syuの日記・気まま旅

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人形町・水天宮 syu散歩

2017-04-14 | syu散歩

「人形町」は、水天宮の門前町として栄えた町、江戸時代人形師や人形商が集まっていたためその名に。
かつら屋・花輪・三味線やバチ・三弦などの店も、それは、料亭街をひかえ、戦災に免れているため、いまだに江戸情緒が残っている。
8月のセトモノ市が知られている。
人形町は、区の北東に位置、日本橋人形町と云えば、江戸時代初期から芝居小屋が立地し、その一つに人形芝居とその関係の家が多かった。
現在「明治座」が、日本橋浜町に、人形町末広亭(玄冶店跡隣)寄席があったが昭和45年閉鎖された。昔は、映画館が7軒あり(2~3本立て映画館が)
子供の頃、入谷から都電に乗り見に行った記憶がある。

お富さんの玄冶店、歌舞伎「与話情浮名横節」は、人形町の交差点陶器店の角に碑が建っている。「岡本玄冶と云う医者の屋敷があったので・玄冶店に」
浜町公園は、隅田川岸で料亭街、大川端で栄えた。今は、細い柳の木が、
また浜町と云えば、川口松太郎「明治一代女」大川端を背景に舞台(新派の当たり狂言)・映画・歌などで上演されている。

      日本橋小伝馬町・大伝馬町・堀留町・人形町・蛎殻町と地下鉄日比谷線が


日本橋浜町に「栗田美術館」がある。
実業家の栗田英雄氏の収集された伊万里・鍋島などの陶磁器を展示されている。
本館は、栃木足利に、

       人形町通りー玄冶店・元吉原・中村座(中村歌右衛門)・市村座・日本橋堀留町へ


「元吉原」
鎌倉以来の関東の武士の都となった江戸。
家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。
そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。
そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。
江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。
そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。
そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めたが、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、
慶長17年の1612年、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として陳情、
幕府は、甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220メートル)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。
1640年、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止し、このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだったと云う。

     明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。


                  地下鉄半蔵門線「水天宮前駅」


水天宮は、安産・水難・水商売の神様として庶民の信仰を集めている。
1872年の明治5年、港区の芝から、ここ蛎殻町に移っている。

                長く工事中であったが、完成した。 水天宮


                  縁日は毎月5日 水天宮大祭は5月5日


                         狛犬


                         拝殿


日本橋蛎殻町は、武家屋敷の多かった地域、1876年の明治9年頃は、米穀取式所が出来穀物商が増え、蛎殻町を米屋町とも呼んでいた。

                 ビルの間に、「銀杏稲荷神社」 蛎殻町


                         拝殿

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