『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第32回「『資本論』を読む会」の案内

2011-02-14 13:05:43 | 『資本論』

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 


 チュニジアにおけるベンアリ独裁政権を打ち倒したジャスミン革命(チュジニアの国花の名にちなんでこう呼ばれている)は、多くの人たちにとっては、“寝耳に水”の驚きであった。
 1987年以降20数年にわたって独裁權力を欲しいままにしてきたベンアリ政権はそれほど安定したものに思われてきたのである。

 しかしそれが歴史的必然であったことは、この革命がたちまち中東・北アフリカ諸国に波及して、中東最大国であるエジプトでも、革命が起こり、30年の長期にわたるムバラク独裁政権をも打ち倒したことを見ても明らかである。

タハリール広場に集まり革命の成功を祝う群衆 

 革命の波は、ヨルダンやイエメン、アルジェリア等にも及び、中東諸国にいまだに居すわっている王国や首長国にも大きな脅威として迫りつつある。そればかりか長期の共産党一党独裁が続く隣の中国でも、為政者はその波及をくい止めようと必死だといわれている。

 今回の革命の特徴は、インターネット等を利用したものであることが取り沙汰されている。しかし、われわれが注目するのは、イスラムという宗教色の薄いものだという点である。チュニジアでもエジプトでもデモの中心にいるのは宗教者ではない。独裁政権の圧政に苦しみ、貧富の格差に憤り、失業と貧困、食料品の高騰による生活苦に対して民衆は立ち上がったのである。

 これまでの中東諸国における様々な革命や政変の多くは、宗教的色彩を帯びて、イスラム教の原理に帰れという呼びかけと共に行われ、イスラム原理主義組織がその中心にあった。しかし今回のエジプトの革命運動の中心を担ったともいわれる「4月6日運動」とは、2008年に始まった、緩やかな無党派反政府ネットワークだという。彼らは昨年の人民議会選挙でも既存野党からの共闘の呼びかけを拒否し、選挙にも参加しなかったという。反ムバラクだけでなく、既存の政党への不信を表明しているところに特徴があるのだという。

 中東・北アフリカ諸国においては、チュジニアやエジプトだけではなく、リビアやイエメンなど長期にわたる独裁政権が続く国家が多い。またサウジアラビアやバーレーンなどの湾岸諸国においては、いまだに国王が国政の実権を握り、首長が国を治めている。それに反対するさまざまな政治運動も、イランのイスラム革命に象徴されるように、イスラムの宗教色が強いのが一般的であった。

 こうしたこれらの地域の特徴は、ひとえにこれらの諸国が、資本主義的発展がいまだ十分ではなく、労働者の階級としての未発達と未成熟に起因するといえる。

 マルクスは『資本論』第1版序文で、自分がこの著作で研究するのは、資本主義的生産様式と、それに照応する生産諸関係および交易諸関係であるが、その典型をなしているのは、イギリスだと述べ、同時に、当時のイギリスに較べて、資本主義的発展が遅れていた大陸諸国について、次のように述べている。

 〈資本主義的生産の発展ばかりでなく、その発展の欠如もまた、われわれを苦しめている。近代的な窮境とならんで、一連の伝来的な窮境がわれわれを締めつけているが、これらの窮境は、古風で時代遅れの生産諸様式が、時勢に合わない社会的政治的諸関係という付随物をともなって、存続していることから生じている。われわれは、生きているものに悩まされているだけでなく、死んだ者にも悩まされている。“死者が生者をとらえる! Le mort saisit le vif! ”〉(全集23a9頁)

 しかし今回のチュジニアやエジプトの革命は、こうした諸国においても近代的な資本主義的生産の発展と労働者階級の発達は、不可避にそれに相応した政治体制を要求しつつあることを教えている。これらの諸国においても、〈こんにちの支配階級は、より高尚な動機は別として、まさに彼ら自身の利害関係によって、労働者階級の発達をさまたげている、法律により処理可能ないっさいの諸障害を取りのぞくことを命じられている〉(『資本論』同10頁)といえるであろう。

