徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行-オーストラリアを歩くまで編-163

2013-06-30 07:26:36 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロ
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6、オ-ストラリアを歩くまで-6

 いよいよオーストラリアへの出発である。当時はオーストラリアへの直通便がなかった。
確か、いろいろなところを経由して23時間ぐらいをかけてシドニーまで行ったように思う。

 そして、そのオーストラリアのシドニーに着き、数日間のシドニー滞在でオーストラリアを知ろうと努力した。
それだけではオーストラリアが分からないから、とにかくBillの所に行って見ようと数日間のシドニーの後に出かけて行ってしまった。
その彼の所がQueensland 州の Townsville というシドニーから2000kmほど北の海岸沿いの町に住んでいた。
そこまではシドニーからほぼ2日間のバスの旅であった。
大変退屈で苦痛な旅であったが、窓から見える風景はアメリカとは違っていた。
このオーストラリアの東部の人口密度が多いこの辺りでも夜になると光が見えないのであった。
人家が本当に少ないことを実感した。
そのバスでのことである、真夜中に周りには明かりがないバス停で一人のカーボーイがバスから降りて行ったのであった。
彼は何処へ消えて行ったのだろうか?
「これから歩こうとする所はオーストラリアの砂漠である。ここよりか人が住んでいない所なのだ。」
と思い、「厳しい旅になるな」と思わざるを得なかった。

 さて、その Bill の話しに戻り、住所を頼りに出かけて行ったところが非常に田舎であった。
町ではないので乗り物も多く走っていなかった。そこを暑い中、歩いてそのBillの家まで見当をつけて歩いた。
初めての所なので聞きながら行ったのだが、何とか彼らの家に着くことが出来た。
幸いなことに、彼らがその家にいたので大変助かった。
後で聞いたことだが、その次の年には新しい所へ引っ越すと言っていた。
まさに1年遅かったら会えなかったかもしれなかった。
Bill との再会で彼らはとても親切にしてくれた。
彼らとは以前、ハワイで1日~2日の少しだけの出会いであった。
それにもかかわらず、俺が彼らの家に押しかけ訪ねても、嫌な顔もせず、彼らの周りのいろいろなオーストラリアを見せてくれた。

 話しを戻すが、彼らから今後歩くオーストラリアの情報を聞けたことは言うに及ばずであった。
そんなに親切にしてくれたので、別れる時は旧来の友のようになぜか涙が出たものだった。

 Bill の家の人々は私がオーストラリアを歩くのだと言ったら大変驚いていた。
そんな優しい彼らはこのオーストラリアにはとてつもなく広いナレボー砂漠があると言い。
その砂漠は人が住んではなく、これから歩く夏は40度を越える非常に暑いところだと言うのだ。
だから、彼らは最後まで歩くのをやめろと言って何度となく私を止めた。

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世界一周、徒歩旅行-オーストラリアを歩くまで編-162

2013-06-29 05:47:33 | 世界徒歩旅行

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6、オ-ストラリアを歩くまで-5

 とにかく、私は次の旅の為、まずはアメリカに入ってからと考えていた。
何故なら、アメリカ徒歩横断で友人になった人々に会いたかったことと。
また、日本に1年間いたから英語に不安があったので、彼らと会話することによって英語に耳を慣らす目的があったからである。
その後、南米の最南端に行き、歩き始めようと考えていた。
南米はスペイン語であるが、これほどまで英語にこだわるのは今後の長い世界徒歩の旅ではなんと言っても英語が基本になるからであった。

 ところが、アメリカのビザが出なかった。(日本人は1988年からノービザ)
この時、パスポートにはアメリカビザの上に「cancel」のハンコを押された。
だから、わざとパスポートを焼き、新しいものに替え準備をしたのだが、、、。
それでも新しいパスポートに任意送還のデーターが出ているのか?
それとも他の事なのだろうか?

