第49回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎領土問題の背景
竹島や尖閣諸島の領有をめぐる争いは、俄かに波立ってきましたが、ジャーナリストの山田厚史氏(元朝日新聞編集委員)は、〈反日に走らす「韓流経済」の深き“影”〉と題して、興味深い問題を指摘しています(8.30ダイヤモンド・オンライン)。
今回、李明博(イ・ミョンバク)韓国大統領が竹島(韓国名・独島〔ドクト〕)を訪問したり、天皇に謝罪を求めたりしたのは、大統領選挙を控え、身内にまつわる汚職・腐敗に対する批判を逸らし、「外に敵を作って」求心力を高めようという安易 な手法に走ったためだと指摘されていますが、それだけではなくて、韓国で燃え上がる愛国主義の背後には「躍進する経済等の光に潜む深き“影”がある」というのです。
それによるとソウル聯合ニュースが4月23日、「所得格差拡大でポピュリズム台頭の恐れ」という記事を掲載したのだそうです。〈国策シンクタンク・韓国開発研究所(KDI)の分析を紹介し、「1990年代前半まで改善に向かっていた所得格差がアジア通貨危機の前後から再び悪化している」「一握りの人々だけが豊かな暮らしをしているという考えが広がり、ポピュリズムや保護貿易論が台頭する可能性がある」と警告した〉と。
所得格差が拡大しているのは、何も韓国だけの話ではないでしょう。経済的躍進を遂げた中国においては「赤い貴族」など遥かに極端な格差が指摘されていますし、長く経済的停滞の中にある日本も例外ではありません。
日本では、「ハシズム」と揶揄される橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の躍進に見られるように、「ポピュリズム台頭の恐れ」は、すでに現実の問題ですが、現在の激しくなるばかりの排外主義や愛国主義の背景には、こうした資本主義的生産の矛盾の深まりと、その結果としての深刻な格差の拡大が背景にあるのかも知れません。
さて、残暑厳しいなかで開かれた第49回「『資本論』を読む会」でしたが、相変わらず参加者は“お寒いかぎり”でした。「読む会」が行われた南図書館の3階も閑散としており、われわれが使っている1号室以外は誰も使っていない有り様でした。この暑い中、わざわざ出かけるのは余程のヒマ人か物好きなのかも知れません。しかし、まあ、愚痴を言っていても始まりません。報告に移りましょう。
◎第12パラグラフ
今回は第12~14パラグラフを進みました。それぞれについて、まず本文を紹介し(青字)、そして各文節ごとに記号を打って、平易な読みくだしを行い(太字)、そしてその解説のなかで議論の紹介もして行くことにします。まず本文です。
【12】〈(イ)貨幣商品の使用価値は二重化する。(ロ)貨幣商品は、たとえば金が虫歯の充填(ジュウテン)、奢侈品(シャシヒン)の原材料などに役立つというような、商品としてのその特殊な使用価値のほかに、その独特な社会的機能から生じる一つの形式的な使用価値を受け取る。〉
(イ)(ロ)
こうして貨幣になる商品である貴金属の使用価値は二重化します。というのは、貴金属は、例えば金が虫歯の充填に役立ったり、奢侈品の原材料に役立つというような、商品としてのその本来の特殊な使用価値の他に、貨幣としての独特な社会的機能からくる一つの形態的な使用価値を受け取るからです。
学習会では、JJ富村さんがレポートを担当し、簡単なレジュメを用意してくれました。そのレジュメではこの12パラグラフは、次の13パラグラフと一緒になって一まとめに報告するという形になっていました。それに対して亀仙人は疑問を呈し、そもそもこの第12パラグラフはどういう位置に(あるいは課題が)あるのかが問題になりました。というのは、この12パラはその前の11パラを直接受けたもののように思えるからです。
先の第10パラグラフまでで、商品の交換過程の発展を跡づけて、それが貨幣を生み出すことが論証されました。そして最終的に貨幣が貴金属に固着するわけですが、どうして貨幣が貴金属に最終的に固着するのかについては、貴金属の自然属性が貨幣としての社会的機能を果たす上でもっとも適しているからだ、ということも第11パラで指摘されたのでした。
今回のパラグラフ(第12)は、そうした貴金属が貨幣の社会的機能を果たす上でもっとも適した材質を持っているという先のパラグラフの指摘を受けて、だから貨幣になる商品の使用価値は二重化すると受けているわけです。マルクスは使用価値について、次のように述べていました。
〈鉄、紙などいっさいの有用物は、……どれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。……ある物の有用性は、そのものを使用価値にする。〉(全集23a48頁)
