第39回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎99パーセントの怒り
「ウォール街を占拠せよ」のスローガンをかかげニューヨークから始まった民衆の抗議行動は、たちまち全米に広がり、さらに全世界へと広がりを見せつつあるかです。それは自然発生的で雑多な要求を掲げたものですが、資本主義への怒りの告発であることは確かなようです。“政府は国民の99パーセントの犠牲のもとに、国民の1パーセントの富裕層を救済し優遇している”というのが、彼らの主要な批判なのだそうです。この告発はもっともといえます。
以前、08年のリーマン・ショックのあと、保険大手のAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の巨額報酬が問題になりました。その時も書きましたが、彼らはバブルを煽った張本人でありながら、1700億ドル(約17兆円)もの公的資金による救済をよいことに、それを山分けして、金融商品部門の幹部が総額160億円(一人当たりの最高額は約6億2700万円)ものボーナスを受け取っていたのです。また証券大手のメリルリンチも、総額450億ドル(約4兆5000億円)の公的資金の注入を受けながら、そのトップ10の社員へのボーナスの支払い総額は約209億円(平均約20億円!)という凄まじい額の大金を貪っていたのでした。アメリカの99パーセントの国民の怒りは、当然といえば、あまりにも当然ではないでしょうか。
しかし資本主義の告発と抗議の大衆行動が、資本主義的生産様式そのものの変革へと発展するためには、ただ自然発生的なものに留まっていては不可能です。それが意識的で組織的なものへと発展しなければ、本当に変革する力にはならないでしょう。そしてそのためにはやはり資本主義的生産様式そのものに対する科学的な認識が不可欠ではないでしょうか。『資本論』の学習は地道ではありますが、やはり重要なのです。
“我田引水”よろしく「『資本論』を読む会」の宣伝を思わずしてしまいましたが、しかし、現実は厳しいもので、第39回の学習会も、相変わらず寂しいものでした。さっそくその報告を行いたいと思います。
◎第12パラグラフ
今回は第12・13の二つのパラグラフを進みました。今回のパラグラフからは「ロビンソン物語」が出てきますが、これらは如何なる意味があるのか、それが分かるその前の第11パラグラフの最後の一文を紹介しておきましょう。
〈したがって、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げこむやいなやただちに消えうせる。〉
だから今回の第12パラグラフから第15パラグラフまでは、マルクスが〈別の生産諸形態のところに逃げこむ〉と述べている、その〈別の生産諸形態〉が具体的に検討されることになります。では、それを具体的に見て行くことにしましょう。今回もこれまでと同様に、まずパラグラフ本文を紹介し、それを文節ごとに記号を打って、それぞれを平易に書き下すなかで、議論の紹介もして行くことにします。まずは本文の紹介です。
【12】〈(イ)経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう。(ロ)生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。(ハ)祈祷やこれに類することは、ここでは問題にしない。(ニ)なぜなら、わがロビンソンは、それに喜びを見いだし、この種の活動をくつろぎと見なしているからである。(ホ)彼の生産的機能はさまざまに異なってはいるけれども、彼は、それらの機能が同じロビンソンのあい異なる活動形態にほかならず、したがって、人間労働のあい異なる様式にほかならないことを知っている。(ヘ)彼は、必要そのものにせまられて、彼の時間を彼のさまざまな機能のあいだに正確に配分しなければならない。(ト)彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる。(チ)経験がそれを彼に教える。(リ)そして、わがロビンソンは、時計と帳簿とインクとペンとを難破船から救いだしているので、立派なイギリス人らしく、やがて自分自身のことを帳簿につけ始める。(ヌ)彼の財産目録には、彼が所有する諸使用対象と、それらの生産に必要とされるさまざまな作業と、最後に、これらのさまざまな生産物の一定量のために彼が平均的に費やす労働時間との一覧表が含まれている。(ル)ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、M・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることなしに理解できたほどである。(ヲ)にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのである。〉
(イ)経済学はロビンソン物語を好みますから、まず孤島のロビンソンに登場してもらいましょう。
