『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第39回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2011-10-29 00:27:35 | 『資本論』

第39回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎99パーセントの怒り

 「ウォール街を占拠せよ」のスローガンをかかげニューヨークから始まった民衆の抗議行動は、たちまち全米に広がり、さらに全世界へと広がりを見せつつあるかです。それは自然発生的で雑多な要求を掲げたものですが、資本主義への怒りの告発であることは確かなようです。“政府は国民の99パーセントの犠牲のもとに、国民の1パーセントの富裕層を救済し優遇している”というのが、彼らの主要な批判なのだそうです。この告発はもっともといえます。

 以前、08年のリーマン・ショックのあと、保険大手のAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の巨額報酬が問題になりました。その時も書きましたが、彼らはバブルを煽った張本人でありながら、1700億ドル(約17兆円)もの公的資金による救済をよいことに、それを山分けして、金融商品部門の幹部が総額160億円(一人当たりの最高額は約6億2700万円)ものボーナスを受け取っていたのです。また証券大手のメリルリンチも、総額450億ドル(約4兆5000億円)の公的資金の注入を受けながら、そのトップ10の社員へのボーナスの支払い総額は約209億円(平均約20億円!)という凄まじい額の大金を貪っていたのでした。アメリカの99パーセントの国民の怒りは、当然といえば、あまりにも当然ではないでしょうか。

 しかし資本主義の告発と抗議の大衆行動が、資本主義的生産様式そのものの変革へと発展するためには、ただ自然発生的なものに留まっていては不可能です。それが意識的で組織的なものへと発展しなければ、本当に変革する力にはならないでしょう。そしてそのためにはやはり資本主義的生産様式そのものに対する科学的な認識が不可欠ではないでしょうか。『資本論』の学習は地道ではありますが、やはり重要なのです。

 “我田引水”よろしく「『資本論』を読む会」の宣伝を思わずしてしまいましたが、しかし、現実は厳しいもので、第39回の学習会も、相変わらず寂しいものでした。さっそくその報告を行いたいと思います。

◎第12パラグラフ

 今回は第12・13の二つのパラグラフを進みました。今回のパラグラフからは「ロビンソン物語」が出てきますが、これらは如何なる意味があるのか、それが分かるその前の第11パラグラフの最後の一文を紹介しておきましょう。

 〈したがって、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げこむやいなやただちに消えうせる。

 だから今回の第12パラグラフから第15パラグラフまでは、マルクスが〈別の生産諸形態のところに逃げこむ〉と述べている、その〈別の生産諸形態〉が具体的に検討されることになります。では、それを具体的に見て行くことにしましょう。今回もこれまでと同様に、まずパラグラフ本文を紹介し、それを文節ごとに記号を打って、それぞれを平易に書き下すなかで、議論の紹介もして行くことにします。まずは本文の紹介です。

【12】〈(イ)経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう。(ロ)生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。(ハ)祈祷やこれに類することは、ここでは問題にしない。(ニ)なぜなら、わがロビンソンは、それに喜びを見いだし、この種の活動をくつろぎと見なしているからである。(ホ)彼の生産的機能はさまざまに異なってはいるけれども、彼は、それらの機能が同じロビンソンのあい異なる活動形態にほかならず、したがって、人間労働のあい異なる様式にほかならないことを知っている。(ヘ)彼は、必要そのものにせまられて、彼の時間を彼のさまざまな機能のあいだに正確に配分しなければならない。(ト)彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる。(チ)経験がそれを彼に教える。(リ)そして、わがロビンソンは、時計と帳簿とインクとペンとを難破船から救いだしているので、立派なイギリス人らしく、やがて自分自身のことを帳簿につけ始める。(ヌ)彼の財産目録には、彼が所有する諸使用対象と、それらの生産に必要とされるさまざまな作業と、最後に、これらのさまざまな生産物の一定量のために彼が平均的に費やす労働時間との一覧表が含まれている。(ル)ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、M・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることなしに理解できたほどである。(ヲ)にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのである。〉

 (イ)経済学はロビンソン物語を好みますから、まず孤島のロビンソンに登場してもらいましょう。

 ここで学習会では次のような疑問が出されました。先に見たように、マルクスはその前の第11パラグラフで商品生産とは異なる〈別の生産諸形態〉に〈逃げこむ〉と書いています。しかし果たしてロビンソンの孤島の生活はそうした〈別の生産諸形態〉というようなものと言いうるのだろうか、という疑問です。ロビンソン物語そのものは一つの空想物語ですから、第13~15パラグラフのようなものと同じ〈別の生産諸形態〉の一つといえるようなものだろうか、という疑問です。この疑問は、このマルクスのロビンソン物語の考察は、そもそもどういう意義があるのか、という問題と関連しているように思えます。ただ、この問題は、少し詳しく論じようと思いますので、項を改めてその議論も含めて紹介したいと思います。

 (ロ) ロビンソンは、生まれつきつつましい生活をしているのですが、それでもやはりさまざまな欲求を満たさねばならず、だからそれに必要な、道具や家具をこしらえ、ラマを馴らし、魚をとり、狩りをするというようにさまざまな種類の有用労働を行わなければなりません。

 ロビンソンは彼のつつましい生活を維持するためだけでも、さまざまな欲求を満たさなければならず、そのために彼をとりまく自然に働きかけて、そこから彼の欲求を満たす有用物を得なければなりませんが、ここで問題になるのは、有用労働だということです。そして有用労働というものには、何らの神秘性もないことはあきらかです。

 (ハ)(ニ)しかし、われわれは彼がやるであろう、祈祷やそれに類することは、ここでは問題にしない。というのは、それらは彼にとっては喜びであって、一つのくつろぎだろうからです。

 ここでは、労働を犠牲と考えたアダム・スミスを批判して、マルクスは労働は賃労働という歴史的形態を脱ぎ捨てれば、個人の自己実現となり、魅力的なものになりうると主張していること、しかしそのことは、フーリエが考えるような、労働を単なる慰みや、娯楽になるというようなことでは決してないのだとも述べていることが紹介されました。だからここで祈祷やそれに類するものを問題にしない理由として、マルクスが〈なぜなら、わがロビンソンは、それに喜びを見いだし、この種の活動をくつろぎと見なしているから〉と述べているのは、そうしたマルクスの労働に対する認識が背景にあるのではないかということです。

