ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

五月雨の頃

2017-06-18 19:31:29 | 日記
 バラはまだ咲いていますけれど、「栄光」と命名されたバラの花は終わってしまいました。今は菖蒲と紫陽花、立ち葵などが見頃です。青葉も綺麗で、風さえ吹かなければいい季節ですが、これからは雨が主役(予定では)。うっとうしくなりますね。古風な言い方をすると長雨(ながめ)の季節です。田植えの季節でもあり、早苗、早乙女、五月雨など、「さ」のつく言葉が多いので、「さ」は田植えをつかさどる神様の名前だという学者さんもいて「サ神信仰」といわれます。

 紫陽花   菖蒲

 陰暦の五月は現在の六月とほぼ同じ。五月雨は梅雨時の雨ということになります。ちょうど田植えの時期で、稲作中心の古代においては、とても大事な月だったんですね。ですから田植えをする前に早乙女が穢れを祓い、身を清め、神を迎えるという風習があって、物忌み月(さつき忌み)ともいわれています。端午の節句も、もともとはそうした邪気を払うための行事でした。宮中でも厳重な謹慎生活をしなければならず、男女の交わりも禁じられていた時期があったようです。

 『枕草子』の「五月の御精進(みそうじ)の程」という段では、天皇と中宮が離れて暮らしている様子が描かれています。雨に降り込められた上に男女の交わりもできないとなると、退屈を慰めるものは何もないわけですから、それが「つれづれのながめ」という言葉になるのでしょう。
 つれづれの ながめにまさる 涙河(なみだがわ) 袖のみ濡れて あふよしもなし(藤原敏行)

 「五月雨のつれづれ」をもてあましているのは男も女も同じで、『源氏物語』の「帚木(ははきぎ)」の巻に描かれた「雨夜(あまよ)の品定め」は、そうした「長雨晴れ間なきころ、うちの御もの忌みさし続きて…」という「つれづれのながめ」を背景としています。そして集まってきた男たちが女談義に花を咲かせるわけですね。上流・中流・下流のどの階級の女性がいいかと。

 女たちは女たちでこの季節のつれづれをどう過ごすかというと、高貴な女性を取り巻く女房たちにおいては、物語を写したり、双紙をとじたりする作業が多かったようです。「蛍」の巻では「長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なく、つれづれなれば、御方々、絵物語などのすさびにて明かし暮し給ふ…」と、物語に夢中になっている様子がうかがわれます。勿論、紫式部のように作る側の人間もいたわけです。

 王朝の女流文学は、この五月雨のつれづれがあってこそ生まれてきたのかもしれません。

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)   関連ブログ(あやめの根合せ五月雨や…端午の節句
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

薔薇の季節

2017-06-03 18:31:37 | 日記
 今年の5月は暑い日が多く、雨は少なかったようですが、バラは元気に咲きましたね。近くのバラ園には、毎日のようにカメラを手にした人たちが集まってきます。「ここに1日中いてもいいわ」とおっしゃるおば様たちもいて、賑やかな会話もはずんでいます。いつもは何気なく通り過ぎるバラ園ですが、「栄光」と命名されたバラに釘づけになり、しばらく佇んでしまいました。スマホのカメラではその鮮やかさがうまく出ませんでしたが、ついついカシャリ。

 栄光という名のバラ バラ園

 野バラは古くから日本にあったようですが、それに関する文献はきわめて少ないようです。中国から伝来した薔薇は「そうび」と呼ばれていましたが、和名がつかなかったために和歌などにはあまり詠まれず、「古今集」に紀貫之の歌が見えるくらいです。

 和歌ではありませんが、平安時代になると『源氏物語』の賢木(さかき)に「そうび」が登場してきます。頭の中将が勝負事に負けて勝った人たちを饗応する場面、「階(はし)のもとの薔薇(そうび)けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに…」とあって、『白氏文集(はくしもんじゅう)』の「階(はし)の底(もと)の薔薇は夏に入って開けたり…」の影響を受けているのがわかります。花はやはり春と秋ですが、夏にもこんな花が咲くというのは驚きだったんでしょうね。

 また『枕草子』の「草の花は」の段にも登場します。撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、桔梗、朝顔、刈萱(かるかや)、菊、竜胆(りんどう)など、あれこれ面白いと思われる花を上げて清少納言の視点から述べているのですが、その最後に「薔薇(そうび)は、近くて枝の様などはむつかしけれど、をかし」とあって、枝は棘(とげ)があって嫌だけれど、雨が晴れあがった水の際(きわ)や、黒木の階段などの際に乱れ咲いた様子(特に夕映え)がいいと評しています。

 近世になると「ふるさとや…」(マイブログ)にも書きましたように、一茶の句に登場します。それでも梅や桜のように和歌や俳句に詠まれることが少なかったのは、西洋的色彩が濃かったこと、棘があったり派手に見えたり、日本の情趣に合わなかったということがあるのかもしれません。