ここで学習会では次のような疑問が出されました。先に見たように、マルクスはその前の第11パラグラフで商品生産とは異なる〈別の生産諸形態〉に〈逃げこむ〉と書いています。しかし果たしてロビンソンの孤島の生活はそうした〈別の生産諸形態〉というようなものと言いうるのだろうか、という疑問です。ロビンソン物語そのものは一つの空想物語ですから、第13~15パラグラフのようなものと同じ〈別の生産諸形態〉の一つといえるようなものだろうか、という疑問です。この疑問は、このマルクスのロビンソン物語の考察は、そもそもどういう意義があるのか、という問題と関連しているように思えます。ただ、この問題は、少し詳しく論じようと思いますので、項を改めてその議論も含めて紹介したいと思います。
(ロ) ロビンソンは、生まれつきつつましい生活をしているのですが、それでもやはりさまざまな欲求を満たさねばならず、だからそれに必要な、道具や家具をこしらえ、ラマを馴らし、魚をとり、狩りをするというようにさまざまな種類の有用労働を行わなければなりません。
ロビンソンは彼のつつましい生活を維持するためだけでも、さまざまな欲求を満たさなければならず、そのために彼をとりまく自然に働きかけて、そこから彼の欲求を満たす有用物を得なければなりませんが、ここで問題になるのは、有用労働だということです。そして有用労働というものには、何らの神秘性もないことはあきらかです。
(ハ)(ニ)しかし、われわれは彼がやるであろう、祈祷やそれに類することは、ここでは問題にしない。というのは、それらは彼にとっては喜びであって、一つのくつろぎだろうからです。
ここでは、労働を犠牲と考えたアダム・スミスを批判して、マルクスは労働は賃労働という歴史的形態を脱ぎ捨てれば、個人の自己実現となり、魅力的なものになりうると主張していること、しかしそのことは、フーリエが考えるような、労働を単なる慰みや、娯楽になるというようなことでは決してないのだとも述べていることが紹介されました。だからここで祈祷やそれに類するものを問題にしない理由として、マルクスが〈なぜなら、わがロビンソンは、それに喜びを見いだし、この種の活動をくつろぎと見なしているから〉と述べているのは、そうしたマルクスの労働に対する認識が背景にあるのではないかということです。
(ホ)ロビンソンの生産的な機能はさまざまに異なっていますが、しかし、彼は、それらの機能が同じ自分自身の異なった活動形態であり、だから、それらは人間労働の違った様式であることを知っています。
この部分は、マルクスが第2パラグラフで、商品の神秘的性格が価値規定の内容から生じるものではない理由として、第一に上げていた次の一文に対応しているように思えます。
〈と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。〉
つまりこうしたこともロビンソンがハッキリ自覚していることであり、そこには何の神秘的なものはないということでしょう。
(ヘ)ロビンソンは、その彼のさまざまな機能を必要にせまられて、彼の時間をさまざまな機能のあいだに正確に配分しなければなりません。
この部分も第2パラグラフの価値規定の内容については神秘的なものはない第二の理由として述べていた次のような一文に対応していると考えられます。
〈第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった。〉
(ト)(チ)彼の全活動のなかで、どの機能がより大きな範囲を占めるか、あるいはどの機能がより小さい範囲を占めるかは、必要な有用な効果を達成するためにやらなければならないことの困難さの大小によって決まってくるでしょう。経験がそれを彼に教えます。
この部分もロビンソンのさまざまな諸機能が対象である自然に働きかけて、彼が目的にしたものを獲得するために、相互に有機的に関連しあった形で支出される必要があることが指摘されているわけですが、これも先の価値規定の内容の第三のものに対応していると考えることが出来るでしょう。
〈最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉
つまり社会的にはさまざまな人間によって担われる、彼らの社会的形態を受けた労働、すなわち社会的に結びあっている労働が、ロビンソンの場合は、彼自身のさまざまな機能として一人の人間の諸機能として関連し合って支出されるということです。
このようにこれらのロビンソンの労働の分析は、第2パラグラフの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないと述べていた内容に対応しています。これはある意味では当然なのです。というのは、初版本文では、この第12パラグラフのロビンソンの生活の考察と、第15パラグラフの将来の自由な人々の連合体の社会の考察は、第2パラグラフの直後に、その第2パラグラフで述べている価値規定の内容には神秘的なものは何もない具体的な例証として論じられていたものなのです(だから初版では第3、第4パラグラフにありました)。それをマルクスは第2版ではやや位置づけを変えて、今の位置に持ってきているのです。こうした初版と第2版との違いは、どういう意味があるのかも、一つの問題といえばいえますが、それはまた別に機会があれば論じたいと思います。
(リ)そしてロビンソンは、それぞれの物を生産するに必要な時間がどれだけかを帳簿につけ始めます。
