論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

中論-Ⅹ

2017-09-01 09:17:46 | 仁の思想

中論-Ⅹ
智行(ちぎょう)→智力ある行動
1或問曰、「士或明哲窮理,或志行純篤,二者不可兼,聖人將何取?」對曰、「其明哲乎。夫明哲之為用也,乃能殷民阜利,使萬物無不盡其極者也。聖人之可及,非徒空行也,智也。伏羲作八卦,文王增其辭,斯皆窮神知化,豈徒特行善而已乎!《易離象》稱『大人以繼明照於四方』,且大人、聖人也,其餘象皆稱君子,蓋君子通於賢者也,聰明惟聖人能盡之,大才通人有而不能盡也。《書》美唐堯,欽明為先,驩兜之舉共工,四嶽之薦鯀,堯知其行,衆尚未知信也。若非堯則裔土多凶族,兆民長愁苦矣。明哲之功也如是,子將何從?」
[訳1]
 或る人問いて曰く、「士或いは明哲窮理に,或いは志行純篤に、二者は兼ねるべからざれば、聖人将に何をか取らん?」と。對えて曰く、「其れ明哲か。夫れ明哲の用たるや、乃ち能く民を殷(さか)んに利を阜(さか)んに、万物をして其の極を尽くさざる者無から使むるなり。聖人の及ぶべきは、徒だ空行するに非ざるなり、智なり。伏義は八卦を作り、文王は其の辞を増し、斯れ皆な神を窮め化を知る、豈に徒(た)だ特(た)だ善を行うのみならんや!<易、離象>が称えるに、『大人以て明を継ぎ四方を照らす』とあり、且(まさ)に大人は、聖人なり、其の餘の象は皆君子を称え、蓋し君子は賢者に通じるなり、聡明は惟だ聖人のみ能く之れを尽くし、大才通人有り而して尽くすこと能わざるなり。<書>は唐尭を美(よみ)するに、欽明が先と為り、驩兜(かんとう)之れ共工を挙げ、四嶽之れ鯀(こん)を薦め、尭其の行いを知るも、衆は尚お未だ信(まこと)を知らざるなり。若し尭に非ざれば則ち裔土(えいど)に凶族多く、兆民長く愁苦す。明哲之れ功なるや是くの如く、子将に何(いず)くにか従わん?」と。
 ・或る人が問うには、「知識人は時には優れた知性を働かせて物事の道理を明らかにしたり、また時には善性を発揮して心の籠もった人情に厚い対応をするが、この二者は同時に行うことは難しいから、聖人としてはどちらを優先すべきだろうか?」と。答えるには、「其れは知性の方だろう。聡明な知性の働きは、民の心を満たし稔りを豊かにし、全ての者が全力を発揮出来るようにすることである。聖人の働きは闇雲に無駄な行為をしているのではなく、知性が裏付けとなっている。伏羲は八卦を編み出し、文王がこれに卦辞を加え、こうして物事の詳細な道理を解き明かしてその変化を察知したのであって、単に善行を為すに止まったのではない。<易経、離卦、大象傳>に、『大人はこの離の象に法り、明徳を世に継ぎ、四方の国に照臨する』と称えているが、まさしくかかる大人は聖人であり、その他の大象傳では皆んな君子を称えているが、かかる君子は賢者に相当し、物事の道理に真に通じているのは聖人だけで、才能に長けた人物とか博識な人物などはその範疇には入らない。<書経>には尭帝を称える上で、先ずは慎み深く賢いという表現を用いており、次いで悪神の驩兜がもう一人の悪神の共工を推挙したり、官人の四嶽が悪神の鯀を推挙する故事が記されているが、尭帝は悪神らの悪行を知り尽くしていたのに、臣下の者どもは真実を知らなかったのである。尭帝が居らなければ、荒廃した辺境に住む強暴な多くの蛮族によって、万民は苦しみ悩まされたに違いない。最高の知性の効用はこの様に素晴らしく、貴方がどちらを選ぶかは明らかなことであろう。」と。
[参考]
 ・《易離象》稱:<易經、離>
     「1 象傳: 明兩作離,大人以繼明照于四方。」
 ・其餘象:六十四卦の大象傳中、君子の項が五十三卦、先王の項が七卦、大人・地天・山地・天風がそれ
       ぞれ一卦ずつ、計六十四卦となっている。
 ・《書》:<尚書、虞書、堯典>
     「1曰若稽古帝堯,曰『放勳欽明、文思安安、允恭克讓、・・・』」
      3・・・ 帝曰:「疇咨若予采?」驩兜曰:「都!共工方鳩僝功。」帝曰:「吁!靜言庸違,象恭滔天。」   