 もうすでに、仕事も止めていたので早く海外に出たかったために、仕方なくアメリカは諦めた。
そして、フト!地図を見ているとオーストラリアが目に入った。
よくよく考えてみるとここも英語圏ではないかと思ったのだ。
また、この国は大きいのでそこを歩けば、歩いている期間、英語に耳が慣れて英語は自然と話せるようになると思った。
この国が私には一石二鳥だった。私は根っからの勉強嫌いらしい。
そんな訳でこの国に行くことを即座に決めてしまった。

 それにふと思うと、以前ハワイで知り合ったオーストラリア人 Bill がそのオーストラリアにいたことを思い出した。
その知人の電話番号を持っていなかったが、住所はあった。
もちろん、私はそのBillにすぐに手紙を出した。
しかし、この時オーストラリアへの出国を決めたのが出発1週間前なので、返事が返って来る前に日本を離れた形になった。

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世界一周、徒歩旅行-オーストラリアを歩くまで編-161

2013-06-28 06:22:44 | 世界徒歩旅行

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6、オ-ストラリアを歩くまで-4

 アメリカでもニューヨークは少し違った社会であると感じた。
ニューヨーク以外のアメリカは人々に余裕があるのだった。
例えば、歩く早さも他の所はゆっくりだが、ニューヨークのマンハッタンなどは日本の東京を思わせるほど早く歩く。
あたかもお互いが競争し合っているかのように感じた。
だからか、アーティスト達が多いこのニューヨークでは自分の個性で、自分のスタイルで、自分のものを表している。
大道芸人などもその一つであるが、ある日突然その競争から抜け出し、個性がヒットすることがあるのであった。
ここは芸術の花咲く都市であるということを実感した。
その反面このニューヨークは人々の心の中に壁を作り、閉ざされた社会を作っているようにも感じた。
だから、ただアメリカを見るのであるならばニューヨークだけを見ただけではアメリカを見たとはいえないと思った。
アメリカはもっと雄大で人々が優しいし、素朴である。
ニューヨークだけはアメリカでない他の国ではないか?などとも思った。


 アメリカのニューヨークから任意送還と詐欺のため第三国でも良かったが、ショックが大きかったこともあり、心が落ち着く日本に帰った。
その後日本で働くことにした。
その仕事は友人の紹介で行った請負の仕事であった。
この仕事で良い点は私1人で自由に動けるということであった。
それは肉体労働で泣きたくなった時もあったが、私はけっこう良いお金を取ることが出来た。

 その後、私はその仕事が高所得の仕事で心残りがあったのだが、始めの計画の通り1年できっぱり辞めた。
それは前からの計画であった南米から北米を歩こうと思っていたからであった。

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世界一周、徒歩旅行-オーストラリアを歩くまで編-160

2013-06-27 06:55:16 | 世界徒歩旅行

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6、オ-ストラリアを歩くまで-3

 出入国管理に捕まった後、不法に働いていたレストランに戻って行ってまた働き出した時は、すこし前とは違った感じがあった。
私がそのレストランで新米ではあったが、出入国管理に捕まったわけであったが。
特に、私にキツく当っていたその店での先輩は、出入国管理職員が捕まえに来た時、みっともなくジタバタしたのだった。
どうして、彼がジタバタしたかというと捕まえに来た時に手錠をはめるからであった。
だから、その時ウエイトレス達は皆で泣いたものだった。
結局、彼はパスポートを確認しに彼の宿所まで行き確認し、学生ビザということでそこで開放された。
私は、確認のために安ホテルまで行き、観光ビザだということで、留置所に送られた。
そんな中、私はというと死ぬことはないので、なるようになれと思い神妙に構えていたのであった。
その二人の行動が対照的だったのか、店に帰ってから先輩の態度が違うのであった。
私にはキツく当らないのであった。
そればかりでなく回りの皆も親切であった。とにかく、この一件で大変従業員が一つにまとまったような感じがした。
あの先輩の態度の違いは、私がどこかの刑務所から帰ってきた前科人でもあるかのようだった。
私にハクが付いたのだろうか?