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秀吉・家康と前久

2017-05-21 19:43:06 | 日記
 前回、近衛前久(さきひさ)と信長との関係を見てきましたが、今回は前久シリーズの最終回です。

 信長は前久を通じて朝廷を牛耳ろうとし、官位体系とは別に前久を公家社会の最上位に位置づけていました。それが公卿衆の妬みを買うこととなり、本能寺事変の後かなりひどい讒言がなされたようです。ために秀吉の糾明を受ける羽目になり、家康を頼ることになります。家康の取り成しで帰洛した前久は、官位に目覚めた秀吉を猶子としなければならなくなりますが、秀吉の関白就任については公家社会の複雑な事情も絡んでいます。

 その事情は置くとして、取り敢えず前久の猶子となって秀吉は関白に就任します。秀吉ははじめ足利義昭の猶子となって将軍職に就こうと考えたのですが、義昭に拒絶され、関白として政権を掌握する道を選びました。秀吉は前久と契約を交わし、藤原秀吉として関白に就任しますが、それだけで終わらないのが秀吉です。平氏政権に習い、一門をもって朝廷の高官を独占しようとしたんですね。で、いろいろな経緯はありましたが、豊臣姓を創始し、豊臣秀吉となったわけです。

 さらに秀吉は前久の娘前子(さきこ)を養女とし、後陽成天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)させます。天皇の外祖父になることまで考えたんですね。これは秀吉の生前には実現しませんでしたが、前子はのちに皇子を産み、その子はやがて後水尾天皇となるのです。つまり前久は天皇の外祖父ということになるんですね。すごい血統でしょう。だけでなく、前久は家康とも早くから関わりがありました。

 家康との交流は信長や秀吉より古く、永禄年間に遡ります。家康が松平から徳川へ改姓し、従五位下・三河守に叙任されたのは前久の尽力によるものだったんですね。徳川への改姓についてもさまざまな苦労があったようですが、とにかく「近衛殿(前久)より藤宰相(高倉永相)して申され候徳川叙爵、同じく三河守口宣(くせん)…に仰せられて今日いずる」(『お湯殿の上の日記』)とあって、前久から申請されたものであることがわかります。

 そんな関係もあって本能寺事変の後家康を頼ったわけですが、家康が浜松城内で能を興行した際、家康に扶持されていた今川氏真(うじざね)とも挨拶を交わしています。家康は今川に育ててもらった恩義(人質として)もあったのでしょうが、氏真の器量の無さを見越して面倒を見たのでしょう。足利義昭同様、失礼な言い方をすれば無能な方が生き残れるのかもしれません。

 こうして天下一統と深く関わってきた前久ですが、結局は武家に政権を持っていかれ、朝廷の権威を取り戻すことができませんでした。江戸の繁栄を聞くにつけ、敗北感は増していったに違いありませんが、この無念は幕末・維新によって解消されることとなります。島津の養女篤姫をさらに近衛家の養女として将軍家の後宮へ入れ、天璋院が誕生するとともに、島津と毛利等連合軍が幕府を倒し、王政復古を果たすのですから。

 江戸名所図屏風(城下町の賑い)

 このように謙信・信長・秀吉・家康・島津義久等と深く関わってきた前久の目を通して見た戦国時代を、大河ドラマにするのも面白いのでは?
(参考・谷口研語著『流浪の戦国貴族近衛前久』)

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)   関連ブログ(本能寺事変の黒幕と目された男流浪の関白と足利義昭信長と前久
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

信長と前久(さきひさ)

2017-05-08 18:19:46 | 日記
 いい陽気になりましたね。芭蕉ならずとも旅に出たくなる季節です。しかし戦国時代、戦(いくさ)のための旅は大変でした。ほとんどが野営ですし、いつ夜襲があるかわかりませんから眠ることもままなりません。おまけにろくな食事もとれず、重い甲冑を身につけていたわけですから、考えただけでぞっとしますね。それを思えば、ゴールデンウイークの渋滞など、ものの数ではないかもしれません。

 さて、前回に続き前久です。前久は義昭との確執により京を追われ、まずは石山本願寺に身を寄せます。その後河内の若江、丹波氷上郡と居を移し、流浪の日々を過ごしますが、義昭が信長によって京を追われると、信長の尽力もあってようやく戻ってきます。なんと、出奔してから7年の歳月が流れていました。

 信長が前久の帰洛に手を貸したのは、前久の利用価値に早くから目をつけていたからなんです。帰洛後、前久は信長のメッセンジャーとして奔走し、朝廷についての知識を信長に提供しました。将軍家との縁も深かった前久ですから武芸の嗜みもありましたし、何といっても趣味の鷹狩りと馬で気が合ったようです。二人は馬・鷹・甘柿・大根や鷹狩りの獲物などを贈答しあう仲になりました。

 鷹狩りと馬を通して、前久は信長との親交を深めていきます。驚くことに前久は鷹狩りの権威でもあったんですね。「龍山公鷹百首」というのがあって、これは前久が鷹司を詠みこんだ和歌を編んだものですが、鷹の種類や鷹狩りの装束・作法・道具の注記が多く、歌集というより秘伝書の趣があります。また島津義久兄弟に自ら選んだ馬や馬具を贈っていることから、馬に関しても相当の見識があったと思われます。

