常熟にて

常熟で働く日本人。常熟生活を綴ります。

常熟にて 2014年冬

2014年01月24日 09時16分47秒 | 日記

中国で暮らしているのだから、当然身の回りには中国語が溢れている。私にとって中国語は外国語である。世の中には語学の才に長けた人がいてその地にしばらく住んでいれば現地の言葉で自由にコミュニケーションできる人もいるようだが、残念ながら私にその才はないようだ。いつまでたっても思いを中国語で表現することはできない。畢竟通訳に頼って生活することになる。

では通訳を介せば不自由しないかというとそうでもない。日常あらゆるレベルのコミュニケーションにおいて隔靴掻痒の感が否めない。とりわけ“情感”に関わる表現となると不自由極まりない。中国常熟に住んで2年、中国生活ということでは3年近くになるが、振り返ってみるとこの間、言葉による感情の発露という経験が皆無と言ってよい。本当に言いたいことを言えず腹にためておくのは実に体に良くないものである。一般的に中国赴任のストレスというものは、生活習慣の違いもあるにはあろうが、もっとも致命傷になりうるのはメンタルな部分であることが多い。自殺者も多いと聞く。

ただよくよく考えるに、外国語はもちろんのこと、仮に母国語であっても真の感情というものはそうやすやすと表現できるものではないのではないか。そのように思う。このようなことは、日本にいて母国語である日本語のみで生活している時はついぞ考えたことのないことである。たとえば日本語で表現しうる内容を100としよう。ならばつなたい中国語、あるいは通訳を介して伝えうる量は50といったところか。しかし真に心の中にある思いのたけともいうべきものはおそらくオーダーの違う1000なり1万なりの数字になるのではないか。書き言葉とて同じことだ。

海外に住むと言葉の大切さを痛感する。言語の大切さを痛感すると共に、言語が本来いかに無力なものであるかを実感できるというのも、外国生活において知る一つの真理ではなかろうか。

そしてそれにつけても我々人間は、その無力な言語というものに多くを依存して生きていかねばならないということなのである。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