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目眩く思想世界擬きと言霊フロンティア
Depuis 2005/05/19

2.0

2006年12月19日 01時40分16秒 | Renewal
突然ですがはてなダイアリーにエントリーしてみました。気が向いたら移転するかも。それまでに皆さん適当にブックマークお願いします。あしからず。

情報フルーエンシー

2006年12月15日 01時26分50秒 | Diary
 巷ではノロウィルスなるものが流行っているらしいが、僕にはまだ襲ってこない。直接の死因になることはなく時間が経てば自然治癒するらしいと聞いてタカをくくっているわけだが、体が弱っているところに喰らうと、5分毎に上下から排泄という悲惨な目に遭うという話を小耳に挟んだ。なんとも恐ろしい。今までワクチンなしで大丈夫だったのは意外と幸運なのかもしれない。

 今朝のバイトは結局休んだ。ただ眠かっただけなのだが、一応直に食べ物を扱う仕事だから、一言「風邪をひいた」とでもいっとけば敏感な向こうさんは素直に信じて認めてくれるだろう、と思うのは甘えすぎだろうか。
 明日の物理学情報処理論のレポートが珍しく期限前に終わった。自分で書いたプログラムにポインタが登場したのは実に初めてだ。いや、VBばっかりやってるとアドレスとか普段ほとんど意識しなくなっちゃうからね・・・でも今さらになって気づいたけど、各言語での関数が値渡しなのかアドレス渡しなのかとかそういうのはしっかり把握しておかないとまずそう。

 昼休みのメディアセンターがいつになく混んでいる気がする。多分この時期になってコピー機の前に行列ができ始めるのとほぼ同じメカニズムなのだろうが、こっちがレポートで躍起になっているときに隣で某オレンジの某mixiの画面を開いて遅いネットワークにイライラ気味で必死にコメントをたたいてあちこち回る人、鬱陶しいからやめてほしい。そんなの家でやってくれ。家にネット環境がないのならしかたないけど。っていうかそれくらいの時間つぶししかできないのかよ!

 多分かなり知られてきている事実だが、メディアセンターのPCはこの冬に総入れ替えを行う。なんでも5年ぶりだという。入れ替えの間PCが使えなくなるかと思うと、メディセン依存率の高い僕は非常に困る。普段遅い、遅いと叩かれまくっているこのシステムも、家で実際にVMWare Playerなどを使ってみようとするとこれだけのものを構築するのがいかに大変かということがわかってきた。その点では京大の情報システムには感謝感謝である。特にLinuxの環境は素人が使う分には充実していると思う。すんなりと使えないのはJavaくらいのものだろう。あとUSBメモリを読んでくれないのが惜しい。Windows環境はユーザー情報を覚えていなかったりいまどきタブブラウザじゃなかったりとちょっとアホなところもあるが、雪解けの頃にはどんな環境がやってくるのか楽しみだ。今のネットワークが遅いのはPCが悪いせいもあるが、PCの数が多いせいでもある。PCが多いのは京大生のためだ。要するに京大生が多すぎるのである。「京大生」というラベルを持っている人間は一年につき何千人というペースで増えつつあるのだから、そこらへんもっと自覚しとかなきゃ、とか思ったり思わなかったり。

 記事タイトルにしてあるこのよくわからない名前の授業、これはメディアセンターで実験的に始まってまだ3年目の教養科目。情報を「創る」「表す」「得る」「伝える」「整理する」「使う」などさまざまな観点から取り扱うという点では文系向け情報概論って感じだけど、それと同時並行でもう一つプロジェクトを扱う。学生は4人と少なく、2チームに分かれて自分の関心のある分野をテーマに勝手に目標を設定して勝手にプレゼンを発表するという、つかみどころのない色モノ授業。

 奇しくもというか自然の摂理というか、チームは文系と理系でテーマまできれいに分かれた。相手のチームは総合人間学部で、テーマは「mixiを主とするSNSなどのウェブメディアとプライバシー意識」という感じで社会調査をしたりするらしい。それはそれで面白そうだけど、今回は見送った。こっちのチームは何をやるかというと、物理工の学生と「ロボカップシミュレーションリーグ」を相手にしている。ロボカップにシミュレーションというリーグがあったこと自体驚きだが、開発と開発者へのインタビューの2本立てでプレゼンを作る予定。

 開発はさすがにロボカップというだけあって手強い。言語もJavaだし。VB2005のアナロジーでなんとかなれば上出来か、という感じ。半期で一から開発するのは無理があるので、レディメイドのサンプルチームをいじって強くする・・・つもりだけど全然進んでない。何かの結果を出すという目標を考えると正直やばい。ただこっちはプログラミングの醍醐味で云うまでもなく面白い。とくにデフォルトでのコンピュータの間抜けっぽさが。どこかに動画があったので見つけたらリンクを張ろうと思う。サッカーがわかるともっと面白いと思うのだが残念ながら僕はサッカーを殆ど見ないしやりもしない。

 問題はインタビューで、悔やむべきことに僕は今までインタビューという活動の経験がない。今日インタビューの計画を助手さんと3人で練っていて実感したのは、項目を削ったりまとめたりするのが意外に難しいということ。相手はロボカップの仕掛け人の一人ということらしく、開発と運営の両刀使いのようだ。それだけにどちらの話も聞きたい(開発はもちろんだが、運営はレスキューロボコンの運営の参考にもできるし将来チームプロジェクトというものを考える際の種にもなる)のだが、どうもインタビューの機会だけが先行して、自分の一番の関心というのがまだクリアになっていないのが原因のようだ。「実際に自分がこの質問をされたら何について答えてあげるか」「この質問は本当にすぐに答えられる質問になっているか」ということまで考えたほうがいいと先生に云われた。質問のブレイクダウンか・・・

