論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

宗密の[華厳原人論]ーⅣ

2013-11-15 09:58:34 | 宗密

宗密の[華厳原人論]―Ⅳ
 二に小乗教は、形骸の色や思慮の心を説き、無始従り来(このか)た因縁の力の故に念念生滅し、相続して窮まりなく、水の涓涓たるが如く、燈の焔焔たるが如し。身心仮に合して一に似、常に似たり。凡愚は覚らず、之に執(こだわ)って我と為す。此の我を寳とするが故に、則ち貪(むさぼ)る(名利を貪り、以て我を栄(さかん)にす)、瞋(いか)る(違(たが)う情境を瞋り、我を侵害することを恐れる)、痴(まよ)う(非理の計(けい)校(こう))等の三毒を起こす。三毒は意を撃ち、身・口を発動し、一切の業を造り、業成れば逃れ難く、故に五道の苦楽等の身(別業の感ずる所)を、三界の勝劣等の處(共業の感ずる所)を受く。
 (訳文)二つ目の小乗教では、むくろとなった肉体(五蘊の色)や心的作用(五蘊の受・想・行・識)について語り、それは限りなく遠い過去から因縁の力によって、一舜一舜生滅を繰り返しながら継続して窮まるところがないと説く。その様子はまるで、水が絶えることなくちょろちょろと流れ、灯火が絶えることなくちろちろと燃えているようである。このように我々の身心は、因縁の力によって一時的にではあるが合体しているので、ちょっと見ると一つのもののようにまた不変なもののように認識されがちである。この因縁の力を知らない愚か者は、この一時的な身心の状態に固執して、これを我(が)と捉えまた大事にしている。だから貪(とん)(名利を貪って驕り高ぶる)・瞋(じん)(環境が思いのままにならないことを怒り、被害を被るのではないかと恐れる)・癡(ち)(理屈に合わぬと愚痴る)の三毒を起こすことになる。三毒が現れて意識を刺激すると身体と口を動かして、全ての業を作り出すことになり、そうなると因果の道理によって、その業から逃れることが出来なくなる。そして五道に於ける苦・楽の業報を受ける身となり(個人的な業報=不共(ふぐう)業(ごう))、三界の優劣の差のある場所(共通に背負わねばならぬ業報=共(ぐう)業(ごう))に生まれることになる。
 (注釈)小乗教とは、釈迦入滅の数百年後に現れた大乗仏教側から見た差別的意味を持つ呼称で、釈迦が唱えた「自分の心の苦しみを自分の力で解決する」と云う「自利=自己救済」を標榜した初期仏教を指す。これに対し大乗仏教は「利他=他人の救済」が前面に出てきます。五蘊とは、人の成り立ちを次の五つの要素に分けて考えたもの。すなわち、色(肉体)・受(感受作用)・想(構想作用)・行(意思や記憶の働き)・識(認識や意識)で、色は外面その他は内面の心的作用を受け持つ。因縁とは、因(結果を生ぜしめる内的な直接原因)と、縁(外から因を助ける間接原因=条件)から成る。一切のものは、因縁によって生滅するとされる。三毒(三不善根)とは、克服すべ根本的な三つの煩悩を指す。三毒が展開されて十悪となる。我とは自分に執着することだが、仏教では我執(自我)を含む自己を意味し、人間の生命現象の奥に潜んでいる本質的存在を指す。釈迦は自我を否定して無我を主張する。業には身(身体)・口(言語)・意(意思)の三業がある。共業とは、人間が共通して背負う業のこと。不共業とは個人的な業のこと。人間は自身固有の果報と、環境が変わる果報の両方を受けて輪廻する。業報を受ける環境を依報(えほう)と云い、その環境にある身体を正(しよう)報(ほう)と云う。三界とは、凡夫が生死を通じて往来する世界のことで、欲界(上は六欲天から無間地獄まで)・色界(欲界の上の四禅天からなる世界)・無色界(色界の上にある四天からなる世界)がある。
 受ける所の身に於いて還(ま)た執って我と為し、還た貪り等を起こし、業を造り報を受く。身は則ち生老病死し、死して復た生ず。界は則ち成住壊空(じようじゆうえくう)し、空にして復た成る。(空劫従り初めて世界を成すとは、頌(じゆ)に曰わく、「空界に大風起こり、傍らに広がる数は無量、厚さは十六洛(らく)叉(さ)、金剛も壊すこと能わず、此に持界風と名づく。光音に金蔵の雲、布(ひろ)げて三千界に及び、雨は車軸の如くに下り、風に遏(とど)められて流れることを聴かず。深さ十一洛叉にて始めて金剛界を作る。次第に金蔵の雲は注ぐ雨となって其の内に満ち、先ずは梵王界乃至は夜摩天を成す。風は清水を鼓(たた)いて須彌(しゆみ)や七金等を成す。滓濁は山や地や四州及び泥(ない)犂(り)と鹹海(かんかい)の外輪圍と為る。方に器界立と名づく。時に一増減を経たり。