日本はどこに向かおうとしているのか。日本人はどこを、何を目指して生きていくのか。
昨年は、そんなことを何度も問われる一年だった気がする。暮れの選挙も、そんな今の苦しい日本の状況を羅列的に映し出しているようだった。その中で、一際強調されたのが、「強い日本を取り戻そう」、という言葉だった。「強い日本」。。。
http://www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/130101-2.html
強い時代が日本にはかつてあった。世界で「ナンバーワン」と呼ばれて、浮ついた時代があった。技術立国で、世界中が「メイドインジャパン」に沸いた(?)時代があった。「ウォークマン」は世界中に跋扈した。「原子力」という新しいエネルギー資源の開発のために、原発が膨大に作られた。日本は、かつて強かった。
けれど、日本人は、もともと「勝ち続けることはない」、「強者で居続けることはない」ということもよく知っている。「強い」ことを目指すは自由だが、その根底において、すべては無常であり、栄えたものが恒常的に栄え続けるということはない、すべては流転する、と。そういう考え方を好むのもまた日本の風土であると思う。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
僕らは、世界の中で「強い国」であり続けなければならないのか。僕らは、さらにもっと上を目指さなければならないのか。原発先進国をさらに歩まなければならないのか。もっと「成長」しなけれればならないのか。さらに「公共事業」を行い、道路を作らなければならないのか。今以上の生活を求めなければならないのか。
たしかに、「もっと上へ!」という勢いは必要だろう。かくいう僕も、「もっと上へ!」って思って日々生きているわけで、「上へ!」というパワーは決して否定されてはならないものだとは思う。それに、「もっと強くなりたい」、「もっと富みたい」という人の自由を誰かが奪うこともしてはならない。誰もがその可能性をもっている。誰もが強くなれる可能性や富める可能性をもっているし、それを求めることは、人間的には自然なことである。
ただ、今の日本全体を眺めると、「もっと上へ!」なんて言えない人や、「上」を放棄した人や、そもそもそういう発想自体をもっていない人たちがかつて以上に増えているように思う。「現状維持」か、「低空飛行」か、あるいは「沈没」か。もう上に向かう力も精神も残されていない人たち。「貧しくても、いつかは報われるから頑張る」じゃなくて、「貧しくて、報われないから、もうダメだ」、という人たち。
「強い日本」を目指すのは自由だが、日本に住む日本人を見ていると、もうとっくに日本人は弱っているように思う。もちろん強い人はいる。でも、俯瞰して見ると、かつて以上に多くの日本人が弱って、身動きさえ取れなくて、悲鳴を上げているようにしかみえない。
そこで、強い日本を作るために利用されるのが、「教育」である。新政権は「教育を変える」と豪語している。強い日本を作るための日本人づくり。「ゆとり教育」を実施したのが自民党なら、「ゆとり批判」をしたのも自民党。そして、今は「強い日本人づくり」…。(溜息)。(「したたかさ」を超えてるだろ… でも、そこがこの党の最大の強みなんだろう)
ここに一つの「罠」がある。
強い日本、否、強い日本人を作るなら、教育ではなく、家庭こそを変えるべきなのだ。人間は、いかにして強くなるのか。その根底を誰も問わない。教育がよければ、子どもは強くなれるなんていう「幻想」をもっているとすれば、「とんだお坊ちゃん的発想」としかいいようがない。学校教育の現実は、各家庭の状況の「鏡」でしかない。子どもは、各家庭であらゆる価値や思想を学ぶ。学校で学ぶよりも、はるかに直接的に、身体的に、強制的に。
「より上へ!」という話も、このこととリンクする。より上へ!という発想自体、実は学校ではなくて、家庭で学ばれていることなのではないか。学校はその哲学の実践の場でしかない。受験するとかしないとか、というのは、子どもの意思である以上に、親の意思だったりもするし、受験自体、そもそも親の経済力に大きな影響を受けている。
なんでこんなことを書いているのかというと、元旦の夜、「ニッポンのジレンマ」という番組を見たからだ。昨日の番組は、ある種、「吐き気」みたいなものを感じる展開だった。「格差を超えて」というインパクトのあるタイトルなのに、全くその「格差」のリアリティーが見えてこない。最後には、「自分の話」(美談化された話)になってしまっていて、「これは新たな論者の登竜門(売り込み)番組か?」と思うほどだった。しかも、かなり「身内色」が強くて、「うちうち感」が強かった(とはいえ、面白かったんだけど☆)
この番組の中で、すっぽりと抜け落ちていたのが、「家庭」というフレームだった。「どう働くべきか」という議論ばかりで、その根底にあるもの=働ける人間の条件についてはほとんど議論されていなかった。「成長しないこの国でどうやって生きていくか」という議論がなかった。生きることの土台は、家庭で作られる。その「生きる」という視点がないまま、働くということを議論することの空虚さを感じずにはいられなかった。(ま、テレビだからね…)
これからますます日本は低迷していくだろう。これは誰もが感じていることだ。強い日本を目ざしたところで、増えていくのは、リアルには「国債」ばかりで、泥沼から抜け出すことは、きっと僕らが生きている間は無理だろう。世界でも類をみないほどの「HYPER高齢社会」を迎え、誰も経験したことのないような時代を迎えるのだから。
かといって、上の番組の論者のようなネット・サブカル・ガラパゴス・ノマド的なモデルを示そうとする人たちの意見を参考にしても、これはこれで今の「流行り」なので、すぐに廃れるし、時代の変化を超える普遍的視座にはなり得ない。
その中で、僕らはもっと生きる根底に目を向ける必要がある。「過度な贅沢」どころじゃない。「ちょっとした贅沢」も難しい時代だからこそ、奢侈(ぜいたく)とは別の価値基準をもつ必要がある。その究極が、「生きているというそのリアル」だろう。生きていれば、それでいい。生きている、そして目下、食べるものがある。それで満足できる感性が今こそ必要なのではないか。
家族がいる。誰かがそばにいる。好きな音楽がある。食べるものがある。住むところがとりあえずある。服が着られる。それに幸せを感じられるセンスだ。それはつまりは、日常の営みである。日々の生活をとりあえず過ごせる。それだけで幸せだと感じられるセンス。きっと幸福な人は、富裕層も貧困層も、そういうセンスをもっているはずである。不幸な人は、富裕層も貧困層も、生きていられることの幸福を感じられていない(感じるのは「不足」と「欠如」と「劣等感」)。そういうセンスは、学校では教育できない。家庭での問題であり、身近なところでの問題である。
この世に今、存在している。存在していられる。まだ、死んでいない。そこに希望が見出せないだろうか。
浮足立つ言葉が流布する時代だからこそ、扇動的な言葉で踊らされる時代だからこそ、根源的な言葉を僕はもっと大事にしたいと思うし、その視点からあらゆることを語っていきたいと思う。「生きていられることの喜び」、その基準は、人それぞれだろうけど、その基準自体、家庭で作られることは共通していると思う。
あ、なんか、最後、ブーバーみたいになっちゃったかな☆?!