金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

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第2回 「ラぬき言葉という名称は正しくない」

2005-09-01 07:29:40 | 日本語ものがたり
 今回は「ラ抜き言葉」についてお話ししたい。「らぬき?何のこっちゃ」とつぶやかれる方も多いとも思うが、最近日本でよく目や耳にする言葉である。

 数年前、「早いものでカナダも今年で20年。多くの方に励まされてここまで来れました」と投稿記事の中に書いたら、ある方から「来れました」ではなく「来られました」ではないか、とのファックスを戴いたことがある。二つを比べると前者には「ら」が抜けている様に見える。これが「ラ抜き言葉」と呼ばれる現象で、頻繁に目にするが普通は誤用とされている。

 「来ることが出来る」の意味で「来られる」と言えることは確かで何人も否定出来ない。ただし「来られる」には「可能」の他に「尊敬」(昨夜、お客様が二人来られた)や「(迷惑の)受身」(朝の二時に弟に来られた)などの用法があることも思いつかれよう。学校文法で言う所の「可能・自発・尊敬・受身」の「れる・られる」である。

 さて、おそらくその多機能さにも深く関係しているのだろうが、「可能」に関してはよく使われる別形がある。その人気の理由は(1)「機能が可能専用である」点にも増して(2)「形が「れる・られ」るより短い」点であろう。なにしろ日本語動詞の約2/3を占める五段動詞の子音語幹(例「飲む」のNOM-)に「E」がついて一段動詞となるだけなのだ。「飲まれる」と「飲める」を比べると、後者の方が形の上でも意味の上でも簡単なのは明らかである。

 それなら残りの1/3である一段動詞にも同様に「E」を付けたい所だが、五段動詞と違ってこちらは語幹が「食べ(TABE-)」など母音であることが問題である。母音を重ねない為に語幹「E」の間に子音の「R」を挟んだものが「食べれる・見れる」などである。上記の「来れる」は不規則動詞「来る」の場合だが、ほぼ同じ状況下にある。何を隠そう、この様に「母音が続かない」というのは長い間日本語の特徴だったのである。今なら「青い」の様に母音がA-O-Iと3つも続くことが可能だが、これとて古形は「あをし」A-WO-SIであった。和歌や俳句で旧仮名を使う時に、例えば「花匂う」を「花におう」NI-O-Uでなく「花にほふ」NI-HO-HUと書くのも母音の重なりが無かったことの証拠である。

 さて、問題は上記の「食べれる・見れる」などと言う形が「ら抜き言葉」と呼ばれ、学校文法でも、外国語としての日本語文法でも一様に誤用とされていることだ。「ら抜き」とは、「食べられる」と「食べれる」を比べた上で、後者に「ら」が抜けていると見なされた呼称である。

 しかし「ら抜き」と言う言葉は本当に正しいのだろうか。上で見た様に動詞の過半数を占める五段動詞にならって、一段動詞にも同じように語幹に「E」をつけたことが「食べれる」などが派生した原因であり、「れる・られる」とは全く別物と見た方がいいのではないか。「食べれる」の意味も可能だけで「尊敬・自発・受身」など示さないことも「飲める」などと共通している。例えば「カンニングしているところを先生に見られた」「先生が嬉しそうに新着の本を見られた」の「見られた」はそれぞれ受身と尊敬だが、これらは決して「見れた」とならない。それは、可能の「見れる」が「見られる」の変形でないことの傍証と言えるだろう。

 結論を言えば、「見れる」は「見られる」から「ら」を抜いたものではなく、上記のように「見(mi)」と「-E」の間に緩衝子音の「R」を挟んだものなのである。この状況に名前をつけるとすれば「ら抜き」ではなく「Rつき」の方が正確であろう。

 それでもまだ納得出来ない読者の為に、もう一点付け加えておこう。「R付き言葉」は他にも例があるのだ。上と全く並行する形で仮定の表現の「飲めば・食べれば」がその一つである。

 五段動詞の「飲めば」を分解すれば、語幹と助動詞がNOM-EBAと並んでいる。一方、一段動詞の「食べれば」は、それと同じように語幹と助動詞をTABE-EBAと出来ない。そう出来ない理由は、上に述べた「母音衝突」のせいである。そこで子音の-Rを挟んだのがTABE-R-EBA「食べれば」である。