乃至は二禅の福尽きて人間に下生す。初めに地餅や林藤を食し、後に粳米は銷せざれば、大小便利し、男女の形が別れ、田を分けて主を立て、臣佐を求め、種々差別し、十九の増減を経る。前を兼ね、総じて二十の増減を名づけて成劫と為す」と。議して曰わく、「空界の劫中は、是れ道教にては指して虚無の道と云う。然れども道体は寂照・靈通にして是れ虚無ならず。老氏或いは之れに迷い、或いは權(かり)に設けて務めて人欲を絶ち、故に空界を指して道と為す。空界中の大風とは即ち彼の渾沌一気にて、故に彼は、「道は一を生む」と云う。金蔵雲なる者は気(き)形(ぎよう)の始め、即ち太極なり。雨下って流れざれば陰気凝(とど)まる。陰陽相い合して、方に能く生成す。梵王界乃至須彌とは彼の天なり。滓濁とは地なり。即ち一は二を生ず。二禅福尽きて下生すとは、即ち人なり。即ち二は三を生じ、三才が備わる。地餅已下乃至種々とは、即ち三は万物を生ず。此れ三皇已前は穴居・野食して未だ火化有らざる等に当たる。但だ其の時は文字の記載無きを以ての故に、後人の伝聞明らかならず。展転錯謬(てんてんさくびゆう)して、諸家の著作に種々異説あり。仏教は又た三千世界を通明し、大唐に局(くぎ)らざるに縁るが故に、内外の教文は全く同じからず。住は住劫亦た二十の増減を経、壊は壊劫亦た二十の増減あり。前の十九の増減が有情を壊し、後の一の増減が器界を壊す。能く壊すは是れ火・水・風等の三災なり。空は空劫亦た二十の増減の中は、空にして世界及び諸の有情無し。)
 (訳文)業報を受ける身になると、再び我執に拘って三毒を呼び起こして業を造りだし、その結果として果報を受けることになる。すなわちその身は輪廻から抜け出すことが出来ずに生老病死を繰り返し、また生まれて死ぬというように窮まるところがない。そしてその業報を受けた身の環境は誕生・持続・崩壊・空虚の循環を繰り返し、時を経てまた空虚から誕生することになる。(形あるものが一切なくなった無の期間から、初めて世界が出来上がる様子が、倶舎論(くしやろん)の世間品の詩頌に次のように記されている。すなわち、「空虚な世界に大風が巻き起こり、その広がりは想像を絶するもので、厚さが十六洛叉もある風輪と呼ぶ層となる。如何なる物もこれを破壊することが出来ないほどの強固なもので、須(しゆ)弥(み)山(せん)世界の土台となるので、この大風を持界風と呼ぶ。色界の第二禅天にある光音(こうおん)天(てん)=極光(ごくこう)浄(じよう)天(てん)から金蔵雲=黄金色の雲が湧き立って三千世界を覆い尽くし、雨が滝の如く降り注ぐも持界風に妨げられて流れ落ちることが出来ず、風輪の上に止まって水たまり=水輪となる。その深さが十一洛(らく)叉(しや)に達すると、始めて金輪が出来はじめる。次第に金蔵雲からの雨が貯まって金輪が満ち終わると、先ず六欲天の天上部分の夜摩天から色界の初禅天=梵王界に至る世界が出来てくる。一方持界風は水輪の内の澄んだ水に刺激を与えて、須弥山やそれを取り巻く七つの山脈を形作る。水輪の内の濁り滓は、山地・四州・泥(ない)犂(り)=地獄・海水・外輪山=鉄(てつ)囲山(ちさん)となる。すなわちこれを命ある者が住む世界の成立と呼ぶ。こうして天地創造の始めに、一増減=一中劫が費やされる。次いで色界の第二禅天に住んでいた有情たちの福報が尽き果てて、人間世界に生まれ変わる。さて地上に降り立った有情たちも、始めのうちは地上にある美味しい消化の良い地味や地餅や林藤を食べて快適に暮らしていたが、それも尽き果てると消化の良くない粳米を食べるようになって大小便を排泄するようになり、男女の別が生じ、食糧確保の為の土地争いから地主と小作の関係が現れ、やがて領主と領民の差別も生じ、こうして人間世界が成立するのに十九増減=十九中劫を費やすことになる。初めから考えると、二十増減=二十中劫を経て成劫が終わることになる」と。さて以上のことを認識した上で仏教と他教との違いについて考察を加える。仏教で云う空劫の中のことを、道教では虚無の道と云っている。しかし天地すなわち宇宙自体は、奥深く静まりかえった光り輝く霊妙な意義あるもので、決して虚無なるものでは無い。老子は考えあぐねた末に、大道が虚無だと云うことに固執したのだろうか。或いはまた空界に相当する概念を大道と呼んで、人々の物欲を絶ち切らせる手段に利用したのかも知れない。また空界中の大風とは、老子の云う渾沌の一気のことである。だから老子は「道は一を生ず」と云ったのである。金蔵の雲と云うのは、根源の働きが具象化し始めること、すなわち太極のことである。雨が降っても流れないと云う件(くだり)は、儒教で云う陰気が凝結し陰陽が合して万物を生成することに相当する。