徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行-アメリカ編-25

2013-01-31 08:07:26 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロ
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4、アメリカを歩く-16

この旅行で一番お世話になったテントについて

*テント
 このアメリカ、オーストラリアとニュージーランドは同じテントを使いほぼ体の一部になっていた。
それは2人用の物で上にフライシートを張る物であった。

america-5.jpg
よく使った2人用のテント。

アシアからヨーロッパまでは2人用のテントが壊れ、少し小さな1人用のテントを使った。
それはフライシートもなく軽い物であったが、中の空間があまりない物であった。
もちろん、それらどちらもすばやく張ることが出来る物であった。
アジアでは人が多いのでテントを張るところがなかったが、それでもどうしても寝るところが見つからない時はテントを張った。
その時、周りで見ていた人々は何か新兵器でも見たかのようにビックリしたのであった。
詳しくは「アシアを歩く」で書くことにする。
 テントは毎日夕方、日が沈む頃、張るようにしていた。
あまり早く張っても人々に見つかるし、あまり遅くなると暗くなり見えないのでテントを張るタイミングが難しかった。
こればかりではなく一日の歩く距離を決めるようにしていたので、その距離を越えないとテントを張りたくなかった。
これらを考えてテントを張ったので、タイミングが本当に重要であった。

 このアメリカなどでは2人用の物を使ったことは前にも伝えたが、やはりテントの中の空間が広いと心に余裕が出来た。
とくに、紅茶などを飲みながらそこに座り、暮れ行く太陽を見ていた時はすばらしかった。

 さて、次の朝、疲れた体に鞭を打ちテントをたたむのであるが、ほとんどの日が上のフライシートに露が付き濡れていた。
寒い日はこれが凍っていた。
それをバックパックの中に入れて担いでいかなければならないから、このままでは中が濡れてしまうし、水が付いていると重たいので少しでも拭いておきたかった。
だから、朝起きて一番初めにする仕事はこのフライシートを拭く仕事であった。

 雨が降ったらテントが濡れて悲惨になるので、ラジオをよく聴き雨が降るかを注意深く聴いていた。
雨が降るようであったら、橋の下とか、水路が横切る道路の下などによく張った。
この様に上に屋根があると雨だけ防げるだけでなく、夜露が降りないので助かった。
それでもこれらの様な屋根代わりのものが見つからず、テントを張ったときに雨が突然降ってきた時は大変だ。
特に、雨の中テントをたたむのは悲惨であった。
この時、雨でバックパックの中が濡れてしまうのが一番嫌であった。
そうなると乾いた服が一枚もなくなり、どこかで雨宿りをして着替えることも出来なくなるからであった。

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世界一周、徒歩旅行-アメリカ編-24

2013-01-30 08:16:56 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロ
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4、アメリカを歩く-15

歩いていた時に気が付いたことを簡単に書いて見ました。

*時間差
 アメリカの横断で3回時間を変えた。
即ち、太平洋標準時間を山岳時間に一回、その時間を中央標準時間に2回目、それをまた東部標準時間へと3回変えた。
歩いた州はカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、オクラホマ、
アカンサス、テネシー、バージニア、ワシントンD.C.、マリーランド、
ペンシルベニア、ミュージャージ、ニューヨークであった。
この中でカリフォルニア州とアリゾナ州の州境で1時間進め、ニューメキシコとテキサスの州境でも1時間進めた。
最後はテネシー州の国道70号のノックスビルという都市の前、ロックウッドという町の近くで1時間を進めた。

america-6.jpg
 州を越えるときの標識。
アリゾナからニューメキシコへ

 こんな簡単なことだったが、私にとっては非常にうれしい出来事であった。
特に最後に時間を進めた時はもう時間を変えなくていいのだと思うと本当に終わりが近く感じ、感慨無量であった。

*東部の13州
テネシー州では本当に多くの人の家に泊まった。
田舎の若者のところで泊まった時にその部屋にアメリカ独立当時の旗があった。
それは赤い下地に青色で角から角までXを大きく書いた物で、その青いところに13の州を表す星が並んでいる物であった。
彼は大変な愛国者だったのだろう。
しかし、ドイツで言ったらナチのような感覚で少し怖いようにも思ったが、彼自体は悪いやつではなかった。
それにしても考えてみると、この13州は東部の13州であって、テネシー州が入っていないのであった。