 「受身・可能・自発・尊敬」の「飲まれる・食べられる」では、NOM-ARERUに対するTABE-R-ARERUの-Rも、これまた同じ「母音衝突を避ける為のバッファー子音R」だ。「食べれば」や「食べられる」の方は誰も騒がないのに、全くの並行現象である「食べれる」に国を挙げて大フィーバーする理由は一体何なのか、私には理解出来ない。納得できる様にどなたかに説明して頂きたい所である。

 因みに、私は北海道北見市の出身だが、北海道から東北にかけては命令文に「飲め」と並んで「食べれ」がある。東京に行ってからこの形を使っては悪友どもに大いに笑われたものだが、考えてみると「飲め!」がいいなら、「母音衝突」を避ける「R付き言葉」の「食べれ」は、上の仮定表現の様に、極めて合理的なものなのだ。わざわざ最後の母音まで変えて「食べろ」と言うのは、むしろ「最小努力の法則」に反する不思議な現象と思えるが、言葉は生き物であり、合理的かどうかということと使用は別問題であるから仕方がない。

 なお、母音衝突を避けるバッファー子音挿入は日本語では他にも例が多い。挿入される子音も-Rだけではない。「使役」の「飲ませる・食べさせる」では、NOM-ASERUに対するTABE-S-ASERUと-Sが入る。「意志・勧誘」の「飲もう・食べよう」ではNOM-OOに対するTABE-Y-OOと-Yが入る。動詞や助動詞のレベルだけではなく、名詞と名詞の間、例えば「春」に「雨」を続けた時に「はるさめ」となるのも、HARU-S-AMEと-Sを入れて語調を整えているのだ。「真っ青」も同様である。

 しかもそれは何ら日本語に限られた現象ではない。「母音連続」はhiatus(ハイエイタス)という文法用語で呼ばれ、例えばフランス語のリエゾンはそれを避けようとするものだ。「幸わせです」は「(Je) suis heureux」だが、最後の2語は切り離して発音すると「スイ・ウールー」なのに、続けると「スイズールー」となる。一語のみでは発音されない「suis (スイ)」の最後の子音-Sが復活し、母音で挟まれたSの常として有声化し、/z/音で発音される為である。これも何故か、と言えば、「スイ」が母音/i/で終っているのに、それにまた「ウールー」と母音が続くのを、仏語話者も避けたい為である。

 日本語の助詞「は」と「が」の区別は朝鮮語にもちゃんとあって、韓国からの学習者が「何でそんな大騒ぎするの?」と不思議な顔をするほどだが、ここでは母音連続の話を急ごう。朝鮮語で「は」に当たる助詞は「(n)шn」である。最初にかっこで括られた(n)はまさに「母音連続」を避ける為のもので、先行する名詞が母音で終る時はこの括弧がはずれてnが現れ、母音連続が避けられる。(例:スンジャヌン「スンジャ(人名:順子)は、」)逆に名詞が子音で終るなら、このnがあっては子音連続となるから、括弧のnは現れない。(例:トンシグン「トンシク(人名:東植)は、」同様のことは日本語の「を」に相当する格助詞「(r)шl」でも言える。

 これらの考察を通じて、「ラ抜き」という言葉がいささか「マ抜け」なことがご理解頂けたのではないだろうか。「食べれる」は、形も意味も一致している「飲める」と並行して考察されなくてはならない。さらに言えば、五段動詞に可能だけを意味する助動詞があるなら、一段動詞に同じ物があって当然なのである。「は」に当たる朝鮮語の助詞「(n)шn」に習えば、日本語の可能の助動詞は「(r)e-」として一つにまとめられる。英語ばかりを眺めていないで、お隣の朝鮮語を見ていたら、トンチンカンな「ラ抜き言葉」などという用語も、それを日本語教育では認めるべきか否か、などというレベルの低い論争も必要がなかったであろう。