梵王界すなわち須弥とは、儒教の云う天のことである。滓濁とは儒教で云う地のことである。すなわちここの件は、道教で云う渾沌の一気から、或いは儒教で云う太極から、陰陽の二気を生むと云う件に相当する。第二禅天に住んでいた有情たちの福報が尽き果てて、人間世界に生まれ変わるという件は、儒教で云う天・地が合して人が生まれると云う表現に相当する。すなわち天・地の二つが合して人が生まれ、ここに三才が整うことになる。地餅以下云々のことは、この三才から万物が生まれたという<老子>の言葉に相当する。これらの意味するところは、古代中国における三皇以前の状況で、洞穴で暮らしたり野宿して食べ物を漁ったりしていた時代のことで、まだ火を使うことを知ら無い時代のことである。当時は文字が発明されていなかったので、後世の人々には詳しいことは解らない。漠然としていて間違いもあり、多くの学者の著述もあり、また多くの異説があって本当の處は解らない。仏教では三千世界を取り挙げてその様子を語っているが、中国だけを対象にしていないので、儒・道・仏教の説く處が同じにならないのは当然のことである。住というのは住劫のことで、やはり二十中劫の経過期間があり、壊というのは壊劫のことで、これまた二十中劫の経過期間がある。壊劫では、前の十九中劫の間に一切の生き物を刀兵災・疾疫災・飢饉災の小三災で亡ぼし、最後の一劫でその住む世界を火災・水災・風災の大三災で壊す。空とは空劫のことで、同じように二十中劫の経過期間があり、ここで世界も一切の生き物も消えてしまうのである。
 (注釈)成住壊空(じようじゆうえくう)とは、本来星の一生を説明した言葉で、永遠極まりない世界の循環のことを指す。仏教で云う四劫を意味する。すなわち世界は成劫(誕生期間)→住劫(持続期間)→壊劫(崩壊期間)→空劫(一切無の期間)を繰り返すとする。とは  インド古代の巨大な時間の単位で、仏教に云う劫には大劫と中劫(中間劫とか小劫とも云う)があり、宇宙生滅の1サイクルが1大劫で、1大劫は80中劫にあたる。四劫はそれぞれ20中劫からなる。
倶舎論(くしやろん)は古代インドの仏教僧世親が著した仏教論書。その中に世界の構成を記した世(せ)間(けん)品(ぼん)の章がある。(じゆ)とは仏の教えや仏・菩薩の徳を讃えた韻文。ここで須弥山世界三界構造について以下に図示しておこう。なお須弥山世界とは仏教界で云う宇宙(三千世界)を構成する一小世界のことで、その中心にあるのが須弥山。三界とは衆生が生死輪廻する欲界・色界・無色界のこと。
仏教で云う空界とは六界(地界・水界・火界・風界・空界・識界)の一つで、事物のないすき間あるいは事物は存在するが運動しうる広がりを意味する。洛叉とは古代インドの数量の単位で、十の五乗のこと。ここにある金剛界とは、須弥山世界の金輪のこと。梵王界とは、色界の初禅天にある淫欲を離れた清浄な三天(大梵天・梵輔天・梵衆天)を指す。夜摩天とは、欲界に属する空居(くうご)天(てん)の最下位にある天界のこと。七金は須弥山を取り巻く七つの山脈。


 
 
器界とは 三種世界(衆生世間=生命のあるもの・器世間=山河大地など・智正覚世間=仏の世界)の一で、構造面から捉えた世界を器界と呼ぶ。地餅林藤とは地味・地餅・林藤などの芳香を放つ甘味食料のこと。増減は空界内部の変動を表現し、劫はその経過を表現するが同じ意味を持つ。道体と云う言葉は余り使われていないが、紀元前に著された<淮南子、人間訓>に、「或明礼義、推道体而不行、或解構妄言而反當」なる記載がある。道の本体と云う意味で、この道は老子の云う沖(むな)しき道のことで、天地すなわちここで問題としている宇宙を意味する。寂照霊通についてはよく解らない表現だが、適当に訳してみた。一念寂照などの言葉が見られるが、ここの表現とは無関係のようである。虚無の道と云う直接の表現は<老子>に見当たらない。「道沖」とか、「天地之間、虚而不屈」とか「視之不見、聴之不聞、搏之不得」とか「有物混成、先天地生、寂兮寞兮、独立不改、周行而不殆。可以為天下之母」などの記述から勝手に虚無の道なる言葉が一人歩きしているようだ。渾沌の一気という言葉も<老子>の中には見当たらない。同じ意味合いで、有名な「道生一、一生二、二生三、三生万物。万物負陰而抱陽、沖気以為和」と云う記述はある。道教では、渾沌の一気から陰陽の両気が生じるという陰陽二元論が提示される。「道生一」の一は、古来考えられた「神」であり、儒教で云う「太極」であり、老子の云う「有」であり、仏教の「仏」である。三才とは中国の古代において世界を説明しようとして考えた,天・地・人の三つの働きをいう。三材ともいう。(易経、説(せつ)卦(け)伝)に,天道には陰陽,地道には柔剛,人道には仁義の働きがあるというのがこれである。三皇とは天皇氏・地皇氏・人皇氏を指す。有情とは、心の働きを持つものの意で、生きとし生けるものの総称。衆生とも云う。三災とは、仏教語で三種の災厄のこと。住劫の減劫に起こる刀兵災・疾疫災・飢饉災の小三災と、壊劫の終わりに起こる火災・水災・風災の大三災がある。