 (ホ)ロビンソンの生産的な機能はさまざまに異なっていますが、しかし、彼は、それらの機能が同じ自分自身の異なった活動形態であり、だから、それらは人間労働の違った様式であることを知っています。

 この部分は、マルクスが第2パラグラフで、商品の神秘的性格が価値規定の内容から生じるものではない理由として、第一に上げていた次の一文に対応しているように思えます。

 〈と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。

 つまりこうしたこともロビンソンがハッキリ自覚していることであり、そこには何の神秘的なものはないということでしょう。

 (ヘ)ロビンソンは、その彼のさまざまな機能を必要にせまられて、彼の時間をさまざまな機能のあいだに正確に配分しなければなりません。

 この部分も第2パラグラフの価値規定の内容については神秘的なものはない第二の理由として述べていた次のような一文に対応していると考えられます。

 〈第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった。

 (ト)(チ)彼の全活動のなかで、どの機能がより大きな範囲を占めるか、あるいはどの機能がより小さい範囲を占めるかは、必要な有用な効果を達成するためにやらなければならないことの困難さの大小によって決まってくるでしょう。経験がそれを彼に教えます。

 この部分もロビンソンのさまざまな諸機能が対象である自然に働きかけて、彼が目的にしたものを獲得するために、相互に有機的に関連しあった形で支出される必要があることが指摘されているわけですが、これも先の価値規定の内容の第三のものに対応していると考えることが出来るでしょう。

 〈最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。

 つまり社会的にはさまざまな人間によって担われる、彼らの社会的形態を受けた労働、すなわち社会的に結びあっている労働が、ロビンソンの場合は、彼自身のさまざまな機能として一人の人間の諸機能として関連し合って支出されるということです。

 このようにこれらのロビンソンの労働の分析は、第2パラグラフの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないと述べていた内容に対応しています。これはある意味では当然なのです。というのは、初版本文では、この第12パラグラフのロビンソンの生活の考察と、第15パラグラフの将来の自由な人々の連合体の社会の考察は、第2パラグラフの直後に、その第2パラグラフで述べている価値規定の内容には神秘的なものは何もない具体的な例証として論じられていたものなのです(だから初版では第3、第4パラグラフにありました)。それをマルクスは第2版ではやや位置づけを変えて、今の位置に持ってきているのです。こうした初版と第2版との違いは、どういう意味があるのかも、一つの問題といえばいえますが、それはまた別に機会があれば論じたいと思います。

 (リ)そしてロビンソンは、それぞれの物を生産するに必要な時間がどれだけかを帳簿につけ始めます。

 (ヌ)彼の財産目録には、彼が所有する諸使用対象がどれとどれかが記されるとともに、それらの生産に必要なさまざまな作業や、そして一つの生産物の一定量を生産するために、彼が必要とした平均的な労働時間の一覧表が含まれていることでしょう。

 こうしてロビンソンは、彼の生活を維持し、再生産するためには、自分の時間のうち、どの作業にどれだけ費やせばよいかを知っているので、彼は彼自身の労働を意識的に合理的な計画のもとに支出して、彼の生活を、つまり自然との物質代謝を維持することが出来るようになるわけです。

 (ル)ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、俗物経済学者のM・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることもなしに理解できたことでしょう。

 (ヲ)にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのです。

 つまり価値規定の内容というのは、こうした人間と自然との物質代謝を規制するもっとも原理的な、自然法則とでもいうべきものなのだということではないでしょうか。

 関連して少し思い出したことがあります。私たちの仲間のなかで以前「有用労働による価値移転」問題が論争になりました。一部の人は「有用労働が『価値』の概念の根底に入り込むのはおかしい」と疑問を出し、マルクスの理論を事実上否定しました。しかし、このロビンソンの労働の分析を考えてみると、問題は分かりやすいように思えます。例えばロビンソンは家具を作るために、彼の時間のうち木を伐採するのに3時間、その木から材木を作るのに10時間、そして材木から家具を作るのに20時間を要したとします。これらの〈彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる〉わけです。つまりロビンソンがどの労働にどれだけを支出しなければならないかは、彼の具体的な有用労働の内容によって決まってくるわけです。だからロビンソンのノートには彼の財産である家具とそれに必要な作業(伐採、製材、木工)とそれらに費やされた時間が記録されています。そして家具の生産には全体としてかかった時間として、それらをトータルして33時間と書かれているはずです。有用労働による価値移転というのは、こうしたかかった労働時間が最終の生産物の生産に必要な労働時間としてトータルされるというまったく自明な自然の原理を、ただそれぞれの労働がロビンソンの労働や自由な人々の連合体のように直接には社会的に結びついていないがために、それぞれの労働の社会的性格が、それぞれの労働の生産物の価値性格として表されざるをえない社会に固有の問題であることが分かるわけです。つまりそれらの諸労働が諸商品の交換を通じて一定量の価値として、その社会的な関連が実証されるからこそ、その関連が、最終生産物に価値が移転するという形態で現れてくるということが分かるのです。それらの諸労働の社会的関連というのは、それぞれの労働の具体的で有用な側面が表しています。木を切る伐採労働と、その木から材木を作る製材労働、材木から家具を作る木工労働は、一つの社会的な分業を形成しています。しかし、商品生産社会では、これらの諸労働の社会的結びつきは直接的ではなく、ただそれらの労働の生産物が商品として交換されるなかで実証されるしかありません。だからこそ、それらは価値の移転という形で関連し合い、最終の労働生産物の価値として堆積されることになるわけです。そしてそれぞれの労働生産物を加工して新たな生産物を作るのはそれぞれの具体的な有用労働ですから、だから、マルクスは有用労働によって価値は移転されるのだとしたのだと思います。

◎「マルクスのロビンソン物語」?

