時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

熱田大宮司家について その2

2007-06-04 11:18:24 | 蒲殿春秋解説
さらに、領地管理をするには当時「武力」というものが不可欠でした。
(域内の治安維持や年貢徴収の為)
当時の神職者は「武士」という側面も持っているものが多かったようです。*
事実熱田大宮司家の男性の多くは「院の北面※」という地位にありました。
このことは
けっして名誉職というのではなく彼らが実際に武芸に通じ
ある程度の軍事力を有していたからである
と捉えるべきなのではないのかと思います。

それから熱田は東海道の交通の要所に位置します。
このあたりを支配するということは当時重要なことでした。
当時の武家と呼ばれる勢力は交通の要所を支配することによって
勢力を拡大していました。
この拠点を元に東海道各地に勢力を拡大していくことも可能です。
このことは武的側面を持つ熱田大宮司家にとっても非常に重要ですし
後にこの家の婿となる河内源氏の源義朝との関係を考えると大変興味がもてる部分になると思います。

最後に忘れてはならないのは
熱田大宮司家は「宮廷社会の一員」であったということです。
熱田大宮司家は当然熱田社のある尾張にあって影響力を有していますが
都にも出て宮廷社会の一員として活躍もしているのです。
先述の通り「院の北面」となった人物も多数輩出していますし
女性達の中に「女院の女房」として仕えている人もいます。

つまり、地元と都を二股にかけて活躍する一族であったと思われます。

このあたりに関しては東国武士と呼ばれた人の中にも
地元に所領をもちつつも時折都に出て官位を得ていた人物も多数見受けられるので
当時としては特段珍しいことではなかったと思われます。

その「都の宮廷社会」における熱田大宮司家の地位は
藤原系大宮司初代 藤原季範が 散位(官職なし)ですが従四位上
その子たちも従四位程度の位階を有していたり、国司に任じられたりしているので
諸大夫」(四位、五位程度の人)の家と言えるでしょう。

当時の宮廷社会の身分序列として
「公卿」(三位以上 恐ろしく狭き門 エリート中のエリート 定員 20名程度)
「諸大夫」(四位、五位程度 貴族と呼ばれるのはこのクラスまで 定員 100名程度か?)
「侍」(六位程度 貴族予備軍 定員 それなり)
という区分があります。

この区分に従うと宮廷社会においては
熱田大宮司家はまぎれもなく「貴族」ということができると思います。
ちなみに、源義朝がこの家の娘と結婚した当時は
義朝の父為義の地位は 従六位検非違使左衛門少尉、義朝自身は無位無官の可能性があり
家柄としては「」に相当します。
つまり、「侍」身分義朝は格上(「諸大夫」)のお嬢様と結婚したことになるようです。

*神職者が武士的側面を持っていたことは次のことからも推定できます。
(1) 後に鎌倉御家人として活躍することになる宇都宮氏は元々は下野国一宮の神職の家でした。
(2)「吾妻鏡」(文治三年八月十五日条)に次のような逸話があります。(要旨のみ)
信濃国諏訪大社下社の大祝(神職の位の一つ)諏訪(金刺)盛澄が鶴岡の放生会にて流鏑馬の腕を披露する。
とても不可能と思えるような難しい的も見事に命中させる。
平家に味方していた為本来ならば死罪となるべきところを、この流鏑馬の一事で
死罪を免れ、頼朝の機嫌も良くなる。
ちなみに木曽義仲に従って出陣した手塚太郎光盛は諏訪盛澄の弟と言われている。

※院の北面
 上皇の御所に詰め警護に当たった人々。武士や武士的な人が任ぜられた。

まえ  つづく

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