時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

熱田大宮司家について その4

2007-06-06 21:38:23 | 蒲殿春秋解説
さて、熱田大宮司家話はつづきますが、この先はよりマニアックな話になることをご了承ください。

熱田大宮司の地位は元々は地元の有力者であったと思われる尾張氏が世襲していました。
ところが、頼朝の外祖父にあたる季範からは藤原氏の世襲となります。

このいきさつは次の通りです。
尾張氏の女性と尾張国目代であった藤原南家の季兼が結婚しその間に季範が生まれます。
そして、尾張氏が代々つとめていた大宮司職をこの季範がつぐことになるのです。
季範は母方から大宮司職を父方からは藤原氏の政治的地位と血統を受け継ぐことになります。

なお、季範の従兄弟の子に保元平治の頃に活躍する信西、
別流の従兄弟の孫に範頼を養育した藤原範季がいます。
ただし、宮廷貴族はどこかをつつけばほとんどが親戚になるという状態なので
この親戚関係で政治的位置を判断するのは危険だと思われます。
参考程度にしておいたほうがよいと思われます。

また、季兼の兄弟で駿河守に任じられた者がいたり、季兼も尾張目代
季範自身も若年の頃額田冠者(三河)と称せられ、そのあたりに何らかの勢力を張っていた可能性がありますので
季兼の一族は東海道にある一定の勢力を築きつつあったのではないのかと見ることも可能なのではないのかと思います。

さて、季範が生きていた頃は院政期にあたります。
そして時の権力者は院政創始者白河法皇でした。

「尊卑分脈」から推定される季範の生没年は1090年ー1155年となります。
季範働き盛り20-30代の頃はまさに白河院政期の頃です。

さて、季範の娘の中に「待賢門院女房大進局」という人物がいます。
さらに待賢門院所生の皇女上西門院に仕えていた「上西門院女房千秋尼」という娘がいます。
このことは季範自身も娘を待賢門院に仕えさせることができる政治的位置にいたことを示していると思います。

待賢門院(鳥羽中宮、崇徳・後白河母后)は権力者白河法皇で非常に可愛がられていました。その女房に娘を入れる頃ができたということは
季範はそれなりに白河院政に入り込んでいたことを意味するのではないのかと思われます。

ちなみに、後に彼の婿となる源義朝の母も待賢門院の女房だったのではないのかと言われています。

ところが1129年に白河法皇が崩御して鳥羽院政となり、
さらに1141年に崇徳天皇が退位して美福門院所生の
近衛天皇が即位すると政界の風向きが変わってきます。
近衛天皇は崇徳天皇の「皇太弟」の資格で即位した為、崇徳上皇はその後院政を開く道が閉ざされてしまいます。
(院政は天皇の父または祖父、曽祖父である上皇でなければできない)
結果崇徳上皇は政界から締め出された形になっていきます。

崇徳上皇の後退、近衛天皇母后美福門院の発言力増進に伴って待賢門院の政治的地位は沈んでいきます。
そして待賢門院も1145年には亡くなられます。

そのような中にあっても熱田大宮司家は待賢門院系のそばにあるかのように見えました。
(待賢門院の所領は上西門院に引き継がれたと思われますので所領の問題もからめてその系統の側に近侍し続けたものと思われます)
ですが、その一門の中で「問題の人物」が浮上して、その人物は、待賢門院系から離れた動きを見せるようになるのです。



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