 さて、このパラグラフの性格について改めて考えてみましょう。
  マルクスは冒頭〈経済学はロビンソン物語を好む〉と述べていますが、久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』第5巻「唯物史観」の一つの項目に「4.台頭しつつある18世紀のブルジョアジーの一種のイデオロギーとしてのロビンソン物語」というのがあります。つまりロビンソン物語というのは、18世紀のブルジョアジーの一つのイデオロギーであったということです。ただ久留間氏は、この小項目を設けた理由を、レキシコンの「栞No.5」のなかで次のようにのべています。

 〈久留間 これ(ロビンソン物語--引用者)はブルジョア的イデオロギーにはちがいないが、マルクスも言っているように、本来は18世紀の革命的ブルジョアのイデオロギーで、社会契約論に代表される、もともと人間は個々独立のものであったという幻想です。それがスミスによって経済学にもちこまれ、リカードにうけつがれた、孤立した猟師や漁夫の想定です。こうした学説をマルクスはロビンソン物語と名づけて批判しているのです。だからこの批判の対象とされているのは、現在はすでにすたれている過去のイデオロギーであって、その批判は革命期のブルジョアジーのイデオロギーの考察にとっては大きな意義があるが、直接現実の問題に関係があるわけではない。だから、この批判を一つの独立項目として集録することについてはいちおう躊躇したのですが、結局そうすることにしたのは、「マルクスのいわゆるロビンソン物語」についてとんでもない誤解があることを考慮したからです。マルクスは『資本論』の「商品の物神的性格」のところで、「経済学はロビンソン物語を愛好するから」といって、孤島に漂着したロビンソン・クルーソーがどのようなやり方で彼の労働力を彼の生活の必要をみたすためにいろいろの仕事に割り当てるかを述べていますが、これがいわゆるマルクスのロビンソン物語なのだというのです。そういうことをだれかが書いたので、この誤解がかなりの範囲に普及しているらしい。これはぜひ訂正する必要がある。そういうことも考えて、結局この項目を設けることにしたわけです。〉

 どうやら、久留間氏によると、古典派経済学にロビンソン物語があるように、マルクスにもロビンソン物語があり、それがこの「商品の物神的性格」を論じた部分だという見解があるのだそうです。そしてどうやら、久留間氏はそれは間違いだと考えているようです。だからそれを論証するために、この小項目を設けたようなのです。確かにこの小項目では、『経済学批判要綱』からマルクスが古典派経済学のロビンソン物語を批判している部分が二カ所にわたって長く抜粋されて、紹介されています。ところが、奇妙なことに、『資本論』からは、第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」の第12パラグラフ全体ではなく、わずかその冒頭部分だけ、すなわち〈経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう〉という部分だけと、その注29全文が紹介されているのみなのです。

 なるほど、久留間氏によれば、この第12パラグラフの冒頭に続く部分は、「マルクスにもロビンソン物語がある」という誤解を与えかねないものだとの判断なのかも知れません。しかし、こうした抜粋の仕方は、レキシコンの他の抜粋のやり方から考えても、かなり恣意的な印象を持たざるを得ません。

 確かに『要綱』からの引用文のなかでは、マルクスは次のように古典派経済学のロビンソン物語を批判しています。

 〈 (a)ここでの対象はまず第一に物質的生産である。
 社会のなかで生産をおこなう諸個人--したがって諸個人の社会的に規定された生産、いうまでもなくこれが出発点である。個々の孤立した猟師や漁夫、スミスやリカードはここから出発するのであるが、これらのものは、一八世紀のロビンソン物語の幻想のない想像物に属するのであって、この想像物は、けっして、文化史家たちの想像するようにたんに過度の洗練にたいする反動や誤解された自然生活への復帰だけを表現するものではない。それは、本来は独立している諸主体を契約によって関係させ結合するルソーの社会契約〔contat social〕と同様に、そのような自然主義にもとつくものではない。このような自然主義は、大小のロビンソン物語の外観であり、しかもただ美的な外観でしかない。それは、むしろ、一六世紀以来準備されて一八世紀に成熟への巨歩を進めた「ブルジョア社会」を見越したものである。この自由競争社会では、個人は、それ以前の歴史上の時代には彼を一定の局限された人間集団の付属物にしていた自然的紐帯などから解放されて現われる。スミスやリカードがまだまったくその肩のうえに立っている一八世紀の予言者たちの目には、このような一八世紀の個人--一面では封建的社会形態の解体の産物、他面では一六世紀以来新しく発展した生産諸力の産物--が、すでに過去の存在になっている理想として、浮かんでいるのである。一つの歴史的な結果としてではなく、歴史の出発点として、なぜならば、それは彼らの目には、人間性についての彼らの観念に合致した自然に適合した個人として現われ、歴史的に生成する個人としてではなく、自然によって与えられた個人として現われるからである。このような錯覚は、これまでどの新しい時代にもつきものだった。多くの点で一八世紀に対立し、また貴族としてより多く歴史的な地盤のうえに立っているステユアートは、すでにこのような素朴さからまぬかれている。
 われわれが歴史を遠くさかのぼれぽさかのぼるほど、ますます個人は、したがってまた生産をおこなう個人も、独立していないものとして、あるより大きな全体に属するものとして、現われる。すなわち、最初はまだまったく自然的な仕方で家族のなかに、また種族にまで拡大された家族のなかに現われ、のちには、諸種族の対立や融合から生ずる種々の形態の共同体のなかに現われる。一八世紀に「ブルジョア社会」ではじめて、社会的関連の種々の形態が、個人にたいして、その個人的な目的のためのたんなる手段として、外的な必然性として、相対するようになる。しかし、このような立場、すなわちばらばらな個人の立場を生みだす時代こそは、まさに、これまでのうちで最も発展した社会的な(この立場から見れば一般的な)諸関係の時代なのである。人間は最も文字どおりの意味でゾーン・ポリティコン〔共同体的動物、社会的動物〕(アリストテレス『政治学』第1巻第2章。919)である。たんに社交的な動物であるだけではなく、ただ社会のなかだけで個別化されることのできる動物である。社会の外でのばらばらな個人の生産--すでにいろいろな社会力を動的に身につけている文明人がたまたま無人島に吹き流されでもすれば起こるかもしれないめったにないこと--は、いっしょに生活しいっしょに語りあう諸個人なしでの言語の発達と同じようにありえないことである。それは、これ以上かかりあうにおよぼないことである。もしも、一八世紀の人々にとっては意味もあったこのたわいもないことがバスティアやケアリやプルードンなどによってまたしても大まじめに最新の経済学のまんなかにもちこまれさえしなかったら、この点に触れる必要はまったくなかったであろう。ことにプルードンにとっては、自分がその歴史的な発生を知りもしない経済的関係の起原を、神話化することによって、歴史哲学的に説明することは、もちろん愉快なのである。たとえば、アダムとかプロメテウスとかの頭にちゃんとできあがった観念が浮かんで、それからそれが採用されるようになった、などという神話によってである。こういう空想的なきまり文句〔locus communis〕ほどたいくつでおもしろくないものはない。〉(「〔経済学批判への〕序説」から、全集13巻611-2頁)