 致命的なのは、僕の学部の卒業単位に数えられないこの授業が一番大変そうだということだ。

 明日はサークルの忘年会。先週末はレスコン実行委で、先週はバイト先で忘年会があったから3度目だ。今週末は謎の校舎泊り込み。月曜に問題のインタビューと仏会話の試験(ほぼ絶望的だけど)とがあるのでそれに備えて集中的に勉強・・・できるといいねぇ。でもマウスの加工もしたいなぁ。部室が寒いからこういう機会がないとなかなか加工をする気にはならない。

ヴェンカーの地図

2006年12月14日 01時17分03秒 | Diary
 時は1876年、あるドイツ人言語学者が標準ドイツ語で書かれた40の文例を全国の小学校に送付し、現地の方言に翻訳して送りなおすよう依頼した。これをもとに方言地図を作成し、ドイツにおける言語地理学の端緒を切ったその学者Georg Wenkerの名をとってこの文例はヴェンカー文例(Wenker Säz)と呼ばれるのだが、ここで云いたいのはフランス語履修者の僕がこれを今日2限の比較言語学までに訳さなければいけないことをさっき思い出したということ。古すぎて辞書に載ってない単語もあるらしい。多分来週でも勘弁してもらえると思うけど、いやはや。朝のバイト休もうかなぁ。

 この地図は当時のドイツにおける言語分布を知るものとしてはかなり良質で重要な史料であり、現代に至って3Dデジタル化もなされているらしいのだが(DiWA:Digitaler Wenker-Atlas))正直どこを見たらいいのかわからない。

 どこに突っ込んだらいいのかわからない?

 ブログ復活はまだ先送りになりそう。ブログに価値を見出せなくなったわけでは決してないし続けることで得るものは多いと思うけど、書くのに費やす時間と効用とのバランスを再考するとねぇ(特にこの試験前の時期)。ブログをもっと手軽に書くための環境作りを進めてる、ってことで。とりあえず今のアプリケーションの報酬が入ったら(時期も額もわかんないけど)自分へのごほうびとしてモバイルを買ってWebを持ち歩くことにしようと思っている。

 それからこのブログの方向性ってのも問い直したい。今までみたいな愚痴だらけのブログのままでいいのか、もうちょっと現実回帰を目指したブログにするのか、あるいは両方か。とはいっても、既に情報は充実している巷のLifeHackブログの類に加わっていくことには「今更」感があるし、僕自身、自分の中に着々と根ざしつつあるそういうビジネスパーソン的なモノに少々嫌気がさしてきてもいる。ただ、年度末の進路選択の背後にちらちら伺い見える院の選択や就職のことなど考えておくべき問題は多い。ため息が出る。

P.S. 44251の学校に送られたヴェンカー文例のうち返事は40736通だったという。個人による調査としては、いまどきのアンケートと比べてもすごい回収率だ。ちなみに英訳なら発見。助かった。

抗鬱ヒューズ

2006年12月02日 00時18分49秒 | Tzuredzure
気持ちの整理がつかないと書いたのは、日々が行き詰って思考停止し、頭の中身がだんだん固定してきたということでもある。しかしながら、日記とは時間軸に刻んだ足跡だ。数年後にふと自分の軌跡を振り返りたくなったときに何もないというのは寂しい。多少支離滅裂だろうとも、眼球の酷使による疲労が癒えなくとも、コンスタントに書き続ければそれなりに得るものはあるかもしれない。というわけで、何が言いたいのかよくわからなくてもあまり深く突っ込まないであげてください。

絶望が去って無気力が来る。いつもならあまりの虚しさに全身の力が抜けてしまうような状況でも淡々スルー。帰宅するのにいちいち重低音ドラッグの助けもいらなくなった。耐性がついたというよりも寧ろ、マイナス思考を始めそうな回路にロックがかかるようになった感じだ。この超客観的な心理状態はなんだろう。人間にとって大事な何かが飛んで行ってしまったようにも思える。これは要するに去勢ではないのか?人は忙しすぎても廃人になるのか?師走の迫り来るに連れて芯まで冷え切ったか?まぁそれでもいいか。心が澄み渡るというのはこういうことをいうのだろうか。

mixi開発サイドでも「100回読んだ」と吹聴されている『ウェブ進化論』。タイトルからはちょっと外れるGoogle万歳な本だが、ビジネスなどという小さな観点からではなく、東インド会社やフォードなどと並べて人類史の上にGoogleという会社を位置づけるというような壮大なスタンスが読める(いや僕にはね)。Googleが自らに課している使命は「世界中のありとあらゆる情報をオンラインに載せる」「仮に世界政府というものがあったとして、そこで必要なプログラムを全て開発する」ことだという。奴らがどれだけ革命的なチームかということについて少し認識が甘かったことに気づかされた。著者のいるシリコンバレーの活気も伝わってくるし、Web2.0のよい解説書にもなっていて他の本は読む必要はほとんどないのではないかと思うくらいの読み応えだ。実際100回読む価値はあるんじゃないか。

相変わらずやるべきことはたくさんある。この状況を打開しようと、GTDなる新しい玩具をライフサイクルに組み込みつつある。脳味噌はハードディスクではない。頭の中にひっかかっている些事を全て吐き出すというのは確かに精神衛生に極めてよい。しかしツールを間違えると効果は半減する。乾坤一擲、Googleの戦略に乗って効率的な情報管理を試みようとGmailやCalendar、あるいはcheck*padを使い始めたのはいい。しかし自宅か大学の数箇所でしかネットに接続できないのに《あちら(サーバー)側》にスケジュールやタスクリストを置いてしまうと実に馬鹿馬鹿しい事態になる。GTDを本当に体得するには自分の周囲が情報ユビキタスでなければならない。さて如何せん。重いノートパソコンを持ち歩くのは正直御免蒙りたい。携帯用の極薄ノートを買う手もあるが、3台目ともなるとそろそろ「何をやっているのか?」と自問したくなる。かといってケータイは機能的にまだまだ頼りないし、操作性も劣る。中間をとると近頃レトロ化しつつあるスマートフォンやPDAの類が残る。いずれにしてもこの点を近いうちに解決しないと、宿題は全く片付かない。

