ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

大奥へ入るには

2017-09-10 18:10:20 | 日記
 このところ就職難も大分改善されてきたようですが、やはり憧れの職業に就くのは難しいようです。自分がやりたい仕事で一生を過ごせたら、こんな幸せなことはありませんけれど、なかなかそうはいきませんよね。

 江戸時代女性の憧れの職業は何といっても大奥で働くことでした。美しい衣装をまとい、生花や和歌などの教養を身につけられましたし、食事も庶民と比べれば結構なものでした。それにお給料も良かったんですね。ですから将軍の寵愛を得ようとまで思わなくとも、行儀作法や教養を身につけることで良縁を得たいという女性も多くいました。勿論、最大の出世は将軍の寵愛を得て男子を出産することです。その子が将軍になれば、将軍様の御生母ということになるわけですから。

 大奥の花見

 さてその大奥、どうやって入ることができたのでしょう。基本的には「旗本か御家人の娘」ということになっているのですが、例外として町人の娘でも旗本の養女になることで大奥へ奉公することができました。ただこの場合、お金を積んで養女にしてもらうわけですから、コネと財力のある豪商の娘ということになります。
 また、コネや財力のない娘でも確かな身元保証人さえいれば、御末(おすえ)等の最下級職員として直接採用されることもありました。

 大奥には定期的な一般募集はなく、必要に応じての採用だったので機会を待つしかありませんでしたし、旗本の娘や養女で入った場合はすぐに御目見得以上や御中臈となることもできましたが、宿元が御家人や町人身分で入った場合は下位の女中のまま出世することができませんでした。せいぜい御末頭(おすえがしら)止まりだったようです。御目見得以下ですから、例外を除いて将軍の目に留まることもありません。

 旗本身分で入れたとしても、大奥での出世は「一引き、二運、三器量」といわれました。「引き」というのはコネ。主に御年寄の後ろ盾がなければ、どんな美女でもチャンスを得られませんでした。次にくるのは強運。これは何事にもいえることですね。人生すべて運だといえなくもありません。御年寄のバックアップがあって美貌に恵まれていたとしても、運がなければ将軍の御手付になれないこともあります。三の「器量」は文字通り「美貌と才知」。将軍の心を掴むことができる魅力といったらいいでしょうか。

 御年寄にしても、目をかけた娘が将軍に気に入られて御中臈にでもなれば、大奥での権勢が増すことになります。そのため娘たちに華やかな衣装を着せ、御庭を歩かせたりしました。勿論、将軍の目に触れさせるためです。これを「御庭御目見」といいました。そこで将軍の目に留まればしめたもの。あとは本人の器量次第ですが、御手付にさえなれば、そして子供さえ宿せば、夢は大きく膨らんでいきます。

 いつの時代もコネと運は強い味方なんですね。

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江戸の夏・女たちの装い

2017-08-27 19:24:25 | 日記
 今年は梅雨が明けてから雨が多く、夏が終わる頃になって関東は猛暑。暑いまま台風が来て停電にでもなったら死活問題です。軽装ができて、クーラーという文明の利器があっても大変な夏。江戸時代の夏はご飯を炊くだけで汗だくになりそうですが、どんな装いで過ごしていたのでしょう。

 まず武家の女たちは年4回の衣替えをします。春と秋は袷(あわせ)、夏は帷子(かたびら)・単衣(ひとえ)、冬は綿入れというように季節ごとに決められていたようです。女性用の礼儀作法書『女礼(じょれい)』には「卯月朔日(うづきついたち)より五月四日袷にこし巻、五月五日より六月七月八月かたびらなり」と書かれており、少し暑くなってきた頃には腰巻姿というのがありました。これは提帯(さげおび)に小袖を掛けた夏の礼装で、ちょっと珍しいかもしれません(写真がなくて残念です)。