 こうしたマルクスの古典派経済学に対する批判はまったく正当です。しかし問題は、ではそうであるならば、どうしてマルクス自身も『資本論』第1章第4節第12パラグラフで、敢えてロビンソン物語を取り上げているのか、それは古典派経済学がロビンソン物語を取り上げているのとどういう点で異なるのか、そのマルクスの叙述をわれわれが「マルクスのロビンソン物語だ」と言ってはどうしておかしいのか、ということではないかと思います。

 古典派経済学の取り上げるロビンソン物語とマルクスの論じているロビンソン物語とには、歴然たる相違があります。古典派経済学の場合は、歴史の出発点として孤立した個人の狩猟や漁労を取り上げながら、その中に直接、交換価値や資本、利潤等を持ち込んで論じています。マルクスがリカードのロビンソン物語について、〈そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている〉と批判しているようにです。しかし、マルクスの場合、すでに見たように、ロビンソンの孤島での生活をあらゆる社会的な関係とは無縁の一つの抽象物として論じています。ロビンソンは孤島でひとりぼっちなので、ここでは彼と自然との関係のみがあるだけです。これはマルクスが「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節 労働過程」において、労働過程をとりあえずはあらゆる社会形態から独立してそのものとして考察したのと同じような関係が、ここにはそのまま、つまり何の抽象も必要なく、具体的なものとして存在しているわけです。

 マルクスは労働過程がそうした抽象的なものとして論じる理由を次のように述べています。

 〈使用価値または財貨の生産は、資本家のために資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えはしない。したがって、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態からも独立に考察されなければならない。〉(全集版233頁)

 そしてそうした考察の最後に、その意義を次のように述べています。

 〈われわれがその単純で抽象的な諸要素において叙述してきたような労働過程は、諸使用価値を生産するための合目的的活動であり、人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、したがってこの生活のどんな形態からも独立しており、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものである。それゆえ、われわれは、労働者を他の労働者たちとの関係において叙述する必要がなかった。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然とその素材があれば、それで十分であった。小麦を味わってみてもだれがそれを栽培したのかわからないのと同様、この過程を見ても、どのような条件のもとでそれが行なわれるのか、奴隷監督の残忍なムチのもとでか、資本家の心配げなまなざしのもとでなのか、それともキンキナトゥスが数ユゲルム〔1ユルゲム=約25アール〕の耕作において行なうのか、石で野獣を倒す未開人が行なうのか、はわからない。〉(241-2頁)

 ここでマルクスが述べているように、マルクスのロビンソンの孤島での生活の考察は、それが〈人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、……人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの〉としてではないかと思います。それがロビンソンの孤島での生活では、一つの空想的な物語とはいえ、具体的に何の抽象も必要のない形で存在しており、その具体性において、一般的条件が考察できるからではないかと思うわけです。

 だからこうしたマルクスのロビンソン物語の特徴を理解し、古典派経済学のそれとの相違を踏まえた上でなら、「マルクスにもロビンソン物語がある」と言っても決して間違いではないのではないかと思うわけですが、どうでしょうか。 

(以下は「その2」に続きます。)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第39回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2011-10-29 00:05:27 | 『資本論』

第39回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎注29について

 注29についても、一応、学習会では問題にしたので、その紹介をしておきましょう(但し、ここでは関連資料を紹介するのみで、文節ごとの解説はやりません)。

【注29】〈(29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は、原始的な漁師と猟師にも、ただちに商品所有者として、魚と獣とを、それらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換をとり行わせている。そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている。『オーエン氏の平行四辺形』が、ブルジョア社会形態以外に彼が知っていた唯一の社会形態だったようである」(カール・マルクス『経済学批判』、38、39ページ〔『全集』、第13巻、45ページ〕)。〉

 レポーターのJJ富村さんから提出されたレジュメには、次のような全集版の注解からの紹介がありました。

 〈オーウェンの平行四辺形〉(全集版,注解)
 (29)オーエン氏の平行四辺形について、リカードは、その著『農業保護について』、第四版、ロンドン、1822年、21頁〔岩波文庫版、大川訳『農業保護政策論』、66頁〕のなかで触れている。オーエンは、そのユートピア的な社会改造計画のなかで、集落が平行四辺形または正方形の形態で設けられれば、経済性の立場からも、居住性の立場からも最も合理的であるということを証明しようとした。〔河出書房版『世界大思想全集』、社会・宗教・科学篇、第一〇巻、永井・鈴木訳『ラナーク州への報告』、87頁以下。〕

