ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

秀吉・家康と前久

2017-05-21 19:43:06 | 日記
 前回、近衛前久(さきひさ)と信長との関係を見てきましたが、今回は前久シリーズの最終回です。

 信長は前久を通じて朝廷を牛耳ろうとし、官位体系とは別に前久を公家社会の最上位に位置づけていました。それが公卿衆の妬みを買うこととなり、本能寺事変の後かなりひどい讒言がなされたようです。ために秀吉の糾明を受ける羽目になり、家康を頼ることになります。家康の取り成しで帰洛した前久は、官位に目覚めた秀吉を猶子としなければならなくなりますが、秀吉の関白就任については公家社会の複雑な事情も絡んでいます。

 その事情は置くとして、取り敢えず前久の猶子となって秀吉は関白に就任します。秀吉ははじめ足利義昭の猶子となって将軍職に就こうと考えたのですが、義昭に拒絶され、関白として政権を掌握する道を選びました。秀吉は前久と契約を交わし、藤原秀吉として関白に就任しますが、それだけで終わらないのが秀吉です。平氏政権に習い、一門をもって朝廷の高官を独占しようとしたんですね。で、いろいろな経緯はありましたが、豊臣姓を創始し、豊臣秀吉となったわけです。

 さらに秀吉は前久の娘前子(さきこ)を養女とし、後陽成天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)させます。天皇の外祖父になることまで考えたんですね。これは秀吉の生前には実現しませんでしたが、前子はのちに皇子を産み、その子はやがて後水尾天皇となるのです。つまり前久は天皇の外祖父ということになるんですね。すごい血統でしょう。だけでなく、前久は家康とも早くから関わりがありました。

 家康との交流は信長や秀吉より古く、永禄年間に遡ります。家康が松平から徳川へ改姓し、従五位下・三河守に叙任されたのは前久の尽力によるものだったんですね。徳川への改姓についてもさまざまな苦労があったようですが、とにかく「近衛殿(前久)より藤宰相(高倉永相)して申され候徳川叙爵、同じく三河守口宣(くせん)…に仰せられて今日いずる」(『お湯殿の上の日記』)とあって、前久から申請されたものであることがわかります。

 そんな関係もあって本能寺事変の後家康を頼ったわけですが、家康が浜松城内で能を興行した際、家康に扶持されていた今川氏真(うじざね)とも挨拶を交わしています。家康は今川に育ててもらった恩義(人質として)もあったのでしょうが、氏真の器量の無さを見越して面倒を見たのでしょう。足利義昭同様、失礼な言い方をすれば無能な方が生き残れるのかもしれません。

 こうして天下一統と深く関わってきた前久ですが、結局は武家に政権を持っていかれ、朝廷の権威を取り戻すことができませんでした。江戸の繁栄を聞くにつけ、敗北感は増していったに違いありませんが、この無念は幕末・維新によって解消されることとなります。島津の養女篤姫をさらに近衛家の養女として将軍家の後宮へ入れ、天璋院が誕生するとともに、島津と毛利等連合軍が幕府を倒し、王政復古を果たすのですから。

 江戸名所図屏風(城下町の賑い)

 このように謙信・信長・秀吉・家康・島津義久等と深く関わってきた前久の目を通して見た戦国時代を、大河ドラマにするのも面白いのでは?
(参考・谷口研語著『流浪の戦国貴族近衛前久』)

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信長と前久(さきひさ)

2017-05-08 18:19:46 | 日記
 いい陽気になりましたね。芭蕉ならずとも旅に出たくなる季節です。しかし戦国時代、戦(いくさ)のための旅は大変でした。ほとんどが野営ですし、いつ夜襲があるかわかりませんから眠ることもままなりません。おまけにろくな食事もとれず、重い甲冑を身につけていたわけですから、考えただけでぞっとしますね。それを思えば、ゴールデンウイークの渋滞など、ものの数ではないかもしれません。

 さて、前回に続き前久です。前久は義昭との確執により京を追われ、まずは石山本願寺に身を寄せます。その後河内の若江、丹波氷上郡と居を移し、流浪の日々を過ごしますが、義昭が信長によって京を追われると、信長の尽力もあってようやく戻ってきます。なんと、出奔してから7年の歳月が流れていました。

 信長が前久の帰洛に手を貸したのは、前久の利用価値に早くから目をつけていたからなんです。帰洛後、前久は信長のメッセンジャーとして奔走し、朝廷についての知識を信長に提供しました。将軍家との縁も深かった前久ですから武芸の嗜みもありましたし、何といっても趣味の鷹狩りと馬で気が合ったようです。二人は馬・鷹・甘柿・大根や鷹狩りの獲物などを贈答しあう仲になりました。

 鷹狩りと馬を通して、前久は信長との親交を深めていきます。驚くことに前久は鷹狩りの権威でもあったんですね。「龍山公鷹百首」というのがあって、これは前久が鷹司を詠みこんだ和歌を編んだものですが、鷹の種類や鷹狩りの装束・作法・道具の注記が多く、歌集というより秘伝書の趣があります。また島津義久兄弟に自ら選んだ馬や馬具を贈っていることから、馬に関しても相当の見識があったと思われます。

 

 また信長の方も、フロイスの『日本史』に「著名な茶の湯の器・良馬・刀剣・鷹狩り・相撲」を好んだとあるように、鷹や馬には目がなかったようです。前久は信長から何度か馬を贈られていますが、前久が島津にねだって手に入れた大鷹を信長に所望され、手放すことも多くありました。また天正9年に行われた「馬揃え」では、公卿衆として前久も参加しています。馬に乗れるお公家さんの少なかった時代ですから、武家に負けまいとする意気込みが感じられますね。

 親交を深めた前久は信長に所領をねだったりもしています。7年間の流浪生活で失った土地領有権を回復してもらったり、1国ないし2国を宛行う旨の約束を取り付けてもいたようです。信長の前久優遇はそれだけではありません。京に二条屋敷を造った折、その隣に前久の邸を提供しているのです。信長の二条屋敷はその後誠仁(さねひと)親王に提供されて二条御所と呼ばれますが、本能寺事変の時に信忠がここに立て籠もったことにより、前久が疑われる原因となりました。

 公家社会の最高権門にありながら武家を目指した公家近衛前久は、晩年になってそれを後悔するような手紙を島津義久に送っています。「いらざる馬・鷹・自余の武芸をあいあいに習い候て…」、公家として成すべきことが他にあったのではないかと。(参考・谷口研語著『流浪の戦国貴族近衛前久』)

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