 劫劫生生、輪廻は絶えず。無終無始にして汲井輪の如し。(道教では只だ、今此の世界の成らざる時の一度の空劫を知り、虚無・渾沌の一気等と云い、名づけて元始と為す。空界已前は早やかに千千萬萬遍く成・住・壊・空を経て、終わりて復た始まることを知らず。故に仏の教法の中の小乗浅浅の教えが、已に外典の深深の説を超えたることを知る。)都(すべ)ては、此の身の本は是れ我ならざることを了(さと)らざるに由る。是れ我ならずとは、此の身の本が、色・心の和合に因り相と為るを謂う。
 (訳文)未来永劫にわたって輪廻は絶えることがない。終わりも始まりもなく、あたかも井戸の滑車が上下を繰り返して、動きが止まらない様子に似ている。(道教では、この今の世界が出来る前の一回の空劫の期間だけを問題にして、虚無だの渾沌の一気だのと云って、それを世界の始まりとしている。その空劫以前にも数え切れないほどの成・住・壊・空の四劫期間を繰り返して、終わるとまたすぐに始まることを知らずにいる。だから仏の教えの中でも浅薄な教えとされる小乗教でさえも、儒教や道教の中の深遠な教えよりも勝れていることが解る。)全く我々人間の根底には、永遠に不変な実体など無いのだと云うことを知らないのだ。永遠に不変な実体など無いと云うのは、人間は元々肉体と心が因縁によって和合してこの世に現れたもの、と云うことである。
 (注釈)劫々生々とか未来永劫とか生々世々とかは仏教用語で過去・現在・未来を指す。不我は仏教で云う無我とか非我と同じ意味。(が)は内に潜在する独立永遠の主体を指し、個人を支配し統一すると云う印度思想界の重要な主題の一つ。仏教は縁起による無我説を唱えて、我を否定する。色心とは、仏教語で物質と精神のこと。相とは見かけ上の姿のこと。
 今推尋分析するに、色には地・水・火・風の四大有り、心には受(能く好・悪の事を領納す)・想(能く像を取るもの)・行(能く造作するものにして、念念遷流す)・識(能く了別するもの)の四蘊有り。若し皆是れ我ならば、即ち八我を成す。況んや地大の中に復た衆多(あまた)有り。謂うに、三百六十段の骨は、一つ一つ各の別なり。皮毛筋肉、肝心脾腎は各の相(たが)いに是れならず。諸の心数等も亦た各の同じからず。見は是れ聞ならず。喜は是れ怒ならず。展転して乃至八万四千の塵労なり。既に此れ衆多の物有れば、何者を定取して我と為すか知らず。若し皆是れ我ならば、我は即ち百千にして、一身の中に多くの主が紛乱す。離れて此れの外に、復た別法無し。翻覆して我を推すに、皆得るべからず。
 (訳文)さて今度は、人間の根底にある永遠不変の実体について詳しく分析してみよう。色には地大(堅さを保つ要素)・水大(湿っぽさを保つ要素)・火大(熱と成熟作用を持つ要素)・風大(ものの動きを助ける要素)の四大種が有り、心には受(外界の刺激を感じ取る働き)・想(考えを纏める構想の働き)・行(実行しようとする意思の働き)・識(物事を識別する認識の働き)の四蘊が有る。もしこれらが皆我だと云うならば、八つの我が有ることになる。更には地大の中にもまた多くの我がある。骨だけでも三百六十段あるから、それぞれ別々の我があることになる。皮・毛・筋・肉・肝臟・心臟・脾臟・腎臟も、それぞれ別のもので我と云うことになるがそうではない。色々ある心の成分(心所)もそれぞれ別なものである。その働きの中でも見ると聞くとは別ものだし、喜びの思いと怒りの思いはまた別ものである。こうして見てくると、八万四千にも上る煩悩を数えることが出来る。これ程多くの別々なものがあれば、一体何を以て我として良いか解らない。これら全てを我とするならば、我の数は百にも千にもなり、一個人の中の多くのその我が互いに争って紛糾し、その結果として混乱が起きることになる。以上のような見方の外に、我すなわち人間の心の内にある永遠不変の実体を解明する方法はあるまい。あれこれほじくり返してもこれ以上、我の正体を推し測ることは難しい。
