アンカツを応援するブログ

アンカツこと、安藤勝己騎手を応援するブログです。

1000勝通過記念?で中央入り前を振り返ってみる

2010-02-09 23:57:21 | 競馬
JRA通算1000勝を通過したアンカツ。
ちょっと遅くなったが、その歩みを中央入り前を中心に振り返ってみよう。
ここに至るまでには、今では想像しにくいことがたくさんあったので取り上げたい。
最初は、思い出に残るレースをいくつか・・・と思ったのだが、
そりゃ10年先の引退の時にやることだと思えたのでやめましたw



1976年の10月、18歳で騎手デビュー。
翌1977年には2位になり、78年には早々にリーディングの座についた。
以降、騎乗数を絞り出すまで22年に渡ってリーディングの座を譲らなかった。
俺が生まれた時にはもうリーディング2位だったわけで、
なんとも長い歴史を感じるところだ。

こんなに速く頂点に立てるものなのかという感じだが、
実際のところ、アンカツの技術が優れていたのは間違いないわけだけど、
それと同時に、当時の東海の競馬の事情が重なっていた。
これについてあまり詳しく書くつもりはないが、
当時リーディングの上位だった騎手が複数やめるということがあり、
ちょうどそのタイミングでデビューしたのがアンカツとアンミツ。
若手の騎手に大きなチャンスが転がり込んでいたタイミングでデビューし、
師匠らの大きなバックアップがあり、そのチャンスを逃さなかったということだ。
まあ、チャンスが訪れる人というのはたくさんいるわけで、
それを逃さなかった人が一流となるのは、どんな世界でも同じことだね。

デビュー時、名古屋には坂本敏美という真の天才騎手がいたのだが、
この人の騎乗技術は最後までアンカツには理解できなかったので、
反面教師のように、しっかりとした理論を学んだようだw
(坂本さんの騎乗ぶりを見たことのある人の話を俺も聞いた事はあるが、
 外野からは、とにかく一番ふらついていて下手糞に見えたそうだ。
 でもそこには目を瞑って買えば、とりあえず何でも当たったらしいけどw)
普段は適当なことを言いつつも、レース後のコメントが常に的確なのは、
若い頃から積み上げてきた、根底にある競馬脳の凄さだと思っている。

1980年5月11日、20歳の時に中央騎手招待レースに遠征。
ヤマニンスキーに騎乗して、中央で初騎乗初勝利をあげた。
1000勝をあげた後で様々なインタビューを受けたアンカツ。
最近の事は忘れるけどこのレースの事はよく覚えているということでw
2着が飯田明現調教師だったとか、血統的にどうだったとかを語っていた。
ヤマニンスキーは、デビュー時から相当に大きな期待を背負っていたようだが、
結局OPにあがれないままに現役生活を終えることになった。
それでも血統を期待されて種牡馬入りを果たし、
皐月賞馬ヤエノムテキやオークス馬ライトカラーを輩出して成功を収めた。
中央時はほとんど実績を残せなかった馬の最大の実績が、
アンカツの中央初勝利というのは、なんというか凄い偶然だ。

中央初騎乗で初勝利を挙げた騎手は、多くは無いがいくらかいるわけだけど、
その初騎乗で乗った馬が種牡馬になった騎手ってのは、
地方騎手を含めてもアンカツしかいないと思われる。
(少なくとも俺が知る限りでは)
初騎乗で乗る馬ってのは、まず条件戦、良くて新馬戦なわけで、
新人が任された馬が・・・ってのはね。まあ、ないわな。
というわけで、これからも永遠に出てこないだろう。
記録ってほどでも無いが、ちょっとした名誉だね。


それからしばらくの間、中央への遠征はなかった。
当時の地方競馬というのは、売り上げでも実力でも決して中央に劣るものではなく、
(競馬の売り上げが、その地方自治体を支えていたのは紛れも無い事実)
たまにオールカマーなどで遠征する馬もよく戦っていた。
アンカツも、中央がどうとか考える事は一切なかったそうだ。