(ヌ)彼の財産目録には、彼が所有する諸使用対象がどれとどれかが記されるとともに、それらの生産に必要なさまざまな作業や、そして一つの生産物の一定量を生産するために、彼が必要とした平均的な労働時間の一覧表が含まれていることでしょう。
こうしてロビンソンは、彼の生活を維持し、再生産するためには、自分の時間のうち、どの作業にどれだけ費やせばよいかを知っているので、彼は彼自身の労働を意識的に合理的な計画のもとに支出して、彼の生活を、つまり自然との物質代謝を維持することが出来るようになるわけです。
(ル)ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、俗物経済学者のM・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることもなしに理解できたことでしょう。
(ヲ)にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのです。
つまり価値規定の内容というのは、こうした人間と自然との物質代謝を規制するもっとも原理的な、自然法則とでもいうべきものなのだということではないでしょうか。
関連して少し思い出したことがあります。私たちの仲間のなかで以前「有用労働による価値移転」問題が論争になりました。一部の人は「有用労働が『価値』の概念の根底に入り込むのはおかしい」と疑問を出し、マルクスの理論を事実上否定しました。しかし、このロビンソンの労働の分析を考えてみると、問題は分かりやすいように思えます。例えばロビンソンは家具を作るために、彼の時間のうち木を伐採するのに3時間、その木から材木を作るのに10時間、そして材木から家具を作るのに20時間を要したとします。これらの〈彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる〉わけです。つまりロビンソンがどの労働にどれだけを支出しなければならないかは、彼の具体的な有用労働の内容によって決まってくるわけです。だからロビンソンのノートには彼の財産である家具とそれに必要な作業(伐採、製材、木工)とそれらに費やされた時間が記録されています。そして家具の生産には全体としてかかった時間として、それらをトータルして33時間と書かれているはずです。有用労働による価値移転というのは、こうしたかかった労働時間が最終の生産物の生産に必要な労働時間としてトータルされるというまったく自明な自然の原理を、ただそれぞれの労働がロビンソンの労働や自由な人々の連合体のように直接には社会的に結びついていないがために、それぞれの労働の社会的性格が、それぞれの労働の生産物の価値性格として表されざるをえない社会に固有の問題であることが分かるわけです。つまりそれらの諸労働が諸商品の交換を通じて一定量の価値として、その社会的な関連が実証されるからこそ、その関連が、最終生産物に価値が移転するという形態で現れてくるということが分かるのです。それらの諸労働の社会的関連というのは、それぞれの労働の具体的で有用な側面が表しています。木を切る伐採労働と、その木から材木を作る製材労働、材木から家具を作る木工労働は、一つの社会的な分業を形成しています。しかし、商品生産社会では、これらの諸労働の社会的結びつきは直接的ではなく、ただそれらの労働の生産物が商品として交換されるなかで実証されるしかありません。だからこそ、それらは価値の移転という形で関連し合い、最終の労働生産物の価値として堆積されることになるわけです。そしてそれぞれの労働生産物を加工して新たな生産物を作るのはそれぞれの具体的な有用労働ですから、だから、マルクスは有用労働によって価値は移転されるのだとしたのだと思います。
◎「マルクスのロビンソン物語」?
さて、このパラグラフの性格について改めて考えてみましょう。
マルクスは冒頭〈経済学はロビンソン物語を好む〉と述べていますが、久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』第5巻「唯物史観」の一つの項目に「4.台頭しつつある18世紀のブルジョアジーの一種のイデオロギーとしてのロビンソン物語」というのがあります。つまりロビンソン物語というのは、18世紀のブルジョアジーの一つのイデオロギーであったということです。ただ久留間氏は、この小項目を設けた理由を、レキシコンの「栞No.5」のなかで次のようにのべています。
〈久留間 これ(ロビンソン物語--引用者)はブルジョア的イデオロギーにはちがいないが、マルクスも言っているように、本来は18世紀の革命的ブルジョアのイデオロギーで、社会契約論に代表される、もともと人間は個々独立のものであったという幻想です。それがスミスによって経済学にもちこまれ、リカードにうけつがれた、孤立した猟師や漁夫の想定です。こうした学説をマルクスはロビンソン物語と名づけて批判しているのです。だからこの批判の対象とされているのは、現在はすでにすたれている過去のイデオロギーであって、その批判は革命期のブルジョアジーのイデオロギーの考察にとっては大きな意義があるが、直接現実の問題に関係があるわけではない。だから、この批判を一つの独立項目として集録することについてはいちおう躊躇したのですが、結局そうすることにしたのは、「マルクスのいわゆるロビンソン物語」についてとんでもない誤解があることを考慮したからです。マルクスは『資本論』の「商品の物神的性格」のところで、「経済学はロビンソン物語を愛好するから」といって、孤島に漂着したロビンソン・クルーソーがどのようなやり方で彼の労働力を彼の生活の必要をみたすためにいろいろの仕事に割り当てるかを述べていますが、これがいわゆるマルクスのロビンソン物語なのだというのです。そういうことをだれかが書いたので、この誤解がかなりの範囲に普及しているらしい。これはぜひ訂正する必要がある。そういうことも考えて、結局この項目を設けることにしたわけです。〉
