♪セイユー シーミー♪

2017年04月30日 | 日記

 

 



♪セイユー シーミー♪

ご先祖さまに会いに来ました。

お墓に来るといつも月日の流れの早さを感じさせられます。

沖縄のシーミーもだいぶ様変わりしてて、

草刈りなんて作業見るのもだいぶ減ってきた気がします。

殆どのお墓の周りがセメント埋められてて、

楽と言えば楽ですが、味気ないと言えば実に味気ない。

昔はよくおじさんに「うり、ハブうんどぉー」とかイタズラされたものですが、

そういう風景がなくなるのも寂しいですね(^ ^)

シーミーといえばやっぱし1番大きいのは、おばぁがいないこと。

シーミーもお盆も全部おばぁが仕切ってましたからね。

最近はシーミーセットやらお盆セットやら、

うちで前日から仕込みする事もなく、サンエーや惣菜屋さんで済ます家も多いのでは。

うーん、実に味気ない。。

おばぁがいなくなってからというもの、

僕もちゃんとやってはいるのですが、何かが欠けてる気がするのです。

毎年思うのですが、なんだろ?この気持ちは。

もしかしたら、念の深さの違いみたいなものなのかな?

当たり前というえば当たり前の話ですが、

おばぁがいた僕が子供だった頃、今目の前で走り回ってる子供達はいないわけで、

世代が入れ替わるわけで、シーミー自体も変わってゆくんですね。

子供の頃シーミーに来ると、 もうお墓が草木で埋もれててですね、

「うわぁ〜これ全部刈るのぉ〜?」なんてイヤイヤね、刈るわけです。

今考えると楽しかったのですが、

もしかしたらこういうイヤイヤな楽しみも、

僕達は子供達から奪ってるのかもしれませんね。

なんかおばぁの「やんどぉ〜」って声が聞こえてきたよ(^ ^)

 


♪セイユー シーミー♪ でした。


マンガ倉庫のプロ

2017年04月26日 | 日記

 

 

 

  

マンガ倉庫のプロ   作詞・作曲  ローリー

 


オレはマンガ倉庫のプロ

瞬時に見極めて 速攻買う

 


オレにごまかしは通じない

的外れなハイ・プライスは  ノーサンキュー

 


オレはマンガ倉庫のプロ

瞬時に見極めて  速攻買う

そんな確かな目が必要さ

オレはマンガ倉庫のプロ プロ プロ

 

 

 

 


コザの楽器店

2017年04月23日 | 日記

 

 

 

 

Fの日はよくライヴ前にコザをパトロールしてんだ。

歩いてる友達と挨拶交わしたり、

早い時間から呑んでるヤツもいるしね(笑)

街を歩いてると、あー、、この店閉めちゃったんだとか、

かと思えばこんなトコにBar出来たんだなんてね、

街の景色も色々変わるんだ。

そんな中でも頑張ってるのが、照屋楽器店と普久原楽器店。

もう随分長い歴史のある、コザの老舗の楽器店なんだ。

子供の頃から楽器や弦はもちろん、レコードなんか全部ここで買いました。

今でも弦なんかはここで買うわけで、

コザのミュージシャンにとってはなくてはならない存在だ。

この日も照屋楽器店で弦を購入し、弦の替えまでさせてもらいました。

こういう時代だから、CDはホントポツンと一角に置いてる感じで、

なんだかやっぱ寂しいな。

70年代の頃の楽器店はほんと元気ありました。

胡屋十字路近くにあった当時の普久原楽器店なんか、

もう凄かった!量質とともに。

 一階が凄い数のレコードとアコースティックギター、

二階はなんだっけ?

二階は高級アコースティック・ギターがショーウィンドウに飾られてましたね。

キーボード類もあったっけかな?

んで、3階が凄くてね、エレキギターとギターアンプがドーンとあってね。

当時はfenderやGibsonなんて高級ギターは触れるものではなく、

眺めるものであってさ、ほんとよく見に来たものです。

照屋楽器店には当時、fenderのBIGSBY付きのテレキャスが飾られててね、

すげぇー欲しかったなぁアレ。。。このギターだけ鮮明に覚えてるな。

普久原楽器店はそこからパークアベニュー側に移転しちゃうんだけど、

二階はピアノや管楽器なんか置いててゴージャスでしたね。

楽器店に縮小ってのは何もコザばかりじゃなくて、

那覇やあっこっちで起こってることなんです。

最近新しい高良レコードさんもちょっと覗いたけど、

ギター専門店みたいな感じになってましたね。

東京の場合だったら御茶ノ水を筆頭に、

ギター専門店とレコード屋さんが分かれてるので、

探しに行くのも楽しいのですが、地方は色々大変ですね。

まーCDが出始めた時代から、何か世の中が大きく変わるのを予感してましたが、

僕は未だに基本楽器にしろレコードにしろ、服にしろ歩き回って探すのが好きなので、

滅多にネットショッピングはしませんね。

東京なんか行ったらとにかく歩きます。余裕で毎回靴擦れ当たり前で(笑)