      帝曰:「咨!四岳,湯湯洪水方割,蕩蕩懷山襄陵,浩浩滔天。下民其咨,有能俾乂?」僉曰:
      「於!鯀哉。」帝曰:「吁!咈哉,方命圮族。」岳曰:「异哉!試可乃已。」 帝曰,「往,欽哉!」九
      載,績用弗成。」
 ・四徳:聖王が備えたという四つの徳。欽・明・文・思。
 ・四罪:中国神話に登場する天下に害をなした四柱の悪神。(共工・驩兜・鯀・三苗)
 ・驩兜:堯の時代の悪人とも言われている。堯の息子である丹朱のことであり、三苗人の論戚誼と組んで
      堯に対して反乱を企てたとされ、それが四罪と目される由来となっている。
 ・共工:洪水を起こす水神とされている。堯の時代には幽州の地において処刑されている。舜の時代に洪
      水を起こして暴れ、幽州へ追放されたとある。
 ・四嶽:尭の時の官名で、四方の諸侯を統治する官。
2或曰、「俱謂賢者耳,何乃以聖人論之?」對曰、「賢者亦然。人之行莫大於孝,莫顯於清。曾參之孝,有虞不能易。原憲之清,伯夷不能間。然不得與游、夏列在四行之科,以其才不如也。仲尼問子貢曰、『汝與回也孰愈?』對曰、『賜也何敢望回?回也聞一以知十,賜也聞一以知二。』子貢之行不若顏淵遠矣,然而不服其行,服其聞一知十,由此觀之,盛才所以服人也。仲尼亦奇顏淵之有盛才也,故曰、『回也非助我者也,於吾言無所不說。』顏淵達於聖人之情,故無窮難之辭,是以能獨獲亹亹之譽,為七十子之冠。曾參雖質孝,原憲雖體清,仲尼未甚嘆也。」
[訳2]
 或る人曰く、「倶(みな)賢者を謂(かた)るのみ、何ぞ乃ち聖人を以て之れを論ぜんや?」と。對えて曰く、「賢者亦た然り。人の行いは孝より大なるは莫(な)く、清より顕らかなるは莫し。曾参の孝、有虞は易(はぶ)くこと能わず。原憲の清、伯夷は間(はぶ)くこと能わず。然るに與に游(つか)えることを得ず、夏は四行の科を列在するも、其の才を以て如かざるなり。仲尼が子貢に問いて曰く、『汝と回と孰れか愈(まさ)れる?』と。對えて曰く、『賜や何ぞ敢えて回を望まん?回や一を聞いて以て十を知る、賜や一を聞いて以て二を知る。』と。子貢の行いは顔淵に遠く若(しか)ず、然り而して其の行いに服(したが)わず、服うは其れ一を聞いて十を知り、此れに由り之れを観れば、盛才が人に服う所以なり。仲尼は亦た顔淵の盛才有ることを奇(あや)しみ、故に曰く、『回や我を助ける者に非ざるなり、吾が言に於いて説(よろこ)ばざる所なし。』と。顔淵は聖人の情(こころ)に達し、故に窮難の辭無く、是れを以て能く独り亹亹(びび)の譽を獲て、七十子の冠たり。曾參は孝を質すと雖も、原憲は清を體すと雖も、仲尼は未だ甚だ嘆(たた)えず。」と。
 或る人が問うには、「知性というと賢者ばかりが取り挙げられているが、何故聖人を対象に論じられないのだろうか?」と。答えて云うには、「賢者についても聖人と同じ事が言えるからだ。人がすることで親への孝養より大切なものはなく、清い心ほど気高いものはない。曾子の孝心は有名だが、帝舜の孝養についても記さない訳には行かない。原憲の清心も有名だが、伯夷の清廉についても触れない訳には行かない。然し曾子も原憲も仕官することが出来ず、我が国中国では孝悌忠信の四徳の思想が受け継がれては来たが、彼等の才能を持ってしても越えられぬものがある。孔子が弟子の子貢に云うには、『お前と顔回とではどちらが優れていようか?』」と。子貢が答えるには、『私など顔回とは較べようもありません。顔回は一を聞いて十を知るほどの聡明さですが、私は一を聞いてやっと二を知る程度です』と。子貢の行為は顔淵に遠く及ばず、さすればそう言う行為は受け入れられず、一を聞いて十を知る優れた才能を身に付ける努力をすべきであり、この点から観れば、優れた才能というものは人格に依存すると云うことが良く解る。孔子はまた顔回の優れた才能を認めてはいたが満足はせず、『顔回は、私の学問を助ける者ではない。私の言う言葉を鵜呑みにして、批判せずに喜んで聴いてる。』と評している。顔回は聖人の心境に達しており、だから暮らしの貧しさにも一切苦情を語らず、弛まぬ努力をして名声を博し、孔門七十子の筆頭に記されている。曾子は孝養で、原憲は清廉で名を成しているが、孔子は余り評価していない。」と。