 以上、これまで何ら疑問を持たずに議論されている「見れる・来れる・食べれる」などが、実は意味内容が一致していない「見られる・来られる・食べられる」などとそれぞれ比べられた結果として「ラ抜き言葉」と呼ばれるようになったことを指摘した。前提が間違っているのだから、「ラ抜き言葉」という言葉は使うべきではない。どうしても言うとしたら「R付き言葉」の方が正しいだろうが、これ自体は他にも例が沢山あって、何ら不思議な現象ではないのである。少なくとも朝鮮語文法の方では「(n)шn」の/n/が現れた形をいちいち「N付き言葉」などとは呼んでいない。

 言うまでもないが、ここでは私自身が「食べれる」などという言い方をするか、学生が使ったらそれをエラーとするか、と言った議論はここでは一切しなかった。(1)言葉は常に変化する生き物である、ということ。(2)五段動詞に可能形があるのに、それに形も意味も相当するものが一段動詞がないのは変だ、ということのが私の立場だとだけここでは言っておこう。文法はいつだって表現の後を追うものであり、「こう言うべきだ」という規範文法は文法を表現に先行させようとする危険性を帯びる。

 今回はこの「ラ抜き言葉」をむしろ象徴的な意味で問題提起をしてみたかった。我々は、もっと合理的に考える習慣を身につけたいものだ。合理的に考えれば「ラ抜き言葉」は前提がそもそも誤っているが分かる。そんな「ラ抜き」言葉論争に血道をあげるより前に、「抜けて」いるのは「ラ」ではなくて議論そのものの底であることに気付いて戴きたい。

 さて「食べれる・見れる・来れる」などの形はこの様に合理的なものだし、ずっと昔から見られるものなのだが、頭からこれを誤用と見做す人も多い。つまり許容度の「ゆれ」があるのである。私はと言えばこの稿で「来れる」を使ったぐらいで、これら三例についてはさほど間違いとは感じられない。しかし(1)語幹が長い場合(2)本来「一字の漢語+する」だったのが「漢語+じる」になったものは例外であって(1)の例「?考えれる・?答えれる」や(2)の例「?感じれる・?信じれる」などにはやはり抵抗がある。

 最後に「ラ抜き言葉」とよく似た「サ付き言葉」にも触れておこう。これは明らかな誤用で、命名も正しい。それは一段動詞の「使役受身形」が問題の出発点にある。例えば「食べさせられる」(意味:自分は嫌がっているのに食べることを強制される)で、これは正しい形だ。ところがここで語幹「食べ」につけられる助動詞「させられる」がそのままの形で五段動詞につけられたものが「さつき言葉」である。従って「飲ま・さ・せられる」は誤用。ここの「さ」は不要であって「飲ませられる」が正しく、さらにはその縮約形の「飲まされる」さえある。しかし何度も書く様に、皆が使い始めたら「誤用」でなくなるのが生きた言葉なのである。若者に多く見られると言うから、この「さつき言葉」という単語自体、流行る前にいつしか消えてしまう運命にあるのかも知れない。(余談ですが、皆さん、旧仮名の練習もかねて俳句をなさいませんか。因みにモントリオールには、その名も「さつき会」という句会があります)(1995年1月)

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13 コメント

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Unknown (Unknown)
2007-05-13 01:28:16
確かにそうですね、世界にはいろな言語は母音連読を避けることがありますよね。それは話相手聞きやすいため、言語を進化している結果でこざいます。別に文法にしたがっていなくても、間違いないです。
母音連続 (たき)
2007-05-17 03:35:14
お名前がわかりませんが、コメントをありがとうございました。
母音連続を避ける無意識の努力が、日本語とフランス語それからコリア語にも共通して観察出来るのは何だか楽しいです。
再構築 (η)
2009-12-03 17:34:25
こんにちは。

命令形のところですが、「tabe+e」→「tabere」となるってことですね。差し詰め「e」は命令の助詞といったところでしょうか。
これを見てですが、例えば終止形は「tabe+u」→「taberu」というように考えられますし、こういう風に文法を(活用形無しで)再構築することってできないでしょうかね?、と思った次第です。

あと、「飲ませられる」→「飲まされる」ですが、縮約形というよりも使役の助動詞「す・さす」を用いた形だと思うのですが。
形態論の再構築 (たき)
2009-12-06 10:13:11
ηさん、

ギリシャ語をおやりですか。

コメント有難うございました。おっしゃるように形態論の再構築は出来ますし、またしなくてはいけないと思っています。形態論、語形論を平仮名でやっていてはいつまでたっても言語学からは相手にされません。

