夏の高校野球選手権大会は昨日決勝戦が行われ、日大三高がその頂点に立ちました。これまで応援してきた現地元・前地元・元地元代表校はそれぞれ涙を飲みましたが、決勝戦まで関心を持ったのは、2009(平成21)年の春・夏で花巻東高校が活躍して以来でした。しかし白河の関越えはなかなか叶いません。
第90回 後三年合戦-第11幕-(美郷町 武者隠しの森)
前回ご覧いただいた「後三年史跡めぐりマップ」には清原武衡が潜んでいた蛭藻沼の他、清原家衡が最期を迎えたとされる地も載っていました。その地は「武者隠しの森」と呼ばれています。
この手のパンフレットの地図はアバウトな書き方をしているので、実際の地図と見比べながら車を進めねばなりません。見当をつけて金沢柵から北上し、柵の北方にある森の中を走る道に「武者隠しの森」と書かれた標柱を見つけました。武衡は南に、家衡は北に逃げたことになります。
(武者隠しの森 -秋田県美郷町 2010/07/13-)
標柱の一辺に書かれていた説明を引用します「この地は、古くから武者隠しの森と呼ばれている。後三年の役において、金沢の柵の大将清原家衡が身分の低い者に扮して逃げ延びようとした時、清原軍の勇士縣小次郎次任(あがたのこじろうつぐとう)に射られた場所と伝えられている」
森の中ではありますが、標柱の一帯は畑が開けています。1000年も時が経っているのですから変わっていて当然でしょう。一方でここが家衡最期の地という話が1000年に渡って伝わり続けてきたというのはすごいことだと思います。
(武者隠しの森遠望 -秋田県美郷町 2010/07/13-)
1087(寛治元)年11月、金沢柵が落ち清原家衡・清原武衡が倒れ、源義家・清原清衡が勝利したことで後三年合戦は終わりました。前九年合戦で奥州に覇権を得た清原氏は滅び、残ったのは安部氏の血をひく清原清衡でした。
2010/08/21の一品・・・775)私的岩手通史の旅 第47回(東北38年戦争 34)
2009/08/21の一品・・・550)盛岡散歩 たらりら -2番-
2008/08/21の一品・・・339)盛岡散歩 雫石川8橋(西大橋)
2007/08/21の一品・・・007)中華航空事故で知ったこと
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第90回 後三年合戦-第11幕-(美郷町 武者隠しの森)
前回ご覧いただいた「後三年史跡めぐりマップ」には清原武衡が潜んでいた蛭藻沼の他、清原家衡が最期を迎えたとされる地も載っていました。その地は「武者隠しの森」と呼ばれています。
この手のパンフレットの地図はアバウトな書き方をしているので、実際の地図と見比べながら車を進めねばなりません。見当をつけて金沢柵から北上し、柵の北方にある森の中を走る道に「武者隠しの森」と書かれた標柱を見つけました。武衡は南に、家衡は北に逃げたことになります。
(武者隠しの森 -秋田県美郷町 2010/07/13-)
標柱の一辺に書かれていた説明を引用します「この地は、古くから武者隠しの森と呼ばれている。後三年の役において、金沢の柵の大将清原家衡が身分の低い者に扮して逃げ延びようとした時、清原軍の勇士縣小次郎次任(あがたのこじろうつぐとう)に射られた場所と伝えられている」
森の中ではありますが、標柱の一帯は畑が開けています。1000年も時が経っているのですから変わっていて当然でしょう。一方でここが家衡最期の地という話が1000年に渡って伝わり続けてきたというのはすごいことだと思います。
(武者隠しの森遠望 -秋田県美郷町 2010/07/13-)
1087(寛治元)年11月、金沢柵が落ち清原家衡・清原武衡が倒れ、源義家・清原清衡が勝利したことで後三年合戦は終わりました。前九年合戦で奥州に覇権を得た清原氏は滅び、残ったのは安部氏の血をひく清原清衡でした。
2010/08/21の一品・・・775)私的岩手通史の旅 第47回(東北38年戦争 34)
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2008/08/21の一品・・・339)盛岡散歩 雫石川8橋(西大橋)
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