どうやら、久留間氏によると、古典派経済学にロビンソン物語があるように、マルクスにもロビンソン物語があり、それがこの「商品の物神的性格」を論じた部分だという見解があるのだそうです。そしてどうやら、久留間氏はそれは間違いだと考えているようです。だからそれを論証するために、この小項目を設けたようなのです。確かにこの小項目では、『経済学批判要綱』からマルクスが古典派経済学のロビンソン物語を批判している部分が二カ所にわたって長く抜粋されて、紹介されています。ところが、奇妙なことに、『資本論』からは、第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」の第12パラグラフ全体ではなく、わずかその冒頭部分だけ、すなわち〈経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう〉という部分だけと、その注29全文が紹介されているのみなのです。
なるほど、久留間氏によれば、この第12パラグラフの冒頭に続く部分は、「マルクスにもロビンソン物語がある」という誤解を与えかねないものだとの判断なのかも知れません。しかし、こうした抜粋の仕方は、レキシコンの他の抜粋のやり方から考えても、かなり恣意的な印象を持たざるを得ません。
確かに『要綱』からの引用文のなかでは、マルクスは次のように古典派経済学のロビンソン物語を批判しています。
〈 (a)ここでの対象はまず第一に物質的生産である。
社会のなかで生産をおこなう諸個人--したがって諸個人の社会的に規定された生産、いうまでもなくこれが出発点である。個々の孤立した猟師や漁夫、スミスやリカードはここから出発するのであるが、これらのものは、一八世紀のロビンソン物語の幻想のない想像物に属するのであって、この想像物は、けっして、文化史家たちの想像するようにたんに過度の洗練にたいする反動や誤解された自然生活への復帰だけを表現するものではない。それは、本来は独立している諸主体を契約によって関係させ結合するルソーの社会契約〔contat social〕と同様に、そのような自然主義にもとつくものではない。このような自然主義は、大小のロビンソン物語の外観であり、しかもただ美的な外観でしかない。それは、むしろ、一六世紀以来準備されて一八世紀に成熟への巨歩を進めた「ブルジョア社会」を見越したものである。この自由競争社会では、個人は、それ以前の歴史上の時代には彼を一定の局限された人間集団の付属物にしていた自然的紐帯などから解放されて現われる。スミスやリカードがまだまったくその肩のうえに立っている一八世紀の予言者たちの目には、このような一八世紀の個人--一面では封建的社会形態の解体の産物、他面では一六世紀以来新しく発展した生産諸力の産物--が、すでに過去の存在になっている理想として、浮かんでいるのである。一つの歴史的な結果としてではなく、歴史の出発点として、なぜならば、それは彼らの目には、人間性についての彼らの観念に合致した自然に適合した個人として現われ、歴史的に生成する個人としてではなく、自然によって与えられた個人として現われるからである。このような錯覚は、これまでどの新しい時代にもつきものだった。多くの点で一八世紀に対立し、また貴族としてより多く歴史的な地盤のうえに立っているステユアートは、すでにこのような素朴さからまぬかれている。
われわれが歴史を遠くさかのぼれぽさかのぼるほど、ますます個人は、したがってまた生産をおこなう個人も、独立していないものとして、あるより大きな全体に属するものとして、現われる。すなわち、最初はまだまったく自然的な仕方で家族のなかに、また種族にまで拡大された家族のなかに現われ、のちには、諸種族の対立や融合から生ずる種々の形態の共同体のなかに現われる。一八世紀に「ブルジョア社会」ではじめて、社会的関連の種々の形態が、個人にたいして、その個人的な目的のためのたんなる手段として、外的な必然性として、相対するようになる。しかし、このような立場、すなわちばらばらな個人の立場を生みだす時代こそは、まさに、これまでのうちで最も発展した社会的な(この立場から見れば一般的な)諸関係の時代なのである。人間は最も文字どおりの意味でゾーン・ポリティコン〔共同体的動物、社会的動物〕(アリストテレス『政治学』第1巻第2章。919)である。たんに社交的な動物であるだけではなく、ただ社会のなかだけで個別化されることのできる動物である。