転機というか、最初の考えるきっかけが1987年のオグリキャップの登場。
5戦目からコンビを組んで無敵を誇っていたが、
より大きなレースを目指すために中央に転厩した。
この地点でのアンカツは、特に残念だと思う事はなく、
「また強い馬が出てくるだろう」程度に考えていたようだ。
実際、当時の笠松はそれくらいに強い競馬場だったし、
その時には古馬のお手馬にフェートノーザンというダートの日本最強馬がいた。

中央に移籍したオグリキャップは、
馬主や騎手の頻繁な交代など、外野でも話題を撒き散らしつつ、
数多のファンを巻き込んで数々の伝説を残してターフを去ったわけだが、
オグリキャップが真の伝説になる少し前のジャパンカップ。
その前の宝塚で負け、秋の天皇賞を大敗して、限界説が聞こえた頃、
アンカツから馬主サイドに対して「俺を乗せろ」と進言したそうだ。
当時、野心と自信に溢れていたアンカツを感じさせるエピソードだが、
これは実現する事はなく、最後に豊が伝説の一人となった。

当時のことについて、
「中央と地方は基本的に別枠で割り切っていた」とは言うけれど、
内心、日本の騎手が日本で自由に乗れないことのもどかしさは感じていたと思う。
この地点で、中央でのことについてはそうでもなかったかもしれないが、
少なくとも、地方間でも壁があったことについては既に不満があったようだ。
しかしこれらの問題について、どうにもならない事、と考えていた模様。


フェートノーザンがアメリカ遠征を前に早世し、
オグリキャップがターフを去り、それでもアンカツの戦いは続く。
マックスフリートやトミシノポルンガらで全国を戦い、
特にトミシノポルンガでは頂点に手が届きそうな気がしたのだが、
年数が立つごとに、じわじわと闘志を失っていったそうだ。
守り続けてきたリーディングの座も、常勝のアンカツには意味のないものとなり、
「勝つことに飽きてしまった」という、なんかとんでもない台詞を吐いたw
中央入りしてからも、勝ち数に対する固執は一切見せていないアンカツだが、
(しかし連対率はそれなりに気にしている)
それはこのあたりから既に兆候としてあった。
挑戦を続けつつも、他地区や中央で自由に乗れるわけでもなく、
これでは大きな勲章を手にする事は出来ないと感じてきたのか、
この頃既に、調教師になることを考えていたと後に述べている。

それを止めたのが、1995年に現れたライデンリーダーだった。
ちょうど良いタイミングで、この年が「中央地方交流元年」となっており、
権利を取れば中央のクラシックレースのトライアルへの出走が可能となっていた。
地元では無敵の進撃を続けていたライデンリーダー。
しかしアンカツはやや半信半疑で挑んでいたそうだが、
レースでは最後に目の覚めるような末脚を繰り出して圧勝。
一躍スターダムにのし上がった。
後に偉大な歴史を作るサンデーサイレンス産駒のデビューと同時だったのだが、
それらを押しのけて、まさに話題はライデン一色に。
それなりに競馬を好きな人間なら誰もが知っていただろうけど、
一般的にはやはりそれほど全国区ではなかったアンカツの名も、
このレースを境に、取り上げられまくってたねえ。

全国区の報道番組であったニュースステーションの取材が来るくらい、
本当に周りが加熱した状態で桜花賞を迎えた。
そこからの結果はご存知の通りで、結局ビッグタイトルは取れず。
挑戦を続けたライデンリーダーは、残念ながら早熟傾向があったようで、
徐々にその輝きを失って行ったわけだけど、
この馬の出現によって、アンカツの意志が繋がった事は確か。
特に、桜花賞については失敗してしまったという後悔の念も残っており、
このままでは終われないと、期待馬を探し回る日々が始まった。
まだこの地点では、笠松から何とかできるという思いがあったようだ。