 七夕・左は提帯の女性  和宮の帷子

 江戸時代には厳格な服飾制度が布かれていましたから、季節だけでなく、平日と式日、年齢や未婚と既婚、身分などによって細かい決め事がありました。例えば豪華な帷子には年齢制限があって、「四十過ぎたるかたは、いささかようしゃあるべし」などと書かれています。また、茶屋染(ちゃやぞめ)と呼ばれる文様は上級武家の子女だけが着用できました。上の「和宮の帷子」にある菊や桐の折枝文(おりえだもん・枝がついたままの文様)は宮家出身の女性にしか許されなかったものです。

 将軍の御台所は公家出身者が多かったので、どうしても公家風の小袖になりますし、武家は武家風。ということでいろいろ大変だったようですが、庶民の方はいたって気楽なものでした。ただ一般的に夏は単衣(ひとえ)や帷子(かたびら)を着ました。単衣とは絹や木綿の一枚もので、裏をつけない仕立ての小袖。帷子は麻織物の一枚もの、浴衣(湯帷子)は木綿の一枚ものでした。気楽ではありますが、お洒落をしたいのが女性。特に夏は汗をかきますから、襟元の手入れは欠かせなかったようです。

 襟元の手入れ   爪の手入れ

 夏とは限りませんが、歯を染める鉄漿(おはぐろ)は既婚女性には欠かせませんでしたし、今でいうマニキュア的なものもありました。そうしたお洒落やお化粧に関する本もたくさん出版されています。『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』などはその代表的なもので、江戸時代の風俗を考える上で欠かせないものです。
 いつの時代も、女性はお洒落のために骨身を惜しまなかったんですね。

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蝉しぐれ

2017-08-13 18:00:38 | 日記
 ようやく蝉しぐれが聞こえるようになりました。夏の風物詩はやはり花火、風鈴、蝉の声、祭囃子に朝顔、ひまわりといったところでしょうか。縁台に浴衣がけ、団扇なんていうのもありますね。若い頃はほんとに夏が好きでしたけれど、最近は熱中症になりやすく、体調が悪くなることが多いのですっかり苦手になりました。そんな時、蝉の声を聞くと心が癒されます。今この辺で鳴いているのはミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシでしょうか。

 アブラゼミ   蝉の抜け殻

 蝉の声といえば、何といっても真っ先に浮かぶのが「閑(しづか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」ですけれど、同じく芭蕉の「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」というのもあります。蝉の声は夏の風物詩として詠まれることが少なく、歌や俳句にはどうしてもホトトギスを詠んだものが多いのですが、珍しいところでは「城門や 溺るるばかり 蝉時雨(桟一)」というのがありますね。大きな城門がまるで溺れてしまいそうに思える蝉しぐれ。鳴き声の凄まじさが伝わってくる一句です。

 万葉集や古今集にも歌われていますが、ほとんどが日暮(ひぐらし)を詠んだものです。日暮が蝉の総称だったのでしょうか。
 蜩(ひぐらし)の 声もいとなく きこゆるは あき夕暮に なればなりけり(紀貫之)
 ひぐらしの なく山ざとの ゆふぐれは 風よりほかに とふ人もなし(読み人しらず)

 『枕草子』にもひと言だけ出てきますね。「虫は、鈴虫。日暮(ひぐらし)。蝶。松虫。きりぎりす。促織(はたおり)。われから。ひを虫。蛍。蓑虫、いとあはれなり」とあって、日暮そのものを掘り下げてはいないので、それほどの興味はなかったのでしょう。『源氏物語』には「空蝉」という巻名がありますけれど、これは人を空蝉に譬えたものなので、蝉そのものではありません。

 物語文学では何といっても藤沢周平の『蝉しぐれ』でしょうか。NHKでドラマ化され、内野聖陽さんが主人公の文四郎を演じました。まだ青年の主人公が、反逆罪で切腹させられた父の亡骸を引き取りに行くのですが、処刑場になっている龍興寺での場面。「寺の奥から介錯の声が聞こえては来ないかと耳を澄ましたが、人声は聞こえず、耳に入って来るのは境内の蝉の声だけだった」、と原作ではそれだけの描写になっているのですが、ドラマでは蝉しぐれが効果的に使われていたと記憶しています。