諸物のさまざまな諸属性が人間にとって有用である場合、その諸物は使用価値なわけです。貴金属は、古代から装飾に使われてきましたが、必ずしも生産手段としての役立ちはありませんでした。せいぜいその耐久性を利用して虫歯の充填に利用されたり、食器類等に使われたに過ぎません。しかし、貴金属は同時にその諸属性が貨幣としての社会的機能を果たす上で、最も適したものでもあったわけです。
前回紹介した『経済学批判』では、その属性は次のようなものでした。①質的に均一で純粋に量的区別を表す。②任意の諸部分に細分でき、また合成できる。③比重が大きく、小さな容量のうちに大きな価値をもち、運搬・移転が容易である。④耐久性があり、容易に酸等に溶解しない。⑤希少であり、生産用具としての役立ちが少ない。⑥装飾的な美しさがある、等々。
こうした諸属性が社会的機能を果たすのに適し、貨幣としての社会的に必要な有用な効果をもたらすわけですから、これも貴金属の別の意味での使用価値であると言えます。マルクスはこうしたものを、社会的機能から生じる使用価値であるということから、これを形態的使用価値と規定しているわけです。こうした意味で貨幣商品(貴金属)の使用価値は通常の貴金属の属性が有用効果をもたらす使用価値(虫歯の充填等)とその属性が社会的機能(貨幣としての機能)を果たす上でもっとも適切であるという使用価値に、二重化するというわけです。
◎第13パラグラフ
次は第13パラグラフです。
【13】〈(イ)他のすべての商品は貨幣の特別な等価にほかならず、貨幣はこれらの商品の一般的等価であるから、これらの商品は、一般的商品としての貨幣(44)に対して特別な商品としてふるまう。〉
(イ) 貨幣は他の諸商品の価値を表す一般的等価物です。それに対して、貨幣自身の価値は、それによって表される諸商品の列によって表されます。そしてこれらの諸商品は、だから貨幣に対して特殊な等価物となるわけです。こうしたことから、一般的商品である貨幣に対して、他の諸商品は特殊な商品として位置づけられることになります。
貨幣が〈一般的商品〉であるということはどういうことでしょうか。商品が商品であるということは、それが価値を持つということです。だから一般的商品とは、価値の絶対的な存在だということです。
第3章では〈支払手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。貨幣はもはや過程を媒介しない。貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる〉(23a178頁)という一文が出てきますが、〈交換価値の絶対的定在〉を言いかえて〈一般的商品〉という言葉が使われています。
それに対して、それ以外の諸商品は特殊な商品として振る舞うわけです。それらは直接にはそれぞれの使用価値(特殊な使用価値)として存在しており、そのままでは〈交換価値の絶対的定在〉たりえません。だからそうなるためには、まずは交換によって貨幣にならなければならない存在なわけです。だから貨幣が一般的商品になることによって、他の諸商品は特殊な諸商品として位置づけられるというわけです。
ところで、このパラグラフは貨幣=一般的商品、それ以外の諸商品=特殊な商品という関係を論じたものですが、果たして、これが如何なる意味があるのか、それまでの展開とどのように関連しているのかがいま一つよく分かりません。学習会でもそれが問題になりましたが、結局、ハッキリした結論は出ず、宿題になりました。
しかし、よく考えてみると、このパラグラフも先のパラグラフを直接受けたものと考えることが出来るように思えます(その意味では、JJ富村さんのレジュメがこの二つのパラグラフを一まとめに論じていたことそのものが問題であったとは言えないかも知れません)。というのは、貨幣が一般的商品であるというのは、貨幣の形態的使用価値から直接出てくるものだからです。他の諸商品が特殊的商品というのは、他の諸商品の直接的定在は、それらの特殊な使用価値であり、それぞれの物的定在だからです。貨幣商品も、もちろんその直接的定在は一つの特殊な使用価値ですが、しかし貨幣商品の使用価値は二重化し、他の諸商品と同じように特殊的な物的定在でありながら、同時にその形態的使用価値によって、その直接的定在そのものが価値の絶対的定在でもあるという社会的機能を果たす存在でもあるわけです。だから貨幣商品の使用価値はまさに価値そのものを表す存在として一般的商品たりうるわけです。だからこのパラグラフはやはりその前のパラグラフを直接受けたものとして捉えるべきでしょう。