 

 また信長の方も、フロイスの『日本史』に「著名な茶の湯の器・良馬・刀剣・鷹狩り・相撲」を好んだとあるように、鷹や馬には目がなかったようです。前久は信長から何度か馬を贈られていますが、前久が島津にねだって手に入れた大鷹を信長に所望され、手放すことも多くありました。また天正9年に行われた「馬揃え」では、公卿衆として前久も参加しています。馬に乗れるお公家さんの少なかった時代ですから、武家に負けまいとする意気込みが感じられますね。

 親交を深めた前久は信長に所領をねだったりもしています。7年間の流浪生活で失った土地領有権を回復してもらったり、1国ないし2国を宛行う旨の約束を取り付けてもいたようです。信長の前久優遇はそれだけではありません。京に二条屋敷を造った折、その隣に前久の邸を提供しているのです。信長の二条屋敷はその後誠仁(さねひと)親王に提供されて二条御所と呼ばれますが、本能寺事変の時に信忠がここに立て籠もったことにより、前久が疑われる原因となりました。

 公家社会の最高権門にありながら武家を目指した公家近衛前久は、晩年になってそれを後悔するような手紙を島津義久に送っています。「いらざる馬・鷹・自余の武芸をあいあいに習い候て…」、公家として成すべきことが他にあったのではないかと。(参考・谷口研語著『流浪の戦国貴族近衛前久』)

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)   関連ブログ(本能寺事変の黒幕と目された男流浪の関白と足利義昭
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

流浪の関白と足利義昭

2017-04-23 19:27:25 | 日記
 前々回の「本能寺事変の黒幕と目された男」に続き、近衛前久(このえさきひさ)について考えます。近衛家というのはこの前も書きましたように、五摂家筆頭というたいそうなお家柄なのですが、それが何故秀吉などの詮議を受けなければならなかったかといえば、その根底にはお公家さん全般、疑われる要素が多分にあったからなんです。疑われたのは前久だけではなかったんですね。前久の荷物を預かっていた吉田兼見(よしだかねみ)もその一人でした。

 何故お公家さんたちが疑われたのか。ご存じのように信長が朝廷の上に立とうとしていたからなんです。そう思われても仕方ない理由として暦製作権への介入、そして三職推任問題があります。朝廷が定めた暦に異論を唱えたり、「太政大臣か関白か将軍か」あるいは「いかようの官にも」任官させるべきという朝廷からの申し入れに対して、はっきり拒んだわけではありませんが返答をしていなかったこと。これはもう朝廷を軽んじているとしか思われません。

 というわけで、公卿衆が信長暗殺を企てたのではないかと思われてしまったのですが、真相は専門家にお任せしましょう。

 「洛中洛外図屏風」より公方様

 さて、前久です。前久は十九歳という若さで氏長者(うじのちょうじゃ)となり、関白に就任しています。この一事をもってしてもどれほどのお家柄かは想像に難くありませんけれど、何しろ下剋上の時代、戦国時代でしたから、朝廷の権威も足利将軍家の権威も失墜していました。将軍といえども都落ちする時代でしたから、前久の従兄弟にあたる13代将軍義輝(よしてる)も、近江へ難を避けることが多かったようです。

 朝廷も将軍家も無力で、朝官最高の地位に就いた前久も政治的には全く無力であることに気づくと、彼は有力な武家との交流を図ります。もともと将軍家と近衛家の密接な関係(婚姻による)があって、近衛家の関係者が将軍の命を帯び、大名間の講和・斡旋等のために諸国へ派遣されることも多かったようです。そんな関係で、対武田問題のために上洛してきた越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)と親しくなり、時の関白であるにも拘らず、越後へ下向しています。

 現任関白の東国下向は史上はじめてのことでした。こうして彼はこの時代の有力者と精力的に接触し、直接的な関わりを持っていきます。信長・秀吉・家康はもとより、島津義久・顕如光佐等、時代を動かした人たちと深く関係していくのです。その中で特筆すべきは、義輝の弟であり、15代将軍となった足利義昭。血縁であったにも拘わらず、彼が信長とともに上洛してくると、前久は京都を出奔します。理由は「武命に違(たが)う」ということでした。

 武家の命に違背した理由は明らかではありませんが、おそらく義輝が暗殺されたあと、奈良の一乗院を脱出した義昭に対して、思うがままに任官させられなかったことが原因であろうといわれています。義昭にしてみれば、前久の働きかけによって容易に将軍宣下を受けられると考えていたのでしょう。しかし当時の京都は三好三人衆の勢力下にあって、彼等は義栄(よしひで)を将軍に推戴していましたので、前久は迂闊に動くことができませんでした。

 そのような経緯から義昭は前久を恨んでいたようです。ために前久は京を追われ、7年間に及ぶ流浪生活をすることになったのです。

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加