恋と革命に引き裂かれたウラジーミル・マヤコフスキー
私の詩集『純粋病』巻頭の作品は「ぼく」である。
どうしてもこの作品で始めたい理由があった。当時私がアイドルのように夢中になった詩人が19歳で書いた、実質的に処女作といっていい詩のタイトルが「ぼく」だったからだ。
詩人の名前はウラジーミル・マヤコフスキー。ソ連崩壊と共に今では殆ど忘れ去られてしまったけれど、それまでは〈ソ連邦随一の詩人〉と喧伝されていたロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人である。朗読会を開けば何千人もの聴衆を陶酔させ、長編詩、抒情詩、戯曲、映画シナリオ、ルポルタージュ、広告コピーと何でもこなし、革命と国営企業を宣伝するポスターでは自らイラストやデザインも手がけた。舞台や映画俳優としても活躍したらしい。日本ではタイプは違うが、寺山修司のような存在と思えばいい。私は早稲田の露文在学中(といっても実際には殆ど授業に出ず、デモに行くか詩人会の部室にとぐろを巻いていただけなのだが) 、マヤコフスキーを専攻していた。その卒論で、「ぼく」を小笠原豊樹(詩人としてのペンネームは岩田宏)さんの訳を参考にしながら引用しているので、拙劣で恥ずかしいが引き写してみる。
ぼく
ぼくの心の踏み荒らされた
舗装道路に
こだまする足音が
硬い詩句のかかとを編みあげる
街々が
絞罪になり
雲の輪になったところには
塔の
歪んだ首が
動かなくなった。
そこをぼくは歩いてゆく
ひとりで大声をあげて泣くために、
十字路が
巡査を
十字架にかけたよーって
10代の私は自分が極めて非社会的で、周囲とは異質な人間であることを感じとっていた。幼時に私を緘黙状態に追い詰めた父親からも、急いで独立する必要に迫られていた。父親が追いかけてこられない場所に逃げ込みたい。そこで、当時学生運動の巣窟とみなされていた早稲田の露文に、あえて入学したのだった。ここにいれば、私を社会の歯車になれと強要する人たちから、自由になれるはずだと信じて。
私が早稲田に入学した60年代、マヤコフスキーはソ連公認の〈偉大な革命詩人〉として知られていた。しかし実際に読んでみると、彼はむしろその対極を行く詩人のように思われた。代表作『これについて』の主題は革命どころか、恋人とのめめしい仲違いなのである。彼は失恋と革命という分裂するテーマを最後まで抱え続け、親友オシップ・ブリークとその妻リーリャ・ブリークとの三角関係に苦しんだ(今ではブリーク夫妻は実は革命政府の工作員で、彼の監視役だった事実が判明している。まるでディックの『トータル・リコール』みたいだ)。失恋のたびに「別れるなら死んでやる」と恋人(これがまたリーリャとは違う別人だからややこしい)の前でロシアン・ルーレットの引鉄をひいてみせ、ついに三度目にピストルから銃弾が飛び出して、37歳で死んでしまった血まみれのマヤコフスキー。そんな詩人こそ私のアイドルにふさわしい。私は彼のように生きたい、と思った。だからこそ、30代最初の詩集を私はどうしても「ぼく」という詩で始めたかったのだ。
十数年前、私はモスクワへ出かけ、もはや誰も見上げることのないマヤコフスキーの銅像を撮影しようとした。けれど、フィルムの最後の一枚が尽きてしまい、現像してみるとネガには虚無だけが写っていた。