セーラの独り言2

お年寄りの独り言・・・・

うぐいすと母

2016-03-24 | 日記
 二月から三月にかけてあちらこちらから鶯の初音を聞いたというニュースが
南の地から北の地へと巡り来て、ここ仙台の町でも春の訪れを知らせる爽やかな
初音が届いたとテレビ、ラジオで知った。
 ♪うめのこえだでうぐいすが~♪と思わず小さく口遊んでしまった。
いっぺんに春到来と浮かれた。自分の耳で直接鳴き声を聞けたらならば、
より一層強く春を感じることができたであろうに。
春の鳥と言えば、誰しも一番に鶯とこたえるであろう。
うぐいすと母・・・あの日の母のことを忘れることができない。
あの日以来うぐいすは私にとり特別な鳥となった。
 母が記憶を徐々に失っていく日々の中、八月の暑い日に
園の裏手の林の中からうぐいすの鳴き声が母の部屋に聞えて来た。
私は「なんとまぁ、季節外れのこと」と思いました。
母はペッドに座り、晴れ渡った八月の青い空を眩しそうに見ながら、
「春が来たのね」と感慨深げに小声で言った。
ちいさく痩せてまぁるくなった背中が淋しく見えた。
薄れゆく記憶の中でも「うぐいすは春の鳥」だと母の頭の中はまだ刻み込まれて
いるのだと知った時、なんだか泣けてきた。
ベッドに一緒に座り、うぐいすの鳴き声を二声、みこえ聞いた。
でも、私にはうぐいすの泣き声と聞えた。
 毎年うぐいすの初音の便りを聞くと春の訪れの歓びと共に、母のあの後姿を
切なく思い出さずにはいられないのである。来年も・・・・

  うぐいすの鳴くやちひさき口開けて     蕪村

どこかに春が・・・

2016-03-12 | 日記
 三寒四温の繰り返しのこの頃でも艶々とした厚い葉っぱの合間あいまに
紅椿、白椿の可愛い花々が顔をのぞかせ始めた。
何年も通っている散歩道に白椿が咲いているのを最近見つけた。
今までどうして気がつかなかったのであろう。
それほど白椿はひっそりと人知れずに咲いていたのであろうか。
春の歓びを感じるのは春の花を見つけた時。
緑を成してきた芝生の上を楽しそうに雀たちが小躍りしているのを見た時。
和らいできた空の青、頬を撫ぜる風が少しづつ優しくなってきたと感じた時。
日々、春へ春へと季節の移ろいを今、この身に感じ、この目で見ている。
そして、暖かな春の日を今か今かと待ち侘びているのは愛しの愛猫カール君。
薄ら寒い日の中にも春を思わせる陽ざしを感じるとき、「おんもにでたい」と
ニヤァーニヤァー鳴きながらベランダのカーテンを私の顔を見ながらひっかく。
戸を開けるとそこにはカール君のおんも用のケージがあるのを知っているから。
このケージの中だけがカール君が外気と日光を思う存分に浴びることの出来る
大好きな唯一の場所だから。
四月になったら出してあげるからもう少しの辛抱、待ちましょう、カール君。
春は近くまでやって来ている。
寒い季節にはその季節の恵みがある。その恵みをありがたく頂戴しながら
生きとし生けるものすべてみんなみんな春をまっているのである。
 ♪あるきはじめたみーちゃんが
    おんもにでたいとまっている♪

来年また逢いましょう

2016-03-04 | 日記
 3月3日、桃の節句の夜。明日には片づけるひな人形をじっと見つめていた。
可愛らしくて、華やかで、上品で、優雅な佇まいは、私の心を静かに優しく
和ませてくれる。
可愛い桃の節句は幼いこどものひな祭りにふさわしい言い回しで、
華やかな桃の節句は中学生くらいからの娘たちにふさわしい表現だ。
さて、オールドレディの桃の節句にふさわしい表現とは、どんな言葉で表したら
良いのだろう、と思案した。
 春の兆しの見えてきた散歩道をそぞろ歩きながら、あれこれ思い巡らしていた。
ふと、頭に浮んだのは優美・典雅な桃の節句と表現したらどうでしょう、と。
優美・典雅な桃の節句・・・我ながらオールドレディにぴったりの表現を見つけた。
優美・典雅の言葉に値するような自分でありたいとおもった。
来年の桃の節句には少しでもこの言葉にふさわしい自分であらねばと、眩しげな
お顔をしている15人の雛人形を見入っていた。
3月4日、早起きして片づけ始めると、カール君大張り切り。
人形の間を音も立てずにちょこちょこと器用に行ったり来たり。
お飾りしてからはハラハラの毎日、日に何度も雛様は大丈夫かと見回る。
幸いにして今年も雛人形は怪我することもなく無事に片づけを終え安堵した。
この日は40歳をとうに越えた息子の誕生日。
早くにおめでとうのメールを送ったがなしのつぶて。
とかく男の子というものは・・・・ それでも母はいいのです。