因みに、〈一般的商品〉という用語がどのように使われているのか、少し他の文献から紹介しておきましょう(下線はマルクスよる強調、太字は引用者)。
〈貨幣の諸性質、(1)商品交換の尺度としての、(2)交換手段としての、(3)諸商品の代表物としての(したがって契約の対象としての)、(4)特殊な諸商品とならぶ一般的商品としての。--これらはすべて、諸商品それ自身から切りはなされた、対象化された交換価値という貨幣の規定から単純に出てくる。(すべての他の商品にたいする一般的商品としての貨幣の性質、商品の交換価値の化身としての貨幣の性質は、同時に、貨幣を資本の実現された形態であるとともに、いつでも実現できる形態にする。つまり、いつでも通用する資本の現象形態にする。 〉(『経済学批判要綱』草稿集①120頁)
〈第四。すなわち、交換価値は、すべての特殊的商品とならんで、一般的商品として貨幣のかたちで現われるが、それと同様に、そのことによって同時に交換価値は、すべての他の商品とならんで特殊的商品として貨幣のかたちで(というのは、貨幣は一つの特殊的存在をもつから)現われる。〉(同126頁)
〈交換過程では、すぺての商品は、商品一般としての、商品そのものとしての、特殊な一使用価値における一般的労働時間の定在としての排他的商品に関係する。だから諸商品は、特殊な諸商品として、一般的商品としての特殊な一商品に対立して関係する。〉(『経済学批判』全集13巻33頁)
〈ただここで注意しておきたいのは、W―G―Wでは両極のWは、Gにたいして同一の形態関係に立っていない、ということである。第一のWは、特殊的商品として一般的商品としての貨幣に関係するのに、一般的商品としての貨幣は、個別的商品としての第二のWに関係する。〉(同76頁)
〈鋳貨のたえまない流通の条件は、鋳貨の大なり小なりの部分がたえず停滞して、鋳貨準備金――流通内部でいたるところに発生するとともに、この流通を制約するところの――となることであって、この準備金の形成、配分、解消、再形成はつねに交替し、その定在はたえず消滅し、その消滅はたえず定在する。アダム・スミスは、鋳貨の貨幣への、貨幣の鋳貨へのこの間断ない転化を次のように表現している。すなわち、どの商品所有者も、彼の売る特殊な商品とならんで、彼が買うための手段である一定額の一般的商品をつねに貯えておかなければならない、と。〉(同105頁)
〈一般的支払手段としては、貨幣は契約の一般的商品となる。〉(同122頁)
〈*〕 べーリ、前掲書、三ページ。「貨幣は契約の一般的商品である。すなわち、将来履行されるべき大多数の財産契約を結ぶのに用いられるものである。」〉(同)
〈金と銀は貨幣としては、その概念上一般的商品であるが、それらは世界貨幣で普遍的商品というそれに適応した存在形態を得る。〉(同129頁)
〈流通の目的としての貨幣は、生産を規定する目的および推進する動機としての交換価値または抽象的富であって、富のなんらかの素材的要素ではない。ブルジョア的生産の前段階にふさわしく、あの真価を認められない予言者たちは、交換価値の純粋な、手でつかむことのできる、光り輝く形態を、すべての特殊な商品に対立する一般的商品としての交換価値の形態を、しっかりとらえたのである。〉(同135頁)
◎注44
第13パラグラフには注がついていますが、一応、それも紹介だけしておきます。
【注】〈(44) 「貨幣は一般的商品である」(ヴェッリ『経済学に関する諸考察』、〔前出叢書〕一六ページ)。〉
マルクスはこのヴェッリ著『経済学に関する諸考察』から『資本論』の幾つかの注で引用していますが、全集版の人名索引にはヴェリについて次のような説明があります。
〈ヴェリ,ピエトロ Verri,Pietro(1728-1797)イタリアの経済学者,重農学派の学説を批判した最初のひとり。57,58,104,147,349〉
◎第14パラグラフ
【14】〈(イ)すでに見たように、貨幣形態は、他のあらゆる商品の諸関係の反射が、一つの商品に固着したものにほかならない。(ロ)したがって、貨幣は商品である(45)ということは、貨幣の完成した姿態から出発して後から分析する者にとっての一つの発見であるにすぎない。(ハ)交換過程は、それが貨幣に転化させる商品に、その価値を与えるのではなくて、その独特な価値形態を与えるのである。(ニ)この二つの規定の混同は、金銀の価値を想像的なものとみなす誤った考えを生み出した(46)。(ホ)貨幣が、一定の諸機能において、それ自身の単なる章標によって置きかえられうるところから、貨幣は単なる章標であるというもう一つの誤りが生じた。