『 資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か
「菅降ろし」の声がかまびすしい。
「菅は無能だ」、「とにかく菅さえ辞めさせれば、うまく行く」等々。
今では野党の自民・公明だけではなく、政権与党の民主党の中枢や閣僚の中からも「菅退陣」が叫ばれる有り様である。
しかし6月27日の『朝日新聞』は、こうした策動の震源が「電力権益」の温存を謀る勢力にあることを暴露した。彼らは福島の事故にも何の反省もなく、ただ自らの権益維持のために、何がなんでも原発推進と現体制の維持に固執するのである。だから菅首相が浜岡を止め、原発増設を前提にしたエネルギー政策のゼロベースの見直しを掲げ、発・送電分離に言及したとたんに、「菅降ろし」の激しさが増したのだという。そして電力資本に取り込まれているのは、野党だけではなく、与党の中にも多数いるというわけである。
菅首相は、6月28日の民主党両院議員総会で、再生エネルギー法案、第2次補正予算案、特例公債法案の成立が退陣の条件と改めて表明した。そのうえで「エネルギー政策をどのような方向に持って行くかは次期国政選挙でも最大の争点になる」と、「脱原発」を掲げた解散・総選挙をチラつかせて、これらの勢力を牽制し、何とか政権の延命をと策謀を逞しくしているようにも思える。
そして今や菅首相は、「脱原発」派のシンボルとさえなったかである。「鼻をつまみ、断固として菅首相を支持する」(矢作俊彦)と言い出すものさえ出てきた。
イタリアの国民投票では原発反対票が94.53%となり、ベルルスコーニ首相も、「原発にさよならと言わねばならない」と敗北を認めた。ドイツ連邦議会(下院)も、6月30日、「脱原発」法案を圧倒的多数で可決した、等々。今や原発を忌避する声は、日本のみか世界中に溢れているように思える。
しかし肝心なことが忘れられている。
原子力発電も、人類がその社会的物質代謝を豊かにするために、膨大な自然力を生産に貢献させ、生産過程を科学の技術学的応用に転化させてきた一結果であり、その点では、他のどんな技術とも何の違いもないということをである。
あるいは、問題は、資本主義的生産は、そうした過程を歴史的に驚異的な形で促進させるが、しかし、それはあくまでも一つの転倒した形態においてでしかないということをである。
資本主義的生産においては、すべての生産力は「資本の生産力」として現れる。すなわち利潤という抽象的富の獲得のために絶対的に奉仕させられる。
資本主義的生産というのは、そもそも人間の社会的物質代謝を直接目的にした生産ではないのである。それが維持されているのは、あるいは維持されてきたのは、たださまざまな攪乱と偶然の一結果でしかないのだ。今回の原発事故も、その意味では、そうした攪乱の一つともいえるのである。
マルクスは、資本主義的生産は、生命の自然法則によって命ぜられた社会的物質代謝の関連のうちに回復できない裂け目を生じさせ、すべての富の源泉である自然と労働者を同時に破壞するが、しかしそのことによってのみ資本主義的生産は社会的生産過程の技術やその統合を発展させ、将来の社会の物質的基礎を形成しうるのだと指摘している。
だから問われているのは、資本主義的生産様式そのものを克服して、将来の社会の形成のために闘うことなのである。それを誰も問おうとはしない。
しかし、それを実現してこそ、人類はその社会的物質代謝を合理的に統制し、その一契機として、原子力エネルギーの合理的な統御と管理をも可能にするようになるのである。問われているのは、ある特定の技術そのものの是非ではなく、この限界のある特定の歴史的社会的形態そのものなのである。
「社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。」(『資本論』第3巻、全集25巻b1051頁)
貴方もぜひ、『資本論』を一緒に読んでみませんか?
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第36回「『資本論』を読む会」・案内
■日 時 7月17日(日) 午後2時~
■会 場 堺市立南図書館
(泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)
■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)
■主 催 『資本論』を読む会