元々リーディング争いへの興味は失っており、
勝ち負けできそうな馬でも、後身に譲りだした。
この時から少し後の話になるんだけど、
1日に1鞍しか乗らないとかいう日も増えてきた。
場合によっては、何もないのに乗らない日も出来るくらい。
とにかく、中央遠征できる2歳馬、3歳馬と、
遠征の権利を持っている馬にしか乗らないようになり、
これはと思う馬では必ず中央に持ってきて戦った。

戦っているうちに、中央で大きなレースを勝ちたいという思いが膨らみ、
せっせと遠征を続けている中で、副産物的に生まれた思いが後にアンカツを救う。
地方から遠征したとき日は、同日の中央馬にも乗ることが出来て、
アンカツはそれらでも渾身の騎乗を見せて結果を出し続けた。
最初は本当に人気のない馬にばかり乗っており、
それらを走らせることで、徐々に数多くの調教師の信頼を獲得。
アンカツは豊と並ぶレベルの騎手だ、いやそれ以上だ、
というような声すら聞かれるようになった。
そして、競馬ファン(特に穴党)の絶大な支持を得た。
テナシャスバイオやキョウトシチーでの騎乗ぶりは語り草だろう。

そんな中で現れたのが1999年のレジェンドハンター。
デビュー戦こそ、これも本当に強かったマエストロセゴビアの2着に敗れたが、
2戦目、3戦目を圧勝すると、金沢の兼六園ジュニアカップに遠征。
当時、金沢競馬史上最強馬と謳われていたシュウタイセイとの激突になったが、
これを本当に相手にすることもなく、
まさに赤子をひねるような感じで蹴散らした。
金沢の人達は本当にビックリしたと思う。
俺はVTRで見たが、今でもその走りは脳内に焼きついている。
震えが来る走りとは、ああいうのを言うのだろう。
俺はあのレースで、この馬とどこまでも心中する気になった。

中央のG2・デイリー杯に遠征。
人気は伏兵止まりだったが、ラガーレグルスらをまさに一蹴。
この馬なら絶対にやれるという確信を持ったし、
アンカツもやれると思ったことだろう。
前に行かせる競馬をしていたことに一抹の不安を持っていたようだが、
この馬ならば中山でも押し切れると思って挑んだ朝日杯。
ハイペースでぶっ飛ばす快速馬ダンツキャストをただ1頭追走し、
4角で叩き潰して先頭に出る、強気の極みなレース。
まさに独走状態で中山の坂に差し掛かり、このまま・・・といったところ、
後ろからただ1頭だけ飛んできた伏兵エイシンプレストンに差し込まれた。

後から思えば、このエイシンプレストンは後に国際的な名馬となるわけで、
この結果もそんなに不思議なものではなかったのだけど、
この地点では間違いなくレジェンドのほうが強かった。
明らかに早仕掛けのミスによる敗退。
早仕掛けというか、そういう馬にしてしまったことのミス。
しかしハンターならばすぐにチャンスが来るはずだったが、
残念ながら故障もあって万全のローテーションを組むことが出来ず、
最初で最後だった大チャンスを逃して終わることになってしまった。
狭い笠松で、権利を確実に取る為に急ぐ競馬をせざるを得なかったことを、
アンカツの中に大きな悔いとして残すことになる。
今のアンカツの騎乗スタイルの根幹を作ったのがレジェンドハンターだった。

翌年、フジノテンビーが現れて再びデイリー杯を制したが、
この馬は乗っていて走る感触が全くなかったそうで、
実際にレースぶりを見ても、やや非力な感じがする馬で、
G1に手が届くことはなかった。
この頃から、地方と中央の差が急速に広がっていき、
(地方のほうの衰退が激しくなり)
また、アンカツの中央での活躍は、元からの中央騎手の反感も買い、
それに応じたJRAによる、地方騎手の中央への遠征に対する規制も加えられた。
夢であった中央G1制覇が少しずつ遠のいていった。