使役受身ですが、五段動詞の場合をローマ字で書けば-aserare-で、その中の-erが落ちて-asare-になると私は思います。

一段動詞の場合は-saserare-ですから、これから-erを落とすと-sasare-となってしまいます。「ささ」の言いにくさが原因で五段動詞ほどは短縮されないのだと考えます。
「これる(来れる)」は R 入れ? (やへがき やくも)
2011-08-16 15:52:48
 はじめまして。やへがきと申します。六年も前の記事に意見を呈するのは、気が引けますが、おゆるしくださいませ。
 もし、いはゆる「ラ抜き」が「R 入れ」ならば、「これる(来れる)」の古い形として「こえる」を推定せねばなりません。「きえる」ならば、カ変動詞「くる(来る)」の連用形+可能の補助動詞「える(得る)」でせうが、「こえる」は、寡聞にして知りません。
 「こえる」とは、一体なんでせうか。
カ変、サ変 (たき )
2011-08-18 11:16:30
いわゆるカ変、サ変変格活用は別扱いすべきでしょう。

「する」と「来る」の語幹はそれぞれ「S-」「K-」だけなので一段動詞「食べる」などの「Tabe-」とは違います。

変格ですから語幹ではなく未然形の「こ」が使われ、こにRを介して「eru」を付けたのが「来れる」でしょう。
後半は一段動詞語幹の「たべ」にRを介して「eru」を付けた「食べれる」と並行しています。
「する」の方も甚だ変格で、一見必要に思われるRを介しません。連用形「し」に直接「eru」がついて「(理解)しえる」などとなります。
来ない、しない (たき )
2011-08-19 02:04:27
追加です。

なぜ「(R)-eru」の前が、「来る」では未然形「こ」、「する」では連用形「し」なのかですが、これは「来ない」「しない」からの類推ではないかと思います。

それから、「これる(来れる)」の古い形として「こえる」を推定せねばならない」とお書きですが、母音連続を避けるための子音は、時間的に遅れて挟まれるのではなく、同時に発生されるものと思います。
Re: カ変、サ変 (たき ) (やへがき やくも)
2011-08-20 20:32:07
 突然の質問におこたへくださり、ありがたうございます。
 しかし、新たな疑問が生じてしまひました。

一、「R 入れ言葉」が生ずる際、 eru の接続と緩衝子音 r の挿入が同時に起こったのなら、それが r-eru なのか、実際には reru なのか区別できないのではないか。
二、カ変動詞「くる」の語幹は k であり、緩衝子音 r 無しに eru が接続して「ける(k-eru)」になりうるのに、さうならず未然形の o と緩衝子音が挿入された「これる(k-o-r-eru)」になったのはなぜか。

 また、おこたへから新たに生じたもののほかにも、疑問があります。

三、可能動詞の発生は「ラ抜き言葉」乃至「R 入れ言葉」の発生に大きく先行した様で、異なる時期に発生したものをひとつの現象ととらへるのは、無理ではないか。
四、「みれる(見れる)」「これる(来れる)」を使ふひとも「ありえる」を使ふはずである。若いひとも「ありえなーい」と用ゐる。「ありえる」には子音挿入がなく、母音連続がのこったままである。口語では四段動詞の「ある」が文語ではラ変動詞であることを考へても、腑に落ちない。子音挿入が必要なほど母音連続回避の圧力が高くはないのではないか。

 徒然草第二十二段に、
古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。
と、あります。遅くとも十四世紀には母音連続回避圧がかなり弱まってゐたことを意味しさうであります。

 よろしければ、またおこたへを頂戴したうございます。
Re: カ変、サ変 (たき ) に追加 (やへがき やくも)
2011-08-22 22:18:12
もと、ラ変動詞の「ある」に対応する可能動詞が「ありえる」と母音連続がある一方、おなじくもとラ変動詞の「をる(居る)」に対応する可能動詞は「をれる」と約音形になってゐます、たとへば、「このまま黙ってはヲレない」などと。
 活用の種類がおなじでも母音連続の有無が異なることがある様です。
小泉八雲記念館 (たき)
2011-08-29 10:13:26
お返事、遅くなりました。

