『 資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か
民主党の代表選挙が、菅直人首相と小沢一郎元幹事長との一騎討ちとなり、
党を二分する激しい選挙戦が闘われています。
停滞する日本経済を如何に建て直すか、折りからの急速な円高にどう対応するか等々も一つの争点です。日本記者クラブで行われた公開討論会でも対応が問われましたが、なかなか両候補とも有効な手段が打ち出せないというのが本当のところではないでしょうか。
以前にも指摘しましたが(第25回案内参照)、「為替」というのは、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介して振り替えることによって、現金を運ばずに決済するための信用用具(有価証券)であり、だから決して厳密な意味での「通貨」と同じではないし、為替相場は通貨の交換レートとは概念的には異なるものなのです。
通貨と為替とはまったく異なる流通(一方は商品市場、他方は貨幣市場)に属し、通常は直接的には関連しないが、しかし間接的には関連しているし、その関連を理論的に解明することが重要であるが、それを正しく説明しているものはほとんど見かけないとも指摘しました。だから今回は、この点を少し説明したいと思います。
菅首相は、先の討論会で、記者の質問に答えて、「今回の急激な円高の背景には、アメリカ経済が期待されたほどの回復にいたっていないという、(米連邦準備制度理事会議長の)バーナンキさんなんかの自らの発言もあって、ある意味ドル安という形で円高になってきている」と答えていました。
ここで「ドル安という形で円高になってきている」という意味は、ドルの“減価”が背景にあると言いたいのだと思います。もちろん、菅首相が通貨と為替との区別ができているとは思えませんが、こうした指摘には一定の客観的な根拠がないとはいえません。
ニューヨーク金市場における金価格のここ2カ月間の推移をみますと、図にあるように、7月始めから9月始めにかけて、金価格は1オンス1200ドルから1250ドルへと高値に推移しています(つまりそれだけドルの代表する金量は減り、ドルは“減価”しています)。
これに対して、東京金市場では、同じ期間、1グラムの金の価格は3400円前後を上下しているだけで、一方的な上昇傾向を示しているわけではありません。
1グラム=0.03215トロイオンスで換算した場合、1ドル札と1万円札はそれぞれどれだけの金量を代表し、それがどのように推移したのかを見てみますと、7月初めごろの円とドルの通貨の実際のレートは1円=89.4ドルであるのに対して、9月初めにはそれが1円=84.6ドルになっています。
これは通常言われている「為替レート」とは異なり、実際のアメリカ国内で流通しているドル札の代表する金量と日本国内で流通する円札の代表する金量との比較から計算した、その意味ではその概念にかなった「通貨レート」なのです。
為替相場における、ドル建て、円建てのそれぞれの為替の価格も、当然、こうした各国の通貨の“価値”(代表する金量)をもとにしていることはいうまでもありません。金が諸商品の価値を尺度する唯一の貨幣商品であることは今日でも変わっていないのです。人によっては、金はすでに貨幣ではなく、「潜在的な貨幣としてあるだけだ」(状況の変化によっては貨幣になりうる可能性はあるが、現実には貨幣ではない)と言います。しかしそれは間違っています。金が「潜在的に貨幣」であるといいうるのは、金が鉱山から採掘されて、まだ金採掘業者がそれを他の諸商品との交換に出す前の段階にある金に言いうることであって、例えば金が世界のさまざまな金融機関、特に中央銀行やあるいは諸個人によって貯蔵されている場合については言い得ません。それらは本源的な蓄蔵貨幣として存在する金であり、だからそれらは“正真正銘”の貨幣そのもの(「本来的な貨幣」、あるはマルクスがいうところの「第三の規定による貨幣」)なのです。こうした誤った主張が出てくるのは、貨幣についての正しい概念が欠落しているからだと思います。実際に流通していなければ貨幣とはいえないというのは、古典派経済学的な間違った貨幣論に戻ることにほかなりません。
そもそも諸商品の価値とは、与えられた生産諸力のもとで諸商品の使用価値が表している社会的分業にもとづいて、それらの使用価値を生産するために、社会の総労働を如何に配分されるべきかを示す指標なのです。それによって基本的な社会の物質代謝は維持されているのです。そしてその価値を目に見えるように表現し尺度するのが貨幣なのです。というのは、この社会ではそうした総労働の配分は意識的に行われるのではなく、ただ諸商品の交換の結果として客観的に貫かれるものとして存在するからです。だから諸商品の価値はただ別の共通な一商品によって相対的にしか表現できないし、尺度出来ないのです。そして商品世界から排除されて、そうした諸商品の価値を表現し尺度するものこそ貨幣なのです。