(ヘ)他面、この誤りのうちには、物の貨幣形態はその物自身にとって外的なものであり、その背後に隠されている人間の諸関係の単なる現象形態にすぎないという予感があったのである。(ト)この意味では、どの商品も一つの章標であろう。(チ)なぜなら、どの商品も、価値としては、それに支出された人間労働の物的外皮にすぎないからである(47)。(リ)しかし、一定の生産様式の基礎上で、諸物が受け取る社会的諸性格、あるいは労働の社会的諸規定が受け取る物的諸性格を、単なる章標として説明するならば、そのことによって同時に、それらの性格を人間の恣意的な反省の産物として説明することになる。(ヌ)これこそは、その成立過程がまだ解明されえなかった人間的諸関係の謎のような姿態から少なくともさしあたり奇異の外観をはぎ取ろうとして、一八世紀に好んで用いられた啓蒙主義の手法であった。〉
(イ) すでに見ましたように、貨幣形態は、他のあらゆる商品の諸関係が反射して、一つの商品に固着したものにほかなりません。
〈すでに見たように〉とありますが、第7パラグラフには、次のようにありました。
〈貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に互いに等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである。〉
しかし〈すでに見たように〉というのは、〈これまで展開されてきたように〉という含意であり、この第7パラグラフだけを指すのではないかも知れません。
(ロ) だから、貨幣が商品であるということは、貨幣の完成した姿から出発して後から分析する者にとっては、一つの発見ですが、しかしそれだけに過ぎません。
ここでは〈一つの発見であるにすぎない〉とありますが、〈すぎない〉というのは、貨幣が商品であることを発見しても、貨幣の何たるかを解明するには決定的に不十分であり、貨幣が商品であることを発見した古典派経済学も、しかし、依然として貨幣の物神崇拝に囚われていたのだという含みがあると思います。そしてそれがそれ以下の文節に繋がっているわけです。
(ハ) 交換過程は、貨幣に転化させた商品に、その価値を与えるのではなくて、その独特な価値形態を与えるのです。
現象に囚われている経済学者は、貨幣の価値は流通から与えられると考えるわけです。これは別に古典派経済学者たちだけではなく、現在の経済学者のなかにもこうした考えがどんなに多いことでしょうか。古典派経済学は価値形態の重要性を見なかったのですが、それには深いわけがあるのだと、マルクスは第1章の原注32で次のように述べていました。
〈古典派経済学の根本的欠陥の一つは、それが、商品の分析、ことに商品価値の分析から、価値をまさに交換価値にする価値の形態を見つけだすことに成功しなかったことである。A・スミスやリカードのようなその最良の代表者においてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、あるいは商品そのものの性質にとって外的なものとして、取りあつかっている。その原因は、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われていたというだけではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態であり、ブルジョア的生産様式はこの形態によって一つの特別な種類の社会的生産として、したがってまた同時に歴史的なものとして、性格づけられている。だから、人がこの生産様式を社会的生産の永遠の自然的形態と見誤るならば、人は必然的に、価値形態の特殊性を、したがって商品形態の、すすんでは貨幣形態、資本形態等々の特殊性を見落とすことになるのである。だから、労働時間による価値の大きさの測定についてはまったく一致している経済学者たちのあいだに、貨幣、すなわち一般的等価の完成した姿態、については、きわめて種々雑多なまったく矛盾した諸見解が見られるのである。〉(全集23a108頁)
(ニ) この二つの規定の混同は、金銀の価値を想像的なものとみなす誤った考え方を生み出しました。
〈この二つの規定〉というのは、いうまでもなく〈価値〉と〈価値形態〉ということでしょう。『経済学批判』では、次のように書かれています。
