フリージア工房 国道723号店

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滝川ストラット

2005-12-03 21:09:01 | 町と旅

 今から12年前、鈍行だけで日本を縦断する旅というのを実行して、鹿児島県の志布志から北海道の稚内までを旅した。その時に初めて北海道の地に足を踏み入れた。道内に入って最初に泊まった町は、滝川市であった。

 滝川(たきかわ、と読む)に着いたのは夜9時を回った頃だった。基本的に宿の予約は取らない私は、改札口を出ると公衆電話へと走り、電話帳に載っている宿へ片っ端から電話をかけた。夜遅いせいかなかなか良い返答をもらえず、電話帳何軒目かの最後の行となる宿でようやく泊まる事が出来た。
 小雨の滝川の駅前通りは人の気配がなく。旅館の所在する町の方向があやふやになり始めた頃、ようやく一人の青年を見つけ正しい道を知る事が出来た。
 泊まった宿は、こぢんまりとした古い宿で、ほとんどの部屋はふさがっていた様子だった。私は風呂に入ったあと、部屋の前の木の廊下の片隅に並べられていた週刊誌や漫画雑誌を部屋に持ち込みしばらく読んでいたが、やがてそれに飽きて週刊誌の横に置かれていたアイヌ文化の本を手に取った。
 アイヌ文化は知的好奇心をくすぐるものであり、この本は初めて訪れた北海道の第一日目の夜を豊かなものにしてくれた。

 その旅の後も何度か滝川を訪れた。滝川は函館本線と根室本線とが分岐する地点なので、乗り換えでも降りたりした。しかし、砂川、歌志内、芦別、赤平など滝川周辺の旧炭鉱町がそうであるように、いつも滝川はどこか切なく寂れた風景であった。

 2001年秋、テレビの画面の中の一人の少女の事が気になった。その子の名前は「藤本美貴」といった。当時、人気が上昇気配だった松浦亜弥とは違った、明るい笑顔とともにときおり少し陰のある表情を見せるその子は、年が明け春にCDデビューを果たした。私は自然な流れで藤本美貴のファンになった。普段はイベントなどには行かない私が、握手会に足を運んだりもした。娘。入りが決まった時は憤り、現時点では最初で最後となっているソロライブツアーにも二回行った。
 彼女が北海道出身というのはプロフィールでたやすく知る事が出来たが、滝川出身というのはデビューしてしばらく経ってから知った。私は改めて滝川に行き、ありのままの風景を写真に撮りたいと思いたち、昨年五月に滝川へと足を運んだ。

 久しぶりに訪れた滝川は、駅前の西友が空きビルとなり、駅前通りを逸れて横道に入れば店をただんだ飲み屋が目立つ町であった。土曜の昼間でありながら、人通りは少なく、行き交う車も決して多くない。

 私はミキティがおそらく高校時代使っていたと思われるバスに乗って、隣町の赤平を訪ねた。一年ほど通っていた高校は、車がたまにしか通らない田舎道の前にそびえ立ち、土曜の午後でありながら校庭に人影がほとんどいない静寂な佇まいであった。
 高校から赤平駅へと町の中心地であろう道を歩いたが、すれ違う人はほとんどいない。片側一車線の駅前通りは商店もまばらで、若者が遊ぶような場所は皆無であるかのように思われた。そんな町並みとは不釣り合いなほどに大きな駅舎の赤平駅であったが、駅の中は小さなホームがあるだけのローカル駅だった。

 赤平から芦別へ寄り、芦別からバスに乗り再び高校の前を通り夕暮れの滝川へと戻った。ミキティの出身中学校へと行くと、公園で遊ぶ子供の姿が見られ少し安心した。学校の周りは、炭鉱住宅風な造りの市営住宅が並んでいた。その眺めは、長屋の並ぶ一昔前の日本の町の風景であるように思え、公園に飾られていた蒸気機関車がより一層、郷愁のような想いをかき立てた。

 藤本美貴ライブツアーのオープニングは、蒸気機関車の走行音であった。その力強くもどこか懐かしく、そして儚げな音は、滝川の町から夢と希望を強く持って旅立ったであろう彼女の心と重なるような気がして、私は夕暮れの町の眺めに切なくなった。

 少し名残惜しい気持ちで、滝川駅を日没と共に旅立った。ミキティが滝川を旅立った時の気持ちをどのくらい共有出来たかはわからない。滝川を近いうちにまた訪ねたいという気持ちを抱いて札幌へと向かった。

 今回のBGM  幼なじみ / 藤本美貴

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