それでも戦い続けるアンカツに転機が訪れたのが2001年9月8日。
マヤノグレイシーの新馬戦に騎乗したアンカツは、
楽に逃げてぶっちぎりの勝利を収めようとしていた。
その直線で、馬が突然内に寄れてラチに接触。
アンカツはどうすることも出来ず、内ラチ沿いに放られた。
骨折の大怪我で入院を余儀なくされることになった。

この入院中、アンカツが想像もしなかった進言が行われた。
それが誰だったのかは分からないが、
「中央の騎手試験を受けたらどうだろう」
というものだった。
今更騎手になるための試験て、という感じなのだが、
まさに盲点で、それは可能なことだった。

注 2007年に亡くなられてしまったのだが、
  道川満彦元騎手が、それ以前に中央の試験を何度も受けて落ちている。
  (話題になる事はあまりなかったように記憶している)
  Wikiでご覧いただければ大雑把に分かると思うのだが、
  なんとも波乱万丈な人生を送った方で、
  常に先駆者と語られるアンカツの前にも、挑戦者がいたことは記しておきたい。
  

翌2002年、「安藤勝己騎手が中央騎手試験を受験」のニュースが駆け巡り、
それに対する準備が全く出来ていなかったJRAは、
中央で勝ちまくっているアンカツに対して、中央騎手失格の判断を出した。
(英語と跳び箱で落ちた、といわれているが真相はどうなのだろうw)
ここで本当に多くのファンが立ち上がったようで(俺も抗議メールを出したけど)
納得のいく理由を説明しろと詰め寄られたJRA側は翌年、
「近5年で20勝を2回挙げている騎手は1次試験免除」
という、いわゆる「アンカツルール」を生み出すことになった。

これに乗ったアンカツは2003年、ついに中央入りを果たした。
これ以降は改めて語ることもないだろうけど、
そのわずか30日後には、ビリーヴで初のG1制覇を果たし、
ザッツザプレンティで初のクラシック制覇。
翌年にはダービー制覇、2006年には因縁の桜花賞を制覇。
次々とG1タイトルを重ねて、今では20勝に至っている。
そして今のアンカツがいるわけだ。


ざっと振り返ってみたが、アンカツには実に運があった。
デビューしていきなりトップ騎手に上り詰めたことも、
中央地方交流元年にライデンリーダーが現れたことも。
挑戦に闘志を燃やす調教師の荒川さんがいたことも幸せだった。
最初のG1勝ちは中東の戦争がもたらした乗り替わり。
今では誰もが認める最高のパートナー・ダイワメジャーは、
最初はデムーロが乗れなくて偶然乗ることになった馬。
妹のダイワスカーレットのほうは、
豊が別の馬に乗ると言って乗らなかった馬。
節々で、アンカツの元には大きな幸運が訪れていると思う。

当然のことながら、そのチャンスを逃がさないのはアンカツの技量。
2002年、中央試験に落ちた後のファンの声は、
アンカツが自らの技術で積み上げた実績と信頼の大きさに他ならない。
さすがに人生の折り返しの50歳ともなれば体力の衰えはあるところで、
騎乗数を制限しながらの日々になっているのだが、
それでも卓越した技術は変わることなく、我々を楽しませてくれている。
今年は特に、アンカツが1から育てている馬での重賞やG1への挑戦が多く予想され、
また違った感覚でレースを見ることが出来るだろうと思う。


とりあえず、ここまでの経緯を駆け足でひとまとめ。
当分の間、改めて過去を振り返る事はないでしょう。
今週からも変わらずに応援を続けたい。


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21 コメント

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Unknown (アンカツファン)
2010-02-10 00:43:33
アンカツの今の力の力の抜けたスタイルってアンカツだから許される(アンカツでなければ絶対許されないw)んだろうなと思います。
騎乗技術はもちろんですがもっと深い部分(アンカツの思いや苦労)を知ってるからこそ豊もノリも安藤勝己という騎手をリスペクトしてるし様々な調教師から良い馬を依頼してもらえるのでしょう。
まぁ結果を残し続けてるってから説得力があるんですけどねw
やはりアンカツの歩んで来た道や人柄にロマンや魅力を感じている人が多いと思います。
もしもアンカツが中央入り出来てなかったら、もしアンカツが地方ジョッキーの先駆けでなかったら、競馬界にとってどんなに大きな損失だっただろうかと思うと本当にアンカツが先駆者で良かったなぁと思います。 
生ける伝説『安藤勝己』今年はどんな伝説を作ってくれるのでしょう。

