論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

閑話再開①

2011-12-24 09:00:17 | 小学

閑話再開 ①

 9月に年初来の「小学」全訳を終え、さて次は何をするかと考えてあれこれ模索を試みた。「小学」を訳している作業中にしばしば気になっていたのが、嘉言訓話及び善行史話に一番多く引用されていた呂氏「童蒙訓」であった。模索する中でこの「童蒙訓」を採りあげる機会があり、いろいろ調べてみるとこれがなかなかに面白い。次第に興味が湧いてきて、取り敢えずその全訳に取り掛かることにした。国内には解説本は見当たらず、ましてや全訳本なるものは無いことが解って(小生の探し方が不十分なのかもしれない)俄然さらに好奇心に火がつき、本格的に調べ始めてみた。そこで解ったことだが、「童蒙訓」の作者である呂本中なる人物がなかなかの名家の出で、その先祖を辿たり末裔のことを調べていくうちに次々と新事実(小生にとってはだが)が見つかり、その作業に時間を取られ本題のほうが疎かになる始末。さて本題のほうはしばらく置くとして、呂氏一族のことだが、末裔と称する呂平山なる人物が纏めた「呂氏大族譜」によると、中国古代伝説上の炎帝を源祖とし、その十五世に当たる堯・舜帝二代に仕えて業績のあった伯夷が初めて呂姓を名乗ったとある。この辺は事実かどうかあてにはならぬが、次に出てくる有名人は太公望で知られる周朝の軍師で、文王に見いだされ武王をたすけて功績をあげた呂尚(伯夷から三十七代目)である。それからずっと下って愈々呂本中の名が出てくる宋朝(北宋は960年~1127年、南宋は1127年~1279年の約300年間)の時代に移り、政界で活躍した錚々たる人物が続々と現れて来る。

次に紹介してみよう。

得名始祖  呂夷伯  儀礼を掌る秩宗となる

八十六代  呂 端  北宋第二代太宗朝・第三代真宗朝の宰相

八十七代  呂蒙正          〃

八十八代  呂夷簡  第四代仁宗朝の宰相(蒙正の甥)

  〃     呂大防  第七代哲宗朝の宰相

  〃     呂大臨  金石家として有名な儒学者(呂大防の弟)

八十九代  呂公著  第七代哲宗朝の宰相(夷簡の子)

九十代    呂希哲  儒学者として官職にあってその才能を発揮(公著の子)

九十一代  呂好問  理学家(宋儒学家)として名を馳せる(希哲の子)

九十二代  呂本中  道学家ではあったが宋詞家(北宋時代に始まった長短句の作詩家)としてのほう

               が有名で紫微という名で通っていた(「童蒙訓」の作者で好問の子)

九十四代  呂祖謙  南宋の儒学者で朱熹と共作した「近思録」が有名(本中の弟の孫)

 宰相となった者の中にも人望の厚かった者、政敵の多かった者そして人材発掘・登用の才に長けた者など多士済済で、これを題材にして描くことが出来ればまた別の面白い物語が出来ることは間違いない。

 こうして見てくると、宗朝の初めは政界に多くの人材を輩出していたが次第にその勢いは衰え、儒学者として活躍するものが多くなって行くのがわかる。いずれにしろ儒学思想が連綿として受け継がれて、時には政界で、またある時には道学界で活躍するという変遷を経てきたのだろう。

 さて本題の「童蒙訓」のほうだが、京大付属図書館所蔵の原文の写しを入手してみると、400字詰め原稿用紙48枚程度の分量なのだが、これがなかなかの難物である。その第一がのっけから続々と出てくる固有名詞の記述で、当時では有名人であったのだろうが小生にはその記録を手に入れるのは難しく、一つ一つ解き明かしていくのに苦労することは目に見えている。次にその言葉の使い方の独特さであり、本中という人の性格なのか或いはそれが当時は当たり前だったのか、手元にある辞書の類では読み解くのに大変苦労しそうである。しかし一念発起したのだから此処で止めるわけにもいかず、あれこれ努力して完成に漕ぎ着けたいと思っている。来年からまとまり次第少しずつ小出しにはなるが公開していきたいと思っている。

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                                                 田 原 省 吾                                                         
                                        以上

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