結局、Google Calendarは使ってみると便利だが環境が揃うまでは使い込むのは検討ものだ。下手にツールを増やすのはダブルブッキングの危険があるしそもそも面倒だ。カレンダーはカレンダーで一本化しなければならない。とりあえず手帳を買うことにはなるだろうが、何を買おうか迷っている。面倒だから今年と同じものでもいいのだが、日曜始まりというのは何かと混乱しやすいし、スケジューラが9時から21時までと限定されている。7時からバイトが入ったりする自分には少し使いづらい。平日も土日も均一に24時間管理できる手帳というのはなかなかない。来年度はバーティカルスケジューラが流行るという話もあるが、バーティカルとホリゾンタルは一体どちらが使いやすいのだろう。試してみる価値はあるか。

あまりの気持ちよさに、思いついたことを何もかもメモしないと逆に不安になるという禁断症状が早くも現れる。ケータイを携帯するようになる。まだ試用期間は始まったばかり。しかしそれよりも困ったことに、GTDが自分に見せてくれるのは細切れにブレイクダウンされた無数のタスクだ。目標が明確になればやる気になるという必然はない。片っ端から根気強く潰していく訓練をしていない人間は逃げたくなる。自分などはそう。目の前に宿題が積まれたとたん目をそらす、これが本来の現実逃避。自分の生徒と同じレベル。なんという屈辱。でも今の自分には屈辱をバネにする元気はない。時間管理とかいう以前の問題だなこりゃ。

24時間で対応しきれないプロジェクトを抱え込んでいるのか、それともたまりゆくタスクをこなしていくだけの精神力がないだけなのか?前者なら無理をしていることになるし、後者なら言い訳をしていることになる。寧ろ両方なのかもしれない。だが、若いうちは自分に限界を設定するなという先人の言葉もある。その意見には大賛成だ。時間はいくらでも作れる、その挑発的な助言にも百歩譲ろう。分不相応という言葉はあまりいい響きではない。だから後者だということにしておく。

そうだ。自分には体力がないのだ。人によってガッツとか気合とか根性とかよばわるそれである。毎日6時間は寝ているはずなのに、朝起きても疲れがとれていない。ドリンク剤を朝食に加えてもよいくらいだ。パソコンに向かう時間が半端ないから、眼精疲労や肩こり、腱鞘炎などの不調が重なっているのもあるだろう。視力もまた一段と落ちた気がする。最近1限に出ていないが、試験が近づいてくる前に体勢を立て直さないととり返しがつかなくなる。どうしたものか?もう限界だ。ってかブログとか書いてる場合じゃねぇ。



とりあえずコードギアスが面白い件



November Forever

2006年11月28日 00時14分02秒 | Diary
ブログが死ぬときという記事によれば、ひとたび放置されたブログは78日経過すると9割の確率で自然消滅していくそうである。人の噂も七十五日、というのはちょっと違うと思うが、自然消滅しないうちに戻っておきたい。書くことがないわけではないが、NF(11月祭)前は忙しすぎて書く時間がなかった。まさかこんなにブランクが空くとは正直思っていなかった。NFが終わったからといって別に暇になったわけではないのだが、口でいくら忙しいと言い訳したところで、こんな風にブログやmixiを徘徊する人間は自分が暇人であることを大声で叫んで回っているようなものだ。仕事で書くのでもない限り、ブログなどは所詮暇人の玩具なのである。本当はそれよりも心の整理をする暇がなかった、というのが正確なところかもしれない。書いても書いてもすっきりしないのなら、わざわざ時間を費やしてまで書く意味がない。

そういやこんなの来てた。

ソフトウェア試験の参考書をぱらぱらっとめくってみたけど、範囲は基本情報試験とあまり変わらない気がするなぁ。レベルもあまり掘り下げている感じがしない。得したんだか損したんだか。

11月終わっちゃった・・・

日本橋サディスティック

2006年11月14日 11時28分43秒 | Diary
回るワケがない

と心中呟きながら気合で回そうとしてみる日常


ブログ書けてねぇなぁ

13(MON)
日本橋駅から恵美須町駅まででんでんタウンを舐め歩くことを学習する。かなり時間に余裕ができたからいろいろ買おうと思ったら、金がなかった。帰れなくなるのは寒い(ネタとしては面白いが)のでいくらか買い残した。次はいつ行くかわからないというのに。

バイトから帰ってきて26時までマウスの加工。家に向かうのも億劫になるくらい寒い。6000円したエンコーダのネジ穴を一つ無駄に殺してしまった。買い直すのもやりきれないのでそのまま使うことにしよう。

大阪は交通マナーが悪い、とよくいうけど、少なくとも僕のよく行くところでは、実際にはそんなに危険な感じがしない。確かに歩行者の動きを見る限り信号機は機能していないも同然だし、車でさえ赤信号を堂々と無視して曲がってくる。こんな交通は京都では見たことがない。というか京都でこれをやられたらたまらない。でもよく見ると、歩行者を警戒してか車はかなり徐行している。それに見渡せば道の広さに比べて交通量が圧倒的に少ない。僕には大通りに思える道路でも意外と車が通らない。目をつぶっていても車道を渡れそうだ。そもそも車というものがあまり必要ないのかもしれない。京都の地下鉄は十字にしか走っていないし、私鉄も高いし、電車の不便を補うべきバスはダイヤ通りには来ないし、来たら来たで修学旅行生の缶詰みたいになってるしで、交通機関はまだまだ満足できるクオリティではない。どこに行くにもマイカーか自転車、ということになる。一方大阪では文字通りの鉄道網が発達している分、自動車への依存度が低くて済むのかもしれない。その安心がこの妥協的な交通マナーを生んでいる、そんなところか。