*新聞記者
 ようやく、2番目の登山靴もなれて歩くペースが速くなってきた。
しかし、東部になって人々が多くなってくる分、多くの人と会話することが多くなり一日の歩く距離を稼ぐのが大変であった。
そんな中でまた新聞のインタビュアーにあった。
彼はまだ新米だからか、質問の的を得ていなかった。それで私が今までインタビューを受けた経験から、これこれを聞くのではないかと進んで教えてあげた。
その他、インタビューではよく聞かない様なことなどや私の気持ちまで話て上げた。
他に日本のことも詳しく話して上げたら、今後彼は私に友達になってくれというのであった。

*バスケットボール
 香港にいたことがあった人が夜泊まって行けと言った。
彼は東洋に来たことがあったからだろう、我々日本人の英語の下手さを分かっていたようだ。
それで私の下手な英語をよく理解してくれた。
その日の昼も日本に2年間いたという人がいた。彼も私の英語を理解してくれた。
しかし、このアメリカの田舎だけで育った人は私が何を話しているのかわからず何回も聞くのであった。

 とにかく、そこで泊まった日の夜であった。
3人の子供を持った婦人がバスケットの試合をするというのであった。
私も学生時代にバスケットをしていたから、大変興味があり見に行った。
婦人の試合も日本とはレベルが違うなと思ったが、その後男性の試合になり驚いた。
その迫力はすごいものであった。
このような田舎でもこれだけの試合をするのだから、日本のレベルはまだまだだなと思ったものだった。

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世界一周、徒歩旅行-アメリカ編-23

2013-01-29 07:54:34 | 世界徒歩旅行

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4、アメリカを歩く-14

*メンフィス、ナッシュビル

 私は音楽が好きなので、メンフィスやナッシュビルなどアメリカらしい音楽を聞ける都市をわざと歩くコースに入れた。
この都市は両方同じテネシー州にある。ご存知の通りメンフィスはエルビスプレスリーで代表され、ナッシュビルはカントリーソングで有名である。

 メンフィスに着いた初めの日はサルベイションアーミーに泊まった。
夕食と朝食がついて大変安くいろんな人種がいて(ルンペンのような人まで)面白いが、門限があって、夜遅くまで出ていられなかった。
従って、ブルースなどを聴きたかったが、その日は聴けず、その次の日に安ホテルに移った。
2日目の昼の時間をミシシッピー川のリバーサイドパークで過ごし、夜の時間を待った。
その日は3月に入っていたので、久しぶりに春の暖かい日差しを浴びてゆっくりした時を過ごした。
そのパークで美しい夕日を見ていた時、日本人の旅行者と会った。久しぶりの日本語であった。
本当に久しぶりだったので自分は日本語をうまく話せるだろうかと錯覚をしたが、誰でも自分が育った言葉である日本語は話せるのである。
よく外国で日本人と会うとこちらが日本語を話しているのに相手はあまり上手くない英語で話をする人がいる。
私にはこれが良く理解できない。
言葉は相手がいて話すものなので、相手が英語であれば英語が自然と出てくるが、相手が日本語を話していたら自ずと日本語になるのではないだろうか。
もっとも、どの言葉が一番自然に出てくるかによるだろう。
国際結婚の子供の場合は親が日本語で話しても子供が英語で答える場合はある。
それは子供の一番自然な言葉が英語だからであろう。
しかし、先ほどの海外での旅行者の話はそれとは違うのであった。
ところで、久しぶりに話した日本語であったから、後ろ髪を惹かれるような気持ちで彼と別れた。
とにかく、何故だか日本語で話せる喜びを感じたものだった。