そういう贅沢な日々のある街、、、いいよね。

やっぱり目の前で触れたり着たりして、確かめなきゃ不安つーか、

信用出来ないというか。。なかなかね。

ネットでギター何本も買った友達もいますが、信じられん❗️(^^;;

また全国あっちこっち歩き周りたいな。。


 


徳里マストミ

2017年04月15日 | 日記



 

 

 


昨夜のMsライヴは石垣島の名ドラマー“徳里マストミ“が参加❗️

月とギターとベランダ、雨上がりのパブリカ、ウクレレ・ゴッゴッゴー、

で素晴らしいドラムを聴かせてくれました。

なんか恒例になりそうな、ならなさそうな、笑

マストミさんのピアノ、ローリーウッドベースってのもありかもね。

ってウッドベースはさすがに持ってないのですが、やっぱ欲しいなぁ。。

誰か安くで譲ってくれませんか?連絡お持ちしております❗️

たまにリサイクル屋でも見かけるので、全国の皆さん、情報もお待ちしてます。

で、半年ぐらいガチャさんから指導受けてデビューしたいと(^ ^)

ソロライヴでは毎回、忘れ去られた昭和歌謡を紹介してるのですが、

今回は「ひまわり娘」でお馴染みの伊藤咲子さんの「乙女のワルツ」を。

 

乙女のワルツ 伊藤咲子

 

昭和歌謡の妙味っていうのかな?

一聴するとシンプルなのですが、歌詞といいメロディーといい、

アレンジといい、細やかで奥深い仕掛けのオンパレードなんだ。

けして大袈裟ではないのですが、「おぉ〜」と唸るとこ多いんだ。

天地真理さんの「水色の恋」、日野てる子さん「夏の日の思い出」、

水原弘さん「黄昏のビギン」もそうですが、

子供の頃覚えたメロディーと違ってたりして、譜面とか見ると凄い音使ったりしてて、

ミュージシャンなってからこその驚きが多々あるわけですね。

ふふ、次回も楽しみにしててちょ。

 

で、新聞でこんなんありました。

 

 

 

ん〜。。。コレどうだろね?

“CDいらず“ってどうだろね。

昨今のCDが売れないという現状に対しての、ひとつの戦略なのかな。

まぁーその内容を見る限り、ターゲットは高齢者だと思うのですが、

確かに便利というのもウリだとは思うのですが、

やっぱり流行歌とかって、ラジオなどから不意に流れるから良んだけどね。

「あ〜懐かしい」つーて。

またこのオーディオ凄いのが、チャンネル合わせたら終戦の玉音放送、

日航機「よど号」ハイジャック事件、浅間山荘事件など、

歴史的な放送が瞬時にして聞けるという。。う〜ん、わかならい。

それ聞いて確かに懐かしいかもしんないけど(笑)盛り上がんのかな?

しかしこのオーディオをSANSUIから出すあたり、巧妙ですな(≧∇≦)

SANSUIは僕も長年愛用してきましたから、音聴いてみたい気もしますが。

って、まさかうちのお袋買ってないよな?

 


祝☆還暦!宮城隼人さん

2017年04月14日 | 日記





今夜は古い、とにかく古い、

お付き合いの宮城隼人さんの還暦パーティーに参加してきました。

隼人さん凄い力の入れようで、今日明日と2days還暦パーティーすんだよ!

聞いたことねーよ、2daysの誕生パーティーなんて(笑)

さて、この宮城隼人さん、どこから話すべき?

べき?

