政治と生活を考える会 ー責任ある自立と共生の社会をめざしてー

国民・市民として政治を見つめることが日々重要になってきています。素人の集団ですが皆様の応援をお願いします。

向き合うこと、我がことのように考えることの大切さ、難しさ。

2012-04-30 23:22:45 | 応援メッセージ
政治に少しは関心を持つ者として、「沖縄基地問題は日本中が真剣に考えねばならない」と判っているつもりでした。しかし、玉城デニー議員のお話を伺って、それはうわべの認識であり結局は他人事として捉えていた自分に気づきました。



今回お話いただいた、沖縄戦から現在の沖縄につながる歴史には、知らなかった事を深く恥じ入るできごとが沢山ありました。アメリカ占領時代以降は玉城議員ご自身の人生と重ね合わせてのお話だったこともあり、ほんの少しですが、沖縄の人達の気持ちを感じられた気がしています。とりわけ、「流れ弾注意」看板の写真と、米軍ヘリ墜落事件の顛末には、ショックを受けました。
普天間基地移設問題をめぐるお話からは、あの問題が日本の統治構造の歪みを典型的に表したものであったと気づかされました(これは、「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんなしっていること」からも学びました)。沖縄基地問題を他人事と思ってはいけないのは、本土が沖縄に負い目があるからではなく、そこに日本という国の在り方が凝縮されているからだと思います。
最後の質疑応答で、玉城議員が「フリーハンドだったら沖縄をどうするか」というビジョンを生き生きと語られていた姿が印象的でした。心優しく、郷土への愛と誇り、現実と向き合う強さを持った政治家だと思います。「国民の生活が第一」実現を目指して、ぜひ活躍して頂きたいです。

世話人 M

『 沖縄 ・ 基地と隣り合わせの生活を考える 』をお聞きして。

2012-04-28 16:53:10 | 政経フォーラム
第4回 政経フォーラム
『 沖縄 ・ 基地と隣り合わせの生活を考える 』

何事に取り組むにしても、先ずは人柄を考える。
この人の為に何ができるか?
この人は何かを成してくれるか?

労いや感謝の言葉を数えきれないほど使われ
玉城デニー先生は明確に示された。

例えば生い立ちについて。お父様が米兵である事。
ルーツは自分では決められない。

基地と隣り合わせの生活がいかにして作られたか。
殆ど学生時代の講義を彷彿とさせる丁寧なものだった。

政権交代して今日まで基地移転が何故叶わなかったか。
「それはその時の担当者に能力がなかったからです。」

政治家の言葉は重い。なぜなら私たちの負託を受けているからである。
その言葉で時に問責決議を受ける場合もある。

私個人は、沖縄の問題を考える一回目となり、
何故沖縄の問題を?ではなく。また次も是非と。
賛同頂ければ光栄です。

世話人 T

「第4回 政経フォーラム」『沖縄・基地と隣り合わせの生活を考える  衆議院議員 玉城デニー』 

2012-04-28 15:50:03 | 政経フォーラム

 
 「沖縄の基地問題をテーマにしたい」と思い始めたのが、昨年のこと。それまで、一応辺野古移設の問題など多少なりとも理解していたつもりでいたのが、昨年、北海道へ出かけた折に立ち寄った千歳の町で、本当に突然に、これまで経験したことのない爆音が迫ってくる経験をした。一体何が起こったのかすぐには理解できずにただただ上空を見上げ、その音の正体を探していました。その爆音が更に強くなり、自然に耳を塞いでいた私の頭の上を自衛隊の戦闘機が飛び去っていった・・・。関西に住んでいると、こんな経験をすることなど皆無です。でも、沖縄では・・・、これが私の中で、沖縄の基地問題を取り上げたいと思うきっかけとなりました。

 会の名前も代わり、しばらくは混乱する中、会の世話人の方々との会議の席でこのテーマで政経フォーラムを開催したい旨を伝えたところ、全員一致で賛同して下さったおかげで、話はトントン拍子に進み、開催へと進めることが出来ました。
昨年から、水面下で私の相談に乗って下さり、この沖縄の問題のどこに焦点を当てるか、そして最終的に今回のテーマをご提案下さったのも実は、今回講師をお引き受け頂いた玉城デニー代議士でした。
                