 「革命」という、既に歴史の倉庫の中でホコリを被っていたと思われていた“幽霊”が再び甦りつつある。貴方も『資本論』を読んで、共に来るべき「革命」に備えませんか。

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第32回「『資本論』を読む会」・案内


 ■日   時    2月20 (日) 午後2時~

 ■会  場   堺市立南図書館
      (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

 ■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

 ■主  催  『資本論』を読む会


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第31回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2011-02-04 00:56:57 | 『資本論』

第31回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎今年こそ

 本来なら、今年最初の『資本論』を読む会であり、その報告なのですから、「明けましておめでとう」ぐらいから始めるべきでしょうが、すでに2月です。だから、まあ、今年の決意から始めましょう。

 今年こそ、わが「『資本論』を読む会」も多くの参加者に恵まれ、充実した学習を重ねて、一層の進展をはかりたいと思います。是非、多くの皆様のご参加をお待ちしています。そのような期待と決意を込めて、報告を行います。

 ただ今回は都合により、開始時間が遅れたこともあり、進んだのは第3節の「C 一般的価値形態」の「3 一般的価値形態から貨幣形態のへ移行」だけでした。分量としてはわずか2つのパラグラフに過ぎません。しかし、ここには初版本文との展開相違などの問題もあり、議論は多義にわたりました。

◎一般的価値形態から貨幣形態のへ移行について

 今回、学習したところは、いわゆる「移行」が問題になっています。これまででも価値形態が発展する度に、それぞれ「移行」が問題になりました。初版付録の項目を見ると、それがハッキリします。例えば、次のようなものです。

 〈(9)単純な価値形態から、発展した価値形態への移行〉(江夏訳897頁)
 〈(5)総和の価値形態から、一般的な価値形態への移行〉(同899頁)

 そして今回の「移行」、すなわち〈一般的価値形態から貨幣形態のへ移行〉は、価値形態の発展としては最後の「移行」なわけです。これまでも、こうした価値形態の発展と移行には、商品の交換関係そのものの発展、あるいは商品形態の発展が背景にあり、それを前提してマルクスは考えていると指摘してきました。今回もその意味では同じなのですが、これまでは価値形態そのものの本質的な変化があったのに、今回はそうではないともマルクスは述べています(こうした事情は次の「D 貨幣形態」で考察されます)。こうした価値形態の発展とその移行は、すべて形態そのものに内在する矛盾や欠陥を指摘することから説明されてきました。その意味では、抽象的な考察だったのですが、そうした過程が実際の歴史的な発展としてはどうだったのか、という具体的なイメージを持つために、今回は、その問題から入りたいと思います。

 そのために、まずマルクス自身が徹底的に手を入れたといわれている、モスト著『資本論入門』(大谷禎之介訳、岩波書店)から関連する部分を紹介しておきましょう。

 〈さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現されるさいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、また生産物交換ととともに、しだいに発展してくる。
 生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもろの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮は、ある一定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も見発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、他の自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりではなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである。
 交換のその次に高い段階を、われわれはこんにちでもまだ、たとえばシベリアの狩猟種族のところで見いだす。彼らが提供するのは、交換向けのほとんどただ一つの財貨、つまり毛皮である。ナイフ、武器、火酒(かしゅ) 、塩等々といった彼らに供給される他人のすべての商品が、彼らにとってはそっくりそのまま、彼ら自身の財貨のさまざまの等価物として役立つ。毛皮の価値がこうして受け取る表現が多様であることは、この価値を生産物の使用価値から分離して表象することを習慣にするが、他方では、同一の価値をたえず増大する数のさまざまの等価物で計量することが必要となる結果、この価値の大きさの規定が固定するようになる。つまり、ここでは毛皮の交換価値はすでに、以前ばらばらに行なわれていただけの生産物交換の場合に比べて、はるかにはっきりした姿をもっているのであり、したがってまた、いまではこれらの物そのものもすでに、はるかに高い程度で商品という性格をもっているのである。
 こんどはこの取引を、異郷の商品所持者の側から観察してみよう。彼らのおのおのはシベリアの狩人たちにたいして、自分の財貨の価値を毛皮で表現しなければならない。こうして毛皮は、一般的等価物になる。一般的等価物は、他人のすべての商品と直接に交換可能であるばかりでなく、また他人のすべての商品にとって、共通の価値表現のために、したがってまた価値を計るものおよび価値を比較するものとしても役立つ。言い換えれば、毛皮は生産物交換のこの範囲のなかでは、貨幣となるのである。総じて同じようにして、あるときはこの商品が、あるときはあの商品が、広狭(こうきよう) さまざまの範囲で、貨幣の役割を演じた。商品交換の一般化につれて、この役割は金銀に、すなわち生まれながらにこの役割に最も適している商品種類に移って行く。金銀は一般的等価物となるのであって、これは他のすべての商品と直接に交換可能であり、また、他のすべての商品がいっしょに、これで自分たちの価値を表現し、計り、比較しあうのである。貨幣で表現された商品の価値は、商品の価格と呼ばれる。たとえば、20エレのリンネル=2分の1オンスの金 であり、かつ10ターレルが二分の一オンスの金の貨幣名であるときには、20エレのリンネル価値の大きさは、10ターレルという価格で表現される。
〉(10-12頁)