〈金銀がそれ自身の価値をもつとすれば、流通の他のすべての法則を度外視しても、ただ一定量の金銀だけが諸商品のあたえられた価値総額にたいする等価物として流通できるということは、明らかである。だからどれだけであろうと、たまたま一国内に存在する金銀の量が、商品価値の総額にかかわりなく、流通手段として商品交換にはいりこまなければならないとすれば、金銀はなんら内在的価値をもたず、したがって実際には現実的な商品ではない。これがヒュームの第三の「必然的帰結」である。彼は、価格をもたない商品と価値をもたない金銀とを流通過程にはいりこませる。だから彼はまた、商品の価値と金の価値とについては全然論じないで、ただそれらの相関的な量についてだけ論じるのである。すでにロックが、金銀はただ想像上のまたは慣習上の価値をもつにすぎないと言ったが、これは、金銀だけが真の価値をもつという重金主義の主張にたいする反対論の最初の粗野な形態である。金銀の貨幣定在は、ただ社会的交換過程におけるそれらの機能からだけ発生するということが、金銀はそれ自身の価値、したがってそれらの価値の大きさを社会的な機能のおかげでもっている、というように解釈されるのである。だから金銀は価値のないものであるが、しかし流通過程の内部では諸商品の代理者として一つの擬制的な価値の大きさを得る。金銀は、この過程によって貨幣に転化されるのではなくて、価値に転化される。金銀のこの価値は、それ自身の量と商品量とのあいだの比率によって規定される。なぜならば、両者の量は互いに一致しなければならないからである。だからヒュームは、金銀を非商品として商品の世界にはいりこませておきながら、それらが鋳貨という形態規定性で現われると、逆にそれらを単純な交換取引〔物々交換〕によって他の商品と交換されるただの商品に転化させてしまうのである。〉(全集13巻139-140頁)
ここで〈金銀の貨幣定在は、ただ社会的交換過程におけるそれらの機能からだけ発生するということが、金銀はそれ自身の価値、したがってそれらの価値の大きさを社会的な機能のおかげでもっている、というように解釈される〉というのが、その前の文節(ハ)で述べていることと同じだと思います。だから〈交換過程は、それが貨幣に転化させる商品に、……その独特な価値形態を与える〉という場合の〈その独特な価値形態〉とは、〈金銀の貨幣定在〉のことです。金銀が貨幣になるのは、社会的な交換過程においてそうした機能を果たすことから生じるのに、それが金銀自身の価値を、そうした社会的な機能のおかげで持っているのだというように解釈されるわけです。金銀の価値というのは、金銀が貨幣だから、貨幣としての機能を果たすことから生まれている、貨幣としての機能によって与えられている、と理解することでしょうか。
そしてそこから〈金銀は価値のないものであるが、しかし流通過程の内部では諸商品の代理者として一つの擬制的な価値の大きさを得る〉という解釈が生まれ、金銀の価値というのは想像的なものだとみなす考え方が出てきたというわけです。それは上記の『批判』によれば、ロックやヒュームによって主張されたと指摘されています。
(ホ) 貨幣が、一定の諸機能において、それ自身の単なる章標に置き換えられうるところから、貨幣は単なる章標であるというもう一つの誤りが生まれました。
ここに出てくる貨幣の〈一定の諸機能〉というのは、いうまでもなく第3章に出てくる、「流通手段としての機能」あるいは「鋳貨としての機能」だと思います。少し先回りしますが、どうして流通手段としての貨幣の機能が章標への置き換えを可能にするのかを論じている部分を紹介しておきましょう。
〈最後に問題になるのは、なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理されることができるのか? ということである。しかし、すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。ところで、この機能の独立化は、摩滅した金貨がひきつづき流通するということのうちに現われるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行なわれるのではない。金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通しているあいだだけのことである。しかし、一つ一つの金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって代理されることができる最小量の金にはあてはまるのである。この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。だから、その運動は、ただ商品変態W―G―Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。〉(全集23a168頁)