・・・とか考えて歩いていたら早速、十字路で車の激突現場に出くわした。パトカーが現場検証をやっている。出会い頭に派手にやっちゃいました、てへへ。2台のボンネットがそう語っている。やれやれ。

振り出し

2006年11月07日 23時14分23秒 | Mechatronics
一生懸命練っていった構想を一蹴されたときのダメージはデカい。それが頼りになる人の忠言によるものであったりすると心中は複雑極まる。自分の無能力と経験不足、知識不足、無計画の全てを呪いたくなる。さらに魅力的な提案に心が揺れ動く。完全に遊ばれている気がする。昨日の計画を今日修正し明日根本から変更する、この優柔不断を繰り返す限り完成は見えてこない。まずコンセプト自体が二転三転。今の計画では回路を乗せる段階で絶対に無理が来ることが判明してしまったが、かといってどこかの時点でピリオドを打って攻勢に出ないわけにはいかない。そのタイミングを掴むのがどうも昔から苦手だ。とことん理想を追い細部を詰めた計画にこだわりすぎてジレンマに陥るのと、それとも適当な妥協点を見出してしかけてみるのとどちらが優れた考え方なのだろう。気持ちの整理がつかないが、このモヤモヤは恐らくその一点に尽きる。

はじめに回路ありきなのか、ハードありきなのか。とりあえず構想を初めから見直してみよう・・・

クリエイターズハイ

2006年11月07日 01時01分38秒 | Diary
えっといつから日記書いてなかったっけ。忙しすぎる。


起きたら午後 そんな休暇明け


2(木)
4限情報フルーエンシー。プロジェクトが一つできあがる。またまた忙しくなるな。
3(金)-5(日)
2泊60時間怒涛の合宿。メロディーの舞い交う4共校舎の一角でノイズとカーボンとアルミを撒き散らす。何とも環境によろしくないサークルだ。NFに向けいろいろなプロジェクトが集中的に進む。マウスはといえば、CADの基本的な使い方にはだいぶ慣れたけど根本的な設計ミスで振り出しに戻ったり。使ってみたら実は簡単だけど、最初から完璧な設計をするのは無理だという教訓を得た。でもタイヤがうまく作れたのは嬉しい。まだ早いけど、ハードが終わったら次は回路の密度が勝負。マウスで東京に行った先輩が、全員撃沈している日曜の朝8時に優勝楯を携えて帰ってきたのには本当に励まされた。
6(月)
調子に乗って0時半までカラオケ。帰宅してから10時間以上寝たのにまだ眠い。木、金、土と平均睡眠時間が3時間になってたからなぁ。これほど猛烈な眠気は久々だ。3限の仏語は会話なのに寝そうだった。電車の中でぐったり。リポDもカロリーメイトも全くエネルギーになっていない。iPodを家に忘れたというのに、眠すぎて夜道の寂寞すらも敵ではない。風呂に入ってちょっと持ち直したので設計をやり直そう。

光陰

2006年11月01日 23時01分56秒 | Tzuredzure
 まとめて書くようなこともあまりないのだが、漠然と考えていること。

 どうにも週が回らない。まぁこれはちょっと忙しめの人には普遍的な悩みなのだろうが、日々の疲れをとる余裕がない。眠いのとは違うようだ。風邪もすっきり治らない。目のあたりと頭が慢性的に痛む。帰宅すれば本棚いっぱいの蔵書と散らかったプリントと未加工の素材が歓迎してくれる。ベッドでもうぐったり。課題はたまる一方で終わらない。1週間は168時間あるはずだが、そのうち約1/3は睡眠時間としても、時間を有効に使えていない気がする。

 月曜にスパコンで遊び(1.5時間)、水曜と金曜にシミュレーションや数値解析を学び(3時間)、木曜にリサーチプロジェクト(あるいは実践的情報概論)みたいな得体が知れないけど気鋭的なものに関わり(1.5時間)、金曜にCGを触り(3時間)、バイトではデータベースを扱い(10.5時間)、たまにロボコン運営の手伝いをし(月7~8時間)、放課後や週末はマイコン制御の勉強と称してロボット製作に充てる(x時間)。あと自学のハードルが高いのはサーバー関係で、是非とも機会を作って勉強したい。よくよく振り返ると単調ではあるがなかなか充実した日々を送っている。まぁ楽しいから少々しんどくて無理が出てもいいや、と思ってみたりもする。これは全部自分が望んだ結果だから満足している。

 コンピュータを触らない授業が9時間あり、家に帰ればメールやらmixiやらブログやら課題やらサークル連絡やらクラスの掲示板やらで時間を潰し、AmazonやWikipediaやニュースなどその他諸々のネットサーフィンを楽しむ。生徒の相手(3時間)とか何をやっているのか自分でも疑問を感じる時間もあるが、毎日強制的に発生する膨大な通勤時間(10時間以上)にはその気になればいくらでも語学の勉強や読書をすることができる。本当は音楽だけ聴いているのはもったいない。大学は人生の夏休み。学生の1日は社会人の10年。光陰矢のごとし。

 人生の時価というものを意識するようになった。ちょっと前までの自分の時価は800円を下回っていたけど、最近やっているバイトは平均して1000円。社会人になればもちろんもっと上がるだろう。週に112時間起きているとすれば、実世界(アフィリエイトはやっていないので)で生きている自分が稼げる限界能力は週に11万円以上ということになる。もちろん人間はそんなに動いていられないから、ロスをどれだけ防ぐかということを考えるに尽きる。この減算的発想は、金に変わらないで消えていく時間をどれだけ自分の脳細胞に変えて蓄積できるかという勝負であり、考え方を変えれば時間の神様からいかに安く時間を買い取るかということかもしれない。今のところ生活から削れる時間は個別指導とブログ投稿を除けばなさそうに見えるが、本当はこの細切れの、しかもあまり目に見えてこない時間損失が大量にあって、それを普段から意識できないあたりが、自分の弱い点だ。一寸の光陰軽んずべからず。

 忙しくて細かいことを気にする余裕がないけれど、それでもスパイラルを昇るように、自分を少しずつ磨いていくことは可能だ。たまに思いついたことを書きとめる手帳と、手帳に書きとめるペンと、まめにペンを持つ習慣さえあれば。そろそろ来年の手帳を買おう。

 さて、今週末はデスマーチだ。やっぱり休養をとったほうがいいんだろうけど、なかなかそういうわけにも・・・

模様替え(5)

2006年10月31日 01時21分13秒 | Renewal
久々に。
P.S.11/1 あまりに目に悪そうなのでまた変えました。

A.K.S.