 次も少し先走りになりますが、今回の移行と関連するものとして、「第2章 交換過程」からも、紹介しておきます。

 〈直接的な生産物交換においては、どの商品もその所有者にとっては直接的に交換手段であり、その非所有者にとっては等価物である--もっとも、その商品がその非所有者にとって使用価値である限りでのことであるが。したがって、交換品は、それ自身の使用価値や交換者の個人的欲求から独立した価値形態をまだ受け取ってはいない。この形態の必然性は、交換過程に入りこむ商品の数と多様性との増大と共に発展する。課題はその解決の手段と同時に生じる。商品所有者が彼ら自身の物品を他のさまざまな物品と交換したり比較したりする交易は、さまざまな商品所有者のさまざまな商品がその交易の内部で同一の第三の種類の商品と交換され、価値として比較されることなしには、決して生じない。このような第三の商品は、他のさまざまな商品にとっての等価となることによって、直接的に--たとえ狭い限界内においてにせよ--一般的または社会的な等価形態を受け取る。この一般的商品形態は、それを生み出す一時的な社会的接触と共に発生し、それと共に消滅する。この形態は、あれこれの商品に、かわるがわる、かつ一時的に帰属する。しかし、それは、商品交換の発展につれて、排他的に特殊な種類の商品に固着する。すなわち、貨幣形態に結晶する。それがどのような種類の商品に固着するかは、さしあたり偶然的である。しかし、一般的には、二つの事情が決定的である。貨幣形態が固着するのは、外部から入ってくる最も重要な交易品--これは、事実上、内部の諸生産物がもつ交換価値の自然発生的な現象形態である--か、さもなければ、内部の譲渡されうる所有物の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものである。遊牧諸民族が最初に貨幣形態を発展させるのであるが、それは、彼らの全財産が動かしうる、したがって直接的に譲渡されうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式が彼らをたえず他の諸共同体と接触させ、したがって、生産物交換へと誘いこむからである。〉(全集版118-9頁)

 ここで、一般的等価形態である〈第三の商品は、他のさまざまな商品にとっての等価となることによって、直接的に--たとえ狭い限界内においてにせよ--一般的または社会的な等価形態を受け取る。この一般的商品形態は、それを生み出す一時的な社会的接触と共に発生し、それと共に消滅する。この形態は、あれこれの商品に、かわるがわる、かつ一時的に帰属する。しかし、それは、商品交換の発展につれて、排他的に特殊な種類の商品に固着する。すなわち、貨幣形態に結晶する〉という部分に注目して下さい。これが今回の「移行」に関連する部分なのです。

 もちろん、われわれが今考察している価値形態においては、第2章の交換過程では登場する商品所有者そのものは捨象されており、考察の対象はあくまでも商品世界そのもの、よって諸商品自身が互いに主体的に関わり合う世界を対象にしていることに注意する必要があります。以上は、あくまでも具体的なイメージで問題を考えるための参考として紹介したのです。