 真夏の炎天下、父の亡骸を荷車に載せて15、6歳の青年が一人で帰るのですが、当然人目につき、注目を集めます。さらし者ですね。身に余る大きな荷物を運ぶ蟻のように、文四郎はただひたすら歩き続けます。最後の力を振り絞って途中にある坂をのぼろうとするのですが、一人ではのぼれません。原作では杉内道蔵が手伝ってくれるのですが、ドラマでは幼馴染のふくという少女になっています。ここでもまた騒然と蝉の声が聞こえてくるんですね。

 あれは忘れられない印象的なシーンでした。ふくという女性は文四郎の想い人でもあるのですが、二人が結ばれることはなく、最後に一度だけ思いを遂げるというお話になっています。そこでもまた蝉の声が…。

 蝉の声は私たちの思い出の中に、何回登場するのでしょう。

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血統のゆくえ

2017-07-30 18:49:39 | 日記
 友人の知人に長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の弟の子孫という方がいて、血を繋ぐことの大変さをよく聞かされるそうです。元親の子の盛親の時、関ケ原の戦いに敗れて改易となり、大坂の陣にも敗れて長宗我部家は家名断絶となりました。しかし盛親の従兄弟の五郎左衛門(親典)が新領主の山内家へ届け出、島姓を名乗ることで、馬にも乗れない徒士(かち)の身分として山内家へ召し抱えられるのです。いわゆる下士ですね。

 山内家では長宗我部の旧臣による反乱に苦慮していましたから、その血筋の者を山内家の監視下におくことで、それを抑えようとしたようです。そして面々と血を繋ぎ、大政奉還による徳川政権の終焉を待って、ようやく長宗我部の姓を復活させるのです。屈辱に耐え、ただひたすら繋いできた血筋。しかし15代目の親(ちかし)の時に、昭和天皇より元親の正三位への贈位記を頂戴するという栄に浴しました。そのお孫さんが友人の知人になります。

 出版本

 血を繋ぐというのは並大抵のことではなく、天皇家もそれで苦慮してこられたわけですけれど、これまでずっと男系男子で繋いできたというのはすごいですね。女性天皇が間を繋ぐことはあっても、結局男系男子に戻るのだそうで、女性皇族の子が皇位を継承することはないそうです。

 徳川家も随分苦労して血を繋いできました。そのために御三家・御三卿なるものができたんですね。御三家とは秀忠の弟義直(よしなお)を祖とする尾張、頼宣(よりのぶ)を祖とする紀伊、頼房(よりふさ)を祖とする水戸のことです。さらに吉宗の血筋から御三卿ができました。吉宗の子で将軍となった家重(いえしげ)の弟宗武(むねたけ)の田安、宗尹(むねただ)の一橋、家重の子重好(しげよし)の清水がそれです。

 実際には紀伊から吉宗、家茂が、一橋から家斉、慶喜が将軍になりました。これらの家の先祖を辿っていくと、結局家康に辿り着くというのはすごいですね。うちの先祖は誰になるのか気になりますが、調べる手立てがないのでわかりません。しかし勝手に吉田兼好の子孫だと思っています。なぜなら卜部(うらべ)から吉田、吉田から萩原、萩原から錦織(にしごり)…というような流れの中にある名字なので、「たぶんそうかな」、と思い込みです。

 源氏や平家というと武家の代表格ですけれど、もとは桓武平氏、清和源氏というように天皇家を祖としています。特に源氏は清和源氏の他に宇多源氏、村上源氏、花山(かざん)源氏、正親町(おおぎまち)源氏など数多く存在し、その中から綾小路、久我(こが)、六条、久世、岩倉等々多くの堂上家が生まれています。日本人の祖先はみな天皇家だという大胆な説が生まれる所以ですね。