 ちなみに、観光ビザで働いていたのは私ともう一人だけであった。

 捕まった時のことをもう一度詳しく書くと。
この場合、競争相手のレストランからの垂れ込みだから、出入国管理人は現場に向かうが。
出入国管理人は日本レストランに行っても誰を捕まえたらいいのか分からないから、質問をする。
「何のビザで来たか?」それに正直に答えた場合、不法かどうかを確認するためそのパスポートを見なければならない。
その時、パスポートは宿所にあったので、各人の住居まで行きパスポートを確認するのであった。
学生ビザの人はその時に手錠をはずされた。俺は観光ビザでまだ期限は1週間あったが、不法就労で許されなかった。
それにしてもこのレストランに冷静な状況判断が出来る人がいれば、こんな事件が起こらなかったのであった。
それは出入国管理が市民からの申告でレストランに不法就労の疑いがあるから見て来いということだからだ。
何処の誰が不法就労だという証拠もなかったのであった。すなわち、逮捕状の様なものがなかったのであった。
パスポートを見て初めて証明されるものであるから、パスポートを見るまで手錠はしてはいけないのである。
彼らのおとり捜査にハマったのであった。
店のマネージャーがしっかりしていたら出入国管理が来た時、「営業妨害だ。」と跳ねつけて、店の中に入れてはいけないのであった。


 その他にもこの1ヶ月の間にまた他の一事件があった。本当に何かが起こるものだ。
それは日本に帰らなくてもビザを正式に取ってやるという弁護士があらわれたのであった。
その弁護士は私から1000ドルを受け取り、何回か会っていた。
一時はニュージャージーの事務所までも行った。
あたかも、彼は本当の弁護士のようであったが、1ヶ月の延長期限が近づいたころ連絡が取れなくなった。
その弁護士はトンヅラしたのであった。即ち彼は詐欺師であった。
いろんなことがあるニューヨークであった。

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世界一周、徒歩旅行-オーストラリアを歩くまで編-159

2013-06-26 06:29:27 | 世界徒歩旅行

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6、オ-ストラリアを歩くまで-2

 ニューヨークでの生活が始まり1週間の間は思う存分休んだ。
そのまま遊んでいては次の南米から北米までの旅が出来ないから、お金を稼がなくてはいけないと思って仕事を探した。
ニューヨークにいてもイタリア系アメリカ人と付き合っていたので、日本語は話さなかった。
それで、日本語を話したかったので初めから日本食レストランを探した。
幸いすぐに日本食堂でのウエイターの仕事が見つかった。
そこでは私はまだ新米ではあったが、LAでもしたことがあるし、一生懸命やったので、早く覚えることが出来た。

 働き出してまだ1週間ぐらいの時だと思った。
レストランの競争相手の垂れ込みで出入国管理の職員が突然その食堂にやって来たのであった。
私は不法労働ということで捕まってしまったのだ。
普通2~3日間の留置所の宿泊のはずが、連休が重なり5日間留置所で暮らすこととなった。
この時、すでに日本人の不法労働で捕まる人は少なくなっていたので、捕まっていた中南米の人達に珍しがられた。
 ”いまどき日本人がね!”という感じで中南米人は見るのであった。
私は人を殺したのでもなく、盗みをしたわけではないから余り深刻に考えなかった。
楽観的である。
その当の中南米の人達はアメリカから強制送還されて出たら、すぐに又、密入国してアメリカに戻って来るのだと言っていた。
彼らは私よりも楽観的に明るく話していた。

 私もそれにつられてか、食事をする時に順番に並び1人前をもらうのだが、その量では足らずもう一度もらいに行ったものだった。
正直、この時の食事がファーストフードだったから、一人前では腹が一杯にならないのだ。
だから、2人分を食べるのがこの時の常であった。
もう一人同じレストランで働いて捕まっていた日本人がこんな私を見て呆れていた。

 この留置所で困ったことはトイレであろう。大も小も区切る所がなく丸見えなのであった。
この様なところを見るとこの留置所も罪を犯した人が来る所なのだなという感じになった。

 裁判での結果が出た。
 その不法就労での裁判の結果は1ヶ月の期間を貰い任意送還というものであった。
だから、1ヶ月の間、同じレストランで稼げるだけ稼いだ。

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