 会の当日には、玉城代議士自ら作成された「沖縄の基地を知るための終戦直前及び戦後の日米関係小年表」と題した資料(4枚綴り)を参加者に配布させていただきました。
また、より理解しやすいようにと、パワーポイントで舞台に設置したスクリーンに写真や地図などを写し、流れに沿った説明をすることも玉城代議士からご提案いただいたものです。
実は、パワーポイントをご自分で編集されたのも今回が初めてだったそうで、素材探しから編集まで秘書の方に教わりながら作成して下さったそうです。

 そうして第一部であるメインテーマの「沖縄・基地と隣り合わせの生活」の講演がスタートしました。 まずは、自己紹介を兼ねた生い立ちから話始められました。

「なぜ、わたしは、いじめられるのか」

米軍の海兵隊員だった父親と日本人の母親との間に生まれた玉城代議士は、アメリカに渡ることを想定して当初「デニス」と名付けられたこと。でも、結局は渡米を諦めざる負えない事情から「康裕」という日本名が本名となったという経緯などを笑顔で語られる玉城代議士。実は、偶然、沖縄出身の知人から沖縄で米軍とのハーフで誕生した子どもがどれほど酷い虐めにあっていたかを聞いていました。玉城代議士からも、そんな子どもの頃の悲しい経験が語られました。「どうして虐められるのか?」「どうしてハーフなのか?」。でも、誰もその答えを教えてくれる人がいなかったと。ただ、玉城代議士の場合、預けられていた親戚の家の「おっかぁ」が『容姿は皮一枚』と答えてくれたそうです。「皮を一枚はいだら緑の血が流れるのか? 同じ赤い血が流れるんだろ?」と。つまり上っ面の小さい違いしか、ないんだという事なんでしょう。

 沖縄では、保守と革新という色分けがハッキリしていて、この違いの基準は米軍基地に対して、どういうスタンスを取るかで分かれる。ざっくり言えば基地とうまく共存していくのが、保守派。先祖伝来の沖縄の地を県民に返して欲しいと戦ってきたのが革新派。
玉城代議士は当初、革新派だった。で、市議会議員として当選して革新陣営の中に入ってみると、なぜか憲法や日の丸といったことの議論が全くなされないことに抵抗感があったそうです。いろいろと悩む中、手に取った小沢先生の本を読み進めていく内に「この人しかいない!」と。まるで光があたったような気がした。これからのポジションを決める大きなキッカケになったそうです。小沢先生の話はすごくわかりやすい。
ご自身は、保守であり革新、辺野古移設反対、消費税増税反対、TPP反対の立場。

 1945年、太平洋戦争の中で、米軍司令官バックナー中将が「中国大陸への道筋、ロシアの拡張主義に対する拠点排他的支配が必要」と発言。この時から沖縄から日本本土を支配する戦略は練れていた。つまりこれによって中国、ロシアを封じ込めるという事。


「祖国、日本に復帰したが、、、」 

1960年後半、祖国復帰運動では、日の丸の旗を手作りした。祖国復帰の5月15日に、その日の丸を振って祖国復帰行進をやったが、日の丸、本土復帰の意味も分からずやっていたと。復帰後、皆は基地もなくなり、先祖伝来の土地も返してもらえると大人も子供も信じていた。ところが、基地もなくならない、土地も返ってこない。

 歴史は少し戻り、終戦時、戦後初の行政機関として、沖縄諮詢会が設立された石川市には大きな捕虜収容所があった。捕虜になった人々は収容所に入れられた。その間に、米軍はブルドーザーで家や畑を壊し、そこに基地建設を進めていた。
1947年、住民の帰村が認められたものの、帰ってみると自分の家はフェンスの向こうにあって入ることも出来ない。仕方なく住民はフェンスにへばりつくように、そこに新しい住居を構えることになる。これが現在の基地の周りに住宅が密集して建っているといういびつなものになった理由だと語る玉城代議士。