 さらに『剰余価値学説史』のなかでは、マルクスはリカードの『農業保護について』から一文を引用して、次のように批判しています。

 〈「もしわれわれがオーエン氏の平行四辺形(14)の一つに住み、われわれの全生産物を共同に享受するとすれば、その場合には、豊富であることの結果として苦しむものはだれもいないであろう。しかし、社会が現在のように構成されているかぎり、豊富であることがしぼしば生産者にとっては有害であり、稀少であることが彼らにとっては有利であろう。」(『農業保護について』、第四版、ロンドン、1822年、21べージ。〔岩波文庫版、大川一司訳『農業保護政策批判』、666ページ。〕)
 リカードは、ブルジョア的生産を、もっと明確に言えば資本主義的生産を、生産の絶鉢的な形態として把握している。したがって、その生産関係の一定の形態が、生産そのものの目的--豊富--と矛盾したり、それを拘束したりすることはけっしてありえない。ここで言っている豊富とは、使用価値の量とその多様性とをともに含んでいるものであって、この使用価値はこれでまた、生産者としての人間の豊かな発展、彼の生産能力の多方面にわたる発展を条件とするものである。そしてリカードは、ここで、こっけいな矛盾に陥っている。われおれが価値と富について語るのであれぽ、ただ全体としての社会だけを念頭におかなければならない。といっても、資本と労働について語るとすれば、「総収入」はただ「純収入」を生みだすためにのみ存在する、ということは自明なことである。彼がブルジョア的生産について驚嘆しているのは、実際には、その一定の形態が--先行する諸生産形態に比較すれば--生産諸力の無拘束な発展を許容する、ということである。それがそうしたことを遂行しなくなったり、そうしたことを遂行している内部に矛盾が現われたりする場合には、彼は矛盾を否定する。というよりはむしろ、生産者を顧慮することなく、富そのもの--使用価値の量--をそれ自体究極の目標だとすることによって、矛盾そのものを他の形態で言い表わすのである。〉(『学説史』全集第26巻III62-3頁)

 (注解14--オーエンは彼のユートピア的な社会改革案のなかで、住居は平行四辺形かまたは正方形かに設計されるのが経済性の立場からも家庭生活の立場からも最も合目的的だ、ということを証明しようと試みた。)

◎第13パラグラフ

 次は第13パラグラフです。

【13】〈(イ)そこで次に、ロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を移そう。(ロ)ここでは、独立した男の代わりに、だれもが依存しあっているのがみられる--農奴と領主と、臣下と君主と、俗人と聖職者とが。(ハ)人格的依存が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づけている。(ニ)しかし、まさに人格的依存関係が与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは異なる幻想的姿態をとる必要はない。(ホ)それらは、夫役や貢納として社会的機構の中に入っていく。(ヘ)労働の現物形態が、商品生産の基礎上でのように労働の一般性ではなく労働の特殊性が、ここでは、労働の直接的に社会的な形態である。(ト)夫役労働も、商品を生産する労働と同じように、時間によってはかられるが、どの農奴も、彼が領主のために支出するのは彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。坊主どもに納めるべき十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。(チ)だから、ここで人々が相対しているさいに身につけている仮面がどのように判断されようとも、彼らの労働における人格と人格との社会的諸関係は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現れ、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的諸関係に変装されてはいない。〉

 (イ)それでは次に、ロビンソンの明るい島から、暗いヨーロッパの中世に目を移しましょう。

 ここではロビンソンの島の明るさと、暗い中世ヨーロッパが対比されていますが、当時の歴史学や経済学では「暗い中世」像が支配的だったのだそうです。

 (ロ)中世では、孤島の独立した男の代わりに、誰もが依存しあっています。例えば農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者というように。

 商品生産の社会では、労働の社会的関係は物的に覆い隠され、物の社会的関係として現れ、神秘的な形態をとります。だからマルクスは商品生産とは異なる別の生産諸形態に逃げ込めば、こうした一切の神秘化、いっさいの魔法妖術は、消え失せるとして、最初はロビンソンの孤島の生活を考察しました。孤島ではロビンソンがただ一人いるだけですから、そもそも人間の社会的関係そのものが問題ではありませんでした。しかしロビンソン個人のささやかな生活を支えるためにも、彼は彼の諸機能を、さまざまな作業として支出しなければならず、それらが互いに関連し合っていなければならないという形で、労働の結びつきが、やはりそこでも問題であることが示されました。しかしそれらはロビンソン個人の諸機能ですから、そこには何の神秘性もないことが確認されたのでした。

 そこでマルクスは、今度は、孤立した一人の人間ではなく、人間相互の関係が、最初から直接に関連し合っていて、物の関係として現れていない社会として、中世の社会を取り上げているわけです。つまり中世では人々は最初から互いに依存し合っている社会なのです(支配・被支配の服従関係ですが)。このロビンソンから中世へ、そして家父長制の家族共同体へ(第14パラグラフ)、そして最後は自由な人々の連合体へ(第15パラグラフ)、という考察の順序には、どういう意味があるのかも一つの問題なのですが、それはまたおいおい考えて行きたいと思います。とりあえず、ロビンソン物語から中世への移行にはそうしたマルクスの意図が感じられると、今の時点では指摘しておきたいと思います。

 (ハ)中世では、人格的な依存関係が、物質的生産の社会的関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づけています。

 学習会では、ここで述べられていることは、人間の物質的諸関係がすべての関係の基盤だという、いわゆる「唯物史観」の定式化と言われるものと同じといえるのか、印象としては若干の齟齬が感じられるように思うが、どう考えたらよいのか、という疑問が提出され、少し議論になりました。しかし、この問題は、別の項目を立てて検討・紹介したいと思います。

 (ニ)(ホ)しかし、まさに人格的な依存関係が社会の基礎をなしているからこそ、そこでは労働は夫役として、またその生産物も貢納という形で、その社会的な機構のなかにあり、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないわけです。

 マルクスは『資本論』第1部第3編「第8章 労働日」「第2節 剰余労働への渇望 工場主とボヤール」(ボヤールというのはロシアやルーマニアの領主のこと)において、領主と農奴との関係について論じています。そこでは農奴の剰余労働は〈夫役において一つの独立な感覚的に知覚することのできる形態をもっている〉(307頁)〈彼は一方(必要労働--引用者)を彼自身の耕地で行い、他方(剰余労働--同)を領主の農場で行う。それだから、労働時間の二つの部分は独立に並んで存在する。夫役の形態では、剰余労働は明確に必要労働から区別されている〉(307-8頁)と。つまり農奴は自分のために彼自身の耕地で働く労働と領主のために農場で働く労働とは、時間的にも空間的にも、だからまた感覚的にもハッキリ区別されていて、そこにはそれ以外の何らかの幻想的なものが入る余地はまったくなかったということだと思います。