 (注釈)四大種とは、仏教で説く物質の構成要素のこと。とは骨の数え方だろうが、よく解らない。人骨が階段状または層をなしている處から来たものだろうか?一片と数えるのが普通の筈。人間の骨の数は赤ちゃんで三百位(一説には三百五十)、大人で二百位と云われている。心数とは、心の主体(心王)とそこに宿る心所(水に溶けているミネラルに喩えられる)のことで、一説には不善心所(心を汚す成分)、浄心所(心を清める成分)と同他心所(心を善にも悪にも変える成分)の五十二種類あると云う。煩悩は百八つと云うのが一般的だが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまち。小は三から大は六万八千とも云われる。
 便ち此の身は、但だ衆くの縁が和合の相に似せて、元は我・人無しと悟れば、誰が為に貪り・瞋るや?誰が為に殺し・盗み・施し・戒めるや?(苦諦(くたい)を知る)遂に心は三界有漏の善悪に滞らず。(集諦(じつたい)を断ず)但だ無我の觀智を修め、(道諦(どうたい)なり)以て貪り等を断じ、諸業を止息し、我空・真如を證得す。(滅諦(めつたい)なり)乃至阿羅漢果を得て、灰身(しん)滅智して方に諸苦を断ず。此の宗の中に拠れば、色・心の二法及び貪・瞋・癡を以て、根身・器界の本と為す。過去や未来に、更に別法に本と為すは無し。
 (訳文)すなわち我々の身体は、ただ多くの縁が都合良く混ざり合ったものだから、元来自分とか他人とかの区別はないものだと云うことが解れば、欲深くなったり、怒ったりする意味がなくなる。殺したり盗んだりする悪行も、施したり諌めたりする善行も意味がなくなる。(こうしてこの世の苦=苦諦の意味が解ってくる)そうなれば善悪に拘わらず三界の煩悩は、心に留めないことが肝心となる。(苦の原因となる煩悩=集諦を断つ必要が解る)もっぱら人間の心の内にある永遠不変の実体など無いことを理解し(煩悩を消す具体策=道諦が解る)、そうすることによって欲深さなども絶ち切って、あらゆる業を捨て去ることが出来、永久不変の我は存在しない事が真理として明らかにされる。(煩悩を消滅させねばならぬ理屈=滅諦が明かされる)そうなれば最高の悟りの境地である阿羅漢果に達し、身も心も無にして執着を捨て去り、あらゆる苦悩を絶ち切ることが出来る。この小乗教の教えは、身・心の二つの存在と貪・瞋・癡の三種の煩悩が、身心と自然界の本源であると云う。また過去にも未来にも、これ以外に本源となる存在はないとする。
 (注釈)苦諦(この世はすべてが苦)・集諦(苦の原因は煩悩)・滅諦(煩悩消滅が苦を消すと云う真理)・道諦(煩悩を消す具体策)は、釈迦が唱えた迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理。我空とは、人間の身心は因縁によって仮に生成したもので、永久不変の我などはないということ。真如とは真理を意味する。阿羅漢果とは阿羅漢(尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと)に到達した境地のこと。この境地に至ると、迷いの世界を流転することなく涅槃に入ることができるとされる。灰身滅智とは、身を灰にして智を滅すると云う意味で、煩悩を断って、身も心も無にして執着を捨て去ること。上座部仏教の理想とする境地である。色法とは、物質的存在の総称。それに対立するのが心の働きの総称である心法。ここの法とは、存在と云う意味。根(こん)身(じん)(有根身とも云う)とは、一般に言う身体のことだが、唯識では認識機能を持つ有機体と捉えている。識そのものではないが、ここでは阿頼耶識(心の深層部分)から生じた心の一部と考えた方が良いだろう。
 今之れを詰りて曰わく、夫れ生を経、世を累(かさ)ねて身の本と為るものは、自體須く間断無し。今五識は縁を闕けば起こらず。(根境等が縁と為る)意識は時有りて行わず。(悶絶・睡眠・滅尽定・無想定・無想天なり)無色界天は、此の四大無し。如何ぞ此の身を持ち得て、世世絶えざらん?是に此の教えを専らにするものは、亦た未だ身を原ねざることを知る。
 (訳文)さて小乗教の教えを批評してみよう。幾度も生死を繰り返し世代を重ねてきた我々人間の根本と為る主体は、切れ目無く続くものである。ところで物事を認識する場合、因となる五識(眼・耳・鼻・舌・身)は、縁となる五蘊(色・声・香・味・触)が存在しなければ働きだすことが出来ない。(根=認識する感覚器官や、境=認識される対象などが因縁を結ぶ)六識の中の意識は、機会が与えられなければ働き出すことは無い。(意識が働かない時とは、気絶したり、眠っていたり、禅定の最終段階となる滅尽定、そして色界第四禅定にある陥ってはならぬ無想定と、その結果である無想天の五つの機会)無色界では 欲望も物質的条件も超越しているので、四大種は存在しない。そうすると、ここにある我々人間が絶えること無く世代を重ねてこれたのは、一体どう云う訳であろうか? 小乗教は六識の作用を説くだけなので、人間の根本を明らかにすることは出来ない。                
 