 それでは前置きが長くなりましたが、実際に、今回、学習した部分の解説と報告に移りましょう。

◎第1パラグラフ

 最初のパラグラフの解読です。これまでと同様、まず最初に本文を紹介し、文節ごとに検討して行きましょう。

【1】〈(イ)一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。(ロ)だから、それはどの商品にでも付着することができる。(ハ)他方、ある商品が一般的等価形態(形態Ⅲ)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。(ニ)そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。〉

 その前の小項目〈2 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉では、価値形態の発展によって、その兩極の対立も発展し、一般的等価形態になる商品は、商品世界から排除された、特別で、例外的なものになることが確認されました。そうした一般的等価形態が、今度は、貨幣に移行するわけです。その移行がここでは問題になっています。

 (イ)(ロ)一般的等価形態は価値一般の一つの形態です。だから、それはどの商品にでも付着することができるのです。

 ここで〈一般的等価形態は価値一般の一つの形態である〉というように、〈価値一般〉という言葉が出てきますが、これをどう理解したらよいのか、という疑問が出されました。これは一般的等価形態というのは〈抽象的な人間労働の一般的な物質化〉とか〈一般的な労働として、認められている〉(初版本文文庫版64頁)等と言われていたように、そうした意味で「価値一般」と言われているのだろうか、という話になり、どうもそうではないのではないか、ということになりました。というのは、ここでは〈価値一般の一つの形態である〉というように〈一つの形態〉と言われているように、一般的等価形態も価値の形態の一つだというような意味で言われているように思えること、そして〈だから〉次の文節である〈それはどの商品にでも付着することができる〉と繋がっているように思えるからです。だからここでの〈価値一般〉は文字通りに取るべきであり、「すべての商品に一般的に内在する価値」というような意味ではないか、だからすべての商品が価値を持つ限り、一般的価値形態はどの商品にも付着することが出来るというように繋がっているのではないか、ということになりました。初版本文の最後のあたりで、マルクスは次のように書いています。

 〈ところが、商品の分析が明らかにしたものは、商品形態一般としてのこれらの諸形態であり、したがって、これらの諸形態は、もし商品Aが一方の形態規定にあれば商品B、C等々は商品Aに対立して他方の形態規定をとるというように、ただ対立的にのみ、どの商品にも属している〉(江夏訳58頁)

 つまり「価値一般」の「一般」は、ここでマルクスが「商品形態一般」と述べている「一般」と、ほぼ対比できるのではないかと思えます。

 そして次には、では、どうしてマルクスは、こうした書き方から始めているのか、ということが問題になり、それは初版本文の展開と関連しているという指摘がありました。つまりこの最初二つの文節は、一般的等価形態がまだ最初の段階では、色々な商品に付着することができる。あるいは歴史的に考えてもそれはさまざまな商品に付着してきたことを前提して述べているのですが、しかしマルクス自身は、そうした歴史的な形でそれを説明するのではなく(マルクスはすでに紹介したように、「第2章 交換過程」では歴史的に論じています)、いわば論理的な形で、すなわち「価値一般の形態の一つ」なのだから、それはどんな商品にも付着できるのだという形で説明し、しかし、では、それはどんな商品に最終的には付着し、固定するのかということそのものは、論理的には、出て来ない、それは歴史的に、社会的な慣習によって決まってくるのだという形で、それ以降の文節と対比する意味も込めて、最初はこうした抽象的な、その意味では論理的・形式的な考察から始めているのではないか、という説明がありました。

 そしてそれでは、それは初版本文の展開とどのように関連しているのか、初版本文ではそもそもどのように展開されているのかということが問題になりました。初版本文では、形態IIIの次に来る形態IVは貨幣形態でなく、形態II(展開された価値形態)をさまざまな商品におけるものを並列した形で図示されているという説明がありました。しかし、では、その初版本文の形態IVは、どのような意味があるのか、という問題も議論になりましたが、それを詳しく語りだすと、大きく枠をはみ出てしまいますので、今回は、それは割愛したい思います。

 (ハ)しかし、ある商品が一般的等価形態にあるのは、他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、またその限りで、それは一般的等価形態にあるのです。だからその商品は、これまで確認してきたように、商品世界から排除された、特別な商品であり、例外的な商品でした。

