩を挙げながら、吉野弘は「人間の寂しさを知る人」であり、「人間通」であったのだと評している[3]。人間の一生において、はたらくという行為は多くの時間を費やし、自らの生命を保っていく行為である。その営みは、多くの場合組織のなかで続いていく。そのため人間は、自らの生命を保っていく過程で、組織という大きな生命のなかに自ら入り、自らの生命と組織の生命とを紐付けていくことになる。ほかの生命なしでは生きられない生命の姿が、吉野の詩には浮かび上がっているのである。
主人の机の上から 屢々ネジが紛失した。そのたびに家中の者は口を揃えてアリバイを主張するので 結局 ネジがひとりで逃亡したことになった。
ところが 実際に ネジはひとりで逃げ出すということを 主人は ひそかに感づいていたのだ。それにしても 時計の部分品が何事かを主張し始めたということは驚くべき事であった。彼は 秩序に関する教訓の必要を痛感していた。
(中略)
ネジは机の足もとに居た。これ迄と同じように そんなに遠くへは行けなかった。時計から離れると 自分の値打ちが時計より他のところにあり得るかどうか たまらなく不安になり それがネジの逃亡を捗らせないでしまうのだ。
ためらいの途次を 又しても連れ戻され 光栄ある彼の役目に嵌めこまれてしまうことは殆ど確かであった。
「謀叛」[4]
自らの生命と組織の生命とを結びつけることは、そのまま自分が結びついている生命から離れられない状況を生み出す。「謀叛」ではネジの逃亡とその失敗が語られるが、これもまた組織を離れて存在できない生命のあり方を映し出しているものであろう。自分が紐付いているものから離れてしまうことは、耐え難い不安を生じさせることを、吉野は見抜いている。
生命はすべて
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
私は今日、
どこかの花のための
虻だったかもしれない
そして明日は
誰かが
私という花のための
虻であるかもしれない
「生命は」[5]
自分の生命が、何かほかの生命と紐付いている。それは、逃れられないという悲しみだけではなく、自分にとっての他者が存在するという幸せももたらしてくれる。「私」という生命がもしかしたら他者を満たすかもしれないのである。そのとき「私」は、きっと明日へ生命を保ちつないでいくための内圧を生み出せるのではないだろうか。
*
——友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい光の粒々だったね。
「I was born」[6]
最後の部分は、処女詩集『消息』に掲載されたときは「淋しい 光りの粒々だったね」とされていた。詩集『幻・方法』に再録される際に、吉野が「つめたい光の粒々だったね」に改めたのだ。この「淋しい」から「つめたい」への推敲には、生命の連続性への願いが込められていると思えてならない。生命はつねに、ほかの生命と結びついている。そうであれば、それは決して「淋しい」ものではない。決意のような「つめたい光」を持つものであるのではないか。
初稿の言葉を前に、またある新しい把握が浮かび上がり、それがまた新しい言葉を要求する。そうした言葉と把握のダンスのなかで、何かと紐付けられずには保つことができない生命の悲しさも強さも、すべて描き出そうとする。そんな吉野弘の姿勢に、憧れている僕がいる。
註
[1]吉野弘『消息』所収。なお引用は『現代詩文庫12 吉野弘詩集』(思潮社、1968年)に依る。
[2]吉野前掲書。
[3]中村稔「吉野弘の詩について」(「ユリイカ」2014年6月臨時増刊号・総特集「吉野弘の世界」(青土社、2014年)所収)
[4]吉野前掲書。
[5]吉野弘『風が吹くと』所収。なお引用は「ユリイカ」2014年6月臨時増刊号・総特集「吉野弘の世界」(青土社、2014年)に依る。
[6]吉野前掲書。