 何はともあれ、側室の持てない一夫一婦制において、直系の男系男子で血を繋ぐとういのは至難の業といえましょう。
 現代では病気などで血液を入れ替えることもあって、血液型が変わってしまったという人もいますし、輸血をしただけでも血は混じるといえなくもありません。日本民族として考えれば、いやもっと地球規模で人類全体として考えれば、血統などたいしたことではないのかもしれません。

 しかしやはり長宗我部さんもそうですが、冷泉家など伝統のある家は絶やさないでいただきたいな、とちょっとだけ思います。

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江戸時代の旅

2017-07-16 19:33:47 | 日記
 最近では海外旅行へ行く人も増えて、ゴールデンウイークや夏休みなどに空港の混み合う様子が報道されますけれど、私の親世代の新婚旅行といえば伊勢・志摩、熱海。戦争もありましたから、新婚旅行へ行ければ良い方でしたね。私世代から徐々に海外が増えていきましたけれど、まだまだ不便なことは多くありました。今は世界中の都市と名のつくところであれば、交通機関や宿泊施設が充実していて快適な旅を楽しめます。いい時代になりました。

 さて古代の旅(貴族編庶民編)にも書きましたけれど、昔は庶民が物見遊山で旅をすることはありませんでした。江戸時代になっても、芭蕉が旅した初期の頃は命懸けの旅だったんです(行く春や…)。街道が整備され、宿場が発達(宿場の発達)した18世紀になって、ようやく庶民の旅が始まります。

 由井   吉原(隷書東海道)

 江戸近郊では富士山、大山、江ノ島が多く、特に「庚申(かのえさる)の年」には女人禁制の富士山に女性が登ることも許されたので、登山口から頂上まで人の列が絶えなかったといいます。当時は新宿大城門(だいしょうもん)を出発して八王子→高尾山→大月→富士街道→吉田というルートで富士山の裏側に出ます。山中の「石室(いしむろ)」という山小屋で一泊し、山頂へ向かい、着いたらすぐに下山。今度は須走口(すばしりぐち)に出て足柄峠→伊勢原→藤沢→品川と東海道周りで帰るのが一般的でした。全行程約八日間の旅だったんですね。その間歩き詰めですから、現代人には少しきついかもしれません。それでも江戸っ子にとって富士山は一生に一度は行くべきところだったのですけれど、その大変さから「富士山に一度も行かぬ馬鹿。二度行く馬鹿」などといわれました。

 さて何といっても旅ブームに火をつけたのは、ご存じ歌川広重の『東海道五十三次』と十辺舎一九(じっぺんしゃいっく)の戯作『東海道中膝栗毛』です。お役人だった広重は幕府が朝廷に馬を献上する「八朔御馬献上」の行列に参加し、京へ上りました。その時スケッチした街道絵を翌年保永堂から出版したのが『東海道五十三次』だといわれています。リアリティがあり、ガイドブックの役割も果たしましたので、これによって東海道を行き来する庶民の旅もふえました。

 鳴海(隷書東海道) 大磯(隷書東海道)

 中でも大ブームになったのがお伊勢参りです。すごいと思うのは、一文もかけずに誰でもお伊勢参りができたこと。無銭旅行ですね。橋の下や寺社の縁の下で寝るためのゴザ、飲み水を汲んだりお金や食べ物をいただくための柄杓(ひしゃく)さえ持っていればいいのです。ゴザを筒状に丸めて背負い、その先に柄杓を差していれば「一文無しのお伊勢参り」であることがわかりますから、沿道の人たちや旅をする人たちが助けてくれました。

 もっとすごいのは犬もお伊勢参りをしたことです。犬の首に賽銭を結びつけて送り出してやると、お伊勢参りの人たちが面倒をみてくれるんですね。ちゃんと伊勢まで辿り着き、大抵は賽銭を何倍にもして帰ってきたといいます。勿論ちゃんとした旅籠に泊まり、二ヶ月くらいかけて物見遊山の旅を楽しむ人たちもいましたが、犬でもお伊勢参りができたという、「江戸の人情」が恋しい今日この頃です。

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