 (ニ)だから、この排除が最初は、ときとところによっては、色々な商品に付着したのですが、しかし最終的に一つの商品の種類に限定されると、その瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は、客観的に一つの固定性と一般的な社会的妥当性をかちえたことになるわけです。

 この部分は初版付録ではより詳しく、より具体的に、次のようになっています。

 〈一般的な等価形態は、価値一般の形態である。だから、それはどの商品にもそなわりうるものだが、そうなるのは、それが、どんなばあいでも、他のすべての商品から排除されているばあいにかぎられている。
 それにもかかわらず、形態IIと形態IIIとのあいだの単なる形態上の差異は、すでに、形態 I とIIとの区別にはないある特徴的なものを、示している。すなわち、発展した価値形態(形態II)においては、一つの商品が、他のすべての商品を排除して、これらの商品のうちに自分の価値を表現している。この排除は純粋に主観的な過程でありうるのであって、たとえば、自分自身の商品の価値を多数の他の商品で評価するリンネル所持者の過程が、それなのである。これに反して、一商品が一般的な等価形態(形態III)にあるのは、その商品自身が他のすべての商品によって等価物として排除されているからこそであり、また、そのかぎりにおいてのことでしかない。排除は、このばあいには、排除される商品からは独立した客観的な過程である。だから、商品形態の歴史的な発展においては、一般的な等価形態は、あるときにはこの商品に、あるときにはあの商品に、かわるがわるそなわっていることがありうる。ところが、一商品は、この商品の排除が、したがってこの商品の等価形態が、客観的社会的過程の結果であるかぎりでのほかは、けっして現実に一般的な等価物として機能することがない。
 一般的な価値形態は、発展した価値形態であり、したがって、発展した商品形態でもある。素材的に全くちがっている諸労働生産物は、同一の同等な人間労働の物的な諸表現として表示されていなければ、完成した商品形態をもつことができず、したがって、交換過程において商品として機能することもできない。すなわち、完成した商品形態を獲得するためには、諸労働生産物は、統一的な一般的な相対的価値形態を獲得しなければならない。ところが、諸労働生産物がこの統一的な相対的価値形態を獲得しうるためには、これらの労働生産物がある特定の商品種類を一般的な等価物として自分たち自身の系列から排除する、ということ以外には、手段がない。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、初めて、統一的な相対的価値形態が客観的な固定性一般的社会的妥当性とを獲得したことになる。
〉(江夏訳903-4頁)

 このように初版付録では、〈商品形態の歴史的な発展〉や〈交換過程〉への言及も見られます。こうした背景が前提となって先の考察があるわけです。

 

 (第2パラグラフは「その2」に続きます。)

 

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第31回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2011-02-04 00:24:43 | 『資本論』

第31回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎第2パラグラフ

 それでは次に第2パラグラフの検討に移りましょう。

【2】〈(イ)そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。(ロ)言いかえれば、貨幣として機能する。(ハ)商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。(ニ)このような特権的な地位を、形態Ⅱではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態Ⅲでは自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。(ホ)すなわち、金である。(ヘ)そこで、形態Ⅲのなかで商品リンネルを商品金に取り替えれば、次のような形態が得られる。〉