(注釈)「世界をどう認識しているか」と云う基準で人間を分類したのが、十二處である。すなわち、感覚器官としての六根(六識=眼・耳・鼻・舌・身と意)と、対象としての六境(色・声・香・味・触と法)の合計十二。滅尽定とは九段階ある禅定(色禅定の四段階、無色禅定の四段階と滅尽定)のうちの最終段階である心のあらゆる動きが全く止滅した状態のこと。無想天とは無想有情天とも云い、禅定の中にあって行ってはならない無想定に悟入した状態とされている、一時的に心が止まっている異質な状態のことで、色界の第四禅天の「広果天」の中にある。無色界は、受想行識の四蘊のみより成る世界。ただ精神作用のみが働き、禅定に住している世界。
                                                        つづく

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宗密の[華厳原人論]ーⅢ

2013-11-01 09:23:44 | 宗密

宗密の[華厳原人論]―Ⅲ
②偏浅を斥ける第二(仏の不了義教を習う者)
 (訳文)偏・浅の教義を排斥する第二章(不完全な仏の教えを習う者)
 
(注釈)
仏教の教えを次のように、浅いものから深いものの五つに分ける。即ち、
   人天教→小乗教→大乗法相教→大乗破相教→一乗顕性教
 ここでは、前の四教を学び終わって、その教義を理解しただけの者を浅い、その教義に執着する者を偏ると批評する。
 仏教は浅自り深に之(ゆ)くに、略して五等有り。一に人天教、二に小乗教、三に大乗法相教、四に大乗破相教。(上の四つは此の篇中に在り)五は一乗顕性教なり。(此の一つは第三篇中に在り)
 (訳文)仏教の諸宗は、その教義が浅いものから深いものまで、おおよそ五つの区分に分かれる。一が人天教、二が小乗教、三が大乗法相教、四が大乗破相教である。(以上の四つは、この篇中に説かれている)五は一乗顕性教である。(これは次篇で説く)
 (注釈)釈迦が初めて比丘に説いた教えの中身は、中道(何事もほどほどが良い)・八正道(涅槃に至る修行の基本となる八つの徳目)・四聖諦(しせいたい)(人生苦の考察)・三転十二行相(四諦の完成)と云われる。その根本思想は自利→消極的利他である。釈迦没後五百年経って、原始仏教を守り通す上座部仏教と、利他→成仏(自利)を教義とする大乗仏教とに分かれる。前者は後者から小乗仏教とも呼ばれる。人天教の内容は原始仏教に準ずるものと云って良いだろう。釈迦一代の教説を、五つに分類したものが五教で、それには幾つもあるが、華厳宗の小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教の五つが最も著名。ここに示された宗密の五教は彼独自のもので、著作によって呼び方を変えている。
 一は仏が初心の人に為すに、且(まさ)に三世の業報・善悪の因果を説く。謂うに、「上品は十悪を造れば死して地獄に、中品は餓鬼に、下品は畜生に堕つ」と。故に仏は且に世の五常の教えに類(なら)う。(天竺の世教の儀式は殊(こと)なると雖も、懲悪・勧善に別無し。亦た仁義等の五常を離れず、而して徳行有りて修むべし。例えば此の国では手を斂(おさ)めて挙げ、吐蕃では手を散じて垂れるも、皆礼と為すが如し)五戒を持た令(し)め、(殺さざるは是れ仁、盗まざるは是れ義、邪淫ならざるは是れ礼、妄語ならざるは是れ信、酒肉を飲み噉(く)らわざるは神気清潔にして智に益す)三途を免れ得て人道の中に生ず。上品の十善及び施戒等を修めれば六欲天に生じ、四禅八定を修めれば色界・無色界天に生ず。(題の中に天・鬼・地獄を標(しる)せざるは、界地同じからず、見聞及ばず、凡俗尚お末を知らず、況んや敢えて本を窮めんや。故に俗教に対して且に原人と標す。今仏経を叙(の)べるに、理は具(つぶさ)に列するが宜し)故に人天教と名づく。(然して業に三種有りて、一に悪、二に善、三に不動と。報に三時有りて、謂うに現報、生報、後報と)此の教えの中(うち)に拠れば、業が身の本と為る。