2006年10月31日 01時12分35秒 | Diary
30(MON)
2限力学続論。3限仏語宿題ができてないのでサボる。もうだめぽ・・・この調子じゃ。4限スパコン。

バイト先の地下鉄に変な人が乗ってくる。ピンクの長いカツラと女装のようなコスプレみたいな衣装。これがちょっとイカれた京大生や寮生だったら許しただろう。あるいは美少女だったら一点も減点せずに許しただろう。しかし現実目の前にいるのはオッサンである。大阪産の、死んだ魚みたいな目をしたオッサン。仮に相当変なイベントかなんかがあったという言い訳が聞こえたとしても、こっちゃ疲れててもう何がなんなのかわからん。意味がわからん。空気が読めん。ってかお前空気読め。なんともなかったかのようなそんな顔でその車両に存在するな。いやこれが大阪か。大阪はこれが普通なのか。確かにあたりを見渡せば、京都だと普通に気持ち悪いと思われても仕方ないような髪のオバさんとかがうようよしている。ふと信号を見たら黄色と黒と紫だった、そんな感じ。

小さな子供が駅のエレベータが動くのをじっと見つめている。特急の待ち行列に割り込みをかけてきた外人がPDAでソリティアをやっている。夜行バスのごとく静かな列車に乗り、街中に溢れる白い安っぽいイヤホンケーブルでナンバガを聞いてみる。少し気持ち悪いがそのうちクセになるかもしれない。まるで、普通の肉と思いこんでラムを食ったときの感じ。

電車を降りて鴨川を上がる。夜の土手で愛を語る複数形のつがい。対峙するは仏語を聞いて自転車を漕ぐ自分。全く、人の帰り道でイチャイチャしないで欲しい。それともまさかまさか、踏み込む領域を間違ったのは貴様の方だとでも彼らは主張しているのだろうか。どうにも自信がなくなってきた。それに何だ?なんで仏語なんか聞いてるんだ?「ジャックがとても親切」だろうと、いかに「そのフランス人男性が箸を使うのが巧」かろうと、そんなこと自分には関係ないじゃないか。だめだ。このままだと遅かれ早かれ凍え死ぬ。アジカンシンドローム再発。惨めに凍え死ぬよりは絶頂のただ中で車に跳ねられて死ぬほうがまだマシだ。呼吸困難に陥る前に重低音のエアを纏う。誰もいなくなった世界で歌を歌う。

途中寮に寄ってみたら、寮生が焼け跡で何かの映像を投影していた。11年前に寮が焼けたときの映像だった。よくわからないが自分の住処が焼ける映像を肴に寒空の下で秋刀魚を焼く難民たちの神経に乾杯したくなった。能天気なようでいて、実はただごとではないのかもしれない。ひょっとしたら何かのネゴのための戦略を吟味していたのかもしれない。いずれにしても絵になる。

金に困る友人から6000円の借金をとり立て、にやけ顔で家へ向かう。この紙切れは明日への燃料だ。

それは感情論のSOS ( Asian Kung-Fu Generation )

サンデイ

2006年10月30日 07時47分37秒 | Diary
29(SUN)
神戸で無理をしたのか気づかぬうちに風邪が悪化したようだ。37度と微妙に発熱しながらの作業。充電器改造と電池セット完成。マウスは回路などよくわからない点が多く前に進めない。その他は進んだり停滞したり。

晩に久々に家族揃っての外食。ちょっと寒いけど炭火焼。芋焼酎で酔っ払って家で倒れこんだらなぜか調子がだいぶよくなった気が。薬も飲んでないし養生もしてないのに、酒は百薬の長だね。

設計と製作に時間をとられて、休日にやろうと思ってた部屋の片付けとか授業資料のまとめとかPCの整理とかは結局できなかった・・・

ことば続論

2006年10月28日 23時12分06秒 | Tzuredzure
 大正文化を音の文化とよぶなら、平成文化はウェブの文化とよべる――

 こうカッコつけて切り出した自由課題論文を学校で提出したような記憶がある。まだネットが使える家庭というのが今ほど普通でなかった6,7年前のことで、我が家にネットで遊びにくる友人もいたくらいだ。中身の続きはだいぶくだらないことを書いたと思うが、その自分や友人や誰もが数年後こうやってネットで毎日のようにモノを書いて公開する時代が来るなんてことはなかなか思いもよらなかったろう。