 (イ)(ロ)そのような過程で、その現物形態に等価形態が最終的に癒着する特殊な商品種類は、貨幣商品になるわけです。言いかえると、貨幣として機能します。

 ここで全集版は「合生する」というあまり見慣れない言葉が使われていることが問題になりました。これは辞書を引いても出て来ないところを見ると造語のように思われます。新日本新書版は「癒着する」となっています(青木版も同じ)。この「癒着」は第1パラグラフで「付着」と表現されていたのとは少し違うような感じがします(因みに新日本新書版の第1パラグラフは〈したがって、どの商品もこの形態をとることかできる〉となっています)。「付着」の場合、表面にくっついているというイメージであり、だからさまざまな商品に付着するという形で使われていることが分かります。それに対して「癒着」の場合は、固くくっついてしまっているというイメージです。しかし「合生」の場合は、「合成」に近く、単にくっつくというより内部で化学反応が生じて別の何物かになってしまっているイメージの方がが強いという印象が語られました。まあ結論的には、この場合には「癒着」が相応しいのではないか、ということですが、先の引用・紹介した「交換過程」のところで使われていた「固着」という表現でも良いのではないか、という意見もありました。
 また初版付録では〈この商品種類の現物形態等価形態とは社会的に癒着している〉と〈現物形態〉の〈形態〉と〈等価形態とは社会的に癒着している〉が強調されています。つまり商品の現物の手で掴める形そのものが、一般的等価形態と癒着しているということが強調されているわけです。つまり金という物的な形態、つまりその金ピカの光り輝く形象そのものが、一般的等価物としての社会的機能と癒着してくっついて現われてくることが強調されていることに注意が必要でしょう。
 そして「貨幣商品になる」という言葉が、「貨幣として機能する」と言いかえられており、だから「貨幣商品」というのは「貨幣として機能する商品」というぐらいの意味だろうということになりました。

 (ハ)商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自の社会的な機能となり、だからその商品だけがそれを果たすことになり、社会的独占となります。

 ここで一般的等価形態は、以前(小項目1の第8パラグラフ)では、〈商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける〉と書かれていたように、一般的等価物になる商品は、商品世界から「除外される」とか「排除される」(新日本新書版)と書かれていましたが、今回は、この一般的等価物の商品は商品世界の「なかで」、一般的等価物の役割を演ずると書かれています。商品世界から「除外」されたり「排除」されたものが、その中で役割を演ずるというのもやや分かりにくいような感じがします。恐らく最初の「除外」や「排除」は相対的価値形態の列を形成する商品世界から「除外」されたり「排除」されるものと理解すべきなのかも知れません。

 (ニ)(ホ)これは一つの特権的な地位を獲得することですが、こうした特権を、形態IIでは、リンネルの特殊的な等価物の役割を演じ、形態IIIでは、自分たちの相対的価値形態を、他の商品と一緒にリンネルで表現していた、ある商品が歴史的に勝ち取ったのです。それがすなわち金なのです。

 確かに形態IIや形態IIIをふり返ると、金は前者では「または=2オンスの金」という形で、特殊的な等価物の一つとして出てきました。また形態IIIでは、リンネルで自分たちの価値を表現する多くの商品と並んで「2オンスの金=」として出てきていました。ということは歴史的には金も一つの商品として他の諸商品と交換されていた普通の商品だったということでしょう。

 (ヘ)そこで、形態IIIの一般的等価形態にあるリンネルの代わりに商品金を入れると、次のような形態が得られます。

 そして「D 貨幣形態」が次に提示されているのですが、それは次回にやることになります。

 

 …………………………………………………………………………………………

 

【付属資料】

 

●【3の表題】

《初版付録》

 〈(五) 一般的な価値形態から、貨幣形態への移行〉(江夏訳903頁)

《フランス語版》

 〈(c) 一般的価値形態から貨幣形態への移行〉(江夏他訳43頁)

●第1パラグラフに関して

《初版本文》

 〈とはいえ、われわれの現在の立場では、一般的な等価物はまだけっして骨化されていない。どのようにしてリンネルがじっさいに、一般的な等価物に転化されたのであろうか? リンネルが自分の価値を、まず一つの単一の商品で相対的に表し(形態 I )、次には、すべての他商品で順ぐりに相対的に表わし(形態II)、こうして反射的に、すべての商品が自分たちの価値をリンネルで相対的に表わす(形態III)、ということによって。単純な相対的価値表現は、リンネルという一般的な等価形態がそこから発展してきた胚珠であった。この発展のなかで、リンネルは役割を変える。リンネルは、自分の価値量を他の商品で表わすことで始まり、すべての他商品の価値表現のための素材として役立つことで終わる。リンネルにあてはまることは、どの商品にもあてはまる。リンネルの発展した相対的価値表現(形態II)は、リンネルの単純な価値表現の多数のあつまりからのみ成り立っているのであって、この形態IIでは、リンネルはまだ一般的な等価物として現われていない。むしろ、ここでは、他の商品体はどれも、リンネルの等価物になっており、したがってリンネルと直接的に交換可能であり、それゆえにリンネルと位置を取り替えることができる。
 だから、われわれは最後に次の形態を得ることになる。〉(江夏訳56頁)