 その後、ナッシュビルに着いた時は、早めに着いて、シャワー、洗濯、食事などをしてユックリしたかった。
もちろん、ここではカントリーソングを聴くのも一つの目的であった。
 とりあえず、夕食をその日は贅沢にオールド スパゲティー ファクトリーというスパゲティー屋に入った。
このレストランはロスにもあって安いが、内装が良く贅沢に見えることを知っていたので入ったのであった。

 そこでのことであった。
隣にいた白人の若い2人が何回となく私を見ているのであった。おかしいなと思っていた。
私はウエイトレスが来た時に「このレストランはロスにもあるね。私は良くそこに行ったよ。」と言った。
それを見ていた隣の若造2人が「何、生意気なことを言っているのだ。」という仕草をするのであった。私は大変気分を悪くした。
彼らは私をインディアンか、それとも最近この辺に自動車工場を建てている日本人かと思い、彼らは完全に人種差別をしていたのだった。
(顔の日焼けなどから判断したら私は日本人には見えなかっただろうが。)
その様なことはこの時が初めてであった。
それまで私は色々な人に会い、家に泊めてもらったりもし、本当にアメリカ人はオープンなのだと思っていた。
それなのにその時はこんな若者もいるのか、可愛そうなやつらだと思ったものだった。
それにしても相手と話をしてその人自体を知ってから、その人の価値を決めても遅くないのに。
(実際はほとんど話しても人間を理解できないし価値など決められるものではないが。。)

 アメリカでの音楽はやはりすばらしいものがあった。田舎のホテルでの生演奏でも力強いものがあって聴いていて気持ちが良かった。
この横断では通らなかったが、以前行ったディキシージャズで有名なニューオリンズなどで、小さな店でおじいさん達が演奏をしていた。
演奏者がおじいさんなので力がないのかと思うが、さにあらずそこにも力強さと音の切れがあったのであった。
また、どの地方でもアメリカの若者に大きなラジカセを持たせてミュージックに合わせて歩く姿は大変絵になっていた。
体に音楽が滲み出ているようであるからだ。

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世界一周、徒歩旅行-アメリカ編-22

2013-01-28 08:17:47 | 世界徒歩旅行

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4、アメリカを歩く-13

歩いていて、食べ物、飲み物はよくくれたが、お金をくれた時は困ったものだった。

*お金
 東へ東へとアメリカを歩いてくると人々が多くなってきた。自然と会話が多くなった。
特に、私が歩いているところを前の日に見かけて、その次の日にまた、私に会った時などは大変であった。
「あなたは本当に歩いているのだね。」と非常に感激してくれ会話が多くなり、何かをくれるのであった。
「お腹がすいているのだろう。」とか、「ノドが渇いているだろう。」と思ったからだろう。
いろいろなものをくれた。そんな時はすんなり貰っていたが、たまにお金をあげるという人がいた。
私はこんな時はほとんど断わっていた。それでも道路にお金を放り投げてしまう人がいてそれには困ったものだった。
そんな時私は金稼ぎで徒歩の横断をしているのではないのだ言うのだった。
それにしてもノドが乾いている時ジュースをくれたり、腹が減っている時サンドイッチをくれたりした時は喜んで貰った。
それには私に対しての思いやりの心がこもっているから貰わざるをえないのだとも思ったものだった。
この時ももちろん私から「ジュースをください。」などとは決して言わなかった。
ただ、彼らがあげると言うので貰ったのであった。

 そうかと思ったら、こんな時があった。
ある田舎のバーで昼ではあったが、ビールを飲んでいたときのことであった。
その辺は黒人が多いので気をつけろと言われていた所であった。
それでかえって、なぜ黒人がいけないのだと思い、そのイメージを私の心の中から変えるためにも進んでそんな所に行ったのであった。
そんな時のことであった。そのバーの人が黒人のオバサンだった。アメリカのバーではビールを飲むごとにお金を払わなくてはいけない。
それでその時に10ドル札を出し払ったのだが、彼女は細かいお金がないと5ドル札の分だけのお金を精算し、残りの5ドルはマスターが来たら払うというのであった。
その場には彼女と2人だけであった。その後、マスターが来たのだが彼女は私にその5ドルを払おうともしなかった。
それで私が「御釣りは?」と聞いたら、「お前は5ドルしか払わなかったのになぜ御釣りが必要なんだ。」と言うではないか。
私はあっけに取られてしまった。
テープレコーダーで録音でもしていないかぎり証拠がないから、ここではこれ以上何を言ってもしょうがないなと思った。悔しい話であった。
それにしても、彼女の話が正しかったら、余分に金を取る私は悪人である。
お金「5ドル」を損をしたより、私が悪人になってしまうことの方が私にとっては腹立たしかった。
こんな黒人がいるから他の黒人が迷惑するのであった。