 ついでに、ドナウ諸侯国やルーマニア諸州では夫役から農奴制が発生した事情について、次のように述べていることも紹介しておきましょう。

 〈夫役はドナウ諸侯国では現物地代その他の農奴制付属物と結びつけられていたが、しかし支配階級への決定的な貢租となっていた。このような所では、夫役が農奴制から発生したことはまれで、むしろたいていは反対に農奴制が夫役から発生した。ルーマニア諸州でもそうだった。これら諸州の元来の生産様式は共同所有を基礎としていたが、それはスラヴ的形態の共同所有ではなく、インド的形態のそれではなおさらなかった。土地の一部分は自由な私的所有として共同体の諸成員によって独立に管理され、他の部分――ager publicus〔公共地〕――は彼らによって共同に耕作された。この共同労働の生産物は、一部は凶作その他の災害のための予備財源として役だち、一部は戦費や宗教費やその他の共同体支出をまかなうための国庫として役だった。時がたつにつれて、軍事関係や教会関係の高識者たちは共有財産といっしょに共有財産のための仕事を横領した。自分たちの公共地での自由な農民の労働は、公共地盗人たちのための夫役に変わった。それと同時に農奴制諸関係が発展した。〉(308頁)

 つまり夫役はもともとは農村共同体の共有する公共地での自由な農民たちの共同体のための労働だったのが、その公共地を軍事関係者や教会関係者が横領して支配者に成り上がり、共同体の構成員を支配するようになったために、公共地での自由な農民の労働は夫役になってしまい、そこから農奴制諸関係が生まれたのだということのようです。

 (ヘ)労働の現物形態が、つまりその特殊な形態が、ここでは、労働の直接に社会的な形態ですから、商品生産の基礎上でのように、労働生産物に対象化された労働が抽象的・一般的な性格に還元されて、初めて社会性を獲得するというような、難しいわけの分からないものは何もありません。

 (ト)夫役労働も、確かに商品を生産する労働と同じように時間によってはかられますが、どの農奴も、彼が領主の農場で支出するのは、彼の個人的労働力の一定量であるということは知っています。また教会に納める十分の一税も、坊主の与える祝福よりハッキリしています。

 (チ)だから、ここで人々が相対しているさいに身につけている仮面(農奴、領主、臣下、君主、俗人、聖職者等々)がどのように判断されようとも、彼らの労働における人格と人格との社会的諸関係(農奴と領主、俗人と聖職者との関係)は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現れ、物と物との、あるいは労働生産物と労働生産物との、社会的関係というような変装された形では現れないのです。


◎中世では、人格的な依存関係が、物質的生産の社会的関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づける、という定式は、果たして唯物史観の定式化とどのように関係するのか?

 それでは、文節〈(ハ)人格的依存が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づけている〉に関連して提起した問題を改めて考えてみましょう。つまりここで述べていることは、唯物史観の定式化と言われているものと同じと考えてよいのか、それともそれとは違ったものなのか、という問題です。

 この問題を考えるために、マルクスが『経済学批判』「序言」で〈私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単にいえば次のように定式化することができる〉として述べている一文を紹介しておきましょう。

 〈人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。〉(全集13巻6頁)

 このようにマルクスはここでは〈物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する〉と述べています。これにもとづけば、物質的生活の生産様式が、人間の社会的な関係をも制約すると理解できそうに思えますが、しかし、マルクスは中世においては、人格的な依存関係が、物質的生産の社会的関係をも……性格づけていると述べています。果たしていわゆる唯物史観の定式化は、ブルジョア社会だけに適応できるものであって、中世の世界では適応不可とマルクスは考えていたのでしょうか。

 しかしそうでないことは、先の定式化の最後のあたりで、マルクスは〈大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である〉と述べていることを見ても明らかです。それは封建的生産様式にも妥当すると考えているのです。しかし、では先の文節の一文はどのように考えたらよいのでしょうか。

 唯物史観の定式化をよく見ますと、マルクスが〈物質的生活の生産様式〉と述べているものは、その前で述べている〈実在的土台〉と同義と考えられます。そして〈実在的土台〉というのは、〈社会の経済的構造〉であり、それはすなわち〈生産諸関係の総体〉を意味しています。そして〈生産諸関係〉というのは、〈物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する〉ものであるということが述べられているわけです。つまり物質的生産諸力の発展段階に対応して、社会的な生産諸関係が形成されるのであり、その総体が土台になっていると述べているわけです。そしてそれがまた〈物質的生活の生産様式〉でもあるということではないかと思います。

 そして先の文節では、マルクスは〈人格的依存が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づけている〉と述べています。つまりここでは人格的依存関係が、直接、物質的生産の社会的諸関係、すなわち生産諸関係をなしているとマルクスは述べているわけです。だからそれが物質的生産諸力の一定の発展段階に対応していることはいうまでもありません。つまり物質的生産諸力の一定の発展段階に対応して、人格的依存関係が直接社会的な生産諸関係を形成しているわけです。そしてそれがこの場合は社会の経済構造を形成し、実在的土台をなしているといえるわけです。このように考えれば、この文節で述べていることが、マルクスのいわゆる唯物史観の定式化と決して矛盾するものではないことが分かるでしょう。

 また学習会では、マルクスは『経済学批判要綱』では、社会諸形態の歴史的な発展段階を、三つの継起する段階として特徴づけて論じているという紹介がされました。それも、ここで紹介しておきましょう。

 〈交換価値においては、人格と人格との社会的関連は物象と物象との一つの社会的関係行為に転化しており、人格的な力能は物象的な力能に転化している。社会的な力を交換手段がもつことが少なければ少ないほど、つまり交換手段がいまだに直接的な労働生産物の性質や交換者の直接的諸必要とかかわりあいがあればあるほど、諸個人を結びつける共同団体--家父長的関係、古代の共同団体、封建制度、ギルド制度--の力は、まだそれだけ大きいにちがいない。……各個人は社会的な力を一つの物象の形態でもっている。この社会的な力を物象から奪いとってみよ。そうすると諸君は、それを諸人格のうえに立つ諸人格にあたえざるをえない。人格的な依存諸関係(最初はまったく自然生的)は最初の社会諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性は狭小な範囲においてしか、また孤立した地点においてしか展開されないのである。物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的諸欲求、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす。〉(『要綱』草稿集第1巻137-138頁、但し、挿入されている原文はドイツ語がうまく表記できないためにカットしました。)