 言葉に対する自分のスタンスについて以前書いたのだが、実際に記事を書くとき(つまりパロールだな)に気をつけていること、あるいは気をつけなければならないと勝手に考えていることを補足的に書いてみようと思う。この内省は自分という精神現象に対するアカデミックな法則化の一環である。いやー大法螺吹いた。ごめん。種明かしというほどでもない。
  •  語彙を増やす。簡単なことである。日頃から気になった言葉や事柄は専門用語であろうと慣用句であろうとその場で調べ、自分のものにする癖をつける。学生たろうとするならば辞書を持ち歩くべきだ(というのは理想で、自分は受験が終わってからかなり怠ってますけど)。辞書は紙よりも電子辞書の方が好ましい。電子辞書は紙の辞書に比べ検索効率、携帯性、情報密度いずれをとっても劣らない。ちょっと出かけるのに、わざわざ分厚い、それも英和と和英しかないような辞書を持っていく気はしなくても、電子辞書くらいならそれほど邪魔にならない。紙の辞書を素早く引く能力がさして役に立つ状況などはあまりなく、自分の手垢が愛しく思えてくる程度のものだ。 紙の辞書だと一ページ分の情報が一気に目に入ってくるのがいいという人もいるが、電子辞書の潜在能力はそんなものを超越している。ワイルドカード検索、辞書間ハイパーリンクという電子辞書特有の機能はフル活用しなければ損だ。例えば特定の接尾辞で終わる単語リストというものを作りたくても紙の辞書では不可能である。授業中だろうがなんだろうが暇さえあれば電子辞書をいじくり倒す、それだけで頭の中の語彙世界は果てしなく拡がっていき、未知の語彙に対する直観力というものも飛躍的に向上する。 調べ癖というのは例えば草稿中も例外ではない。幸いなことに我々のWebにはGoogle、Wikipediaなどかなり良質の知的資源がある。もっとも、最初にヒットするページがリンク切れ、など昨今のGoogle先生の堕落ぶりはがっかりさせるものがある。情報の妥当性に気をつける必要はあるが、つまらない事典を買うよりもネット上の文献の方が数段有用なことも多い。gooでも国語、和英、英和の辞書が使える。
  •  語彙を正しく使う。確信がないことは迷わず調べる。世の中に知らない言葉があるのは当たり前である。同音異義の漢字や熟語は意味によって正しく使い分ける。音感の似た語を混同しない。ちょっと前は日本語ブームだったらしい(最近ブームという言葉も聞き飽きるくらいなんでもかんでもブームだ)が、大人の教養の一環としてその手の本を読み漁るのもアリか。極端だが形式名詞(コト、モノ、トキ)は漢字を使わないと決めていたときもあった。
  •  語彙を効果的に使う。これが一番厄介だ。誇張だの引用だの対句だの反復だの倒置だの比喩だの擬人だの例示だの修辞用語には枚挙にいとまがないが、大抵の場合においてこれらは自己満足に終わる。例えば反復というのはよい効果を与える場合と単に鬱陶しいだけの場合とがある諸刃の剣である。このへん自力では如何ともしがたい気がする。ただ、語彙の増加という面を考えても、多種多様な文学や音楽に触れてみるというのは賢明だろう、多分。漢語と和語、外来語の効果的選択も重要。 効果的に使うのは語彙だけではなく、視覚効果まで考慮する余裕があると素晴らしい。空白、改行、段落、インデント、センタリング、強調、見出し、箇条書き。mixiでは金を払えないと使えないようだが、HTMLはこれらのレイアウトを実装する簡単だが強力な言語ツールだ。あるいはDTPのセンスでもあるとなおよい。
  •  下書き。二つの目的があり、一つは推敲のためである。いろいろ意見はあるだろうが、せっかくパソコンという文明の利器で書くのだからいきなり書き出したものをストレートに出すよりも編集してから公開したほうがいい。 もう一つはただ単にブラウザでの編集が面倒かつ不便だからだ。ブラウザには、無関係なリンクを誤爆することによってバッファに書きためた苦労の結晶を何の断りもなく無名の闇に葬り去る、という激しく不必要な機能がある。この機能に苦しめられた経験があるmixi住民も多いはずだ。加えて、ブログの投稿欄は狭すぎる。どうしてそこまでスペースをケチる必要があるのだろう。
  •  冗長性の排除。冗長とは無駄ということ。どうしても必要だと思う言葉以外は切り捨てる。もともと内容が薄いので語彙数を減らして密度を高めようという読者サービスである、というのはまた法螺吹きましたごめんなさい。これも固執しすぎると当記事のように極めて攻撃的な文章になってしまうので注意が必要だ。 主に主語、過去形、丁寧語、感嘆詞・助詞などは不要と思ったら容赦なく切り捨てる。日本語は主語を不可欠要素とする言語ではない。主語は述語に対する修飾語の一種と考えても別に問題ないし、小学生のときは実際にそう考えていた。英語でも日記では主語がIの場合は省略するという。(例、Went to the school.) 過去形はなくても文脈からどう考えても過去だと分かることが多い。受験英語でも過去の事実にあえて現在形を使って歴史的現在や劇的現在という描写法を習う。恐らくこれも欧米式論述の影響だろうが、「思う」というのもあまり使わないようにしている。ブログで書く程度のことは所詮意見の集合体に過ぎず、それが私見だということを明示する必要がある場合は割と少ないと思う。 丁寧語も一方的な自己主張では不要だ。日記や新聞や論文で敬語を使う人はいないか、いるとしても少ない。丁寧語の多用は過剰な読者意識の表れである。そもそも自分で読むものを日記というのである。馬鹿でも使える丁寧語よりも、対人コミュニケーション(口頭、手紙に関わらず)で尊敬語と謙譲語を正しく使い分ける国語能力の方が重要である。ただコメントは双方向コミュニケーションだから必要に応じて丁寧語を使う。 感嘆詞ってのは・・・まぁ、えっと、具体例に苦しむなぁ。継続のアスペクトをもつ「いる」などは省いても意味が大して変わらないときがある。句読点も冗長性に含まれるかもしれない。一文で済むことは分けずに一文で書くのだが、これを徹底しすぎると、逆接でない「が」が増加してしまう傾向があり一長一短である。意味の重複する単語を同時に使うのは避け、同じ語を反復しそうな別の文脈のために確保しておく。
  •  多義性の排除。できるだけ意味を正確に伝えるため、曖昧でない適切な語彙を用いる。関係の近いもの(主語と述語、修飾語と被修飾語)どうしは近い場所に置く。このために自然さが少しくらい犠牲になっても構わない。もちろん意図的に曖昧さを醸し出したい場合はこれを逆転すべきだ。論理性を必要としない文章の場合、とろうと思えばいくらの意味にでもとれて、しかもその全てが通じるというほど美しい文章はない。
  •  文法性。もちろん子供の頃に身につけるべきことであるが、前の二つに比べれば重要度は落ちる。少なくとも僕にとってネクタイをきちんと締めるとか部屋を片付けるとか便器を流すとかくらいの意味合いしかない。接続助詞は正しく使う。呼応の副詞や主述をきちんと対応させる。「~たり」はちゃんと反復する(これは細かすぎて自分でも気付かなかったり無視したりする)。 そういえば近年公私混同、公私混同とうるさいが、僕の書き言葉は恐らく公私という2段階では済まない。例えばチャットなど私の会話では書き言葉・話し言葉に関わらずラ抜き言葉を普通に使う。ブログは公と私を兼ねたものであるので、ラ抜き言葉は避けるがイ抜き言葉はよく使う。論文や外部文書などは人に見せて評価を求めることが前提なのでイ抜き言葉も避ける。
  •  顔文字に頼らない。理由は誰でも使ってるから。自分の文章にはオリジナリティが欲しい。面倒の割に大した意味効果もないのでわざわざ使おうとも思わない。☆や♪くらいは文章に華を添える効果はあるかもしれないけど、能天気すぎてたまにしか使う気が起こらない。w(warai)はIRC時代から頻繁に使っているし携帯でも使う。(笑)と違って数を重ねることに不自然さがないし、笑いの微妙なアナログ的ニュアンスを表現できる。ただ通じる人と通じない人がいるのが不便w
  •  恥と外聞を捨てる。その代わりに一匙のプライドと愛国心を。