[参考]
 ・曾參:孔子の弟子で、その教えを伝える上で尤も功績のあった一人。親孝行で有名。
 ・有虞:帝舜のこと。親によく仕えたことで知られる。
 ・原憲:孔子の弟子で、清貧に安んじ道を修める日々を送った。
 ・伯夷:殷代末期の高名な隠者で、儒教では聖人とされる。清貧に甘んじて餓死。
 ・四行:人の行うべき四つの道。孝・悌・忠・信の称。
    (「孝悌」は両親や目上の人にしっかりと仕えること。「忠信」は誠意をもって、決して欺かないこと。)
     <呂氏春秋、先識覽、正名>
     「3・・・尹文曰:「今有人於此,事親則孝,事君則忠,交友則信,居鄉則悌,有此四行者,可謂士
      乎?」・・・」
 ・仲尼問子貢曰:<論語、公冶長>
     「9 子謂子貢曰:「女與回也孰愈?」對曰:「賜也何敢望回。回也聞一以知十,賜也聞一以知二。」
      子曰:「弗如也!吾與女弗如也。」」
 ・故曰:<論語、先進>
     「4 子曰:「回也非助我者也,於吾言無所不說。」」
 ・曾參雖質孝,原憲雖體清,仲尼未甚嘆也。
      <論語>の中で、孔子は曾子・原憲の両者とも余り触れていない。曾子曰と云うフレ-ズは多い
      のだが。
3或曰、「苟有才智,而行不善,則可取乎?」對曰、「何子之難喻也。水能勝火,豈一升之水、灌一林之火哉?柴也愚,何嘗自投於井?夫君子仁以博愛,義以除惡,信以立情,禮以自節,聰以自察,明以觀色,謀以行權,智以辨物,豈可無一哉?謂夫多少之間耳。且管仲背君事讎,奢而失禮,使桓公有九合諸侯、一匡天下之功,仲尼稱之曰、『微管仲,吾其被髮左衽矣。』召忽伏節死難,人臣之美義也。仲尼比為匹夫匹婦之為諒矣。是故聖人貴才智之特能,立功立事益於世矣。如愆過多、才智少,作亂有餘,而立功不足,仲尼所以避陽貨而誅少正卯也。何謂可取乎?漢高祖數賴張子房權謀以建帝業,四皓雖美行而何益夫倒懸?此固不可同日而論矣!」
[訳3]
 或る人曰く、「苟も才智有り、而して善からざることを行う、則ち取るべきや?」と。對えて曰く、「何ぞ子の難き喩えなるや。水は火に勝るも、豈に一升の水は、一林の火に灌(そそ)がんや?柴(さい)は愚か、何ぞ嘗て井に自投せしや?夫れ君子は仁以て博く愛し、義以て悪を除き、信以て情を立て、禮以て自ら節し、聰以て自ら察し、明以て色を観、謀以て權を行い、智以て物を辯けるは、豈に一つとして無かるべからんや?謂う(おも)うに夫れは多少の間のみ。且つ管仲は君に背き讐に事(つか)え、奢り而して禮を失い、桓公をして諸侯を九合し、天下を一匡有ら使めし功は、仲尼之れを称して曰く、『管仲微(な)かりせば、吾れ其れ髪を被(こうむ)り衽(えり)を左にせん。』と。召忽は節に伏(した)がい難に死す、人臣の美(すぐ)れし義なり。仲尼は比して匹夫匹婦の諒(まこと)を為すと為す。是の故に聖人は才智の特能を貴び、立功立事して世に益す。愆(あやま)ち過多、才智少、乱を為すこと余り有り、而して立功足らざるは、仲尼が陽貨を避け而して少正卯(しょうせいぼう)を誅せし所以なり。何の謂いぞや取るべきとは?漢の高祖は数(しばしば)張子房の権謀に頼り以て帝業を建(と)げ、四皓(しこう)は美行すると雖も何ぞ夫れ倒懸(とうけん)に益せんや?此れ固(もと)より同日の論なるべからず!」と。
 或る人が問うには、「仮の話だが才能と知恵に長けていれば、悪いことに手を染めたとしても、許されることなのだろうか?」と。答えて云うには、「何と難しい例え方をするものだね貴方は。水は火を消すことが出来ると云っても、一升位の量では山火事を消し止めることは出来ないだろう?(何事にも限界があると言う事だ。)師の孔子に愚か者と称された子羔でも、愚かさ故に身投げしたという話は聞いたことがない。(愚かさにも限界があるのだ。)そもそも君子たる者が仁徳を持って人々を博く愛し、義理に従って悪事を排除し、真心を持って義理立てし、礼節に従って操を守り、賢こく物事を洞察し、明瞭に表情を読み取り、念入りに計画して権力を行使し、知恵を働かせて物事を見分けると云ったことは、どれも大事な事であって無くてはならぬ行為である。例え行われない事があったとしてもそれは一時的なことだろう。(時には魔が差すと言う事もある。)まさに管仲は主君を見棄てて敵対していた桓公に仕え、豪奢な生活を送ったり礼節を弁えない行動があったとは云え、桓公を覇者なら使めた功績は、孔子をして、『管仲が居たからこそ、我々は散ばら髪で襟を左前にした野蛮な風俗の蛮族の支配を受けずに済んでいるのだ』と称えさせている。召忽は忠節を尽くした果てに殉死したが、これは臣下としての立派な忠節の表れである。孔子は管仲に比して召忽の死を取るに足らぬ男女の義理立て行為に擬えて批判している。こうして聖人は才智の特別な働きを尊重し、功績を挙げ事業を興して世の為に尽くすのである。過ちが多すぎ、才智が乏しく、秩序を乱すことが多く、功績を挙げる事も少ないと云った類いは、孔子が陽貨を避け、少正卯を誅殺した理由である。許すと云うことは何を意味するのか?漢朝の劉邦は軍師の張良の策略を得て天下を統一し(謀略に由ったとは云え世に平和をもたらした)、秦代末期の乱世を避けた四人の隠士の振る舞い(悪事とは無関係とは云え世の為には何の役にも立たない)は好ましいとは云え、危急の時の役には少しも役立たないに違いない。これ(才智に長けている事と悪事に手を染める事)は本来同日に論じるべき問題では無いのだ。」と。
[参考]
 ・柴:孔子の門人の子羔。<論語、先進>→「柴也愚・・・」
 ・管仲:春秋時代の斉の政治家。
 ・讎:覇王の斉の桓公のこと。
 ・九合諸侯:<論語、憲問>
     「16子路曰:「桓公殺公子糾,召忽死之,管仲不死。」曰:「未仁乎?」子曰:「桓公九合諸侯,不以
       兵車,管仲之力也。如其仁!如其仁!」」
 ・仲尼稱之曰:<論語、憲問>
     「17子貢曰:「管仲非仁者與?桓公殺公子糾,不能死,又相之。」子曰:「管仲相桓公,霸諸侯,一
       匡天下,民到于今受其賜。微管仲,吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之為諒也,自經於溝瀆,
       而莫之知也。」」
 ・召忽:春秋時代の齊の政治家。管仲と共に奉じた公子糾が斬首された時、後を追って自決。
 ・陽貨:春秋時代の魯の政治家、陽虎のこと。策略家で主家に反旗を翻して一時魯国の実権を握る。
 ・少正卯:春秋時代の鲁国の大夫。
     <荀子、宥坐>
     「2孔子為魯攝相,朝七日而誅少正卯。門人進問曰:「夫少正卯魯之聞人也,夫子為政而始誅之,
       得無失乎,」孔子曰:「居,吾語女其故。人有惡者五,而盜竊不與焉:一曰:心達而險;二曰:行
       辟而堅;三曰:言偽而辯;四曰:記醜而博;五曰:順非而澤--此五者有一於人,則不得免於
       君子之誅,而少正卯兼有之。故居處足以聚徒成群,言談足飾邪營眾,強足以反是獨立,此小
       人之桀雄也,不可不誅也。 」
 ・漢高祖:前漢の初代皇帝の劉邦。
 ・張子房:前漢の政治家・軍師の張良。劉邦の覇業に大きく貢献。
 ・四皓:商山四皓と云い、秦代末期の乱世を避けて陝西省商山に入った東園公・
     綺里季・夏黄公・甪里の四人の隠士。皆んな鬚や眉が白い老人。
4或曰、「然則仲尼曰『未知焉得仁』,乃高仁耶?何謂也?」對曰、「仁固大也,然則仲尼此亦有所激,然非專小智之謂也。若有人相語曰、『彼尚無有一智也,安得乃知為仁乎?』昔武王崩,成王幼,周公居攝,管、蔡啟殷畔亂,周公誅之。成王不達,周公恐之,天乃雷電風雨以彰周公之德,然後成王寤。成王非不仁厚於骨肉也,徒以不聰叡之故,助畔亂之人,幾喪周公之功,而墜文、武之業。召公見周公之既反政,而猶不知,疑其貪位,周公為之作《君奭》,然後悅。夫以召公懷聖之資,而猶若此乎!末業之士,苟失一行,而智略褊短,亦可懼矣!仲尼曰、『可與立,未可與權。』孟軻曰、『子莫執中,執中無權,猶執一也。』仲尼、孟軻可謂達於權智之實者也。殷有三仁、微子介於石不終日,箕子內難而能正其志,比干諫而剖心。君子以微子為上,箕子次之,比干為下。故《春秋》大夫見殺,皆譏其不能以智自免也。且徐偃王知脩仁義,而不知用武,終以亡國。魯隱公懷讓心,而不知佞偽,終以致殺。宋襄公守節,而不知權,終以見執。晉伯宗好直,而不知時變,終以隕身。叔孫豹好善,而不知擇人,終以凶餓。此皆蹈善而少智之謂也。故《大雅》貴『既明且哲、以保其身。』夫明哲之士者,威而不懾,困而能通,決嫌定疑,辨物居方。穰禍於忽杪,求福於未萌,見變事則達其機,得經事則循其常。巧言不能推,令色不能移。動作可觀,則出辭為師表。比諸志行之士,不亦謬乎!」
[訳4]
 或る人曰く、「然らば則ち仲尼が曰く、『未だ知ならず焉んぞ仁なることを得ん』と、乃ち高仁か?何の謂いぞや?」と。對えて曰く、「仁は固より大なり、然らば則ち仲尼は此れ亦た激する所有り、然して専ら小智の謂いに非ざるなり。若し相語る人有れば曰く、『彼は無有一智を尚ぶなり、いずくんぞ乃ち知を得て仁と為さん?』と。昔し武王が崩じ、成王は幼く、周公が摂に居り、管と蔡は殷を啟(みちび)き畔乱し、周公は之れを誅す。成王は達(とお)らず、周公は之れを恐れ、天の雷電風雨は以て周公の徳を彰(あきら)かにし、然る後に成王は寤(さと)る。成王は不仁に非ず骨肉に厚く、徒に以て叡の故を聰らず、畔乱の人を助け、幾(ほとん)ど周公の功を喪い、而して文・武の業(わざ)を墜(お)とす。召公は周公の既なる反政を見、而して猶お知らず、其の貪位を疑い、周公は之を為すに<君奭(くんせき)>を作り、然る後に悦(した)う。夫れ以て召公は聖の資を懐き、而して猶お此の若きか!末業の士、苟めにも一行を失い、而かも智略褊短なるは、亦た懼(つつ)しむべし! ・仲尼が曰く、『与に立つべきも、未だ与に権る(はかる)べからず。』と。孟軻が曰く、『子莫(しばく)中を執り、中を執って權無きは、猶一を執るがごときなり。』と。仲尼・孟軻は權智に達せる實(み)ちし者なり。殷に三仁有り、微子は介(かた)きこと石の于(ごと)く日を終えず、箕子は内に難(わず)らい而して能く其の志を正し、比干は諫め而して剖心す。君子は微子を以て上と為し、箕子は之れに次ぎ、比干は下と為す。故に<春秋>には大夫が殺(あや)めらる見(る)に、皆其の不能を譏られれば智を以て自ら免ると。且つ徐の偃王(えんおう)は仁義を知脩し、而して武を用いることを知らず、終には以て国を亡ぼす。魯の隠公は讓心を懐き、而して佞偽を知らず、終には以て殺に到る。宋の襄公は節を守り、而して權を知らず、終には以て執を見る。晉の伯宗は直を好み、而して時変を知らず、終には身を隕(お)とす。叔孫豹は善を好み、而して人を択ぶことを知らず、終には以て凶餓す。此れは皆善を蹈み而して少智の謂いなり。故に<大雅>は『既に明にして且つ哲なれば、以って其の身を保たん。』を貴ぶ。夫れ明哲の士は、威(たけ)くして懾(おそ)れず、困(くる)しみて能く通じ、嫌を決し疑を定め、物を弁じ方(ただ)しきに居き、禍(わざわ)いは忽杪(こつびょう)に穰(おいはら)い、福は未だ萌(きざ)さざるに求め、変事を見て則ち其の機(きざし)に達(いた)り、經事を得て則ち其の常に循(したが)う。巧言は推すこと能わず、令色は移すこと能わず。動作は観るべく、則ち辭を出して師表と為し、諸れは志行の士に比(くら)べても、亦た謬(たが)わざるや!」と。
 或る人が問うには、「それならば孔子が、『智力がないのだから、どうして仁者と云えようか』と云っているが、これは気高い仁徳のことを指して云っているのだろうか?一体何を云わんとしているのか?」と。答えて云うには、「仁徳とは基本的に偉大なものだが、そうだとしても孔子は厳しすぎる處があるが、だからと云って一途に智慧が足りないと云っているのではない。若し語り合う人が居れば『孔子は絶対なる根源的唯一の智力を貴ぶが、どうにかしてそんな素晴らしい智力を身に付けた仁者になりたいものだ。』と云うに違いない。昔し周王朝の武王が亡くなり、後継者に成王が立ったが幼く、周公旦が摂政となり補佐したが疑いを掛けられ、兄弟の管叔鮮・蔡叔度らが滅んだ殷の遺児を担ぎ上げて乱(三監の乱)を起こしたのでこれを鎮圧するという事変があった。成王は未熟な處があって周公旦はこれを恐れており、互いに不信感を懐いていた時期があったが、天変地異に際して成王が<金滕の誓言>を繙いて周公旦の忠義の心を知って蟠りが解けることになる。成王は不仁の人ではないが肉親の情に厚く、叡智の何たるかを知らず、三監の乱を起こした叔父達を庇い、補佐役の周公の功績を認めず、先王の文・武王の成果を失墜させた。同じ補佐役の召公は周公の専権的政治姿勢を見て、深く知らずにその貪位を疑い、それを知った周公は<君奭の訓言>を与えたので召公は疑いを晴らすことになる。この様に召公のように聖人の資質を持っていても、こう云う事が起きるのだ!部外者がちょっとした気遣いを怠り、しかも智略が乏しいともなれば、その言動には十分に慎むことが必要だ!孔子は、『一緒に同じ精神的境地に立つことが出来ても、一緒に同じ目的や利益を求めることは出来ない。』と云っている。孟子も、『魯の賢人、子莫は聖人の道である中庸に近い中道主義を執るも、中道に捕らわれ過ぎて臨機応変の対応が出来なかったから、これではただ一つの立場に固執し過ぎると云うものだ。』と云っている。孔子も孟子も釣り合いのとれた智力を持った実力者である。殷には三人の仁者が居り、微子は節操が石のように堅く、機敏で物事に迅速に対処し、箕子は殷の行く末を憂えるあまり発狂したが紂王を何度も諫めて正義を守り、比干は紂王を諫めて真心を表した。君子は微子を一番に挙げ、箕子を二番目に,比干を三番目に列している。だから<春秋>には大夫が殺される時には、皆んな才能が無いと非難されるので智慧を働かせて生き延びる努力をしたのだと記されている。更に徐の偃王は仁義の道を修得したが、武力を用いなかったので最後には国を亡ぼすことになる。魯の隠公は摂政の地位を誠実に守って桓公に禅譲し、人に諂ったり偽ったりすることが無かったのに、最後には殺されることになる。宋の襄公は礼節を能く守ったが謀略に長けず、最後には監禁の憂き目に遭う。晉の伯宗は苛烈な性格で直言を好んだが世の変遷を見抜けず、最後には讒言により誅殺されることになる。叔孫豹は誰とでも信用して付き合うほどの善人で、最後には自分の息子に裏切られて餓死してしまう。これらは皆善行を為したには違いないが、智慧が足りなかったのである。だから<詩経、大雅>では、『賢明にして知恵が優れておれば、其の身を安泰に全うしうる』と云う言葉を重視する。賢明にして知恵に優れている人物は、威厳があって動ずることが無く、苦心努力して物事を良く理解し、嫌疑を見定め、物事の善し悪しを判別して適切に用い、禍難は大きくならないうちに対処し、福事は起こる前から追い求め、変事を目の当たりにしてその兆しを覚り、経験を踏まえて常道を守る。口先の旨い言葉を使わず、諂うような愛想の良い顔付きはしない。挙措動作には見るべきものがあり、発する言葉は常に師表となる。これは品行が高尚な人物と較べて見ても、全く遜色ないと云うことなのだ!」と。
[参考]
 ・仲尼曰:<論語、公冶長>
     「19子張問曰:「令尹子文三仕為令尹,無喜色;三已之,無慍色。舊令尹之政,必以告新令尹。何
        如?」子曰:「忠矣。」曰:「仁矣乎?」曰:「未知,焉得仁?」
      孔子の理想とする「仁者」とは、「忠義・清浄」といった人格的な高潔さを備えた人を単純に指すの
       ではなく、時勢を見極めて世の中に貢献するだけの知力を備えた「智者」を含む。
 ・三監の乱
      殷の武庚・管叔鮮・蔡叔度の叛乱。叔鮮と叔度は成王の叔父で、殷人を治める紂王の遺児の武
      庚を監視していたが、幼少の成王を後見する周公の簒奪を猜疑し、武庚を擁して挙兵したもの。
 ・天乃雷電風雨以彰周公之德,然後成王寤。:<書経、金滕>
     「2・・・今天動威以彰周公之德,・・・」
 ・《君奭》:<尚書、周書、君奭>
     「君奭: 召公為保,周公為師,相成王為左右。召公不說,周公作《君奭》。」
 ・召公:召公奭(しょうこうせき)は、周朝の政治家。太公望や周公旦と並び、周建国の功臣の一人。
 ・貪位:資格もないのに地位についていること。
 ・仲尼曰:<論語、子罕>
     「30子曰:「可與共學,未可與適道;可與適道,未可與立;可與立,未可與權。」」
 ・孟軻曰:<孟子、盡心上>
     「26孟子曰:「楊子取為我,拔一毛而利天下,不為也。墨子兼愛,摩頂放踵利天下,為之。子莫執
        中,執中為近之,執中無權,猶執一也。所惡執一者,為其賊道也,舉一而廢百也。」」
 ・子莫:魯の賢人という話もあるが、詳しくは解らない。
 ・微子:中国の殷の王族の微子啓(びしけい)。暴君紂王の兄で穏やかな性格で人望があった。末弟の紂
      王が乱暴な政治を繰り返して行うのを何度も諫め、周との戦いでは和睦を主張したが、全く聞き
      容れられなかった。紂王が牧野の戦いで周に敗れた後、周に降服し宋に封じられて初代宋公と
      なる。微子啓は若い頃から賢哲であったので殷の遺民達もこれを尊崇し、国はよく治まった。
 ・<周易、易經、豫>
     「1豫卦: 利建侯,行師。
      3 六二:介于石,不終日,貞吉。
       象曰: 不終日,貞吉、以中正也。」
 ・箕子:殷王朝の政治家。紂王の叔父にあたる。
     箕子は農事・商業・礼法などに通じ、箕子が政治を執っているあいだ殷は大いに栄えた。紂王が暴
     君化すると、比干とともに紂王を何度も諫めるが、聞き入れられないと分かると殷の行く末を憂える
     あまり発狂したため、紂王によって幽閉された。後に武王が殷を倒すと箕子を招聘して政治につい
     て問い、そのあまりの該博さに驚嘆したという。 武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。
 ・比干:殷代の王族。紂王の叔父に当たる。紂王の暴政を諌めたが聞き入れられなかった。周で文王が
      死んで武王が立つと周の勢力はますます増大し、殷の他の者達は逃げ出してしまったが、比干
      は「臣下たる者は命をかけて諫言しなければならない」と紂王に対して諫言をした。しかし紂王は
      これを聞かず、「聖人の心臓には7つの穴が開いているそうだ」といって比干を殺害した
 ・大夫:周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族のこと。大夫は卿の下、
      士の上に位した。周代、周王室および諸侯に仕える小領主は大夫、その上級のものが卿と呼ば
      れ、国政に参加した。諸侯が横暴であった場合、大夫らにより追放されることもあり、主君を脅か
      し得る地位を得るようになった。
 ・徐国:西周から春秋時代にかけて淮北に位置していた国。周の穆王のとき、徐の偃王がいて最盛期を
      迎え、周の国都まで侵攻しているが、けっきょくは敗北してその子孫は周に臣属している。
 ・偃王:西周時代の徐国(東夷諸国の一つ)の国君。周の穆王は東方の諸侯を分割し、徐の偃王(えんお
      う)に与えた。偃王は仁義による政治をおこなったため、その国への朝貢者は36国にもおよん
      だ。そこで穆王は楚に命じて徐国を討伐させた。偃王は慈悲深い人であったため、道理にはずれ
      たことをせず、徐の国民を戦闘に駆り立てることをしなかった。そのため楚に敗れ、北の彭城武
      原県の東山の麓へ逃れたが、徐の国民数万人も偃王に随ってこの地に住み着いた。そのためそ
      の山は徐山と呼ばれるようになる。
 ・隱公:魯の第14代君主。
     恵公が死去すると、年少の桓公の摂政となり君主の事務を代行する。在位11年。隠公は自らを桓
     公が成長するまでの代行と位置づけて逸脱しなかった。公子翬が桓公を殺害しようと提案したと
     き、隠公は断固としてこれを拒絶した。結果として公子翬にそむかれて殺害される。
 ・襄公:春秋時代の宋の君主。「宋襄の仁」の喩えで有名。(前出)
 ・伯宗:春秋時代の晋の政治家。争臣として知られる。ある時、伯宗が嬉しそうな顔で朝廷から帰って来
      たので、妻が何があったのかと尋ねた。すると伯宗は「大夫たちが私の弁知が陽子(陽処父)に
