先日、ある友人が僕のブログを見て文章がうまいと云ってほめてくれた。すごく嬉しかったのだが、その翌日に野放図な日録を書いてしまったことを、同時に謝りたい。
言葉に対する感性が鋭い、とまで云われたが、自分にはそんな確信はない。ただ、言葉を蔑ろにする人を見ると何だかなぁ、と思ってしまうのは確かだ。新聞やテレビなどの公のメディアでたまに「食べれる」「食べてる」などというラ抜き言葉やイ抜き言葉が地の文で登場するのを見るや、この国の将来は危ういなぁなどと真剣に受けとってしまう。理にかなった理由ではなくて、ただ単に保守的な性格によるのであろう。もともと言語とは流転するものだと云われたら、ごもっともと答えるより他にない。現代日本語だって明治の日本語から見れば眉をしかめるような言葉かもしれない。崩れてしまった日本語にもちゃんとそれなりに法則性があって、学術的に尊重すべき研究対象ではある。でも、話し言葉が段々略されて崩れていくからといって書き言葉も追随して適当になっていくのは少し寂しい。時代逆行とは知りながら、そのような意味で敢えて【言文不一致】をめざすことには意義があると思う。それは結局のところ僕個人にとっての価値観であるかもしれないということは否めないけれども、『死語』だろうが『文語』だろうが、せっかく伝統のある美しい国に生まれたのだから、せめて言葉だけでも大切に保存していきたい。テレビはともかく、新聞は幸いにもまだ語法に関しては保守的でいてくれているようで安心する。新聞を読むと何となく落ち着くのはそのせいもあるのだろうか。
保存という観点で云えば、先述のことは僕が諸言語に関心があるのと無関係ではなかろう。一つの言語が忘れられることは、一つの世界が失われることに等しい。僕のような型の一部の人間にとっては言語の多様性は生物の多様性に匹敵するのだ。いや大げさな話ではなく。「世の中渡るのには英語さえできれば充分」とか身も蓋もないことを云う人がよくいるが、正直がっかりする。ちょっとひねくれたことを云っておくが、僕は現実主義という奴はもともと大嫌いなのである。「英語すらできないのに他の外国語ができるわけがない」というのもよく耳にするが、これも全くとんちんかんな話だ。毎日のように触れていれば(それが実行できれば苦はないわけだが)何語であろうが関係ない。会話もやたら重要視されているが、別に話せなくたってかまわない。今じゃ誰も話さないような言語もある。「英語すら」と云っている人自身英語が必ずしも英語がペラペラなわけではないし、そうやって足を引っ張りあっているのは時間の浪費だけでなく好奇心の抹殺である。そもそも、英語を完璧にしてから他言語の勉強を始めるという考え方自体がナンセンスだ。言語習得に終点など存在しない。まぁそこらへんの話は専門家に任せるとして、こっちとしては「日本語すらできないのに英語ができるわけがない」とでも云い返してやりたいところだ。とりあえず日本人は総出で国語教育から出直してくるべきではないか?
本論に戻すと、自分が生きている間にできるだけ広い世界に触れてみたいという憧れがいつも僕の根底にあるのだ。目下英語が国際語であることに正統な理由はない。英語を利用するのは大いに結構だが、英語に媚びる義理はない。言語にも生存競争があるのかもしれないが、無意味だ。英語、英語と声を大にして叫んでいる間に他の言語が滅び去っていくのを横目で見ているのは、やはり寂しいことなのである。いっぱいあるから、いいのである。
で、バランスもまとまりも悪いけどここから少し感傷的な話。どうも失恋以来感傷的になってしまっていけない。人に吹っ切れとか言っておきながら、自分もまだ引きずっている。この人類永遠のテーマにもそろそろ終止符、いやせめて読点くらいは打っとこう。ここでは僕はlernanto(学ぶ人)であってamanto(恋する人)ではないのだから。一応。
作ることも楽しいし、調べることも学ぶことも楽しいけど、書くことも本当は楽しい。国語の代名詞である『読書感想文』が小学校のときから苦手な僕はそれに気付かなかった。多分、書くことを強制されていたからだ。好きなことさえ書いていれば、いくらでも書ける。
たまに他人の文章を見ていいなぁ、と思うと、自分の文章は変わってしまう。元に戻るかどうかはいさ知らず、確固たる骨のない僕の文章は揺れてしまう。性格そのものが気まぐれで、流されやすい人間だから。その是非は、まだよくわからないけれど。
どうやら、どんなにまとまりのない拙い言葉でも、誰かの心には響いてくれるようだ。ただ僕は、言葉だけで人の心を伝えるということにはもともと懐疑的だ。考えていることがちゃんと他の人に伝わっているかどうかという不安も常にある。
でも、だからこそ、言葉を磨いていこう。
