格調高い詩客さんのエッセー「私の好きな詩人」。
他の執筆者のみなさんが、とても高度で高尚で的確なヒヒョーを行っている中で、無知で浅学なわたしがとんちんかんな事を書いていいのかとっても悩んでいます。ああもう浮く。ゼッタイ浮く。とか、そんな恐怖に慄えています。新しい観点からの再発見、とか絶対無理。詩が本当に読めているのかも分からぬまま、詩を書き始めてからもう4年が経つのですね。
最初に逃げ口上から始まるのも情けないものですが、恥を晒すことを覚悟しながら、なんとかこうとか書かせて頂きますので、お目汚しお許し下さい。
私の好きな詩人というと、それはもう沢山の方々が思い浮かびます。鬼籍に入られた方、現役でばりばり書いていらっしゃる方、ネット詩人の方々やTwitterのポエムクラスタ。でも私の愛している詩人というともう一人しか思いつかないのです。
でも私のこの拙い文章や幼い論考で彼の人の作品を汚すことになるのかと思うととても悲しく切なくなってしまうし、もしここにこの文章が載ったのが目に入ってしまったら嫌われる、ゼッタイ嫌われる、やばい死んでしまおうか死んじゃったら新刊読めないじゃんどうしようどうしよう、というのが今の正直な私の気持ちでありまして。ああ本当にどうしよう、そうだ恋文を書こうじゃないか、一笑に付される程度の幼稚な手紙、父の日に幼い娘がわからぬままに「おとうさん、だいすき」と書いてくるような、しかも字の書けない子だから幼稚園の保母さんがにこにこ代書したような、隣の席のカケルくんのいたずらで自分の娘じゃない子の手紙がふと紛れ込んでくるような。あんな手紙にしてしまえばいいじゃないか、なんて考えたりもして、ほら、この時点でわたしの思考レベル、精神年齢が知れるってもじもじうじうじしていること、数日。
言ってしまおう。私の好きな詩人さんは、髙塚謙太郎さんです。
なんてもう赤面じゃないか。赤面覿面、意味がわからなくなってくるほどにテンションがテンプテーションで、すきです、髙塚さん。(の作品)
どうでもいいことですが、私はいい年こいた男性で、同性愛のケはありませんので悪しからず。
髙塚さんの詩集を知ったのは、なんだっけ、Twitterにふわふわ漂っていた呟きからだっけ?思潮社からオンデマンドで販売された「カメリアジャポニカ」。
その表紙がもう、ともかくかっこいいし、オンデマンドってなによ?って興味本位で注文してみたのでした。
微温ははまなすの立つ彩りに染まる夏/音へ首をかしぐカモ目は静かにとじてははじけして/それが芳しいひたすらの岸辺、の破裂からひたされるもの/裾をからげて駈けるあとに広がりほむらかえる砂地についばみ/ひらくスカート布/に次々とついばみあつまる照りかえり/背中に弾ける髪を指先で追いながらはまなすの訛りに情は曳く/曳いた乳房に語尾はかさねがさね消えては沈みし/(はざまでからげかけていく)/反して秋はきていた/その名はリーザ
(「抒情小曲集No.2」)
《秋》は忌明けの季節である。(略)《カモ目》であって「カモメ」ではない、つまり《目》の彩りが次々とひらき、ついばまれ、かさなり、からげている。そのあたりを空間軸で処理したものを《リーザ》と名づけている。よって詩篇No.2は時間軸では読み得ない。すると面白いことに《秋》は季節のことではなくなる。
(「抒情小曲集No.2」脚注より)
届いて開いて、初めの作品を読んで。一番最初の作品群が訳の分からない脚注付き、しかもその注釈は作品をより難解にいているようだし、ずっと読んでいると果たしてからかわれているんじゃないかしらんって気分にさせる文章。こちとら当時は現代詩の初心者で、現代詩のゲの字に触れるか触れないかといったところでございまして。それはたとえば新卒で入社した会社で社会人頑張るぞって勢い込んでる時に足の長い先輩社員からからかわれてその不条理にぶーたれてでもちょっと格好良くない?って思って5月くらいに早速仕事につかれて現実に気付いて入社早々退職するか思い悩んでひょんなことからその先輩に落ち込んでるんですーって相談した揚げ句に酔っ払わされてホテルに連れ込まれて関係を結んじゃったてへ、みたいな感じで結局離れられない関係になりました。うん、そういえば髙塚さんも足長いし。うん。
このNo.2は最後の方にある「古今六帖(デバイスドライバ)古筆切翻刻」につながっているんだろうな、とか浅薄な感想を持ったり。読む度に新しい発見のあるとても素敵な詩集。
その後美しい言葉の旋律とイメージの「屏風集」に悩殺され、少女機関説というSF詩群のなかの「アグネス・ブルー」に心をめちゃくちゃに奪われたのでした。
