どこかで夕食でも食べようと思いながら歩いていたら、以前はパスタ屋だったところがラーメン屋になっていて、外装や店名から判断するに「どうせたいしたことない店だろう」とは思ったんんだけれど、自分の店の開店準備もしなきゃならないんで他を探す時間はないし、とりあえず入ってみた。
案の定、味は凡庸で甘く、熱くあるべきものがぬるい店だった。きっとすぐ美味い、不味いという人は即座に不味いというだろう。でも「この店だったらこんなものだろう」と思って食べれば、割高感は残るものの、まぁなんとか。
でー、食べて出たんだが、味はともかく、何というか、この店の居心地の悪さは何故なんだろうかと、考えた。
まっ先に思いうかんだのは、サービスの人間がニタニタしていたこと。
従業員どうしで何か話していたらしく、それが面白い話だったんだろう。ゆるんだ顔つきのまま出来上がった料理を運んできた。テキパキと対局の動作は締りがなく、目線も気持ちも全然お客さんのほうを向いていないように見受けられた。
何故そうなのかといえば、結局、サービスに対する従業員の意識が散漫だからだろう。接客とは何か、が全くわかっていない。特に目立った失敗をしたわけではないが、この緊張感のなさが居心地の悪さになっているのだと思った。
というより本当の問題は、そういう人を雇っている側の、経営者の問題だろう。きちんとした従業員教育をせずに、ちゃらんぽらんでもなんでも、とりあえず一定時間働けばお金がもらえるというシステムをよしとしている経営者の。
穿って考えれば、経営者には「ラーメン屋はわざわざ訪ねる店ではない。通行量の多い場所にちょっとしゃれた店舗を構え、そこそこの味をそれなりの値段で出せば、大人気にならなくても十分採算は合う」という判断があるのかもしれない。そして、真面目にラーメンのことを考える者に高給を払うより、マニュアル化した作業をパートにやらせたほうがいいと思ったのかもしれない。
同じラーメン屋でも、遠くから足を運んでもらいたいと願い、それなりの努力をしている店もあるだろう。だが、この店は違うようだった。ラーメン屋というビジネスでお金が儲かればいいという感じだった。ちょっとした新奇性、話題性のための努力はするけど、集客力が落ちたらリニューアルすればいい。それまでにしっかり儲けることのほうが大切、と思っているようだった。
儲けなければ持続できないので、金儲けが悪いというわけではないのだが、こういった方針、姿勢であろうことは外装や店名などといった「見た目」でなんとなくわかる。ほら、資本を必要とする再開発ビルに出店したとこや、今更って思える繁華街、六本木、西麻布、恵比寿、中目黒なんかに最近開店する店に、この手の店多いんだよね。
慈善事業でやれとはいわないし、接客に人情やふれあいを求める気もないが、ビジネス本位、サービスは金のためってのが居心地にも表れるところが怖いなと思う。
鉄瓶丸は先週、立ち飲みのもつ焼き屋に行ったんだが、一家総出で――父母と息子たち(小中学生を手伝わせているのはいかがなものかと、私は思うが、またこの子が礼儀正しくてしっかりしてるんだ)――大勢のお客さんを相手に、私語を話すひまもなく接客している、その店のほうが好感がもてたし、はるかに居心地もよかった。