言葉に対する感性が鋭い、とまで云われたが、自分にはそんな確信はない。ただ、言葉を蔑ろにする人を見ると何だかなぁ、と思ってしまうのは確かだ。新聞やテレビなどの公のメディアでたまに「食べれる」「食べてる」などというラ抜き言葉やイ抜き言葉が地の文で登場するのを見るや、この国の将来は危ういなぁなどと真剣に受けとってしまう。理にかなった理由ではなくて、ただ単に保守的な性格によるのであろう。もともと言語とは流転するものだと云われたら、ごもっともと答えるより他にない。現代日本語だって明治の日本語から見れば眉をしかめるような言葉かもしれない。崩れてしまった日本語にもちゃんとそれなりに法則性があって、学術的に尊重すべき研究対象ではある。でも、話し言葉が段々略されて崩れていくからといって書き言葉も追随して適当になっていくのは少し寂しい。時代逆行とは知りながら、そのような意味で敢えて【言文不一致】をめざすことには意義があると思う。それは結局のところ僕個人にとっての価値観であるかもしれないということは否めないけれども、『死語』だろうが『文語』だろうが、せっかく伝統のある美しい国に生まれたのだから、せめて言葉だけでも大切に保存していきたい。テレビはともかく、新聞は幸いにもまだ語法に関しては保守的でいてくれているようで安心する。新聞を読むと何となく落ち着くのはそのせいもあるのだろうか。
保存という観点で云えば、先述のことは僕が諸言語に関心があるのと無関係ではなかろう。一つの言語が忘れられることは、一つの世界が失われることに等しい。僕のような型の一部の人間にとっては言語の多様性は生物の多様性に匹敵するのだ。いや大げさな話ではなく。「世の中渡るのには英語さえできれば充分」とか身も蓋もないことを云う人がよくいるが、正直がっかりする。ちょっとひねくれたことを云っておくが、僕は現実主義という奴はもともと大嫌いなのである。「英語すらできないのに他の外国語ができるわけがない」というのもよく耳にするが、これも全くとんちんかんな話だ。毎日のように触れていれば(それが実行できれば苦はないわけだが)何語であろうが関係ない。会話もやたら重要視されているが、別に話せなくたってかまわない。今じゃ誰も話さないような言語もある。「英語すら」と云っている人自身英語が必ずしも英語がペラペラなわけではないし、そうやって足を引っ張りあっているのは時間の浪費だけでなく好奇心の抹殺である。そもそも、英語を完璧にしてから他言語の勉強を始めるという考え方自体がナンセンスだ。言語習得に終点など存在しない。まぁそこらへんの話は専門家に任せるとして、こっちとしては「日本語すらできないのに英語ができるわけがない」とでも云い返してやりたいところだ。とりあえず日本人は総出で国語教育から出直してくるべきではないか?
本論に戻すと、自分が生きている間にできるだけ広い世界に触れてみたいという憧れがいつも僕の根底にあるのだ。目下英語が国際語であることに正統な理由はない。英語を利用するのは大いに結構だが、英語に媚びる義理はない。言語にも生存競争があるのかもしれないが、無意味だ。英語、英語と声を大にして叫んでいる間に他の言語が滅び去っていくのを横目で見ているのは、やはり寂しいことなのである。いっぱいあるから、いいのである。
で、バランスもまとまりも悪いけどここから少し感傷的な話。どうも失恋以来感傷的になってしまっていけない。人に吹っ切れとか言っておきながら、自分もまだ引きずっている。この人類永遠のテーマにもそろそろ終止符、いやせめて読点くらいは打っとこう。ここでは僕はlernanto(学ぶ人)であってamanto(恋する人)ではないのだから。一応。
作ることも楽しいし、調べることも学ぶことも楽しいけど、書くことも本当は楽しい。国語の代名詞である『読書感想文』が小学校のときから苦手な僕はそれに気付かなかった。多分、書くことを強制されていたからだ。好きなことさえ書いていれば、いくらでも書ける。
たまに他人の文章を見ていいなぁ、と思うと、自分の文章は変わってしまう。元に戻るかどうかはいさ知らず、確固たる骨のない僕の文章は揺れてしまう。性格そのものが気まぐれで、流されやすい人間だから。その是非は、まだよくわからないけれど。
どうやら、どんなにまとまりのない拙い言葉でも、誰かの心には響いてくれるようだ。ただ僕は、言葉だけで人の心を伝えるということにはもともと懐疑的だ。考えていることがちゃんと他の人に伝わっているかどうかという不安も常にある。
でも、だからこそ、言葉を磨いていこう。
僕も出来る限りは気をつけているつもりだけど、ついついメール口調の文章を書いてしまう毎日。「まぁ」とか「(笑)」とかとか、それはそれで人付き合い・メール付き合いをしていくうえで学び取ったことだろうけど、結局はいいたいことをぼやかしてるにしかなってないのよね。言葉足らずにならぬように、表現力を持っていればいいはずなのだが…。
諸言語への興味は強いほうではないとか言いながら、ちゃっかり英・仏・中・日と4つも。それでも、言語より、人のほうに魅せられている。いささか学者向きではないかましれぬ。
学ぶ人を名乗るなら、人の愛し方(恋も?)学べばよいのでは?はやし立ててみる…僕は決して経験が多いほうではないけど、付き合って、何か得ることができたら、付き合ってよかったんだし、まだ吹っ切れないのなら、それだけすばらしい人に出会えたということ。
素敵なsatzz君のことだから、機会に恵まれないことはないはず。あとは時の風が癒してくれるさ。恋しようと思わなくていいけど、恋しちゃったら、自分には素直に、素直に…。
お邪魔しました。
パソコン使ってると漢字忘れるんだよね・・・真剣に。