 途中から現在の沖縄の基地の現状を「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」という本から著者の許可を取って、写真や地図等をスクリーンに写して説明される。まず、驚くのが、あの映画の「トップガン」を思い出させるような基地の写真の数々。つまり本当にこれが日本なのかと目を疑う映像だ。基地の滑走路のすぐ側にある学校や公共施設、夜間であっても飛び交う米軍機・・・。
沖縄国際大学に米軍・普天間基地所属のヘリが墜落したあの事故にも話は及びます。
すぐに周囲を米軍が包囲し、事故後も大学の建物に残る傷を、記憶に留める為にそのまま残すことを提案した日本側の意向ははねつけられ、塗り替えられたことなど・・・。
特に、沖縄上空高さ6000m、半径80kmが管制空域とされ、民間機も那覇空港に近づくと低空飛行を強いられる。「沖縄は土の上、空の上、海の上も米国に支配されている」という玉城代議士の言葉に愕然とする・・・。これが沖縄の現実。
知っているようで何も知らなかった沖縄の現状を、今回玉城代議士の生の声を通して、ほんの少し見えたような気がしました。

   

 そんな中、日米両政府は、25日午後、予定していた在日米軍再編に関する共同文書の発表を延期することを決めるというニュースが流れました。
日本政府は「内容面の変更はない」としながらも、アメリカ上院のレビン軍事委員長ら有力な議員3人が普天間基地の辺野古移設は「非現実的」として国防長官に説明を求める書簡を提出。これによって共同発表が延期になった、と報じています。
今後の報道に注視していきたいと思います。

 このレポートは、講演をお聞きしながら、必死でノートに書き留めたものを下に作成しました。よって、文責は全て私にあります。

 また、開催にあたり玉城デニー代議士、渡辺義彦代議士には準備段階から事務所総出でお力をお借りいたしました。
また、当日はつじ恵代議士からも心温まるメッセージも頂戴しております。あらためて心より感謝申し上げます。
 
代表 森田 友企子

 


 

「政治と生活を考える会」の設立をお祝い申し上げます。小沢一郎

2012-04-26 11:27:55 | 応援メッセージ



 私は、「国民の生活が第一。」を基本理念として、官僚主導の政治から真に国民が主役の政治への転換を目指し、政治活動に邁進して参りました。

そして、二年半前には、国民皆様の力強いご支援のおかげで、歴史的な政権交代を実現することができました。


 これでようやく日本再生に向けた一歩を踏み出すことができると期待したのですが、この国の政治がいつの間にか政権交代の意義を見失ったため、改革は進まず、政治に対して不信感が蔓延してしまっていることは、誠に残念でなりません。


 今こそ、「国民の生活が第一。」という民主主義の原点に立ち返り、混迷する日本社会に希望と活力を取り戻さなければなりません。そのために、私は同志諸君と手を取り合いながら、国民皆様のご期待にもう一度お応えするべく、引き続き全力で政治活動に取り組んで参ります。


 貴会におかれましては「自立と共生」の社会づくりにむけ、大いに活動を展開して頂きますよう期待申し上げますとともに、我々に対し一層のご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い致します。


 結びに、貴会の今後ますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。



 衆議院議員  小沢一郎

勇気を頂いたある言葉 ーー 宗男先生の奥様から

2012-04-25 00:02:42 | 応援メッセージ
「政治と生活を考える会」を再スタートさせるにあたり、悩む私の背中を押してくれた

言葉があります。

後で考えてみると、まるで今回のことを予言したかのような、言葉です。

この言葉を私に直接下さったのが、実は鈴木宗男先生の奥様です。


2月4日に東京で行われた石川知裕代議士のご披露宴に、ご招待いただき

出席させていただきました。

会場には、小沢一郎代議士の他に、鈴木宗男先生ご夫妻の姿も・・・。

今回でお会いするのが2度目となる宗男先生にご挨拶させていただいたところ、

奥様にもご紹介下さいました。

上品な和服姿の奥様と二人で立ち話させていただく中で、突然、私の腕を掴んで

奥様がこう仰って下さったのです。

「あなたのような一般の人達が、こういう会をやるということが本当に大事なんです。

これがヘンに政治に関わる者がやると、どうしても余計な策を講じようとする。

それがかえって上手くいかない原因だったりするんです。でも、一般市民の方達だと

そういう策を講じないから、前へ前へと上手く進んでいける・・・。是非、頑張ってね」と。

その時はその時で、温かい眼差しでこう励まして下さったことに、とても感動しました。


ところが、それから少しして「政治と生活を考える会」を立ち上げるという大きな決断をすることになった時、自分自身との葛藤の日々の中で、この言葉を思い出したのです。


一般市民だからやれることがある。

まずは、歩み出そう・・・と。

 

これからも迷うことがあれば、この言葉を思い出し、自分で自分の背中を押したいと思います。