社会の外でのばらばらな個人の生産--すでにいろいろな社会力を動的に身につけている文明人がたまたま無人島に吹き流されでもすれば起こるかもしれないめったにないこと--は、いっしょに生活しいっしょに語りあう諸個人なしでの言語の発達と同じようにありえないことである。それは、これ以上かかりあうにおよぼないことである。もしも、一八世紀の人々にとっては意味もあったこのたわいもないことがバスティアやケアリやプルードンなどによってまたしても大まじめに最新の経済学のまんなかにもちこまれさえしなかったら、この点に触れる必要はまったくなかったであろう。ことにプルードンにとっては、自分がその歴史的な発生を知りもしない経済的関係の起原を、神話化することによって、歴史哲学的に説明することは、もちろん愉快なのである。たとえば、アダムとかプロメテウスとかの頭にちゃんとできあがった観念が浮かんで、それからそれが採用されるようになった、などという神話によってである。こういう空想的なきまり文句〔locus communis〕ほどたいくつでおもしろくないものはない。〉(「〔経済学批判への〕序説」から、全集13巻611-2頁)
こうしたマルクスの古典派経済学に対する批判はまったく正当です。しかし問題は、ではそうであるならば、どうしてマルクス自身も『資本論』第1章第4節第12パラグラフで、敢えてロビンソン物語を取り上げているのか、それは古典派経済学がロビンソン物語を取り上げているのとどういう点で異なるのか、そのマルクスの叙述をわれわれが「マルクスのロビンソン物語だ」と言ってはどうしておかしいのか、ということではないかと思います。
古典派経済学の取り上げるロビンソン物語とマルクスの論じているロビンソン物語とには、歴然たる相違があります。古典派経済学の場合は、歴史の出発点として孤立した個人の狩猟や漁労を取り上げながら、その中に直接、交換価値や資本、利潤等を持ち込んで論じています。マルクスがリカードのロビンソン物語について、〈そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている〉と批判しているようにです。しかし、マルクスの場合、すでに見たように、ロビンソンの孤島での生活をあらゆる社会的な関係とは無縁の一つの抽象物として論じています。ロビンソンは孤島でひとりぼっちなので、ここでは彼と自然との関係のみがあるだけです。これはマルクスが「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節 労働過程」において、労働過程をとりあえずはあらゆる社会形態から独立してそのものとして考察したのと同じような関係が、ここにはそのまま、つまり何の抽象も必要なく、具体的なものとして存在しているわけです。
マルクスは労働過程がそうした抽象的なものとして論じる理由を次のように述べています。
〈使用価値または財貨の生産は、資本家のために資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えはしない。したがって、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態からも独立に考察されなければならない。〉(全集版233頁)
そしてそうした考察の最後に、その意義を次のように述べています。
〈われわれがその単純で抽象的な諸要素において叙述してきたような労働過程は、諸使用価値を生産するための合目的的活動であり、人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、したがってこの生活のどんな形態からも独立しており、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものである。それゆえ、われわれは、労働者を他の労働者たちとの関係において叙述する必要がなかった。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然とその素材があれば、それで十分であった。小麦を味わってみてもだれがそれを栽培したのかわからないのと同様、この過程を見ても、どのような条件のもとでそれが行なわれるのか、奴隷監督の残忍なムチのもとでか、資本家の心配げなまなざしのもとでなのか、それともキンキナトゥスが数ユゲルム〔1ユルゲム=約25アール〕の耕作において行なうのか、石で野獣を倒す未開人が行なうのか、はわからない。〉(241-2頁)
ここでマルクスが述べているように、マルクスのロビンソンの孤島での生活の考察は、それが〈人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、……人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの〉としてではないかと思います。それがロビンソンの孤島での生活では、一つの空想的な物語とはいえ、具体的に何の抽象も必要のない形で存在しており、その具体性において、一般的条件が考察できるからではないかと思うわけです。
だからこうしたマルクスのロビンソン物語の特徴を理解し、古典派経済学のそれとの相違を踏まえた上でなら、「マルクスにもロビンソン物語がある」と言っても決して間違いではないのではないかと思うわけですが、どうでしょうか。
(以下は「その2」に続きます。)