 また関連すると思われる、『資本論』第3巻第48章の最後の一文も紹介しておきましょう。

 〈以前のいろいろな社会形態では、この経済的神秘化(生産関係の物化や生産当事者に対する生産関係の独立化と、それが生産者に対して、圧倒的に彼らを支配する自然法則として現れ、彼らに対立して盲目的な必然性として力を振るうこと--引用者)は、ただ、おもに貨幣と利子生み資本とに関連してはいってくるだけである。それは次のような場合には当然排除されている。第一には、使用価値のための、直接的自己需要のための、生産が優勢な場合である。第二には、古代や中世でのように奴隷制や農奴制が社会的生産の広い基礎をなしている場合である。この場合には生産者にたいする生産条件の支配は、支配・隷属関係によって隠されていて、この支配・隷属関係が生産過程の直接的発条として現われており、目に見えている。自然発生的な共産主義が行なわれている原始的共同体のなかでは、また古代の都市共同体のなかでさえも、その諸条件を含めてのこの共同体そのものが生産の基礎として現われ、また共同体の再生産が生産の最終目的として現われる。中世の同職組合制度にあってさえも、資本も労働も無拘束なものとしては現われないで、それらの相互の関係は、組合制度やそれと関連する諸関係やまたこの諸関係に対応する職業上の義務や親方資格などの諸観念によって規定されたものとして現われる。〉(全集25b1064-5頁)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【付属資料】

●第12パラグラフに関するもの

《初版本文》

 〈島の上でのロビンソンを例にとってみよう。彼は、生来つつましやかであるが、それでもいろいろな種類の必要をみたさなければならず、したがって、道具を作り、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁労をし、狩猟をする等々、いろいろな種類の有用な労働を行なわなければならない。祈祷とかこれに類することは、ここでは触れない。というのは、わがロビンソンは、こういったことに喜びを見いだし、この種の行動を気晴らしだと思っているからである。彼の生産機能が種々雑多であるにもかかわらず、彼は、これらの機能が、ほかならぬロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって、人間労働のいろいろなやり方でしかない、ということをわきまえている。必要そのものが、彼を強制して、彼の時聞を彼のいろいろな機能のあいだに精確に配分させている。彼の全活動のなかでどれがより大きなスペースを占めどれがより小さなスペースを占めるかは、目ざす有用効果を達成するために克服しなければならない困難の大小いかんで、きまることである。経験がこのことを彼に教える。そして、わがロビンソンは、時計や帳簿やインクやぺンを難破船から救出していたので、立派なイギリス人として、直ちに、自分自身のことを帳簿につけ始める。彼の財産目録には、彼がもっている諸使用対象の、それらの生産に必要ないろいろな仕事の、そして最後に、これらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の、明細書が、記入されている。ロビンソンと彼の自家製の富を形成している物とのあいだのいっさいの関係は、ここではきわめて簡単明快であるから、M・ヴィルト氏でさえ、特に精神を緊張させなくてもこれらの関係を理解できたであろう。それにもかかわらず、これらの関係のうちには、価値のすべての本質的な規定が含まれている。〉(江夏訳60頁)

《補足と改訂》

 〈経済学はロビンソン物語を好むから〈注)、まず孤島のロどンソンに登場ねがおう。(P. 3 6、37、I)ここでの注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は、原始的な漁師と猟師にも、ただちに商品所有者として、魚、と獣とを、それらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換をとり行なわせている。そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、1817年にロンドン取引所でもちいられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている。『オーエン氏の平行四辺形』が、ブルジョア的社会形態以外に彼が知っていた唯一の社会形態だったようであるJ (『批判』、p.38、39)〉(33頁)

《フランス語版》

 〈経済学はロビンソン物語を好むので、まずロビンソソを彼の島に訪れよう。
 ロビソソンは、生来そうであるように慎ましやかであるが、それでもさまざまな必要をみたさなけれぽならない。たとえば家具を作り、道具をこしらえ、動物を馴らし、漁労をし、狩猟をするなど、各種の有用労働を行なわなければならない。彼の祈濤その他これに類するつまらぬことについては、なんら語る必要もない。というのは、わがロビンソソは、そういうことに悦びを見出して、この種の活動は元気をますための気晴しであると見なしているからである。彼の生産機能が多様であるにもかかわらず、それらの機能はほかならぬロビンソンの生活設計のためのさまざまな形態でしかない、すなわち、ただたんに人間労働のさまざまな様式でしかない、ということを彼は知っている。必要そのものにせまられて、彼は自分の時間を種々の仕事に配分しなければならない。彼の総労働のなかで、ある仕事がより大きな範囲を占め、別の仕事がより小さな範囲を占めるが、このことは、彼が目ざす有用な効果を得るために克服しなけれぽならない困難の大小に依存している。経験が彼にこのことを教えたのであって、時計や台帳やペンやイソキを難破船から救い出したわがロビソソソは、立派なイギリス人として、まもなく日々の行為をくまなく記帳する。彼の財産目録には、彼が所有する有用物についての、それらの生産に必要な種々の労働様式についての、そして最後に、これらさまざまな生産物の一定量が平均して必要とする労働時間についての、明細が記されている。ロビンソソと彼の自製の富である諸物とのあいだの関係はことごとくきわめて簡単明瞭であって、ボードリャール氏〔ブルジョア経済学者〕もとりわけ心を緊張させずにこのことを理解できるほどである。それでも、価値のあらゆる本質的な規定がこのうちに含まれている。〉(52頁)

●注29に関するもの

《フランス語版》

 〈(29)リカードにさえ、ロビンソン物語がある。リカードにとっては、原始的な狩猟者と漁夫とは、魚と獣とをそれらの価値のうちに実現された労働時間に比例して交換する商人である。このばあいリヵードは、狩猟者と漁夫とが彼らの労働用具の計算のために、ロンドン取引所で一八一七年に使われていた年賦償却表を参照するという、かの特異な時代錯誤を犯している。「オーウェン氏の平行四辺形〔集落が平行四辺形であれば最も合理的である、というオーウェンのユートピア的な社会改造計画〕」は、リカードがブルジョア社会以外に知っている唯一の社会形態であるようだ。〉(52頁)