 半端ながらこのような文章ポリシーを貫くうちに、書き言葉と話し言葉の深刻な乖離が起こる。要するに文章がどんどん不自然になっていくのである。だがそれでよい。外国語ならともかく、国語でモノを書くときに自然不自然を気にする必要はない。不自然さは書き言葉の性であり、書き言葉が自然に追いつける道理がない。書き言葉はどんどんくだけていく話し言葉に追随する必要はない。寧ろ話し言葉に対するブレーキであるべきである。

 言文一致などという妄想は捨てる。雑誌や新聞でラ抜き言葉やイ抜き言葉が使われるようになったら、それまでどれだけ愛読していたものであれ僕は多分購読をやめてしまうだろう。新聞のように極めて言語保守的なメディアは、陳腐な日本語を使うことによって自らの権威を失うような愚行はしない。それが衆愚の安心と信頼を生むことを知っているからだ。もっともテレビは別で、特に民放の字幕スーパーにいちいち突っ込みを入れるのは愚の骨頂というものである。

 こういう思想は体に染み付いた、個人的な、保守的抵抗であり、自分の中のルールというかけじめみたいなものであって、別に知り合いが日記でラ抜き言葉を使ったからって目クジラ立てるわけではない。敬愛するミスチルやバンプでさえラ抜き言葉を使う。人のネクタイがズレてたり部屋が散らかってるからっていちいち気にしてたら疲れるでしょう?いやさすがに便器は流して欲しいか。でも、話し言葉は時代とともに変わっていくんだから古い言葉に執着するのは間違いだという意見には納得しかねる。だって先述したように、言文一致なんて正直どうでもいいんだもん。書き言葉に、話し言葉を追いかける体力なんていらない。文語万歳死語万歳。

 それに自分の中にそれほど一貫性があるわけでもない。あくまで補足なのにもとの文より長い文章を何の遠慮もなくダラダラと書いたり、時折あえて無駄な表現も好んで使ったりする。自分の中にルールという制約があること自体の是非もどうでもいい。これはポリシーというよりもただ、自分の作文傾向を分析してみたらこうなったというメタデータに過ぎない。


 何箇所か遊んでみました。自己満足で。ま、言葉についての言葉なんだから、いくらでも遊べるんだけど

 P.S.機能制限で箇条書きの中で改行できなかったのはちょっと読みにくかったかな。

Morning Strategy

2006年10月28日 21時16分41秒 | Diary
バイトの緊張から解放される週末は授業があるにもかかわらず朝から晩までなんだかぽけーッとしてしまう。

28金
1限物理学情報処理論。学部の端末から講義のWikiにつながらない。何もできないままぼんやりと1限終了。
2限言語機能論。先生と話をするのが楽しい。充実した金曜。
3,4限CG実習。ちょうど目の前にPCがあるのでRubyはそっちのけで今日締め切りのレポートを完成させる。メディセンでTeXを使うのは1年ぶりだ。解析力学演習のほうも出ないとまずいなぁ。

29土
神戸という街はやはり魅力的だ。なんで訳もなくウキウキするんだろう。同じ街に山と海が背中合わせになっているからだろうか。街中に洒落た空気が漂っているからだろうか。せっかく来たのだから誰かとこの街で休日を享受したいが、そういう余裕もない。今日はレスコン実行委。組織運営と技術蓄積の両方がバランスよく学べるいい機会だとは思う。自分に役割が与えられたことを意識するとモチベーションも上がるというものだが、なにぶん疲れる。12時間外出していたことになるのだから。喉も乾いて痛む。昨夜の間にドギツい喉風邪をひいたようだ。

5時から7時まで20分おきに目覚ましをかけても目覚めない神経をついに獲得したところで、早朝戦略を変えてみる。単にアラームを携帯からiPodに変えてみただけ。スッキリはしないが強制覚醒。睡魔の隙をついてさっさと着替えるが、また寝てしまう。部屋が散らかって仕事のとっかかりがつかめないのが恐らく一因。