やっぱ出会った頃ですかね。

時は1980年初頭でしょうか?。。それぐらいだね。

当時隼人さんは嘉手納でハヤトットって喫茶店やっててね、

その店がまたえらい人気の店だったのよ。

いつも客がいっぱいで、来ても入れないってのもよくありましたね。

当時はまたサーファーブームでさ、

確か隼人さん三階ではサーフショップも営んでたんだよね。

で、なぜ僕がこの店に通うようになったかってのは、

当時知り合った友達の関係ですね。

つまり当時友達になった連中の殆どが嘉手納〜読谷の人達で、

みんなバンドしながらこのハヤトットでアルバイトしてたんだ。

WALTZの音響の比嘉さんや、

サザンバンド・オキナワの創設者の仲本くんもここでアルバイトしてたわけ。

で、僕はなかなか自分の理想のバンドをうまく作れなくて、

そこでアルバイトしてた比嘉さんに相談したら、

取り敢えずハヤトットで歌ってみたら?と。

それから通い出したんだな。

今から思うと粗末な音響だったかもしれないけど、

それはそれはやる気満々な僕には、ハヤトットは新鮮な空気で充満してた。

そのおかげでWALTZ結成する事になるんだけど、

だからこのハヤトットの存在は大きいね。



当時のハヤトットは面白くてね。

もちろんライヴチャージなんかないんだけど、

スタッフの女の子の手が空くと、

妙なチューカー(急須)持ってテーブル回るわけ(笑)

今で言う投げ銭みたいなものかな?

投げ銭ならぬチューカー乞いみたいな(笑)

女の子が差し出すチューカーに小銭(たまに札)チャリーンみたいな。

シンガーが手前にギターケース開けて投げ銭ってのはよくあるけど、

チューカーを客に差し出すってのはかなり斬新だよね?

入れないとセコイみたいに思われるしさ、、、

はは、そのへん実に隼人さんって感じ(^ ^)

まぁーとにかくほのぼのした時代でした。

でもホント凄い人気でしたよハヤトット!

なんたって店の入口上にフォロクスワーゲン(本物よん)が

半分取り付けられてるんだからさ。

沖縄のあっちこっちから、このワーゲン目印に目指して来てました。

それから勢いに乗った隼人さんは、コザは諸見の百軒通りにH2O、

那覇にStinkoという店をオープンします。

実はその百軒通りのH2Oのオープン時のスタッフがなぜか僕なわけ(笑)

はは、なぜ僕もやったんやろか?

まぁーオープンしたのはいんですが、

もうとにかく忙しいなんてもんじゃないわけ!

もう毎夜人の熱気で壁の鏡が曇るぐらい!

当時はカラオケのクオリティーも格段に上った頃でね、

ほんとリクエストが朝まで止まらないったら止まらないんだ。

客相手にお酒も呑まないといけないし、

かと思えば酔いながら灼熱のキッチンで料理作ったり。。。

もうね、家に着くと同時にバタンキューな毎日やった。

思えばあの頃から隼人さん、

仕事前や仕事後にも、お客さん連れて接待とかするわけでさ、

今も変わらない感じだけど、相当タフだよね。

すげぇーよ、明日も還暦パーティーするわけだし(笑)

あーここまで書いて歴史が濃過ぎて頭がクラクラする。。( ̄◇ ̄;)

でもH2Oやめて、本格的にWALTZの活動始まった頃から

隼人さんとは長い間疎遠になるんだ。

H2Oもスタッフに譲って、スナックやったり色々噂を聞くぐらいで。


それからしばらくしてこのOTORAKU始めるわけだけど、

得意のあのフランクな感じで

「またライヴハウスやるよ〜ローリーも歌ってよ」みたいなね。

最初OTORAKUは中ノ町の上の方(信金の近く)で店始めたんだ。

あ〜、、、今思い出した!確か隼人さん中ノ町中通りでもなんか、

フィリピン・パブのようなライヴハウスもやってた!

なんか怪しそうだったんでそこに僕は行かなかったけどね(笑)

まっ、そこからまた隼人さんとの付き合いが始まったんだ。

付き合いって言っても、二人で呑んだり話し込んだりって事は全然ないんだけどね。

そういうとこがまた楽なんだ。

だから未だに「何々だからローリーよろしくねー」、

「OK〜」なんてワンツーで会話が成立する感じだね。

差し詰め近所の兄ちゃんに呼び止められた、年下のヤンチャ坊主みたいなね。

実に不思議な関係です(^ ^)



今のミュージックタウン裏のOTORAKUに移転してから何年になるのかな?