だから今日の社会で諸商品が生産され、それがさまざまな形で売買されて、それを必要とするところに配分され、生産的にかあるいは個人的に消費されて、社会の物質代謝が維持されていることは誰もが認めることです。ということはこの社会に厳然として価値法則が貫いていること、諸商品を流通させるに必要な貨幣量が、それぞれの国ごとに客観的な法則として厳然として存在していることを、それらは示しているのです。実際にアメリカ国内で流通しているドル札であるとか、日本国内で流通している円札などは、そうした客観的に決まってくる流通必要貨幣量(流通必要金量)をただ代理しているだけなのです。それらがどれだけの金量を代理しているかは、不換制の今日では法的・制度的には決まっていません。しかし法的・制度的に決まっていないからといって、それらが一定の金量を代理している現実そのものが無くなるわけではありません。実際に流通しているドル札や円札がどれだけの金量を代理しているかは、現実の経済過程(実際の商品流通の現実)によって決まってくるのです。そもそも流通代理物がどれだけの金量を代理しているかは、何か法的・制度的に決められるものではなくて、あくまでも現実の経済過程そのものが決めるのです。兌換制は、実際の経済過程で決まってくる金量を(だからそれは常に変動するわけですが)、常に一定の量に戻す力が働くように制度的に保障しているだけなのです。歴史的には、金鋳貨が流通しているときでさえ、それらの鋳貨は現実の流通過程では象徴と化すために、実際の金の市場価格とのずれが生じてくるのであって、そうした結果、時の権力者(国王など)は金貨の度量標準の変更を余儀なくされたりしたのです。
では、実際に流通しているドル札や円札がどれだけの金量を代理しているのかを知るのはどうすれば出来るのでしょうか。それをわれわれが知りうるは、それぞれの国における金の市場価格以外にはありません。金の市場価格は、さまざまな要因によって決まり、変動します。一つは金の価値そのものの変化によって、あるいは現実の流通必要金量の変化によって、流通代理物の量が流通の外部から強制的な注入によって変化することによって、さらには直接的な金の需給によってです。だから時々刻々変化する実際の金の市場価格そのものは、直接にそれぞれの通貨がどれだけの金量を代理しているのかを必ずしも正確に表しているとはいえませんが、しかし直接的な需給の変動を均せば、やはりそれは流通代理物がどれけの金量を代理しているのかをわれわれに教えているのです。
しかし実際には、金は他の商品と同じように売買されており、単なる一つの商品にすぎないように見えます。しかしこれは単なる外観であって、決して金の売買と他の商品の売買とは同じではありません。もちろん、金も例えば工業用の材料として売買されるなら、それは他の商品と同じです。しかし金取り引きの多くはそうした金の使用価値を実現する(金を何らかの生産に使う)ためのものではありません。多くの人(あるいは法人・機関)は金を購入したからといって、金を消費するわけでは無いのです。だから金商品の購入というのは一つの外観であって、実際にはそれは流通貨幣を蓄蔵貨幣に転換しているのです。むしろこうした金の売買の現実こそが、金が依然として貨幣であることを物語っているのです。金を蓄蔵しているのは、石油やレアアースを備蓄しているのはわけがちがうのです。後者はやがてはそれを使用する(消費する)ために備蓄しているのですが(だから物質代謝の一過程ですが)、金の備蓄(蓄蔵)はただ価値の絶対的な形態を手にしているだけで、必要とあればいつでも通貨(流通貨幣)に転換して、諸商品の購入に充てることを考えて蓄蔵されているのです(だからそれは物質代謝を媒介するだけで、物質代謝の一過程ではない)。
さて問題は、為替です。各国の通貨(ドル札や円札)そのものは、すでに何度も述べたように、決して為替とは直接には関係せず、その“価値”(代表する金量)はそれぞれの国内の商品市場の現実(流通する商品の価格総額、流通速度、諸支払の相殺度合い)に規定されているのであり、その限りでは独立変数なのです。
実際の為替の相場そのものは直接には為替の需給に左右されますが、しかしそうした為替の売買には、国際的な諸商品の売買が反映しており(もちろん、為替は国際的な価値の移転だけのためにも売買されますが)、そして諸商品が売買される価格は、それぞれの国の通貨の“価値”によって規定されていることはいうまでもありません。だから為替の売買も、そのベースにはそれぞれの通貨の“価値”の比率が存在するといえるわけです。
だから菅首相の肩をもつわけではありませんが、今回の円高には両国の通貨“価値”の比率の変化がある程度反映しているといえるかも知れません。
為替と通貨との区別と関連はなかなか難しいものですが、そうした問題も『資本論』を研究するなかで、理論的に解明していくことが可能です。貴方も是非、共に『資本論』を読んでみませんか。
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第28回「『資本論』を読む会」・案内
■日 時 9月19日(日) 午後2時~
■会 場 堺市立南図書館
(泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)
■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)
■主 催 『資本論』を読む会