最近部屋にいるときに、視界の端に何かいるような気がしてそっちを向くと何もいないということがよくあります。そのうち本当に何か出ちゃったりして。霊感でもついたんでしょうか?まぁ単に疲れてるだけでしょう。目も酷使してるし。

梗塞

2006年10月26日 22時57分16秒 | Diary
明日が来て、今日が昨日になって、ただそれだけのことが、なんでこんなにしんどいんだろう

1限数理統計に間に合うように起きたはずなのに、なぜか気分が非常に悪くそのままボイコット。何かが心の中に詰まってしまったようだ。
2限とりあえず学校に来てみたが言語比較論も出られず。面白いから出ればいいのに。
昼休み 明日の物理学情報処理論のレポートを作成しようと思ったがノートの類を忘れたことに気づき戦意喪失。さらに眠気まで襲ってきたので図書館でふて寝。
3限ギリシア語予習をしていないので当然のようにサボる。そろそろ何か活動しないとまずいと思ったが何も持ってきていないので倉庫でネジの仕分けをする。径2mmのネジを大量に発見。
4限情報フルーエンシー。まだかなり気分悪いけど出ないともう一日が終わってしまう。モチベーションだけは上がる。

幽霊部員になっている後輩に会う。逃げられるには惜しい人材だったのでたまにはサークルにおいでと励ました後、個別指導のバイトへ急がなければならないので自転車を探すが見当たらない。このままだと確実に遅刻だ。繋ぎのカロリーメイトを頬張り、バスで行く旨を予備校へ告げる。とんだ出費だがやむを得ない。

しかしこの辺りから、焦るどころか、どす黒いものが墨のように湧き上がってきた。そう、これが今朝からの窒息感の正体だった。金に困っていた上にJavaの面接の結果待ちで気が急いていたとはいえ、そもそも個別なんてものを勢いだけで始めてしまったのが何かの間違いだった。エネルギーの使い道を間違えた。こんな過去志向の仕事は今の僕にとって足枷以外の何モノでもない。全力で後ろに引っ張られながら歩いている感じがする。指導や準備のための労力が自分のどの血になり何の肉になると云う?さっさと辞めて余った時間は全部自分の未来のために使ってしまいたい。それが何の苦もなくできるなら問題はない。しかし自分から引き受けておいて辞めますというのは最後の良心が痛む。はじめて一月も経っていないが、早くもどうやって辞めるかを真剣に考えるようにさえなっていた。できれば適当にやって切ってもらったほうがこっちも諦めがつく。それでもまだ難しい。そこへ遅刻の危機ときた。加えてこれは不可抗力だ。どうせ間に合ったところで120分のうち授業は実質30分程度しかやらない。後は雑談だ。1時間遅刻したって大して変わらない。いやそれよりも、遅刻なんて恰好の理由になるじゃないか。

そんなことを考えているうちにバスのアナウンスが聞こえる。・・・三条?それは一体どこだ。僕の知る限り三条は丸太町よりも南だ。曲がるべきところをとうに通り過ぎてしまったことを知る。バスを間違えたらしい。いよいよ遅刻だ。もはやどうでもいい。言い訳臭い態度を見せて、自分の無能力をせいいっぱいアピールしよう。生徒と親御さんには申し訳ないが、今のなあなあを続けていっても互いに無利益だ。既に僕はもっと将来性のある別のプロジェクトに繋がれている。受験産業と縁が切れたところで損はしない。寧ろ一年半のブランクをもって未だ過去にしがみつこうというところに哀愁さえ感じる。よしや自分の手を血に染めてでも(言い過ぎた)、未来を掴み取りにいこう。

僕の画策は果たして失敗に終わった。結果として30分は遅刻したわけだが、「今後注意してください」で終わった。日ごろまじめなふりをしておいたのが裏目に出たのだろう。注意って何だ?今後があるのか?もう勘弁してくれ。

学校に戻ったら自転車はわけのわからんところに追いやられていた。4限後に生協の前に大きなトラックが停まって搬入出をやっていたから、邪魔だということでどけられたのだろう。迷惑なこった。

もし基本情報技術者に受かってたらまた資格受けようと思ってます。今興味があるのは

・簿記:金銭感覚が身につくかなという淡い期待と切迫感
・ソフトウェア開発技術者:順当にいくなら基本情報の次はこれ
・TOEIC:そろそろ復讐
・漢検:漢字は昔から好きだし得意なつもりなので。資格では一番自己満足に終わりそうだけど
・京都検定:地元なので。国史の勉強にもなりそう

でも一番切実なのは
・仏検
かも。言語機能論の東郷先生によると
 外国語上達の秘訣の第一は、「なるたけお金をかけよ」ということになる。なぜか。それは学習を続ける動機を生むためである。人間とは現金なもので、ただの授業をさぼっても心は痛まないが、身銭を切った授業はもったいなくてとても休めない。かけたお金が高額であればなおさらである。

 トロイアの遺跡を発見したシュリーマンは、語学の達人として知られていた。彼の学習法は独特のものであった。彼は新しい外国語の学習を始める前に、町で暇そうにしている老人を一人見つけ、週に一度自分の家に来てくれるように頼み、高額の謝礼を払うのである。シュリーマンはどんなに忙しくとも、老人がやって来ると仕事を中断し、ただ座っているだけの老人を前に、学習を始めた言語を復唱し暗記したという。シュリーマンは、外国語の習得には、それを続けざるを得ない環境に自分を追い込むことが必要不可欠だと心得ていたのである。けだし卓見である。
ということだ。シュリーマンが本当にトロイを発見したかどうかはさておき、なんともまぁ、というほかない。要するに自分の性格を綿密に分析した結果、それくらいの追い込みをかけないと恐らく系登録にもっていけないってことですね

マウスの部品がだいたい揃ったので設計して早く組み始めたい。これから楽しくなるなぁ。