楽しみです。


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Unknown (marumi)
2010-02-10 02:02:25
はじめまして。ブログ立ち上げの頃から拝見しております。
アンカツの中央入り前の話で懐かしさのあまりコメントさせてもらいます。ちょうどアンカツが中央に挑戦を始めた頃、自分は名前は同じカツミでも南井さんのファンでした。今でも忘れませんが、アンカツがテン乗りで持ってきたテナシャスバイオが勝った琵琶湖特別の2着が南井さんでした。その馬連4000円当てたのを境にアンカツのファンになり今に至りました。
だから、初めて南井厩舎の馬に乗った時は嬉しかった事を今でも覚えてます。
お忙しいみたいですが、これからもためになるブログを楽しみにしています。長文、失礼しました。
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Unknown (ユラ)
2010-02-10 02:07:27
私は中央入りしてからのアンカツしかわからないのですが、
運がいいというのはすごく思いますね。
馬との巡り合わせをみても、理由はたまたま偶然でも
そういったチャンスを引き寄せる何かを持っているんでしょうね。
そして結果を出してきた。素晴らしいです。
これからもまだまだたくさん楽しいレースを見せてくれそうですね。
G1の最年長V記録を全部塗り替えるとかw期待しています。
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Unknown (レオポン)
2010-02-10 05:22:52
いつもsankyoさんの文章力に感心しております。感動しながら読ませて頂きました。失礼ながら質問したいと思います。何処かでライターの仕事とかしたことあるのでしょうか?本当に素晴らしいと思って、おせっかいな質問ですいません。
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Unknown (だんだだん)
2010-02-10 07:51:49
1番衝撃的だったのはレンジェンドハンターですね~。
ライデンリーダーも凄かったけど、本当にレース振りが圧巻。絶対に芝G1を取れると思ってました。
確か皐月賞のトライアルの前に地方のトライアルに参加して、その後に故障を発生したんだったかな?
ソコから崩れちゃいましたね……。
休めなかった事もあるかも知れませんけど、本当に残念。

今年は笠松のラブミーチャンがライデンリーダーの無念を晴らす!見たいな事を言われてるらしいですが…。
ライデンだけでなく、オグリ兄妹、ハンター、フジノテンビー……。
過去に笠松で挑戦を続けた沢山の馬の夢が、果たせなかった夢が、繋がってる気がしてます。

ずっと安勝を応援してますが、今年だけは……。

安勝<ラブミーチャン(&浜ちゃん)

で、行かせていただきます♪
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Unknown (Raptus)
2010-02-10 11:24:35
こんにちは。

1月3週めまではなかなか勝ち星が延びなかったので
少しもどかしい気分になっていたんですが、
勝った4勝がいずれも準メインか最終レースということに
なぜだか懐かしいというかデジャヴーのような感がありました。
この懐かしさはなんだろうか、とよくよく考えてみたら、
「そういやJRA移籍前の遠征してきていた頃ってこんな感じだったよなぁ」。
特に遠征時の最終レースは必ず勝ち負けしてたような印象がありますからねぇ。

皆さん書いておられるマルカベンチャーの「ザ・アンカツ」とでも名づけたくなるような騎乗ぶりも、
もどかしくも懐かしい気分になっていたときだったので、かなりうれしかったですね。
何せ僕の中で最も強烈に頭の中にこびりついているアンカツのレースは、
アッパレイモンでインをこじ開けて差し切った00年桜花賞デーの準メイン・梅田ステークスなものでw