ところで、ここでは(ハとホでは)マルクスは貨幣の価値を想像的なものと考える誤りと、貨幣を単なる章標であるとする誤りを区別して、それらが貨幣の違った社会的機能から生じてくることを論じています。最初の誤りは交換過程が金銀の価値ではなく、価値形態(=貨幣形態)を与えるのだということを理解せず、貨幣の価値は流通そのものから生じる想像的なものとする誤りであり、もう一つの誤りは貨幣の一つの機能である流通手段としての機能から生じるもので、貨幣は単なる章標だという理解です。
この貨幣についての二つの間違った理解は、しかし決して過去の古い考えというようなものではなく、今日においても、まさに一般的に生じていることなのです。
いわゆる「金廃貨論」というのがありますが、金はすでに貨幣ではない、という主張です。ということは、現在、貨幣、あるいは通貨として通用しているものは、単に流通から与えられた機能を果たしているだけのものだ、ということになるわけです。つまり現在の通貨は、〈価値のないものであるが、しかし流通過程の内部では諸商品の代理者として一つの擬制的な価値の大きさを得る〉(前掲『批判』)ので、そのことによって貨幣としての機能を果たしているのだ、という理解です。
金はすでに貨幣ではない。金との繋がりは何もない円やドル、ユーロ等の銀行券は、すなわち内在的価値をまったく持たない、単なる紙切れに過ぎないのであり、ただ流通からその貨幣としての機能を与えられて、通貨として通用しているのだというのです。最近もある新聞で、〈現代資本主義は「通貨」も……確かな根拠を持たず――というのは、貨幣は内在価値を有せず、近似紙幣に堕し、いくらでも減価する〉云々という一文を読みました。これはつまりマルクスが指摘している二番目の誤った理解に立っているわけです。すなわち〈貨幣が、一定の諸機能において、それ自身の単なる章標によって置きかえられうるところから、貨幣は単なる章標であるという……誤り〉です。現在の通貨は金との関連がないので、もはや金(貨幣)を代理しているとはいえない、だから現在においては、貨幣そのものが単なる章標になってしまったのだ、という考えが、こうした理解の根底にあるように思えます。
確かに現代の「通貨」、すなわち「日本銀行券」は金との繋がりがまったくないように見えます。しかしそれは本当でしょうか。確かに現在の日銀券は不換券です。それを日本銀行に持って行っても金と交換してくれるわけではありません。だから1万円札がどれだけの金を代理しているのか分からないというかも知れません。しかし、もし現在の1万円札がどれだけの金を代理しているのかを知りたいなら、その1万円札で金を購入すればたちどころに分かります。金何グラム買えるかが分かれば、それが1万円札が代理している金の大きさであり、その目に見える形で表された価値とその大きさそのものなのです。
金の購入は、一見すると他の商品の購入と何一つ変わらないように見えます。しかし、そうではないのです。貴方がリンゴを買う場合、それはリンゴを食うためです。つまり消費するためです。しかし金を買っても、金を消費するわけではなく、せいぜい、眺めて一人ほくそ笑むか、金庫に保管しておくだけでしょう。つまり貴方が金を購入するのは、決して、リンゴを買うのと同じではないのです(後者は社会的な物質代謝の一環ですが、前者はそうではない)。金を購入するということは、流通貨幣を蓄蔵貨幣に転化しているのです。代理物をその代理している当のものに戻しているのです。つまり価値の絶対的定在である金に置き換えているのです。
世界中の国々はその中央銀行の金庫に金塊を保管しています。何のためにでしょうか。世界の先進国が石油やレアメタルを備蓄しているように、金も同じように備蓄しているだけなのでしょうか。決してそうではありません。石油やレアメタルは将来の消費に備えて、在庫として備蓄しているのです。しかし金は決してそうした意味での将来の消費が目的ではありません。それは価値の絶対的定在として、国家の信用の最後の軸点として保管されているのです。だから金が貨幣でないとか“廃貨”されたなどというのは、まったく現実を見誤った主張に過ぎません。
現在の通貨が直接には、あるいは制度的に、金との繋がりがないということは現在の通貨が金を代理していない、あるいは代理することをやめたことにはならないし、そもそも金を代理せずして、貨幣として、あるいは通貨として通用するというようなことは決してないのです。これは貨幣のなんたるかを知れば、明らかなことです。にも拘らず『資本論』を専門的に研究している学者のなかにも、多くの金廃貨論者が存在している現実は、一体どうしたことでしょうか。如何に彼らが『資本論』をただ表面的にしか理解しておらず、金が現実に貨幣として流通していないという、目の前の現象に囚われてしまっているかが分かるのです。しかし流通していないから貨幣ではない、などという理解は、同じような現象に囚われて蓄蔵貨幣を理解できなかった古典派経済学のレベルに後戻りすることです。実際には、多くの金が蓄蔵貨幣としてさまざまなところで保管されているのです。こうした現実を彼らは見ることができないのです。