前のOTORAKUでは苦情やらでいつも揉めてたし、

ローリー爆音ライヴでは、

毎回警察がコール&レスポンスでご登場してたし(笑)

今のOTORAKUでは隼人さんも実に伸び伸びと営業してます。

隼人さんの愛犬ライト君も元気で❗️

って元気なのか、楽しいのかさえ分かりづらい表情のライトですが(笑)

相変わらず不敵な表情で中ノ町を闊歩してますよん。

今夜も隼人さん、僕の書いた「青い目のライト」歌ってましたね。

「オレはやりたいようにやる」「世界中がオレの庭だぁー」が口癖の隼人さん。

仕事そっちのけで台湾行ったり(^_^;)スタッフも大変だと思うけど、

みんな仲良くOTORAKUが長く続く事を心から願っております。

隼人さんも還暦かぁぁ〜。。

けーしー兄生きてたらやっぱ1番前の席で盛り上がってたやろね。

「えーハヤトぉー!やーむん歌やしむさ、わーむん酒むっちくわぁー」つて。


隼人さん おめでと!明日も飲み過ぎるやろな〜(*^_^*)




ひよっこ

2017年04月13日 | 日記

 

 

 

 

 

 

ちょっとお留守にしてたNHKの朝ドラまた観始めてます。

その「ひよっこ」の舞台は1964年の東京オリンピックが行われる直前、

まさに高度経済成長真っ只中というとこから物語は始まる。

その時代の詩や音楽にも表れてますが、

当時地方から出稼ぎで上京する人が大勢いました。

もちろんその時代は僕らが生まれたぐらいの時代なので、

肌で感じる事は出来ませんが、

その時代を懸命に生き抜いた先輩達から、よく話を聞かされました。

このドラマの4話で宮本信子さん演じる、

赤坂にある洋食屋「すずふり亭」のマダムの「東京を嫌いにならでね」

という台詞にドキリとさせられた。

東京人でもない僕がドキリとするのもなんですが、

僕なりに大好きな東京への想いってのも、多少なりともあるわけで。

このドラマは地方から見た東京、また東京から見た東京というのがあって、

今とは違い、きっとあの頃東京に行くというのは、

それこそ田舎の家族を背負って向かった人達も多かったわけで、

その辺の家族愛も見所になってます。

 


ここのところNHKの朝ドラって、今の日本の歩き方に対して、

何か警鐘を鳴らしてるのではないかという気がするのですが、

制作側は単なるノスタルジーではなく、

過去の日本人の生き方を後世に伝えたいという想いからだそうです。

マダムが言った「東京を嫌いにならないでね」という言葉には、

東京オリンピックや高度経済成長で、

東京の景色や人が変わってゆくという意味も含まれてて、

何か今の時代とリンクしてるようにも感じます。

最近の報道を見てても感じることですが。

地球規模にしろ、宇宙規模にしろ、

こうもえらい時代に突入したというのに、

どうしてどこもかしこも、、こうも成熟出来ないのだろうか、、、

どうしてこうも調和が取れないんだろうか、、、

そんな時にオリンピックなんか始めてもいいものだろうか、、、

かつて人類の進歩を掲げた万博の反抗の象徴として、

岡本太郎さんは太陽の塔を作ったが、

音楽家の細野晴臣さんもこんな苦言を発してました。



「64年のオリンピックで、この街の良い部分はなくなっちゃった。

だから、今、オリンピックを東京で開催するのは大反対。

開催すれば停滞感を払拭できると思っている人は、考え方が古いよ。

そんなことよりも、街の下水にもっと気を遣うとかしたほうがいい。」と。


 

マダムの台詞で細野さんのこの言葉を思い出しました。

はっぴーえんどの「風街ろまん」の中にも、

失う東京の景色や心情を書いた作品が多いのですが、

やはり時代を切り取って音楽に残すということは、

何十年何百年と経ってからこそ、意味を持つのかもしれませんね。

またひよっこの中でも、

歌謡曲が1番生き生きと輝いてた楽曲達が流れます。

「東京ドドンパ娘」「いつでも夢を」、

そしてなんと僕の大好きなアイルランド民謡の

The Last Rose Of Summer(庭の干草)までもが。

実に素晴らしいです。

しかし、遂に観る番組が、

「鶴瓶の家族に乾杯」と「ひよっこ」だけになってしまいました(^_^;)

うーん。。。テレビの未来が心配だ。


 


四つ葉のメロディー

2017年04月12日 | 日記







TSUTAYAに映画物色しに行った帰り道、

どっかのおばぁちゃんがもの凄い車の停め方見せつけとった。

狭い一車線の道路なんだけど、路肩に寄せて停める気配もなく、

堂々と道路の真ん中に車停めて消えて行った。

思わずおいら唸ったよ「しにガタっ」ってね(^ ^)

車後ろからついてて四つ葉マークにも気づいてたから、

止まった時は何か気分でも悪いのかな?なんて思ったんだけどね。

足取りも軽く消えて行ったよおばぁー(笑)


でもこういうの笑えるような社会でいたいね…

なんかもー今何かと規制規制だからね。

しかしいつ頃から駐車禁止とか出来たんだっけ?