●第13パラグラフに関するもの

《補足と改訂》

 〈そこで次に、ロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を移そう。ここでは、独立した男の代わりに、だれもが依存し合っているのが見られる--農奴と領主と、臣下と君主と、俗人と聖職者とが。人格的依存が、まさしく、物質的生産の社会的関係をも、その上に立つ他のすべての生活領域をも性格づけている。しかし、まさに人格的依存関係が与えられた社会的基盤をなしているからこそ、したがって、労働も生産物も、それらの現実性とは異なる幻想的姿態をとる必要はない。それらは、夫役や貢納として社会的機構のなかにはいっていく。ここでは労働の自然形態が、商品生産の基礎上でのように労働の一般性ではなく労働の特殊性が、労働の直接的に社会的な形態である。夫役労働も、商品を生産する労働と同じように、時聞によってはかられるが、どの農奴も、彼が領主のために支出するのは彼の個人的労働力の一定分量であるということを知っている。坊主どもに納めるべき十分のー税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。だから、ここで人々が相対しているさいに身につけている社会的扮装がどのように判断されようとも、彼らの労働における人格と人格との社会的諸関係は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現われ、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的諸関係に変装されてはいない。〉(33-4頁)

《フランス語版》

 〈さて、ロビソソソの光り輝く島から暗いヨーロッパの中世に移ろう。われわれはここでは、独立した人間のかわりに、奴隷と領主、家臣と宗主、俗人と聖職者という、依存しあっている万人を見出す。この人的依存が、物質的生産の社会的関係をも、この物質的生産が土台として役立っているところの他のすべての生活領域をも、特徴づけているのである。そして、この社会が人的依存を基礎としているからこそまさに、すべての社会的関係が人間のあいだの関係として現われる。したがって、さまざまな労働とその生産物とは、実在とちがった幻想的な姿をとるには及ぽない。それらは、夫役や現物給与や現物給付として現われる。労働の自然形態、労働の特殊性- 商品生産におけるように労働の一般性、鋤労働の抽象的性格ではないーが、労働の社会的形態でもある。夫役労働も、商品を生産する労働と全く同じょうに、時間で測られる。だが、個々の農奴は、アダム・ス、ミスのような人に頼るまでもなく、自分の主人のために支出するものが自分自身の労働力のなかの一定量であることを、非常によく承知している。司教に納めるべき十分の一税は、司教の祝福よりもはっきりしている。だから、人間がこの社会でかぶっている仮面をどのように判断するにしても、諸個人各自の労働における彼らの社会的関係は、彼ら自身の人的関係としてはっきりと確認されるのであって、物の社会的関係、労働生産物の社会的関係に変装してはいない。〉(53頁)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第39回「『資本論』を読む会」の案内

2011-10-09 18:15:42 | 『資本論』

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                                    
                                    
 EUの信用不安が止まらない。

 EUの政府債務問題への対応が、なかなか具体化しないからである。

 まず当面の課題としてギリシャのデフォルト(債務不履行)回避に必要とされる計80億ユーロ(約8千億円)の融資さえ、3日の財務相会合では決定を先送りしてしまった。ギリシャが来年までの財政赤字削減目標の達成が困難と表明したこともあり、ギリシャの財政状況を検証する専門家チームの結論待ちの様相である。

 さらにEU全体に広まる信用不安に対応する欧州金融安定化基金(EFSF)の拡充にしても、具体的には進みそうもないのである。

 こうした政府債務危機がEUにおいて表面化したのは、EUでは通貨は統一しているものの、財政や国債の発行は各国バラバラであり、08年のリーマン・ショックによる資本の危機を救済するために、各国がそれぞれに野放図に政府債務を拡大したからである。そのツケが、ギリシャなど経済的に弱い部分からソブリン・リスク(国家危機)として生じ、それがEU全体の信用不安へと拡大する恐れが出てきているわけである。

 世界の先進各国が国債発行等によって国家財政の赤字を拡大して資本救済に走り始めたのは、70年代の石油ショック以降であるが、特に08年の世界的な金融恐慌以降は、ほとんどの国で財政赤字が拡大している。だからEUの危機は“対岸の火事”ではなく、世界的な信用不安へと再び突入する恐れが出てきているのである。

主要先進国の一般政府債務残高(グロスベース)

 ソブリンデフォルト(国家債務不履行)のリスクは、資本主義の矛盾の総合的な爆発である世界市場恐慌の現代的な現れと言うことができる。現代資本主義においては、国家の経済過程への介入が重要な特徴の一つになっており、それに伴って、恐慌の現れ方も変化してきたからである。

 マルクスは、国家の経済過程への介入について、資本主義が黎明期(本源的蓄積期)にあったとき、植民制度や国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度によって、資本の強蓄積を温室的に促進したと指摘している。その後、資本主義は自由競争の時代に入り、国家の干渉を極力排除する“自由放任”が主張された。しかし、19世紀の後半になると、資本主義は独占資本主義の時代へと突入し、再び国家の経済過程への介入は顕著になってきたのである。

 もっとも同じ国家の経済過程への介入といっても、国家の果たす歴史的役割は異なっている。一方は資本主義の黎明期に、資本主義の本源的蓄積を助け保護したのに対して、他方は資本主義の黄昏期に、資本主義的生産の崩壊を国家的信用によってくい止め、その延命を図ろうとするものである。

 マルクス自身は、こうした現代資本主義の新しい傾向を知るよしもなかったが、しかしそれでも、現代資本主義では普遍的なものとなった株式会社の発展について、〈それはある種の諸部面では独占を成立させ,したがってまた国家の干渉を誘い出す〉(全集25a559頁)と、将来の資本主義においては、国家の干渉が重要な特徴になることを示唆している。

 現代資本主義を深く理解するためには、やはり『資本論』の研究は必要である。ぜひ、貴方もいっしょに『資本論』を読んでみませんか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第39回「『資本論』を読む会」・案内


■日   時    10月16日(日) 午後2時~

■会  場   堺市立南図書館
      (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

主  催  『資本論』を読む会(参加希望者はご連絡くださいsihonron@mail.goo.ne.jp)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする