論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

宗密の[華厳原人論]―Ⅱ

2013-10-15 08:53:46 | 宗密

宗密の[華厳原人論]―Ⅱ
 ◎原人論  終南山草堂寺沙門宗密述(かた)る
  ①迷執を斥ける第一(儒道を習う者)
 
(訳文)迷妄執着を排斥する第一章(儒・道二教を習う者)
 儒道二教が説くに、「人畜等の類は、皆是れ虚無なる大道(たいどう)より生成養育す」と。謂わく、「道は自然に法りて元気を生じ、元気は天地を生じ、天地は万物を生ず。故に愚智・貴賤・貧富・苦楽は、皆天に稟け、時命に由る。故に死後は卻(ま)た天地に帰り、其の虚無に復(かえ)る」と。
 (訳文)儒・道二教は、「天地間にある生き物はすべて、空っぽだが無限の可能性を秘めた大道から生まれ、育っていく」と説いている。また、「この道は巧まずに元気を生み出し、その元気から天地が生まれ、その天地が万物を生み出す。だから、人として生きていく上で現れてくる愚智・貴賤・貧富・苦楽などの現実問題はすべて天から与えられ、それもその時々の天の意思によって変わってくる。そこで、人は死ぬと先ず元の天地に戻って行き、最後には空っぽな大道の下に落ち着く」と云っている。
 (注釈)まず道教の虚無大道説が紹介される。即ち、道を宇宙の根源とし、万物の生成・復帰を説く宇宙生成論を唱える老子の教えである。元気とは万物生成の根本となる精気のことで、儒家の唱える宇宙の根源である「太極」を意味する。宇宙生成論は道家が遙かに先行しており、儒家では漢代にやっと「元気(太極)→陰陽(両儀)→四時(四象)→万物(八卦)」という<易経>から発展したモデルが提出される。
 然るに外教の宗旨は、但だ身に依(たよ)って立行に在(あ)て、身の元由を究竟(きゆうきよう)するに在らず。説く所の万物は象外を論ぜず。大道を指して本と為すと雖も、而して備(つぶ)さに順逆・起滅・洗浄の因縁を明かさず。故に習う者は是れが權なるを知らずに、之れに執(こだわ)り了と為す。今略して挙(なら)べたてて詰(なじ)らん。
 (訳文)そしてこれら二教の主旨は、ただ身を修めよと云うだけで、人の由来を究明するものではない。万物とは云うものの、 現実の世界を超越した本質の問題には触れていない。空っぽだが無限の可能性を秘めた大道が根源だとは云うが、順・起・染などの迷いの世界や、逆・滅・浄などの悟りの世界の因縁については何も明らかにしていない。だから儒道二教を学んでいる者は、それが方便の教えであることを知らずに、執着して良しとしている。そこでこれから、要点をまとめてこの二教を問い糾してみる。
 (注釈)儒道二教は因縁を無視した權教だと指摘する。順逆・起滅・洗浄は、縁起論に関係する言葉。
 〇言う所の、「万物は皆虚無なる大道に従って生ず」では、大道は即ち是れ生死・賢愚の本となり、吉凶・禍福の基となる。基本となれば既(ことごと)く其れ常に存す。則ち禍乱・凶愚除くべからず。福慶・賢善益(ま)すべからず。何ぞ老荘の教えを用いん!又た道が虎狼を育み、桀紂を胎み、顔冉を夭(わかじに)させ、夷斉に禍いせしとは、何ぞ尊しと名づけんや!
 (訳文)二教の云っている、「万物は全て空っぽだが無限の可能性を秘めた大道から生まれる」が真とならば、大道が生死・賢愚・吉凶・禍福などの現象の本となり、本であるならば常に存在していることになる。それならば、禍乱・凶愚などの現象を人の力で起こさないようにすることは出来ないし、福慶・賢善などの現象を人の力で増やすことも出来ない筈である。人の力が及ばないものならば、なんで老荘の教えを用いる必要があろうか!またこの大道が虎狼を生み育てたことになるし、桀王・紂王を生み出したことにもなるし、顔回・冉耕を早くに喪くした事にもなるし、伯夷・叔斉兄弟を餓死させたことにもなる。これではどうして老荘の教えが尊いものだと云えるだろうか!
 (注釈)虚無大道説の批判。桀王は夏王朝の最後の君主、紂王は殷王朝の最後の君主暴君で共に暴君として有名。顔回冉耕は共に孔子の弟子で、孔門十哲に属す。伯夷・叔斉兄弟は殷の書肆で清廉潔白な人物として有名。
 又た言うに、「万物は皆是れ自然に生化して因縁に非ず」とせば、則ち一切は因縁無き處に悉く生化し、謂うに、石は應(まさ)に草を生ずべく、草は或(こと)によると人を生じ、人は畜生等を生ずべし。又た應に生ずべきに前後無く、起こるに早晩無く、神仙も丹薬を藉(か)りず、太平も賢良を藉りず、仁義も教習を藉りずとせば、なんぞ老荘周孔が立教し軌則と為せしものを用いんや!」と。
 (訳文)また、「万物は全て自然に生ずるもので、因縁とは関係ない」と云うのであれば、全ての現象は因縁とは関係なく生ずることになり、そうなると石から草が生えてきたり、事によると草が人を生み出したり、人が畜生などを生ずることになる。またその生ずる時に後と先きや早い遅いなどと云うこともなく、神通力を得た仙人も丹薬を作る必要もなく、天下太平の為に賢人良士の力を借りる必要もなく、仁義について勉強する必要もなくなる。それであればどうして老子・荘子・周公・孔子らが打ち立てた教えを用いる必要があるだろうか!」と。
 (注釈)自然生化説の批判。仏教に云う因縁とは、因は内的原因を、縁は外的条件を指す。一切のものは因縁によって生滅する、と云うのが仏の教えである。
 又た言うに、「皆元気に従って生成す」とせば、則ち歘(すぐ)に生れし神(こころ)は未だ曾て習慮せず。豈に嬰孩(えいがい)は則ち能く愛悪驕恣するを得んや?若し歘に自然にして便ち能く念に随って愛悪等を有すと言えば、則ち五徳六(りく)芸(げい)も悉く能く念に随って解すべし。何ぞ因縁を待って学習して成らんや!
 (訳文)さらに、「すべての物が元気から生まれてくる」と云うのであれば、生まれたばかりの嬰児の心の中は空っぽと云うことになる。だとすればどうして嬰児が泣いたり笑ったりぐずったりと感情を表に顕すことが出来るのだろうか?もし自然に感情が生まれてきて、思いにままに愛憎の気持ちを顕すと云うのであれば、学習によって得べしとする五徳・六芸も自然に身に付いて思いのままに理解出来ると云うことになる。これでは因縁の教えを無視すること甚だしく、学習してこそ修得出来るというのは嘘になるではないか!
 (注釈)元気説の批判。五徳は、五常すなわち仁・義・礼・智・信の徳。六芸は、礼・楽・射・御・書・数の諸学問。
 又た若し、「生が是れ気を稟けて歘に有となり、死が是れ気が散じて歘に無となる」ならば、則ち誰が鬼神と為るや?且つ世に前生を鑒達(かんたつ)し往事を追憶すること有り。則ち生前に相続せし事を知り、気を稟けて歘に有るに非ず。又た「鬼神は霊知と断たず」と験(しる)す。則ち死後気散じて歘に無に非ざるを知る。故に祭祀・求祷のこと典籍に文有り。況んや死して蘇りし者が幽途の事を説き、或いは死後に妻子を感動させ怨恩に讎報すること、古今に皆有るをや。外に難じて曰わく、「若し人が死して鬼と為れば、則ち古来の鬼は巷路に填塞し、合(まさ)に見る者有るべし。如何ぞ爾らざらんや?」と。答えて曰わく、「人は死して六道に、必ずしも皆鬼と為らず、鬼は死して復た人等に為れば、豈に古来の積鬼が常に存ぜんや?」と。且つ「天地の気は本は無知なり」と。人は無知の気を稟ければ、安んぞ歘に起きて知有ることを得んや?草木は亦た皆気を稟く。何ぞ知ならざるや?」と。
 (訳文)またもし、「人の生は気が集まって始まり、死は気が散って終わる」と云うのならば、鬼神とは一体何を意味するのか?時には世間で過去のことを見てきたかのように覚えていたり、思い浮かべたりする人が居る。それは生前から受け継いだ記憶であり、気が集まってすぐに現れたものではない。また、「鬼神には霊知が存在する」とも云う。すなわち死後気が散れば何も無くなってしまうと云うものではない。だから鬼神を祀ったり、祈祷したりしたことが、書物の中に記されている。ましてや、死んだ者が生き返ってあの世のことを語ったとか、あるいは死者が現れて妻子を喜ばせたとか、恨みを晴らしたとか、恩返しをしたとか云う話が今も昔もあるではないか。二教以外の人々が非難して云うには、「もし人が死んで鬼になるというなら、昔からの鬼達で巷は溢れ、人々の目に触れるはずだが、どうして見えないのだ」と。これに仏教徒は答えて、「人は死ぬと六道の世界に輪廻して、必ずしもすべての人が鬼になる訳ではない。しかも鬼が再びまた人間に戻ることもあり、巷に鬼が溢れてしまうと云うことはないのだ」と。しかも二教を信ずる者は、「天地の気には、もともと何も備わっていない」と云う。人が空っぽな気から生まれ出たとするならば、どうして生まれてすぐに知恵を働かせることが出来るのだろうか?草や木もまた気から生じる。だとすれば草や木にも知恵が備わっている筈だが、それが認められないのはどう云う訳だろう?
 (注釈)鬼神の批判。鬼神には天神・地祇・人鬼(死者の霊魂)が含まれる。ここに云う鬼神とは人鬼のこと。六道とは人それぞれの業によって輪廻する先が六っつに分かれていることを云う。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道の六っつ。
 〇又た言うに、「貧富・貴賤・賢愚・善悪・吉凶・禍福は皆、天命に由る」と。則ち天の命を賦するは奚(な)んぞ貧多く富少なく、賤多く貴少なく、乃至(あるい)は禍多く福少なきや?苟も多少の分が天にあらば、天は何ぞ平らかならざるや?況んや行無くして貴、行守って賤、徳無くして富、徳有りて貧、逆にして吉、義にして凶、仁にして夭、暴にして寿、乃至は道有る者が喪び、道無き者が興るや?既(ことごと)く皆天に由らば、天は乃ち道ならざるを興して、道を喪ぼさんや?何ぞ善に福(さいわ)いし謙に益するの賞、淫に禍し盈(みつる)を害するの罰有らんや。又た既く禍乱・反逆皆天命に由らば、則ち聖人が教えを設けて人を責めて天を責めず、物を罪(とが)めて命を罪めざらん!然して則ち<詩>には乱政を刺(いまし)め、<書>には王道を讃え、<礼>には上を安んじると称し、<楽>には風(ならわし)を移すと號す。豈に是れ上天の意を奉じ、造化の心に順ぜんや?是れにて此の教えを専らにする者は、未だ人を原ねること能わざることを知る。
 (訳文)また、「貧富も貴賤も賢愚も善悪も吉凶も禍福もみんな、天が命じたものだ」と云っている。このように天命が全てだと云うならば、どうして世の中はこうも貧しい人や地位の低い人や災いが多く、豊かな人や地位の高い人や幸せな人が少ないのだろうか?全ての現象が天命に由るのであれば、天というものはなんと不平等なのだろう!さらに功績も無いのに高い地位に居たり、正しい行いをしているのに地位が低かったり、徳も無いのに裕福だったり、徳が有っても貧しかったり、理に背いているにも拘わらず恵まれていたり、身持ちが正しいのに恵まれなかったり、慈悲深いのに早死にしたり、暴れん坊なのに長生きしたりと、道に叶った生き方をしている者が恵まれず、道を踏み誤った者が恵まれるとは、一体どう言うことか?この様に何事も天の意思によるとするのであれば、天は道に外れた行いを奨励して、人の道を滅亡させようとしているのだろうか?どうして善人には幸せを与え、慎み深い人には利益をもたらすように褒め称え、道に外れた者には災いを下し、驕り高ぶった我が儘者には罰を加えないのだろうか?また全ての災いや世の乱れや反逆者の出現が天命に由るのであれば、聖人が教えを設けて人々を責め立てて天にはその責任を問わず、万物の責任は咎めるが、それを命じた天の責任は問わないと云うのでは道理に合わないと云うものだ!そして<詩経>の中では乱れた政治を厳しく戒めたり、<書経>の中では王道のすばらしさを讃えたり、<礼記>の中では君主を安んじることが大事と説いたり、<楽記>の中では良い風俗に変えることを勧めている。これは天の意思をよく守り、造物主の心に添えと云うことか?これでは、二教の徒も人間の根源を窮めることは出来まい。
 (注釈)天命説の批判。ここで引用されている数々の言葉の出処を羅列しておこう。<書経、商書、湯誥篇>「天道福善禍淫」、<易経、彖傳、謙>「天道虧盈而益謙」、<孝経、第十二広要道章>「安上治民、莫善於礼」、<孝経、第十二広要道章>「移風易俗、莫善於楽」、など。
                                                                              つづく

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宗密の[華厳原人論]ーⅠ

2013-10-01 09:32:37 | 宗密

宗密の[華厳原人論]―Ⅰ
http://homepage2.nifty.com/tokugitannka-ronngo/
 韓愈の[原の五書]の[原人]の書の中で、華厳宗第五祖の圭峰宗密を紹介したが、ここで彼の[華厳原人論]について触れてみたい。その内容は、始めに儒・道二教を批判し、次いで仏教内部の諸教の欠点を述べた上で、華厳の一乗顕性教こそが真実の教えだと説く。更に、欠点のある儒・道や仏教の諸教にも存在意義はあるので、真実の教えの下に三教を融合すべしと主張している。彼は、七才から十年間儒学を学び、その後の三年間在家のまま仏教を学び、更に二年間儒学を学び直し、その後出家して高僧の地位を獲得している。儒仏二教のそれぞれの欠点長所を知り尽くした上での原人論だから、見るべきものがあるだろう。宗密は韓愈に少し遅れてこの世に登場した人物だから、韓愈の「原人」の書は認識していた事と思うが、この「原人論」には一言も触れられていないのが不思議である。さて、韓愈の「原人」の書は196文字の短文で、三才思想と天地人の役目について簡単に触れられているに過ぎないが、この[華厳原人論]は約六千字からなり、そのうち約60%が仏教各派の教えの批評に費やされているとは云え、多くの文字を使って自身の本源を明らかにすべく努力している。その良し悪しは別としても、一読する必要があると考え、独善に陥ることを覚悟の上で、全訳を試みることにする。
◎原人論序  終南山草堂寺沙門宗密述(かた)る
 萬霊の蠢蠢(しゆんしゆん)たるは、皆其の本有り。萬物の芸(うん)芸(うん)たるは、各其の根に帰す。未だ根本無くして、枝末有る者は有らざるなり。況んや三才中の最霊にして、本源無からんや。且つ人を知るものは智、自(みずか)ら知るものは明。今我れ人身を稟(う)け得るも、自ら従来せし所を知らず。曷(いず)くんぞ能く他世の趣く所を知らんや。曷くんぞ能く天下古今の人事を知らんや。故に数十年の中(あい)だ学には常師なく、博く内外を攷(かんが)え以て自身を原(たず)ね、之れを原ねて已まず。果たして其の本を得たり。
 (訳文)この世に蠢(うごめ)くありとあらゆる生き物の霊には、皆その本となるものがある。またこの世に繁茂する草木は、それぞれその生まれ出た根元に帰って行く。その生まれ出ずる根元が無いのに、枝葉だけが有るものはこの世には無い。まして万物の霊長たる人間に、生まれ出た本源が無い筈はない。
他人を理解するのは知恵の働きによるが、自身の分を弁えるにはさらに優れた明智が必要である。私は今ここに人間として生まれてはきたが、一体どこから来たのか理解出来ていない。ましてや行く末については何にも解らないし、天下のことや古今の出来事など知るよしもなかった。そういう訳でここ数十年の間、多くの師について広く知識を深めた結果、やっとその本源を見極めることが出来たのである。
 (注釈)萬霊なる言葉は、「この世のあらゆる生命あるものの霊」を指す仏教の言葉。「萬物芸芸、各帰其根」は、<老子、道徳経>にある「夫物芸芸、各復帰其根」にもとずく。「知人者智、自知者明」も、<老子、道徳経>に出てくる言葉である。他世は現世に対する言葉で、「過去又は未来の世」を指す仏語。
 然して今儒道を習う者は、祇(まさ)に、「近きは則ち乃(だい)祖(そ)乃(だい)父(ふ)に、傳體相続してこの身を受け得たり。遠きは則ち渾沌の一気が、剖(わか)れて陰陽の二と為り、二は天地人の三を生じ、三は萬物を生ず。萬物と人とは皆気が本為り」と。仏法を習う者は、但だ云うに、「近きは則ち前生業を造り、業(ごう)に随って報を受け、此の人身を得る。遠きは則ち業又は惑に従い展転し、乃至は阿頼耶識が身の根本と為る」と。皆已に窮むと謂えり。而して実は未だし。
 (訳文)ところで今儒教や道教を学んでいる者は、ただ、「ありふれた云い方をすれば、我々の身体は父親から受けそして祖先から受け継いできたものである。難しく云えば、宇宙に満ちた渾沌の気が二つに分かれて陰陽の気と為り、この二つから天地人の三才が生まれ、その三つから萬物が生まれる。だから萬物も人も、その本源は気である」と教えられている。また仏法を学んでいる者は、ただ「ありふれた云い方をすれば、前世の業によってその生まれ方が異なり、その業が善かったので我々は人として生まれてきた。難しく云えば、その業や煩悩の影響を受けて転生するとか、或いは阿頼耶識こそが人身の本源である」と教えられている。いずれもこれで本源を窮めたと思い込んでいるが、実際の處そんな甘い物では無い。
 (注釈)儒・道が説く處は、いわゆる萬物陰陽二気論であり、仏法の説く處は、受け売りに為るが、近きとは人天教(人間界と天上界についての教え)の教えを、遠きとは小乗教(自己の解脱だけを求める教え)や法相(ほつそう)宗(一切の存在は仮の姿で、阿頼耶識以外何も存在しないという教え)の教えを指している。阿頼耶識とは、大乗仏教で用いられる仏語で、人の深層にあるとされる無意識のこと。
 然れども孔・老・釈迦は皆是れ至聖なり。時に従い物に応じ、教えを設けて塗(みち)を殊(たが)えるも、内外(ないげ)相い資(たす)けて、共に群庶(ぐんしよ)を利す。万行(まんぎよう)を策(さく)勤(ごん)して因果始終を明らかにし、萬法を推究して生起本末を彰(あき)らかにす。皆聖意と雖も実有り權有り。二教は唯だ權にして、仏は權実を兼ねる。万行を策し、悪を懲らしめ善を勧め、同じく治に帰せしめるは、則ち三教皆遵行(じゆんぎよう)す可し。萬法を推しすすめ、理を窮め性を尽くし、本源に至るは、則ち仏教方(まさ)に決(けつ)了(りよう)と為す。
 (訳文)そうは云うものの、孔子・老子・釈迦らは皆高徳の人々である。時と場合によってその説き方を違えてはいるが、心理面と行動面からの教えが相まって、人々を善導してきた。あらゆる修行を奨励して因果応報の道理を説き明かし、世の中のあらゆる法則を推究して万物の生起および本末を明らかにしてきた。これらは皆聖人の思いが発現したものだが、そこには方便と真実の違いがある。儒・道の二教は方便に過ぎないが、仏教は方便と真実を兼ね備えている。あらゆる修行を奨励して、悪行は懲らしめ善行は奨励し、同じように平和な社会を実現させようとしている處は、三教ともに尊重すべき点である。世の中のあらゆる法則を推し進め、道理を究め本性を発揮し尽くして人生の根源を明らかにしたのは、まさに仏教なのである。
 (注釈)ここでも内外、万行、因果、權実、決了など仏教語が多用されている。<荀子、性悪篇>にある「礼義之道、然後出於辞譲、合於文理、而帰於治」とか、<易経、説卦傳>にある「和順於道而理於義,窮理盡性以至於命」とかの中の言葉が用いられているのは格義の現れか。。儒道二教が權教だと説くのは宗密の立場として当然のことだろうが、仏教の中にも權教と実教があると説いているのは斬新な處。
 然るに当今の学士は、各の一宗を執る。仏を師とする者に就いても、仍お実義に迷う。故に天地人物に於いて、之を原(たず)ねて源に至ること能わず。余は今、還(ま)た内外の教理に依って萬法を推し窮む。初めに浅によって深に至る。權教を習う者に於いては、滞(とどこお)りを斥(さ)けて通うぜ令(し)めて其の本を極めしむ。後に了教に依って展(てん)転(てん)生起(しようき)の義を顕示し、偏を會(さと)らせ圓ならしめて末に至る。(末とは即ち天地人物なり)文は四篇有り。原人と名づく。原人論序終。
 (訳文)さて近頃の学者は、それぞれ一教一宗に固執している。仏教を信奉する者も、真の道理を把握しかねている。その為に、この世や人や物について、その根源を把握出来ずにいる。私は今や内外の教理を学び、世の中のあらゆる法則を究め尽くした。そこで初めに皮相的教理から入って、本源に迫る教理を説くことにする。先ず、方便の教えを学ぶ者には、その進歩を助けて本源に到達せしめる。そうして最後には、大乗の教えによって転生の意義を明らかにし、未熟な教えの片寄りを覚らせて間違いの無いようにした上で、この世や人や物の根源を窮めさせる。本文は四篇に分かれている。これを原人と名付けることにする。原人論序終わり。
 (注釈)了教とは了義教(真理をすべて明らかに説き示した教え)のことで、宗密が究極の教えとする一乗顕性教を指す。自分は萬法を窮めたとは、すごい自信の持ち主である。
                                                  つづく

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