80年代ぐらい?

駐車禁止なんてさ、国際通り辺りならわかるけど、

コザ人いないからじゃん!

いいじゃん、どこに停めてもさ。ダメ?(*^_^*)



最初の高齢運転者マークはこちらでしたね。

 

 

だけどこのマーク、落ち葉や枯れ葉に見えたらしく不評だったようですね。

昔は枯れた味わいなんてね、結構美的な表現だったんですけどね、

これもアンチエイジングの煽りでしょか。

 


んで、このデザインに変更になったようです。

こちらは四つ葉クローバーがモチーフだということで、

幸運と安全で理想的なマークですね。



 みなさんいいですかぁ?

この四つ葉マークの車を見掛けたら、

ちゃんと気を配って下さいね〜なんたって人生の先輩ですから〜❗️

つか、あのおばぁちゃんどうなったんやろ?

 


BC通りのあの娘へ

2017年04月09日 | 日記

 

 

 


この情報時代、

いろんなトコで、戦前や戦後の沖縄の貴重な写真や動画が見れます。

 上のヤツも知り合いのトコから引っ張って来ました。

BCストリート(センター通り)今のパークアベニューの入り口だね。

ご覧の通り、BCストリートの頃は一方通行じゃなかったんですよね。

う〜ん、元に戻してもいいかも(^ ^)

しかし懐かしいね。。

こうヤシの木が連なってね、まだ全然横文字の看板やネオンが多かった。

入り口左にはA&Wがあってね、その二階が純喫茶ベニス(T ^ T)

このベニスにすごく可愛い子がバイトしててね、たまに行きました❗️

はは、青春やね。

他にもベニスの反対側にはMORIという、いつも客でごった返す喫茶店があったし、

津覇にバレンシア、僕が働いてたWOODなんかも人気店でしたね。

夜の世界になっちゃうと、

キャノンやパープルヘイズのライヴハウスからロックが鳴り響き、

ペーデーになると米兵達でお祭り騒ぎでした。

また米兵に混ざって未来のバンドマンの卵達も(中・高生)

プロの演奏に釘付けでしたね。

ゲート通りにはレディーキラーやクレイジーというディスコもあって、

それこそデンジャラスな匂いでプンプンでした。

そういえば子供の頃BCやゲート通りの友達たちは

米兵の揉め事が多いからなのか、アメリカ人のことを「やなアミリカー」とか

「やなミミリカー」とか言ってたっけ。

その苛立ちの温度が僕らと圧倒的に違うのを、今でも覚えてる。

映画のようなというか、四コマ漫画のようなというか、

そういうシーンが日常茶飯事見れましたからね。

こう喫茶店でコーヒーかなんか飲んでるとですね、

ワーという声が鳴り響き、窓越しの外に目をやると、

4〜5人のアメリカ人が逃げ惑ってまして、

その次のコマで僕の友達数人がバット片手にアメリカ人を追いかけるという(^ ^)

その後をさらに警察が追いかけるみたいな。はは、殆ど漫画でしたね。

 

 

 

一番街もまだアーケードじゃない時代かな?

こう空が剥き出しでね、おじちゃんおばちゃん達が表で水撒きしてて、

それはそれはすごくいいムードでしたよ。

アーケードと共に一番街って名称に変わったと思うんだけど、

当時は普通にゴヤの商店街とか市場とか言ってたと思います。

最近は足立屋や鶏五郎の出現で、夜は多少元気になってきましたが、

昼はまだまだ閑散としてますからね、どうにか復活して欲しいね。

それこそキューバやポルトガルのように、

昼間からライヴしてみるのもいいのかもしれませんね。 


僕の幼馴染みもね、親から受け継いださしみ屋さんを最後の最後まで頑張ってましたが、

やはり時代でしょうか、、ついに店を閉じてしまいました。

わりと最近の話だよ。。すごく寂しかった。

大型スーパーや大型本屋さんもいいけど、

八百屋さんとかさしみ屋さん、お惣菜屋さんとかで賑わってる街はいいですよね。

特に僕なんか子供の頃さしみ屋さん行くのが大好きで、

さしみ屋のおばちゃんが包丁片手にまな板に水をぶっかけ、

魚をさばく姿にカッコイイ!なんて見惚れてましたから。

だから東京行くと、中野や吉祥寺辺りで見かける商店街見ると羨ましくなっちゃう。

なんか地域が生き生きしてて、みんなが楽しそうなんだ。

うんうん、こういうが風景が今地域には1番必要だね。。

 

 

 

 

 

 おまけ。。ウケる。




Skydust

Koko