記念すべき1000勝の日は泣く泣くWINS観戦だったのですが、
レース後のインタビューの映像が流れると、ちょっと感動というか、感慨深いものがありました。
JRA移籍後初勝利の瞬間を見届けなければ、と朝から阪神に出かけて行って応援したときのことを思い出したり。。。
と、書いているうちになんか過去の人みたいになってきたので、これくらいにしますがw、
彼が残してきた足跡ってのはほんとに凄いんだなぁ、とsankyoさんのブログを読みつつ改めて感じているところです。

無事是名騎手。そんな言葉が似合う騎手になってほしいですね(って、もうなってるかな)。
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Unknown (タコスケ)
2010-02-10 12:22:16
カラスが泣かない日があってもアンカツが勝たない日はない。
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いつまでもいつまでも (バログノテイオー)
2010-02-10 18:29:09
渾身のブログをいつも有難うございます。そして今回の1000勝通過記念回顧録、いつにもましてワクワクゾクゾクで読み終えました。まさに感動の嵐です。ライデンリーダーでのフィーバーと敗戦の無念。本馬場のライブで目のあたりにしたマヤノグレイシーでの落馬負傷。そしてその後の復活→移籍→活躍。私の競馬ライフの真ん真ん中に常にアンカツさんがいます。そしてこれからもできるだけ長くそれが続いて欲しいと願っています。この素晴らしいブログとともに。
この素晴らしいブログいつまでも
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Unknown (tappy)
2010-02-10 19:46:27
sankyoさん、大作ありがとうございました。順番に読みながら、そのころのことが鮮明に思い出されてきてうれしくなりました。特にレジェンドハンターは、本当にGⅠが取れると思っていたので、朝日杯は本当に悔しかったし、皐月賞を目指していて故障してしまったのは、本当に残念でした。マヤノグレーシーも楽勝だと思っていたら、まさかの落馬負傷。怪我が小さいことを祈っていましたが、残念ながら骨折休養。しばらくアンカツの中央騎乗が見られなかったので本当にがっかりした覚えがあります。しかし、怪我の功名かそれが現在につながっているわけですから、不思議なものです。
 とにかくアンカツには少しでも長くアンカツらしい競馬をたくさん見せてくれることを祈っています。これからも皆さんと一緒に応援していきたいですね。
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Unknown (nori)
2010-02-10 20:48:13
テナシャスバイオ、クルーピアスターなんかはアンカツの予定に合わせて使ってくれましたよね~。
キョウトシチーは、マジびっくりでしたw

嬉しかったこと、悔しかったこと、ビックリさせられたこと、などなどいろいろあったなぁ~

競馬だから、これからも嬉しいこと悔しいこと両方あると思うけどあまりビックリさせられるのは勘弁ですw
良い意味でのビックリは良いのですが、落馬とかのビックリは本当にないことを願っています

ファンになって、もう10年以上たつけど…
笠松で乗っている姿はあまり見ていないです。(競馬が平日だったといのもあるんですけどね。)

当時、笠松から連れて行った特指の馬は年間に1つか2つは勝っていた記憶があります。
今は、なかなか勝てないので当時より中央との差が広がるばかりと感じていたところ…
なので、笠松のラブミーチャンには本当に頑張ってほしいです。

そういえば、こんなことを思い出しました。
あの落馬事故から暮れの笠松からの復帰が決まった時、とても楽しみにして元旦の笠松に行ったら何と乗り替わり…
後から、勝手に調整ルームから帰っちゃったって知りましたw
さすがのアンカツも、やっぱりあの時はあせりがあったんでしょうねw
さすがのアンカツも人の子なんだなぁ~ってこの時思いましたw

この先、あと何年乗るかわかりませんが少しでも長く乗って欲しいと思います。

願わくば、もう一度あの勝負服を見たいのですが…
もう、無理なんでしょうね・・・
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