      似ていると言ったのだ」と言った。陽処父とは昔賢哲を知られながらも苛烈な性格が災いして殺さ
      れた人物である。景公が死んで厲公の代になると、厳しい諫言を度々行う伯宗はあまり重用され
      なくなっていった。遂には讒言により誅殺されてしまう。
 ・叔孫豹:春秋時代の魯の卿。叔孫氏第5代当主。
     <春秋左傳、昭公、昭公四年>
     「穆子去叔孫氏,及庚宗,遇婦人,使私為食而宿焉,問其行,告之故,哭而送之,適齊娶於國氏,
      生孟丙仲壬,蔓天壓己,弗勝,顧而見人,黑而上僂,深目而豭喙,號之曰,牛助余,乃勝之,旦
      而皆召其徒,無之,且曰,志之,・・・既立,所宿庚宗之婦人,獻以雉,問其姓,對曰,余子長矣,
      能奉雉而從我矣,召而見之,則所夢也,未問其名,號之曰牛,曰唯,皆召其徒,使視之,遂使
      為豎,有寵,長使為政,・・・田於丘蕕,遂遇疾焉,豎牛欲亂其室而有之,・・・疾急,命召仲,牛
      許而不召,杜洩見,告之飢渴,授之戈,對曰,求之而至,又何去焉,豎牛曰,夫子疾病,不欲見
      人,使寘饋于個而退,牛弗進,則置虛命徹,十二月,癸丑,叔孫不食,乙卯,卒,牛立昭子而相
      之,・・・」
 ・故《大雅》貴:<詩経、大雅、烝民>
     「4 肅肅王命、仲山甫將之。邦國若否、仲山甫明之。
      既明且哲、以保其身。夙夜匪解、以事一人。」
[感想]
 本然の善性を備え理想の徳と優れた知性を持つ聖人にとって、実行に当たって優れた知性と汚されぬ善性とどちらを優先すべきかという問いに、知性を第一とせよと説く。それは公な治政に効果を発揮する智力に対し、善性の効果は私的範囲に止まるからだと徐幹は考えたようだ。伏羲・文王・帝尭の業績を挙げて、その効果を証明している。
 古代の孝養で有名な帝舜や、清心で有名な伯夷、儒教の徳に秀でた曾參・原憲・顔淵などを例に引いて、智力が徳行より世に受け入れられる様子を紹介している。
 才智に長けていれば、時には逸脱することがあっても許されるのかと云う問いに答える徐幹の意見である。結論は如何に優れた智力であっても万能では無いのだから、時に逸脱する事ぐらいは大目に見て良いだろうということである。その説明として、孔子から未熟者と称された子羔、義理を欠いても功績を挙げた管仲、義理立てはしたが無駄死にに終わった召忽、策略を使って天下統一を果たした劉邦、才智乏しく秩序を乱し悪事を働いて功績の少なかった陽貨や少正卯、世の役には立たぬ秦代末期の四人の隠者などを例に挙げて、智力の有用性を説いている。
 最後に、仁者が備えるべき智力の質についての問い掛けに対する徐幹の意見である。結論は、孔子が望むような最高の仁者に求められる大智から、多くの仁者が備える少智がある中で、孔子や孟子が備えた釣り合いのとれた智力で十分と云う事になる。関連して、孔子から理想の聖人と崇められた周公旦の誓言・訓言、暴君紂王を諫めた上仁の微子・中仁の箕子・下仁の比干、慈悲深い偃王の失政、忠実に義を守り通したにも拘わらず身を滅ぼした隠公、礼節に忠実だったが智力が不足した襄公、苛烈な性格が禍して誅殺された伯宗、人が良すぎて息子に裏切られて死んだ叔孫豹など才智に纏わる話が紹介されている。
 聡明で物事の道理に明るい人物の特徴が最後に纏められている。すなわち、
  ・威厳があって物事に動じない。 
  ・刻苦勉励して万事に精通している。
  ・的確に疑惑を見定め、善悪を判別する。 
  ・禍難は小さい内に、福事は起こる前に対処する。
  ・変事は見逃さず、経験に即した常道を守る。
  ・巧言令色の禁を侵さず、挙措動作が厳格。
  ・発する言葉は常に真理を突く。                                               
                                           (29.09.01)続く。

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