 (訳文)一つ目の人天教では、初心者の為に、前世・現世・来世の三世に亘る、自身の行為に対する報いや、因果の理法による善悪の報いについて説いている。そこには、「最も悪い場合は十悪を行って死んで地獄に堕ち、普通に悪い場合は死んで餓鬼道に堕ち、そしてほどほどに悪い場合は死んで畜生道に堕ちる」とある。そこで仏は、儒教で云う五常の教えに倣って(インドの仕来りは中国のものとは異なっているが、勧善懲悪と云う目的は同じである。だから仁・義などの五常を守り、徳行を修めねばならない。例えば、中国では両手を袖に包んで挙げて挨拶するが、チベットでは両手を離して垂れて挨拶する。どちらも礼のやり方と云うことでは変わりはない)、五戒の掟を定めたので(不殺生とは仁のことであり、不偸盗とは義のことであり、不邪淫とは礼のことであり、不妄語とは信のことであり、酒を飲まず肉を食らうことが無ければ精神は清められ智慧も付く)、死んで三途の世界に堕ちることなく、人間界で生き続けることが出来る。最善の場合、十善及び布施持戒などを修めれば、天上界のうちの六欲天に生まれ変わることが出来、また四禅八定を修めれば、未だ凡夫の世界ではあるが、色界や無色界に生を受けることが出来る。(本論の中で天道・餓鬼道・地獄道に触れていないのは、別の次元の世界のことでもあり、またその知識も不十分なので、本筋の妨げになると考えたからである。従って儒仏二教に対する関連で、ここに原人と称する次第。いま仏教に就いて触れるに当たり、その道理は詳しく順序立ててみるのが良い)そこで人間界と天上界との衆生の教えという意味で、人天教と称するのである。(報いをもたらす行いの業には悪業・善業・不(ふ)動(どう)業(ごう)の三種類があり、受ける報いには時間差によって現報=順現法受業・生報=順次生受業・後報=順後次受業の三種類がある)この人天教の教えでは、業こそが人間としての生き方の本となると説いている。
 (注釈)人天教とは五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を持せば人間界に生まれ、十善(五戒の前四つと、不両舌・不悪口・不綺(き)語(ご)・不貪欲・不瞋(しん)恚(い)・不邪見)を行えば天上界に生まれるという教え。始めに仏教の世界観について触れておこう。大小の差はあるが、迷いがあり輪廻の対象となるのが、いわゆる六道(天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)で、これとは別に次元の異なる輪廻から解放された涅槃(浄土・極楽)という、悟りを開いた仏陀の行く世界がある。以上の外に輪廻の世界の分け方に、三界がある。すなわち、無色界(欲望も物質的条件も超越した精神世界)・色界(欲望から解放されてはいるが、色=情欲と色欲が残っている世界)・上部欲界(欲にとらわれた世界=六欲天)の三天界に、下部欲界(人間界以下の五つの世界)が続く。因果の理法とは、原因だけでは結果は生ぜず、直接的要因()と間接的要因()の両方が揃って始めて結果がもたらされると云う考え方のこと。五常は仁・義・礼・智・信のこと。三途の世界とは、死者が行くべき以下の場所。すなわち、火途(地獄道では猛火に焼かれる)・血途( 餓鬼道では互いに食い合う)・刀途(畜生道では刃物に脅される)の三つ。布施とは大乗仏教で云う六波羅密(真理を窮め尽くし、仏道修行を完成させた境地)の修行の一つで、他人えの法施(説法)・身施(労働奉仕)・財施(金銭奉仕)が含まれる。持戒とは同じく六波羅密の修行の一つで、仏の戒めをよく守り、身を慎むこと。四禅とは禅定(精神統一による安定した状態)の四つの段階のことであり、八定とはその禅定の段階が色界・無色界にそれぞれ四つづつで計八つあることから、合わせて四禅八定という。とは色々な結果をもたらす行為のことで、その機能による区分けの三業(身・口・意)と、性質による区分けの三業(善・悪・無記=善でも悪でもないもの)がある。不動業とは人の意思に左右されない業ということからすると、無記の業を意味するのだろう。業によって起こる果報の種類による分類が三報(現報・生報・後報)、果報の現れる時期による分類が三時報(順現法受業・順次生受業・順後次受業)。
 〇今之を詰(なじ)りて曰わく、「既に造業に由って五道の身を受けるとは、誰(だ)人(れ)が業を造り、誰人が報を受けるや審(つまみ)らかならず。若し此れ眼耳手足が能く業を造らば、死せし初(ばか)りの人が眼耳手足宛(えん)然(ぜん)たるに、何ぞ見聞造作せざらん?若し心作と言はば、何者をか是れ心とせん?若し肉心と言はば、肉心は質(ぜつ)有りて身内に繋がる。如何ぞ速やかに眼耳に入って外の是非を弁ぜん?是非知らざれば、何に因って取捨せん?且つ心と眼耳手足とは、俱に質閡(げ)と為す。豈に内外相い通じ、運動応接し、同じく業縁を造ることを得んや!若し但だ是れ喜怒愛悪が身口に発動し、業を造ら令むものと言えば、喜怒等の情は乍ち起こり乍ち滅し、自ら其の體無し。何にを将(もつ)て主と為して業を作るや!設(たと)え此くの如く別々に推尋に応ぜず、都(すべ)て是れ我が身心が能く業を造るものと言えば、此の身は已に死すに、誰が苦楽の報を受けん?若し死後更に身有りと言えども、豈に今日の身心が罪を造り福を修め、他の後世の身心に苦を受け楽を受け令めること有らん!此れに拠れば則ち福を修めし者は甚だ屈し、罪を造りし者は甚だ幸いす。如何ぞ神理は此の如く無道なり。故に但だ此の教えを習う者は、業縁を信ずると雖も身の本に達せざることを知る」と。