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世界一周、徒歩旅行-アメリカ編-21

2013-01-27 07:53:48 | 世界徒歩旅行

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4、アメリカを歩く-12

 他の国では寒さ、暑さが普通ではなかったが、(暑さでは摂氏48度、寒さではマイナス35度の時があった。)
ここではアメリカだけに限って書いてみます。

*寒さ
 この日は非常に風が強かった。歩いていると道路の中央に押しやられるような強い風であった。
非常に頭にきた。風に逆らって歩かなければ車に轢かれるからであった。
他にも顔が刺すように冷たくなかなか我慢が出来なかった。
そんな時、何もならないことは分かっていても空に向かって大声で文句を何回も言っていた。
このところ毎日テントで寝ているのでシュラフ(寝袋)が濡れていった。
テントの中でも空気は冷たいので体温で温まったシュラフの温度との差がありシュラフの表面に水滴がつくのだ。
これは夏に冷たい水のコップの回りに水滴がつくのと同じである。
その日は非常に寒いのとそれらを乾かしたいという思いで、今日ぐらいはモーテルに泊まりたいという気持ちだけで歩いていた。
小さな町に温度計が掲げてあった。その温度を見ると13F°即ちマイナス10°ぐらいであった。
これは昼の温度なので、朝のもっと寒いときはマイナス15°ぐらいだろう。
こんな日は車がよく止まってくれた。何時ものように丁寧に断わった。その中の内でオレンジをくれた人がいた。
そのオレンジを食べるのに手袋を脱いで食べていたのだが、オレンジの汁が手に付きそれが凍るからだろうか手が刺すように痛かった。
 その日は歩いていて休むことが出来なかった。休むと体が冷えてしまい風邪を引くのではないかと思ったからである。
汚い話だが、鼻水は拭き取るとその場ですぐに凍ったし、唾を吐いた時にその飛沫(しぶき)が目に入ったら痛かった。

 あまりにも寒いのでモーテルを見つけて泊まった時である。そのモーテルは部屋を前もって暖めてないからだろうか部屋に入っても寒かった。
何時かは暖かくなるだろうと思っていたが、温まらないので少しだけ空気が出てくる機械のところで暖かい空気が出てくるのを待っていた。
結局、モーテルに泊まりながらも日ごろから使っているシュラフの中で寝ることになった。
私にとっては高い金を出しながら暖かく寝れないことに腹が立ったものだった。

 次の日の朝はというと温度が4F°即ちマイナス16°であった。
こんな日が続いたのと新しい靴がまだ馴染まず足は膿出していたので、この日もモーテルに泊まりたかった。
小さな町を過ぎた頃、この町で泊まろうと思ったがあまりにも小さいので通り越してしまった。この先には町がなさそうだったので引き返し始めた。
引き返すのだからということで一度ヒッチハイクでもしようと手を上げるのだが、こんな時は車が止まってくれないものだ。
それでもそんな時に若者が止まり、町まで連れて行ってくれるというのであった。
その車に乗るなりビールをくれ、彼は親切にもモーテルまで連れて行ってくれ、おまけにそのモーテル代まで出してくれた。
その後夜に彼は遊びに来て友達などとも遊んでいた。ありがとう!

 寒さの為に鼻水が出るが、それを手袋で拭っているうち鼻の穴の出口が腫れてしまった。
その後、黒くなり鼻糞を何時もつけているように見えて嫌であった。寒さはそれだけではなく両手の小指がシビレをもたらした。

こんな寒い日があったが、周期的に暖かい日もやってきた。

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