……アグネスの見上げる空では、日常的に彼らは、それらは、戦死していた。彼らの、それらの、指さきがしめす恒星の点在する帯の拡がりは、ない、のだが、ある、という処理の色彩で澄みわたるアグネスの碧い空。色とりどりの季節の花びらは吸いよせられるように凛と、かぐわしく、かぐわしい、として、時おりアグネスの、長い、指さきに、ピーン、とはじかれ、飛び、散り、アグネスのむせるのを遠くに聴きながら、気だるく、皺よった白いワンピースを手のひらで叩き、アグネスの睫毛はふるえ、それがまた、くらくらするほどの、血潮の、過剰を、どんどんと汲みとっていった。まれに視界をスクロールする「遠くへ」のきらめきに、アグネスは向こうの空を振り返り、見上げ、静かに空を滑り落ちていく、数多、を、マザーの《オルガン》が暗譜していく、その感触に頬を伝わらせる、《アグネス・ブルー》が、また、野に落ち、地平が一瞬、白々とひらけていく、《末裔》は目の当たりにして互いに肩を寄せあって。
(「アグネス・ブルー」第一連)
あまりに好きすぎてこの一連は暗唱できるようになったくらい好きです。美しい。
確か詩客さんに田中庸介さんの評論があったはず。
そちらもぜひご一読を。(http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/1b8db5f76cc84068a251e0bc1c8992a8)
一番最後に収録されている「思い出」も最高。大好き。暗唱できるようになりたいなと思う次第です。
私の購入した『カメリアジャポニカ』は3冊。どこに行くにも必ず一緒です。1冊目は温泉に持ち込んで水没させてしまっておデブになってしまった。洗濯乾燥機の中に入れたら焦げて怒られました。2冊目はつねに鞄の中に入れております。時間が少し空いたらぱらぱらとめくり、そこにある詩句でその日の運命を占ってみたり。3冊目は2冊目が水没した時のための予備。リスクマネジメントはしっかりね!みたいな感じで。ここまで愛せる詩集なかなかありません。まるで私が病んでるみたいじゃないきっとこれは恋の病ねうふ、とか果てしなく気持ち悪い自分にまんざらでもないです。
髙塚さんは詩集を6冊出していらっしゃっていて、処女詩集にあたるのが『さよならニッポン』なんですが、「昼行灯」という詩がエロくて好きです。
痒いという不幸の食卓の後、やがて過敏に睦み合う。影の位置は移動もしくは出没を終え、ふたりは居間に閉じ籠もる。空の響きが柱を伝い、膝元から湿った冷気が包みはじめ、ますますふたりの腕は絡みあう。//いずれにせよ風呂場から居間までの時間、そこでほぼ癖は古びてゆく。手の方位、目の黙、荒ぶ発語。水の温まりの待機そのものに本然がにじり寄り、痛ましく方途を指差すのは汚れの激しい方に違いない。//如何ともし難い床音の冷たさ、やがて頭部は破調の柵にもたれ掛かり、今まさに蹲るその膝頭に圧される一輪の冬薔薇を摘んだ痕に湧き出す血液を浴び、ふたりはおもむろに始める。暗さに一層輪郭を浮き上がらせ。
(さよならニッポン「昼行灯」より)
エロいといったら『ハポン絹莢』もそうとうエロスですが、この作品に含まれている、なんだろう「羞じらい」かな。その仕草がとても好もしい。
ちなみに第一詩集から第三詩集まで『さよならニッポン』『カメリアジャポニカ』『ハポン絹莢』と日本の呼称をタイトルに入れている感覚も、大好きです。勝手にリーベン三部作とか呼んでます。リーベンは北京語で日本ね。
最後に最近刊行された『sound & color』から。
こちらも、海東セラさんの誠実で美しい評論が詩客さんにあったので、ご紹介します。
(http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/741d45d6544eae90040da3823b68285d)
もう春ですね/もう春ですね/うごきのあるものですから/いろづいた花ふさ/かわくことのない岩/いっぱいにひらいた/やさしい海のおと/ゆれているのはひだひだのわたし/うごいているのはひとつひとつのおまえ
(sound & color「さすらいおもいで」より)
『カメリアジャポニカ』の巻末詩が「思い出」というタイトル。『sound & color』の巻末詩が「さすらいおもいで」というタイトル。
このふたつの作品の間に横たわる何かに関しては、私の幼い論考は控えようと思います。
ただ読んで、悦を得る。
私の髙塚さんの作品への愛はそんな感じです。
長々と、微妙な文章にお付き合い頂きましてありがとうございました。髙塚さんの作品を毎回Twitterで朗読しているのですが、今度「sound & color」の一冊まるっと朗読にも挑戦してみようと思っています。
「私はあなたの作品の喉になりたい」
私の好きな詩人は髙塚謙太郎さんです。