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「第4回 政経フォーラム」『沖縄・基地と隣り合わせの生活を考える  衆議院議員 玉城デニー』 

2012-04-28 15:50:03 | 政経フォーラム

 
 「沖縄の基地問題をテーマにしたい」と思い始めたのが、昨年のこと。それまで、一応辺野古移設の問題など多少なりとも理解していたつもりでいたのが、昨年、北海道へ出かけた折に立ち寄った千歳の町で、本当に突然に、これまで経験したことのない爆音が迫ってくる経験をした。一体何が起こったのかすぐには理解できずにただただ上空を見上げ、その音の正体を探していました。その爆音が更に強くなり、自然に耳を塞いでいた私の頭の上を自衛隊の戦闘機が飛び去っていった・・・。関西に住んでいると、こんな経験をすることなど皆無です。でも、沖縄では・・・、これが私の中で、沖縄の基地問題を取り上げたいと思うきっかけとなりました。

 会の名前も代わり、しばらくは混乱する中、会の世話人の方々との会議の席でこのテーマで政経フォーラムを開催したい旨を伝えたところ、全員一致で賛同して下さったおかげで、話はトントン拍子に進み、開催へと進めることが出来ました。
昨年から、水面下で私の相談に乗って下さり、この沖縄の問題のどこに焦点を当てるか、そして最終的に今回のテーマをご提案下さったのも実は、今回講師をお引き受け頂いた玉城デニー代議士でした。
                

 会の当日には、玉城代議士自ら作成された「沖縄の基地を知るための終戦直前及び戦後の日米関係小年表」と題した資料(4枚綴り)を参加者に配布させていただきました。
また、より理解しやすいようにと、パワーポイントで舞台に設置したスクリーンに写真や地図などを写し、流れに沿った説明をすることも玉城代議士からご提案いただいたものです。
実は、パワーポイントをご自分で編集されたのも今回が初めてだったそうで、素材探しから編集まで秘書の方に教わりながら作成して下さったそうです。

 そうして第一部であるメインテーマの「沖縄・基地と隣り合わせの生活」の講演がスタートしました。 まずは、自己紹介を兼ねた生い立ちから話始められました。

「なぜ、わたしは、いじめられるのか」

米軍の海兵隊員だった父親と日本人の母親との間に生まれた玉城代議士は、アメリカに渡ることを想定して当初「デニス」と名付けられたこと。でも、結局は渡米を諦めざる負えない事情から「康裕」という日本名が本名となったという経緯などを笑顔で語られる玉城代議士。実は、偶然、沖縄出身の知人から沖縄で米軍とのハーフで誕生した子どもがどれほど酷い虐めにあっていたかを聞いていました。玉城代議士からも、そんな子どもの頃の悲しい経験が語られました。「どうして虐められるのか?」「どうしてハーフなのか?」。でも、誰もその答えを教えてくれる人がいなかったと。ただ、玉城代議士の場合、預けられていた親戚の家の「おっかぁ」が『容姿は皮一枚』と答えてくれたそうです。「皮を一枚はいだら緑の血が流れるのか? 同じ赤い血が流れるんだろ?」と。つまり上っ面の小さい違いしか、ないんだという事なんでしょう。

 沖縄では、保守と革新という色分けがハッキリしていて、この違いの基準は米軍基地に対して、どういうスタンスを取るかで分かれる。ざっくり言えば基地とうまく共存していくのが、保守派。先祖伝来の沖縄の地を県民に返して欲しいと戦ってきたのが革新派。
玉城代議士は当初、革新派だった。で、市議会議員として当選して革新陣営の中に入ってみると、なぜか憲法や日の丸といったことの議論が全くなされないことに抵抗感があったそうです。いろいろと悩む中、手に取った小沢先生の本を読み進めていく内に「この人しかいない!」と。まるで光があたったような気がした。これからのポジションを決める大きなキッカケになったそうです。小沢先生の話はすごくわかりやすい。
ご自身は、保守であり革新、辺野古移設反対、消費税増税反対、TPP反対の立場。

 1945年、太平洋戦争の中で、米軍司令官バックナー中将が「中国大陸への道筋、ロシアの拡張主義に対する拠点排他的支配が必要」と発言。この時から沖縄から日本本土を支配する戦略は練れていた。つまりこれによって中国、ロシアを封じ込めるという事。


「祖国、日本に復帰したが、、、」 

1960年後半、祖国復帰運動では、日の丸の旗を手作りした。祖国復帰の5月15日に、その日の丸を振って祖国復帰行進をやったが、日の丸、本土復帰の意味も分からずやっていたと。復帰後、皆は基地もなくなり、先祖伝来の土地も返してもらえると大人も子供も信じていた。ところが、基地もなくならない、土地も返ってこない。

 歴史は少し戻り、終戦時、戦後初の行政機関として、沖縄諮詢会が設立された石川市には大きな捕虜収容所があった。捕虜になった人々は収容所に入れられた。その間に、米軍はブルドーザーで家や畑を壊し、そこに基地建設を進めていた。
1947年、住民の帰村が認められたものの、帰ってみると自分の家はフェンスの向こうにあって入ることも出来ない。仕方なく住民はフェンスにへばりつくように、そこに新しい住居を構えることになる。これが現在の基地の周りに住宅が密集して建っているといういびつなものになった理由だと語る玉城代議士。



 途中から現在の沖縄の基地の現状を「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」という本から著者の許可を取って、写真や地図等をスクリーンに写して説明される。まず、驚くのが、あの映画の「トップガン」を思い出させるような基地の写真の数々。つまり本当にこれが日本なのかと目を疑う映像だ。基地の滑走路のすぐ側にある学校や公共施設、夜間であっても飛び交う米軍機・・・。
沖縄国際大学に米軍・普天間基地所属のヘリが墜落したあの事故にも話は及びます。
すぐに周囲を米軍が包囲し、事故後も大学の建物に残る傷を、記憶に留める為にそのまま残すことを提案した日本側の意向ははねつけられ、塗り替えられたことなど・・・。
特に、沖縄上空高さ6000m、半径80kmが管制空域とされ、民間機も那覇空港に近づくと低空飛行を強いられる。「沖縄は土の上、空の上、海の上も米国に支配されている」という玉城代議士の言葉に愕然とする・・・。これが沖縄の現実。
知っているようで何も知らなかった沖縄の現状を、今回玉城代議士の生の声を通して、ほんの少し見えたような気がしました。

   

 そんな中、日米両政府は、25日午後、予定していた在日米軍再編に関する共同文書の発表を延期することを決めるというニュースが流れました。
日本政府は「内容面の変更はない」としながらも、アメリカ上院のレビン軍事委員長ら有力な議員3人が普天間基地の辺野古移設は「非現実的」として国防長官に説明を求める書簡を提出。これによって共同発表が延期になった、と報じています。
今後の報道に注視していきたいと思います。

 このレポートは、講演をお聞きしながら、必死でノートに書き留めたものを下に作成しました。よって、文責は全て私にあります。

 また、開催にあたり玉城デニー代議士、渡辺義彦代議士には準備段階から事務所総出でお力をお借りいたしました。
また、当日はつじ恵代議士からも心温まるメッセージも頂戴しております。あらためて心より感謝申し上げます。
 
代表 森田 友企子

 


 

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