 (訳文)さて人天教の教えを批評してみよう。業報の結果として五道に生まれ変わるのだと説くが、誰が業を造り、誰がその果報を受けるのか定かでない。もし眼耳手足が業を造るとするならば、死んだばかりの人にも眼耳手足がそのまま残っているのに、どうして見たり聞いたり手足を動かしたりして業を造り出すことが出来ないのだろうか?もし心が業を作り出すものだとしたら、心とは何ものなのか?もし肉体の一部だとする心が、業の造り手だとするならば、それは物質であり、身体の中に存在することになる。それがどうして同じ身体の一部である眼耳を使って外界の是非を判別できるのか?判別出来なければどういう風にして物事の取捨選択をしているのか?またこの心と眼耳手足は障害し合うものなのに、どのように協同したり連動したりして同じ業縁を作り出すのだろうか?もし喜怒愛悪の感情が身体を動かし言葉を喋らせて業を造るのだとするならば、発露した喜怒などの感情は起きたかと思うとすぐに消え去るものだから、実体が無いことになる。それでは何が一体造業の主体なのだろうか?そこでこれまでのように別々に造業の主体を求めるのではなく、自分自身の身体と心が一体となって造業に関わるとするならばどうだろうか。だがこの場合、死と共に一体となった身体と心が消滅してしまったら、誰も苦楽の果報を受け取る事が出来ない。もし死んだ後に身体が残っていたとしても、今日の体や心の罪業や福業の結果が、他日後世の苦報や楽報として現れることなどあり得ない話である。こう考えると、福業を修めても修め損となるし、罪報を造れば造り得となる。神の道理とは誠に無道なものである。だからこの人天教を学ぶ者が業縁を信じたとしても、人の本源を明らかにすることは出来ない。
 (注釈)五道とは六道から修羅道を除いたもので、初期仏教では修羅道は天上道に含まれていた。大乗仏教になってから修羅道が独立して六道となった。宗密は何故六道とは云わずに五道としたのだろうか?肉心は余り見かけない言葉だ。古代中国では、心は心臓、腹部、胸部に宿っていると考えられていたから、その宿主を指しているのだろう。ここで少し心の捉え方について触れておこう。心の語源は”凝る”などが充てられており、動物の内臓をさしていたが、人間の体の目に見えないものを意味するようになった。古代中国では、心は心臓・腹部・胸部に宿っている精神的な作用の本になるものと考えていた。儒教では、人間は魂と魄と肉体で成り立つと考えた。そして魂は精神を司り、魄は肉体を支配する。人間の生死は「=精神を掌る魂+肉体を支配する魄」の集散で説明され、死ぬと魂は天に昇って「」となり、魄は地に帰って「」となるとした。死者の霊魂が「人鬼」である。一度散じた気すなわち魂魄は集まらないとして輪廻は否定されるが、祭祀の時だけ子孫の真心を慮って再生されるとする「招魂再生」が特徴である。道教でも、魂=精神を支える気と、魄=肉体を支える気という異なる存在があるとし、合わせて魂魄と云った。易と結びついて魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。「不老長生」が特徴なので、魂・魄も伝統中国医学の中に生かされて今日に至っている。仏教では、肉体と精神は一体のもので、両面を持っているので分けることが出来ないと考える。仏陀が無我(永遠不滅の実在は無い)と云っているように、魂や霊の存在は認めていない(と云うよりも語る意味が無いとする)。大乗仏教の時代になると、唯だあらゆる存在が八識によって成り立つとし、五種類の感覚意識(視覚=眼識・聴覚=耳識・嗅覚=鼻識・味覚=舌識・触覚=身識)と意識と二種類の無意識(末那識・阿頼耶識)が導入される。「輪廻転生(人は死ねば身体は消えてなくなるが、その念は他に移って繰り返し生まれ変わる)」が特徴となっている。
                                            つづく

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