《初版付録》

 〈一般的な等価形態は、価値一般の形態である。だから、それはどの商品にもそなわりうるものだが、そうなるのは、それが、どんなばあいでも、他のすべての商品から排除されているばあいにかぎられている。
 それにもかかわらず、形態IIと形態IIIとのあいだの単なる形態上の差異は、すでに、形態 I とIIとの区別にはないある特徴的なものを、示している。すなわち、発展した価値形態(形態II)においては、一つの商品が、他のすべての商品を排除して、これらの商品のうちに自分の価値を表現している。この排除は純粋に主観的な過程でありうるのであって、たとえば、自分自身の商品の価値を多数の他の商品で評価するリンネル所持者の過程が、それなのである。これに反して、一商品が一般的な等価形態(形態III)にあるのは、その商品自身が他のすべての商品によって等価物として排除されているからこそであり、また、そのかぎりにおいてのことでしかない。排除は、このばあいには、排除される商品からは独立した客観的な過程である。だから、商品形態の歴史的な発展においては、一般的な等価形態は、あるときにはこの商品に、あるときにはあの商品に、かわるがわるそなわっていることがありうる。ところが、一商品は、この商品の排除が、したがってこの商品の等価形態が、客観的社会的過程の結果であるかぎりでのほかは、けっして現実に一般的な等価物として機能することがない。
 一般的な価値形態は、発展した価値形態であり、したがって、発展した商品形態でもある。素材的に全くちがっている諸労働生産物は、同一の同等な人間労働の物的な諸表現として表示されていなければ、完成した商品形態をもつことができず、したがって、交換過程において商品として機能することもできない。すなわち、完成した商品形態を獲得するためには、諸労働生産物は、統一的な一般的な相対的価値形態を獲得しなければならない。ところが、諸労働生産物がこの統一的な相対的価値形態を獲得しうるためには、これらの労働生産物がある特定の商品種類を一般的な等価物として自分たち自身の系列から排除する、ということ以外には、手段がない。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、初めて、統一的な相対的価値形態が客観的な固定性と一般的社会的妥当性とを獲得したことになる。〉(江夏訳903-4頁)

《フランス語版》

 〈一般的等価形態は、価値一般の形態である。したがって、それはどんな商品にも所属することができる。他方、ある商品がこの形態(形態III) のもとにありうるのは、それ自身が他のすぺての商品によって等価物として排除されているからにほかならない。この排他的な性格が、ある特殊な商品種類に結びつくようになったときにはじめて、相対的価値形態は、唯一無二の物体のなかに凝結し固定し、社会的に真正であることを獲得するのである。〉(同前43頁)

●第2パラグラフに関して

《初版付録》

 〈そこで、独自な商品種類--この商品種類の現物形態等価形態とは社会的に癒着している--が、貨幣商品になる。すなわち、貨幣として機能するのである。商品世界の内部で一般的な等価物の役割を演ずることが、この商品種類の独自な社会的機能になり、したがって、この商品種類の社会的な独占になる。形態IIではリンネルの特殊的な等価物の役割を演じ、形態IIIでは自分たちの相対的価値をリンネルで共通に表現している諸商品のなかで、この特権的な地位を歴史上かちとったものが、ある特定の商品、すなわちである。だから、形態IIIにおいて商品リンネルの代わりに商品金を置くと、次のような形態が得られる。〉(同前904頁)

《フランス語版》

 〈この特殊な商品は、その自然形態が社会のなかでだんだん等価形態と同一視されるにつれて、貨幣商品になる、すなわち、貨幣として機能する。その独自な社会的機能、したがってその社会的独占権は、商品世界において普遍的な等価物の役割を演じることである。形態IIにおいてはリンネルの特殊な等価物として現われ、形態IIIのもとでは自分たちの相対的価値を共にリンネルのうちに表現する諸商品のうち、歴史上この特権を勝ちとったのは、金である。そこで、形態IIIにおいてリソネル商品のかわりに金商品を置けば、次の形態が得られる。〉(同前43頁)

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