やへがき やくもというのは、もしや島根県出雲のご出身でしょうか。先月帰国した際に生まれて初めて山陰へ行ったのですが、松江では小泉八雲記念館にも参りました。さて:

一、「R 入れ言葉」が生ずる際、 eru の接続と緩衝子音 r の挿入が同時に起こったのなら、それが r-eru なのか、実際には reru なのか区別できないのではないか。
==>確かに「帰る」などでは「kaer-eru」ですが、「tabe-R-eru」などとは明らかに区別出来ます。前者は五段動詞、後者は一段動詞ですから。

二、カ変動詞「くる」の語幹は k であり、緩衝子音 r 無しに eru が接続して「ける(k-eru)」になりうるのに、さうならず未然形の o と緩衝子音が挿入された「これる(k-o-r-eru)」になったのはなぜか。
==>それは、「来る」が変格のカ変動詞だからとしか言いようがありません。可能動詞だけでなく否定形の「来ない」がそもそも「k-o-nai」ですから、「来れない」はその類推であろうと思います。

三、可能動詞の発生は「ラ抜き言葉」乃至「R 入れ言葉」の発生に大きく先行した様で、異なる時期に発生したものをひとつの現象ととらへるのは、無理ではないか。
==>可能動詞というのは、結局のところ動詞「得(う)」の連用形「得(え)」付加であろうと思います。一段動詞においては語幹が母音で終わるので「え」を付ける際に緩衝子音の「R」が使われたのでしょう。発生的に時代が異なるとは思いません。

四、「みれる(見れる)」「これる(来れる)」を使ふひとも「ありえる」を使ふはずである。若いひとも「ありえなーい」と用ゐる。「ありえる」には子音挿入がなく、母音連続がのこったままである。口語では四段動詞の「ある」が文語ではラ変動詞であることを考へても、腑に落ちない。子音挿入が必要なほど母音連続回避の圧力が高くはないのではないか。
==>語源が動詞「得(う)」の「得(え)」であったことを顕著に物語っているのが「あり・える」で、ここには連体形の「あり得(う)る」まで現在に残っています。この動詞だけ「あれる」にならなかったのは不思議と言えば不思議ですが、これまた変格動詞ですからね。ご指摘のように、「をる」では「をれる」となります。

 徒然草第二十二段に、古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。と、あります。遅くとも十四世紀には母音連続回避圧がかなり弱まってゐたことを意味しさうであります。
==>「差し上げる」と「捧げる」、「持ち上げる」と「もたげる」、「かきあげる」と「掲げる」などはどれも一方が他方を駆逐したのではなく、(若干の意味の違いを伴いつつ)両方使われています。これと並行して、日本語が母音連続を認めるようになったのは明らかな事実で、その顕著な例が、三母音連読の「青い(あおい)」ですね。これも本来は終止形「あをし(a-wo-si)」、連体形「あをき(a-wo-ki)」でした。
八雲立つ出雲 (やへがき やくも)
2011-09-02 21:36:52
 素人のぶしつけな書込みに懇切丁寧な御返事を頂戴し、大変恐縮してをります。
 わたくしは、御推察に反しまして、出雲とゆかりのあるものではございませんで、「やへがきやくも」の名は、ただ、スサノヲノミコトが詠まれたといふ、伝説上最古の歌からとったものでございます。八雲の道に通ずるものではありませんが、好きな歌です。
 可能動詞についてです。
 わたくし自身は、御高見と異なりまして、「みれる」「これる」等は「ラ抜き」であると考へてをります。それは、やはり「これる」の発生について、緩衝子音挿入説では合理的な説明を得られないとおもふからであります。もし「くる」の可能形が「これる」でなく「きれる (k-i-r-eru)」ならば、わたくしも「ラ抜き」説を捨て去ることができるのですが……。
 異説もあるさうですが、可能動詞が「える(得る)」の付加であるのはおっしゃる通りだとおもひます。「える」は連用形に接続しますから、「くる(来る)」の可能形は、本来ならば、「きえる(来得る)」であるはずなのです。「える」はいまでも、古語の様に「うる」と下二段になることしばしばですから、むかしなら「きうる」でせうか。
 たしかに「くる」は変格動詞でありますが、ほかの動詞では、活用の正格変格を問はず、連用形が「える」と接続します。「くる」だけが未然形+「える」になるとは考へにくうございます。可能動詞を参照するかたちで、「こられる」から可能専用の「これる」が生じたとするのが簡素な考への様に感じてをります。
 「える」はもと下二段動詞、可能動詞は下一段動詞ですから、約音によって可能動詞が生じたのは下二段動詞が下一段に移行したあとといふことになりませう。
八雲が出雲にかかる事も知らなかった素人ですが (木村)
2011-09-04 02:37:29
 子音の挿入圧力は良く分かりませんけど、二重母音を長音や短母音に置換しようという圧力は今の日本語でも存在する気がします。以下は一例