(ヘ) 他方、この誤りのうちには、物の貨幣形態は、その物自身にとって外的なものであり、その背後に隠されている人間の諸関係の単なる現象形態に過ぎないという予感があったのです。
ここでは〈この誤りのうちには〉となっており、その直前の貨幣は単なる章標だとする誤りだけを指すように捉えられます。しかし文脈からするなら、やはりマルクスが指摘している二つの誤りを指すと考えるべきではないでしょうか。
金銀の光り輝く物的姿が価値そのものとして、大きな社会的な力を持つのは、人間の社会的な諸関係が金銀の物的姿をとって現れているからにほかなりません。だからこうした誤った貨幣論にもそうした予感があったのだとマルクスは指摘しているわけです。しかし、マルクスの『資本論』によって、貨幣の謎も解明されたのに、尚且つ、そうした誤った貨幣論に立っている人たちに対しては、こうした指摘は当てはまらないのではないでしょうか。
(ト)(チ) この意味では、どの商品も一つの章標でしょう。というのは、どの商品も、価値としては、それに支出された人間労働の物的外皮に過ぎないからです。
貨幣形態がその背後に隠されている人間諸関係の現象形態に過ぎないとするなら、当然、どの商品も価値としては、同じことがいえるわけです。
(リ) しかし、一定の生産様式の基礎の上で、諸物が受け取る社会的諸性格、あるいは労働の社会的諸規定が受け取る物的諸性格を、単なる章標として説明するのでしたら、それは結局、それらの性格を人間の恣意的な反省の産物として説明するのと同じです。
ここで〈一定の生産様式の基礎上で〉とあるのは、当然、資本主義的生産様式の基礎上でという意味だろうと思いますが、学習会ではどうして、ここでは〈一定の生産様式〉というように一般的な形で述べているのだろうか、という疑問が出されました。しかし、必ずしも十分な説明もなく、また質問者もあまり拘らなかったので、それ以上、議論は発展しませんでした。
ここでは物象的な属性は、確かに労働の社会的諸性格が物の社会的属性として現れているものですが、しかし、それを単なる章標(シンボル)として説明するとするなら、結局は、そうした物の属性をただ人間が恣意的に造り上げたものと説明することに通じてしまうということだと思います。
フランス語版では、このパラグラフそのものは二つに分けられて、だから〈(ヘ)他面、この誤りのうちには、〉以下の部分は別のパラグラフになっています。そしてその間に(すなわち、その前のパラグラフの後に)、注(1)(注45と同じ)が挿入されています。今問題になっている(リ)に該当する部分は次のようになっています。
〈ところが、特殊な生産様式の基礎の上で物が帯びる社会的性格、あるいは労働の社会的規定が帯びる物的性格のうちに、単なる表章しか見なくなるやいなや、この性格は、いわゆる人間の普遍的な合意によって承認された慣習的な擬制という意味を与えられる。〉(江夏他訳68頁)
(ヌ) そしてこれこそは、その成立過程がまだ解明されえなかった人間的諸関係の謎のような姿から、少なくともさしあたりのその奇異な外観を取り除こうとして、18世紀に好んで用いられた啓蒙主義の手法であったわけです。
しかし物象的関係を、ただ人間の作為的な産物であるかに説明して事足れり、とする手法は、18世紀に好んで用いられた啓蒙主義者のやり方だというわけです。
この部分もフランス語版を紹介しておきましょう。
〈これこそが一八世紀に流行した説明のやり方であった。人は、社会的関係で装われた謎めいた形態の起源も発展もまだ解読できないので、この謎めいた形態は人間の考え出したものであり、天から降ったものではない、と宣言することによって、この謎めいた形態を厄介払いしたわけである。〉(同上)
さて、このパラグラフからは貨幣物神に囚われた経済学者たちの主張が批判的に取り上げられており、それまでの展開とは明らかに対象が違っています。そしてこのパラグラフは〈すでに見たように、〉という一文から始まっていますが、次の第15パラグラフも〈先に指摘したように、〉という一文から始まっており、最後の第16パラグラフも〈われわれが見たように、〉という文言から始まっています。つまりこれらの三つのパラグラフは、共通して、これまで述べてきたことを踏まえた展開になっているわけです。こうしたことから、恐らく、このパラグラフから以下最後までは、この第2章そのものを締めくくる位置にあるのではないかと考えられます。
(以下は、「その2」に続きます。)