※括弧内は拍が削減される変化なので母音連続を嫌った変化とは違うかも
※東京の人間ではないので標準的な口語とは違うかも

・形容詞の末尾『い』 ai,ei,oi⇒e-  ui,ii⇒i-
からい⇒かれー | きれい⇒きれー | ひどい⇒ひでー | ねむい⇒ねみー

・格助詞の『は(wa)』 awa,uwa,owa⇒a-  iwa,ewa⇒ya-
やまは⇒やまー | らくは⇒らかー | そこは⇒そかー | うみは⇒うみゃー | おれは⇒おりゃー

・動詞の『いう(iu)』  iu⇒yu-(⇒yu)  teiu⇒tuu,tyuu
いう⇒ゆー(⇒ゆ) | ていうことで⇒つーことで,ちゅーことで

・助詞の『て(te)』 tea(⇒ta)  teiu⇒tu-,tyu-  tei(⇒te)  teo(⇒to)
してあげる(⇒したげる) | している(⇒してる) | しておく(⇒しとく)

・『おう(ou)』  ou⇒o-(⇒o)
ほんとう⇒ほんとー(⇒ほんと) | しましょう⇒しましょー(⇒しましょ)

・『いあ(ia)』  ia⇒iya
すきあり⇒すきやり | しあい⇒しやい | かきあげ⇒かきやげ

・『良い(yoi)』  yoi⇒i-
よい⇒いー

・『嫌(iya)』  iya(⇒ya)
いやだ(⇒やだ)

・『いいえ(iie)』  iie⇒i-e⇒ie(⇒ye)
いいえ⇒いーえ⇒いえ(⇒いぇ)

・『まえ(mae)』  mae⇒me-
おまえ⇒おめー | てまえ⇒てめー

・仮定形+助詞の『えば(eba)』  eba⇒ya-(⇒ya)
すれば⇒すりゃー(⇒すりゃ)

 こうやって英語ならaeがiに、仏語ならeauがuに、独語ならeuがoiに化けていったわけですね。
 『零:こういうのはどうですか?』が、
⇒『壹:こうゆうのはどうですか?』
⇒『貳:こーゆーのはどーですか?』
⇒『參:こーゆーのはどーっすか?』
⇒『肆:こーゆーなーどーっすか?』
⇒『伍:こーゆーなーどーすか?』
⇒『陸:こーゆーなーどすか?』
⇒『漆:こーゆーなどすか?』
⇒『捌:こゆなどすか?』
……へと理屈上は変貌していく。私は肆辺りまでなら聞いた記憶があります。果たして百年後の俗日本語はどんな物になっているのでしょう?

 それと『ありえる』と『おれる』の話ですが、『扇(古:あふぎ)』と『葵(古:あふひ)』、『逢う(古:あふ)』と『逢坂(古:あふさか)』のように理由も体系も無く音韻が変わっている単語もある為、そんなに変な話ではない気がします。
い抜き言葉について (浅草太郎)
2012-06-03 17:02:09
「い抜き言葉」について
「教えてます」は「教えています」が正しいのでしょうが、私には言葉の乱れではなく、これも日本語なのではと思えます。普通体だと、「教えてる。教えてない。」で、日常会話では普通に使われます。
「まだ食べてるの!」と「まだ食べているの!」は意味は同じですが、これらは、言葉の「ゆれ」?それとも「乱れ」?どう考えればいいのでしょうか。勿論、学習者に教えるときは「教えています」の形がいいとは思います。

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